ふわりと、甘い香りがする。 軽く波打つ長い黒髪は、さらりと揺れる度に天使の輪を輝かせ、肌は透き通るほどに白い。 猫のような大きな黒い目は、角度によって藍色に輝き、まるで硝子玉で作った玩具の宝石のようだ。 「わたし、恋がしたいのです」 まるで鈴が鳴るような軽やかさで、彼女はそう言った。 絶世の美少女――彼女のことを、僕は幼い頃から知っていた。喋ったことも、遊んだこともあるし、なんなら彼女のちょっとした秘密だって知っている。いわば、幼馴染みという存在だ。 だからこそ、彼女がそんなことを言い出したとき、僕は正直、嫌な予感しかしなかった。 「ねぇ、ミナミ」 甘ったれた声で、彼女が僕の名前を呼ぶ。それを聞いた僕の中で、警報音が鳴り響く。 例えば、僕が大事にとっておいた好物の唐揚げの、それも最後の一個を、気軽にねだってきたときのような。大寒波が押し寄せてきた寒い冬、なけなしの防寒具であった手袋とマフラーを意味もなく奪っていったときのような。 そんな、しょうもなく致命的なワガママを言うときの声音だと、僕の経験が告げてくる。 ひんやりと冷たい彼女の手が、僕の手を握る。固まる僕に、彼女はにっこりと文句なしの笑みを見せた。まるで天使のようだが、彼女の正体なら僕はよく知っている。 彼女がまた一歩、距離を詰めてくる。濃くなる甘いミルクのような香りに、気持ちを一瞬持っていかれそうになる。 少女――春待 青(はるまち あお)は、つまりはこういう女なのだ。 悪戯っぽい、猫のような目が、僕を真っ正面から射る。不覚にもドキリとしてしまったことを、僕は早々に後悔した。 彼女が言う。鈴のように軽やかに。あるいは、硝子玉のように、軽率に。 「わたしに、恋をさせてください」
『初心者から上級者まで、幅広くスキー、スノーボードが楽しめる、春待ファミリースキー場! キッズパークも併設されていて、ソリ滑りや犬ゾリ体験も楽しめます。 麓には温泉もあり、冷えた身体もポカポカ! オフシーズンにはグリーンスペースとなり、草ゾリ遊びや、季節の花が咲き乱れる彩り豊かな景色を観ながらの食事を楽しめます。また、標高の高いエリアでは、上級者向けに春、夏の滑走エリアもオープン。 ――さあ、ゲレンデで輝くような思い出を。春待ファミリースキー場!』 ※※※ 体育というものが嫌いになったのは、いつ頃からだろうか。 広々とした体育館。その半分を仕切り、男子はバスケ、女子はバレーボールの授業をしている。 僕はと言えば、蛍光ピンクのゼッケンをつけつつ、自陣ゴールの斜め下で、ぼんやりとボールの行方を眺めていた。 身体を動かすこと自体は、別に嫌いじゃない。だけど体育は嫌いだ。小学生の頃には、既に嫌いだった気がする。 高校二年。この歳になって、バスケットボールの授業を受けることに、なんの益があるのかなんてさっぱり分からない。大会に出るわけでもないし、きっと将来的に趣味にすることもないだろう。ただ、少しばかりボールを器用に扱えるようになったからって、なんになる? 足音、声援、ボールをつく音。それらの隙間を縫って、外の雨音が耳に届く。閉めきられた体育館内は、じとりとした熱気で満ちていて、僕は手の甲で額を拭った。 同じ蛍光ピンクのゼッケンをつけた背中が、遠くに見える。それは、ガードをかわしながらぐんぐんと進行方向へ進み――そしてキュッと靴底を鳴らすと、身体と腕を伸ばしてボールを放った。綺麗な放物線を描いたボールは、不思議なくらい綺麗に相手ゴールの円に吸い込まれていった。 「よっしゃ!」 ボールを投げた奴と周囲の仲間が、嬉しげにハイタッチを交わす。僕はそれを眺めながら、二、三回パチパチと手を叩いた。仕切りの向こうから、「光一(こういち)くん、すごぉい!」と黄色い歓声が上がる。 再び始まるゲーム。