「さよなら」を告げたのは、あなたよ?
第1章大物との火遊び

ホテルのスイートルーム。照明は薄暗く、どこか艶めいていた。 津本薫は、見知らぬ美しい男と、もつれ合うように激しく口づけを交わしていた。 今夜、元恋人の各務将人が婚約を発表した。彼女はやけ酒をあおるようにバーで泥酔し、酒と男の魅惑に身を委ね、この部屋までついてきたのだ。 四年の交際を平然と切り捨てて、資産家の令嬢と手を組んだ男。 そんな将人を見限ったのなら、自分も一度くらい、はめを外しても罰は当たらない…。 ――それが、ほんの出来心だった。 男の肩に身を預け、薫はすべてを忘れ、まるで猫のように甘えながらその名をつぶやいた。「…将人」 その瞬間、すべてが凍りついた。 小さな音がして、部屋の照明がぱっと灯る。 明るくなった室内で、彼女はようやく男の顔をはっきりと見た。 鶴間尚輝――国内屈指の大弁護士、法曹界では『閻魔様』と恐れられる人物だった。 名義上の資産も数え切れない。まさに都会のエリート中のエリート。 しかも彼には、もうひとつ厄介すぎる肩書きがあった。各務将人――あの浮気男の義兄なのだ。 薫の酔いは、一気に吹き飛んだ。 そっと目を閉じる――やってくれるわ、自分。危うく、元カレの兄と寝るところだったなんて! 鶴間尚輝は、彼女の体から手を離した。 壁に寄りかかりながら俯いて煙草をくわえ、火を点ける。煙を吐きながら、視線で彼女をゆっくりと上下に値踏みするように見つめた。その顔には、どこか愉快そうな色が浮かんでいた。「面白いな…津本さん」 鶴間は灰を落としながら、笑っているのかいないのかわからない表情で、ふっと問いかけた。 「俺とキスしてた時、どんな気持ちだった?俺を抱いて、各務将人を思いきり見返してやろうって?」 ――どうやら彼も、彼女が誰なのか気づいていたようだ。 薫は、もう知らないふりなんて通用しなかった。 鶴間尚輝の名前はあまりにも有名だ。たとえさっきまで本気で気づいていなかったとしても、今さら「存じませんでした」と言うのは、あまりにも白々しい。 それに、こんな大物を怒らせるわけにはいかない。彼女は素直に頭を下げた。「申し訳ありません、鶴間さん。お酒が入っていて…」 鶴間は、特に咎めることもなく、一本吸い終えた煙草を指で揉み消すと、体を起こした。そして、部屋の隅からジャケットを一枚取り上げ、彼女に向かって軽く放る。「羽織れ。送っていく」 薫は無駄な気遣いはせず、素直にそれを受け取ると、小さく声を落として礼を言った。 鶴間が運転するのは、ベントレー・コンチネンタルGT。車内では、ふたりとも黙ったまま。 薫はときおり彼の横顔を盗み見た。 鶴間の顔立ちは完璧だった。彫刻のように整った輪郭。着ているシャツはブランドのロゴなど一切ないが、それでもただならぬ気品を感じさせた。 ――きっと、こんな男のまわりには、女が絶えないだろう。 目的地に着くと、彼は車を静かに止めた。そして体をこちらに向けると、その視線は一瞬、彼女の白くしなやかな脚にとどまった。すぐに彼は前方の収納から名刺を一枚取り出し、彼女に差し出した。 ――こういうとき、言葉は要らない。男女の関係なんて、少し考えれば察しがつく。 薫は、まさか正体がバレたあとでも彼が関係を求めてくるとは思っていなかった。 鶴間尚輝が魅力的なのは間違いない。ひと晩だけの相手としては、最高の部類だろう。だけど…その肩書きを思い出すたび、背筋がぞわりとした。少し迷った末、彼女は丁重に名刺を押し返した。「鶴間先生、私たち…もう連絡はやめた方がいいと思います」 鶴間は、それでも特に気を悪くした様子はなかった。 津本薫は確かに美しい。だが、鶴間尚輝は無理強いするような男ではなかった。 名刺をすっと引き取ると、どこか皮肉めいた、けれど余裕を感じさせる笑みを浮かべながら軽く頷いた。「君みたいなのは…たしかに、良妻賢母になるのが似合ってる」 薫は少し顔をこわばらせたが、鶴間はそんな彼女の反応にも動じることなく、紳士然と車を降り、助手席のドアを開けてくれた。