僕はまた、そそくさと、また自陣ゴール下へと移動しようとした。そのとき。 「あっ」 偶然、人の間を抜けるようにしてボールがこちらに飛んできた。思わずキャッチする。 「桜庭(さくらば)っ!」 味方の呼ぶ声。僕は迷わずそのまま、手を振る味方へとボールを投げた。足音と玉突き音が、また遠ざかっていく。 やがてゲームが終わり、試合チームが入れ替わる。端に寄って座り込むと、仕切りの向こうで女子の数名がバレーをやっているのが見えた。コート内に、自然と視線が向く。 「やっぱり、春待って目立つよなー」 誰かの呟きに、複数の同意の声が上がる。 春待青。高校二年生の六月という、中途半端な時期に突然転校してきた女子。背は小さいが、くるくるとよく動き回り、今もコートの中で際どいボールも掬い打ち上げた。なにより、スタイルが良く、制服に比べ布地の薄い体操服姿だと、それが強調される。 春待が打ったサーブが、相手チームの陣地ギリギリに入り込み、一点追加のホイッスルが鳴る。「やるぅ」と誰かが口笛を吹いた。 そのためか、春待がこちらをちらりと見た。うっかり目が合った僕は、ぎくりと身を強張らせる。春待はにこりと微笑むと、前に向き直りもう一本サーブを打った。追加点を知らせる笛が、再び鳴った。 ※※※ 「ミナミ。一緒に帰るですよ」 放課後。鞄を持って教室から出ようとする僕に、春待がそう言うと、一瞬にして教室がざわついた。 分かる。君たちの気持ちはよく分かる。 春待のような女子が、どうして僕みたいな男と帰るのか――想像を膨らませて信じられない思いでいるんだろう? 僕だって、客観的に僕がどう見えるかなんて百も承知だ。背が高いわけでもなく、眼鏡はかけているけれど勉強ができるわけでもなく成績も中頃。 ――分かってる。分かってるさ。 「僕、先生に呼ばれてて。後から行くから、先帰ってて」 ぼそぼそと早口で答えると、春待は軽く眉を上げて、返事もせずに踵を返した。体育館のコート内で動いていたときのように、髪を揺らしながら身軽な足取りでスタスタと教室を出ていく。 その背中を見送って、未だにこそこそと話している女子らの視線を感じながら、僕はこっそりと息を吐いた。 ※※※ 先生に呼ばれているというのは嘘だったけれど、僕は紺色の傘をさしながらゆっくりと学校を出た。この数日間、しとしととしつこく降り続いている雨が、乱雑に傘を叩く。 「梅雨……いつ頃明けるんだろ」 衣服も空気すらも、身体にまとわりつくような湿度。不快感が、じりじりと頭を苛めたてる。 僕は濡れた地面を蹴りながら、うつむきかげんに歩き続けた。湿気だけではない――これからの予定に、げんなりしながら。 ※※※ 春待ファミリースキー場。 学校の最寄り駅から三十分ほど電車に揺られた先にある、この近辺ではメジャーなスキー場だ。 標高の高い区域では、春夏にも上質な雪で滑ることができるため、コアなファンが県外からもやってくるらしい。 とは言え、ファミリースキー場として解放している下の方は、今の時期、草滑りとドッグランとしての運営しかしていない。 その一角にあるカフェに入ると、聞き覚えのある声が、不機嫌に僕を迎えた。 「遅いです」 「ごめん、ごめん。駅で落とし物探してる人がいてさ。手伝ってあげてたら、電車一本乗り遅れちゃって」 だぼっとした薄手のパーカー姿の春待が、奥の席でアイスティーのストローをかじりながら、じとりとした目で僕を見ていた。迷彩柄のパーカーの下には、白色のミニスカートを穿いている。僕は慌ててそちらに駆け寄り――慌てすぎて、引こうとした椅子に躓きかけ、ガコンと大きな音が立った。幸い、他に客がいないため、赤面するだけで済んだが。 「お嬢。桜庭くんを苛めては可哀想ですよ」 そう声をかけてくれたのは、カフェの女性マスターである田巻(たまき)さんだ。盆に載せたアイスコーヒーを、僕の席の前にそっと置く。 「ありがとう、ございます」 恥ずかしさに言葉をつかえさせる僕に、田巻さんはとろんと目尻の垂れた目を更に愛想よくにこりとさせ、「いつもおつかれさまです」とだけ言って奥へと下がっていった。 「苛めてなんて、ないですよねぇ?」 春待はストローでくるくるとグラスを無意味にかき混ぜながら、拗ねるように呟いた。語尾は疑問系だけど、僕に確認しているというよりは、田巻さんに弁明するような言い方で、返事は期待していなかったらしい。「それより」と、さっさと僕に目を合わせ、本題に入ってくる。 「"調査結果"を、聞きたいんですけども」 「分かってるよ」と、僕はコーヒーを一口すすった。苦い。が、その苦味が、湿気の不快感を拭ってくれる気がする。 スマホを取り出し、画面を二、三回タップして、目的の画像を表示させる。そこには、一部のクラスメイトらが昼食を食べている姿が写っていた。 そのうちの一人を、僕は指差す。コロッケパンを片手に、爽やかな笑顔を浮かべている男子。 「高嶺 光一(たかみね こういち)。彼が――ターゲットだ」
高嶺光一というやつは、なんというか。同じクラスに在籍しているものの、僕にとっては存在している次元が一つ二つくらいずれているんじゃないかって――もしそうなら僕が平面で彼が立体だ――そんなどうでも良いようなことを考えてしまうような、つまりはそんなやつだ。 正直、そんなに接点はない。出席番号は間に清水、鈴木二人、五月女、田中と五人も挟んでいるし、席も桂馬くらいは離れている。彼は体育会系で、僕は帰宅部系。 「だからさぁ、コーイチも一緒にカラオケ行こうよー」 甲高い声が聞こえてきて、僕は昨晩のバラエティー番組について喋っている正面の友人――五月女(そうとめ)から目をそらし、声の方へと視線を向けた。クラスの中でもとりわけスカートの短い系女子が群れながら、高嶺とその友人を取り巻いている。 「コーイチ、歌うまいって板水(いたみ)が言ってたよ」 「マジ聴きたぁい」 きゃんきゃんと囃し立てる女子たちに、話題の中心となっている高嶺は、「そんなことないよ」と案外に謙虚だ。 「板水が適当言ってるだけだって。それに、俺、放課後部活あるし」 「じゃあ今度の土曜とかでも良いよ? うちら、合わせるし」 「土日も部活だから」 そう、会話を切り上げる高嶺に、女子らが「えーっ」と不満を隠さない声を上げるのを聞き――僕は少しだけにやっとした。 「みなっち。どうかしたん? ぼんやりしてると思ったら、今度はにやにやしだすし」 途端に、不審な顔を向けてくる五月女に、僕はなんでもないと慌てて首を振った。適当にお喋りしているだけかと思っていたのに、変によく見ているものだ。 「みなっち、そういや昨日、春待さんと帰ったんだろ?」 「は?」 唐突に切り替わる話題についていけず、僕は思いきり頓狂な声を上げてしまった。だが、五月女の顔は余計ににやつき、僕をにまにまと観察している。 「なんか、春待さんから誘ってきたらしぃけど?」 「え? あ、まぁ……」 今度は五月女の目が動き、教室の後ろの方で女子同士、コンビニ菓子を交換しあってる輪の中にいる春待を捉えた(春待は一方的に貰っているだけだったが)。その顔が、下世話に歪む。 「なぁなぁ、やっぱり付き合ってんの?」 「違うって。前に言っただろ、昔からの知り合い」 「その知り合い、ってのがな。もしかして、元カノとか?」 「だから、違うって。昨日だって、別に一緒に帰ったわけじゃないし」 いい加減イライラしだした僕の感情を察したのか、五月女は「ごめんごめん」と手をぱたぱたさせた。 「ほら、浮いた話の一つもないみなっちに彼女ができたならさぁ、お祝いくらいしてやりたいなって」 「で?」 