まるで今夜、ふたりのあいだにあった艶やかな一幕など、最初から存在しなかったかのように。 金色のベントレー・コンチネンタルGTが、静かに夜の闇へと走り去っていく。 夜風がひゅうと吹き抜け、薫の体を冷たく包んだ。そのときになって初めて、彼女は――あのジャケットを返しそびれていたことに気づいた。 追いかけるべきか、一瞬迷ったそのとき。スマートフォンが震えた。 発信者は京子おばさん――父の再婚相手だ。電話越しの声は切羽詰まっていて、泣きそうなほど慌てていた。「薫ちゃん、お願い…すぐ帰ってきて!家で大変なことが起きたの!」 薫は慌てて状況を尋ねたが、京子おばさんは電話越しではうまく説明できず、ただ「とにかく急いで帰ってきて」と繰り返すばかりだった。

チャプター 2 矜持と誇り 鶴間先生

薫が急いで家に戻ると、リビングのソファに京子がぽつんと座り、茫然と宙を見つめていた。 目は赤く腫れ、泣いた痕がはっきりと残っている。 薫は周囲を見渡し、つい問いかけた。「京子おばさん、どうしたの?お父さんは?」 京子は津本健一の再婚相手だった。 薫の問いに、京子は抑えきれない怒りを込めて叫んだ。 「各務将人…あの恩知らず、なんて酷い奴なの!」 「何年も前、あの子がどん底だった時にあなたはずっと支えてあげたのよ。なのに今になって、持ち直した途端、あなたを切り捨てただけじゃない…お父さんを刑務所に送り込もうとしてるのよ!今、健一さんは拘置所にいるわ…」 …… 薫は一瞬、言葉を失ったが、すぐに口を開いた。「京子おばさん、落ち着いて。私…将人に連絡してみる」 夫婦にはなれなかったけれど、それでも過去の情は残っているはず。各務将人が、そこまで非情な人間だとは思いたくなかった。 薫はスマホを手に取り、電話をかけた。相手はすぐに出た。 薫は声を落として懇願するように言った。「各務さん、私たちはもう終わったけど…お願い、父には怒りを向けないで」 受話器の向こうから、鼻で笑うような声が聞こえた。 「それだけの赤字、誰かが責任を取るしかないだろ」 薫は言葉を探しながら、なおも食い下がろうとした。 だが、将人の声色が一変した。「もう一つ方法がある。君がそれを選ぶかどうかだ」その声は冷たく、非情だった。「薫、五年間、俺の女になれ。そうすれば、津本おじさんの件は不問にする」 薫は言葉を失い、その場に固まった。 まさかここまで恥知らずな男だったとは…。各務将人は地位も未来も欲しがり、それだけでは飽き足らず、彼女の身体まで手に入れようとしているのだ。 怒りが全身を駆け巡り、薫の声は震えた。「…本当に最低。吐き気がするわ!」 彼は鼻で笑いながら答えた。「俺がどんな人間か、君はとっくにわかってただろ?」 薫は歯を食いしばり、声を絞り出す。「私は、あんたの愛人なんかにならない!絶対に!」 将人は冷ややかに笑いを漏らした。「じゃあ弁護士でも探すんだな。言っとくが、金額が金額だ。津本おじさんなら、十年は覚悟したほうがいい」 薫は冷たく笑った。「一番優秀な弁護士に頼むわ」 「鶴間尚輝のことか?」 将人は余裕の笑みを浮かべながら言った。「薫、お前、忘れたのか?彼は俺の未来の義兄だぞ。そんな相手が、お前のために俺と裁判で争うと思うか?」 その言葉に、薫の全身から血の気が引いた。頭の先からつま先まで、ぞくりと寒気が走る。 将人は一言、軽く言い捨てた。「薫――君が俺にすがるのを、楽しみにしてるよ」 …… 電話を切った途端、京子が激しく怒鳴った。 「くそったれがっ!」 「夢でも見てるんじゃないの!?うちが全滅したって、あんな奴に薫を渡すもんですかっ!」 京子は怒りの中で、次第に涙をこぼし始めた。「でも…鶴間先生は、あの恩知らずの義兄なんでしょ?そんな人に、私たちが頼めるわけないじゃないの… 薫、何とかならないの?」 薫は黙って視線を落とした。 しばらくして、小さな声で口を開いた。