「春待の友達とか、レベル高そうだし。あわよくば紹介してほしいなって」 悪びれた様子もなく、けろりとそう言う五月女を、僕は無視することに決め、しっしっと追い払った。 「え、なに。怒った? みなっち怒ってる?」 「怒ってないけど。そういうのめんどくさいから、かかわりたくない」 五月女はなおも「けち」だの「一回合コン組むだけで良いから」だの騒いでいたが、僕シャットアウトを決め込んだ。 本当に、そんなことに構ってる場合ではないのだ。なんせ、ただでさえ僕には、高嶺光一と春待青を「くっつける」義務があるのだから。 ※※※ 「わたしに、恋をさせてください」 春待が僕にそう言ったのは、彼女が転校してきたその日のことだった、 春待と僕は、もともとが幼馴染みのようなもので――だからこそ、彼女が本来なら"こんなところに来るはずがない″ということを理解していて。混乱気味の僕を呼び出した春待は僕の混乱を更に深めると、「そもそも」と、聞いてもいないのに勝手に語りだした。 「ニンゲンって、なんのために恋愛をするのか、わかるですか?」 「え、いや。そんなこと急に言われても」 「相性の良い相手との子孫を残すためだけならば、そんな複雑な感情は必要ないのです」 僕の混乱を放置したまま、春待は一人で言いたいことを喋り続ける。 「恋愛をしなくとも、ニンゲンは交配し、種を残すことができるですよね? なのになのに、恋は確かに存在するです。これって、とても――なんというか、おかしくないですか? おかしいですよね?」 「――はぁ」 曖昧に頷きながら、僕は首筋を軽く掻いた。 「恋愛しない奴だっているじゃん」 「そう、しなくたっていいものなのです。なのに、恋愛というものは存在していて……ヒトのココロを大きく揺り動かすのです」 春待は胸の前で祈るように手を組み、大袈裟に見開いた目で、覗き込むようにこちらの目を見つめてくる。芝居がかったしぐさなのになぜか様になっていて――そして何故だか、僕はその輝きから目をそらすことができなかった。 「私も恋がしてみたい。そのココロを、体験したい。知りたいのです」 「いや……でもさぁ、春待は」 「分かってるです。たぶん、父さまも姉さま方も反対するのです」 僕の言葉を遮るようにして、春待は早口に言う。 「だからこそ、なのです。わたしは恋というものに飢えてますし、こんなこと頼めるのはミナミだけなのです」 そう、一見真摯な目で見つめられると、僕は弱い。もう何年も、その目に騙されてきたというのに。僕の脳は全く学習能力が弱くて困る。今も、早まって心臓に鼓動のペースを上げるように命令しているらしい。僕の意思なんて、関係なしに。 「え……っと。それってさ、つまり」 「えぇ」 にこりと、春待が微笑む。いつもは幼げな顔立ちなのに、なぜか笑うと可愛いというよりも、どこか艶やかな色が交じる。心臓が、うるさいくらいに高く鳴って止まない。同時に、経験が強く裏づけようとする嫌な予感も。 「ミナミには――私の恋の相手を探してもらうのです」 途端。寸前まで鳴り響いていた心臓がぴしりと凍る。春待は気にしたふうもなく、けろりとした顔で「そのために、わざわざガッコウなんてところに来たのですから」と言い放った。 やっぱりだ。どうせろくなことじゃないと思ったんだ――顔を出していた嫌な予感が、僕の中でそう勝ち誇ってみせる。それをなんとか退けようと、僕は少し語調を強めてみせた。 「あのさ。僕、そんな」 「やってくれますよね? ミナミ」 僕の意思なんて関係ないのは、早まった僕の脳だけでなく、春待もそのようで。 「だってアナタは、わたしの下僕ですもんね」 僕の頬へ気軽に触れてくる春待の手のひらには、温かさなんて欠片もなかった。 ――ほんと、ろくなことじゃないと思ったんだ。