「…鶴間先生とは、以前一度だけ会ったことがあるの。頼めるかどうか、やってみる」 京子は女の勘が鋭かった。 薫の身体に残る酒の匂いと、肩にかけられていた男性物のジャケット――それだけで、何があったか察していた。 けれど、それについては何も言わなかった。 * 薫が鶴間尚輝に会うのは、そう簡単なことではなかった。 EK法律事務所のロビーで、受付嬢が丁寧ながらもよそよそしい声で言った。「申し訳ありません、お客様。ご予約がない方はご案内できません」 薫は、昨夜あの名刺を受け取っておかなかったことを後悔した。 「今ここで予約したら、鶴間先生に会えるのはいつになりますか?」 受付嬢が端末を確認しながら答える。「最短でも…半月後ですね」 薫の胸に焦りが広がった、そのときだった。 ロビーの隅にあるエレベーターが開き、中から男女が一組、姿を現した。 男は、鶴間尚輝その人だった。 黒と白のクラシックなスーツを纏い、隙のない身なり。洗練されたエリートの風格をまといながら、彼はゆっくりとこちらへ歩いてくる。 女の客は、豊満な曲線を持つ三十代前半のセレブ風美女だった。 鶴間はエレベーターを出た瞬間、薫の姿に気づいた。だが彼は、一切の表情を動かさず、まるで見知らぬ人のように振る舞い、そのまま女性客を玄関口まで送り届けた。 距離感を見極めながら、彼は淑やかに彼女と握手を交わす。 「鶴間先生、今回は本当にありがとう。あなたがいなかったら、スムーズに離婚できて、財産まで手に入れるなんて絶対無理だったわ。あの人、新しい女ができてから、どれだけケチになったか…想像もつかないでしょ?」女は甘ったるくも色気を含んだ声でそう言った。 尚輝は、控えめに微笑んだだけだった。「当然のことをしたまでです」 彼女は、隙を突くように誘いをかけた。「鶴間先生、今夜…一杯だけどう?」 薫の視線が、思わずその女性に向けられる。引き締まった腰に、長く滑らかな脚。あれだけのプロポーションなら、普通の男なら断れるわけがない。 けれど、鶴間尚輝は“普通の男”ではなかった。 彼は袖口から腕時計をのぞき込むと、穏やかな口調でやんわりと断った。「残念ですが、今夜は予定が入っているんです」 女もそれ以上は食い下がらなかった。――この弁護士が、自分に興味を持っていないことくらい、さすがに察していた。 艶っぽく微笑んで別れを告げると、颯爽と車に乗り込み、その場をあとにした。 尚輝は彼女を見送ったあと、なぜか受付の前でふと立ち止まる。 そして、じっと薫を見つめた。「気が変わったのか?」

チャプター 3 鶴間先生は、偽善的で、しかも内に秘めた情熱家

薫は、ふと動きを止めた。 手に持っていた紙袋を慌てて持ち上げながら言う。「鶴間先生の上着をお返しに来たんです」 尚輝はその手から袋を受け取ると、控えめに頷いた。 「わざわざどうも」 それだけ言うと、無駄な言葉は一切なく、そのままエレベーターに向かって歩き出した。 薫は焦って彼のあとを追いかけた。「鶴間先生、お願いがあるんです…!」 尚輝がエレベーターのボタンを押すと、すぐにドアが開く。薫は恥を忍んでその中へと滑り込んだ。 彼は彼女を横目でちらりと見やった。 そして鏡を見ながらシャツの襟を整え、淡々と言った。「君の案件は引き受けないよ」 薫の手足は冷たくなっていた。 ――やっぱり、鶴間尚輝は津本家のことをもう知っている…! 恐る恐る、彼女は尋ねた。「各務将人が…先生に何か言ったんですか?」 尚輝は鏡越しに彼女と目を合わせ、ふっと薄く笑った。「彼に、そこまでの力はないよ。津本さん、僕はただ、公私をきっちり分ける主義なんだ」 その一言で、薫は彼の意図を悟った。――遊びなら歓迎。でも、仕事の話なら別だと。 思わず顔がこわばる。恥ずかしさと悔しさで、胸の奥がきゅっと締めつけられた。 だが尚輝は、それ以上何も強要してこなかった。 たとえ薫が、彼の好みに合う顔立ちであったとしても――それだけで尚輝が例外を認めるほど、甘くはない。 ましてや、真っ昼間から色気を出すような気分でもなかった。 そんな温度のないやり取りを交わしているうちに、エレベーターは静かに28階へと到着した。 ドアが開くと、鶴間の秘書がすでに出迎えていた。彼女は薫の姿を見て一瞬驚いたが、長年の訓練がその表情の乱れを許さない。穏やかな声で言う。「鶴間先生、群馬様がお見えです」 尚輝は無造作に紙袋を彼女へ放り投げると、ひと言だけ告げた。「クリーニングに出して」 秘書はすぐに空気を読み取り、静かにその場を離れていった。 尚輝はスマートフォンの画面を見下ろしながら、気のない口調で言った。「他の弁護士を探したら?」 そして、ふと付け加える。「…それと、女性のベルトは、もう少ししっかり締めたほうがいい」 その言葉を残し、彼はさっさとエレベーターを降りていった。 ――なんて男なの…!薫は心の中で叫んだ。偽善者で、内に火を抱えた男。あれが鶴間尚輝の正体だ。 …… 鶴間尚輝に断られた薫は、その後あらゆる手を尽くしても、彼に会うことすら叶わなかった。 家では京子がますます焦りを募らせ、不満の声を絶え間なくぶつけてくる。薫の心はすっかりすり減っていた。耐えきれなくなった彼女は、大学時代の友人――島崎彩乃と会う約束を取りつけた。 島崎彩乃は、大学を卒業してすぐに結婚した。B市でも名の知れた資産家の御曹司と結ばれ、社交界にも顔が広い。 薫は、そんな彩乃に助けを求めた。 ふたりはカフェで待ち合わせ、薫はこれまでの事情を一通り話した。 話を聞き終えた彩乃は、怒りを爆発させたように各務将人を罵倒した。ひとしきり怒鳴ったあと、ふいに目を細めて意地悪く笑う。「で?あの夜、本当に鶴間と…ギリギリだったってわけ?」 薫は顔を赤らめ、カップの中のコーヒーを静かにかき混ぜる。 彩乃は声を潜めてささやく。「いやあ、さすがだね薫!鶴間尚輝って、あの界隈でも目が肥えてるって有名だし、浮いた噂もほとんど聞かないのに…!」 薫は苦笑を浮かべた。「もう、どうしようもなかったのよ。自分一人じゃ、どうにもならなくて…彩乃を頼るしかなかったの」 彼女もわかっていた。鶴間尚輝は、あの業界では一目置かれる存在。手を貸すということは、彩乃にとっても簡単なことではない。下手をすれば、敵をつくることになるのだから。 島崎彩乃は義理堅い性格で、少しばかりの人脈を使って鶴間尚輝のスケジュールを入手してくれた。 * 土曜日の午後3時、鶴間尚輝はクラブでゴルフの約束があるらしい。 薫は島崎夫妻と一緒にクラブへ向かい、そこで思いがけず各務将人の姿を目にした。 その瞬間、彼女は動きを止めた。 彩乃が夫の腕をきつくつねりながら、不満げに言った。「ちゃんと確認してくれなきゃ。各務がいるなんて、薫がリラックスできるわけないでしょ」 「ごめん、俺の確認不足だ。薫ちゃん、本当にすまん!」夫が真剣な顔で謝るのを見て、薫が口を開こうとしたその時―― 尚輝が彼女たちに気づいた。 白のカジュアルウェアに身を包んだ尚輝は、すらりとした体躯と端正な顔立ちで、まるで人波の中の王者のような存在感を放っていた。 事務所の時と同じ、彼はまるで薫のことなど知らないかのように振る舞い、島崎の夫にだけ軽く挨拶を交わした。 その瞬間、島崎の夫はまるで夢でも見ているかのように、恐縮しながら笑みを浮かべた。 そのときになって、尚輝はようやく薫の存在に気づいたかのように目を向けた。 もともと肌が綺麗な薫だったが、今日はひときわ涼しげな装いをしていた。 白のゆったりとしたTシャツに、淡いグレーのスポーツショートパンツ。 茶色がかったゆるい巻き髪は高めにまとめたお団子ヘアで、爽やかさのなかにほのかな色気が漂っていた。 尚輝の視線が、薫の白くすらりと伸びた脚をさっとかすめる。そして、何気ない口調で言った。「…この方は、初めてお見かけするね」

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