社長の素顔は、私の“夫”でした
チャプター 1 電撃的結婚夫婦

汐見浜空港。 霧島夢は送迎エリアに立ち、足元には大きなスーツケースがひとつ置かれていた。 腕時計に目をやる。飛行機を降りてからすでに三十分が経過しているというのに、一年前に電撃的に結婚した夫は、まだ姿を見せていなかった。 彼女はわずかに眉をひそめ、顔も知らぬその男に対して、自然と印象を悪くしていった。 初対面だというのに、時間も守れないなんて――。 そんな思いが胸をよぎると、彼女の脳裏には、一年前の慌ただしい結婚の記憶が浮かんでくる。 一年前、祖父・霧島夜斗が突然重い病に倒れたのだ。 祖父の見舞いのために海外から急いで帰国した夢に、祖父はひとつの願いを口にした。「この目でお前の結婚を見届けたいんだ」 霧島夢は断りたかった。けれど、彼女を孤児院から引き取って育ててくれたのは霧島夜斗だった。その恩人を失望させることは、どうしてもできなかった。 結局、夢は祖父の言う通りに、顔も知らない男と電撃的に結婚することになる。 結婚式当日、相手は姿を見せなかった。婚姻届すら他人の手で手続きされたものだった。 彼の名前と、商売人だということ――夢が知っているのも、霧島夜斗から聞いたその程度だ。 いま思えば、あのときの妥協は、果たして正しかったのだろうか。 そう思いながら、夢は再び時間を確認した。さらに十分が過ぎていた。 小さく息を吐いて、そろそろ霧島夜斗に電話をかけようとしたそのとき、背後から耳をつんざくようなエンジン音が響いてきた―― 銀色のアストン・マーティンが、彼女の目の前にさっと滑り込むように停まった。窓がするすると下がる。 霧島夢は思わず一歩後ずさりし、反射的に声を上げた。「どうして君がここに?」 運転席にいたのは、彼女の従兄――菅原大和だった。 「その言い方、さすがに傷つくなあ」 そう言いながら、大和は車から降り、わざとらしく目頭を拭うしぐさをしてみせた。「君が帰ってくるなんて一大事じゃないか。従兄として迎えに来るのは当然だろ?なのに、そんな冷たい態度とはね」 その芝居がかった態度に、夢はもう慣れっこだった。 夢は唇をすぼめたまま、何も言わなかった。 「さあ。歓迎の食事でも奢ってやるよ」 大和は片手を彼女の肩にかけ、もう一方の手でスーツケースを引き取ると、そのまま車の方へと押していく。 「ちょっと待って」 夢が立ち止まり、手で制した。 「何を待つっていうんだ?」足を止めた大和は、ふと思い出したように目を細めた。「まさか――君、あの旦那さんを待ってるんじゃないだろうな?」 夢は何も言わなかったが、その表情がすでに答えを語っていた。 大和は鼻で笑い、あからさまに軽蔑した声で言った。「忘れたほうがいいよ。君たち、結婚してもう一年だろ?あいつから一度でも連絡があったか?」 問い詰められた夢は、言葉を失い、ただ沈黙で返すしかなかった。 「電話の一本すらよこさない男に、迎えに来てくれるなんて期待してるのか?」大和の声には、さらに皮肉が滲んでいた。 夢は一瞬だけ黙り込んだが、やがて小さな声で反論した。「でも、祖父が言ってたの。蒼穹空が迎えに来るって…」 きっと、年長者との約束を若輩者が反故にするなんてこと、ないはずだと――彼女はそう思いたかった。 そんな夢の思いに、大和は心底あきれたように肩をすくめた。「待つにしても、せめて車の中にしろよ。外、暑すぎる」 二人がそんなふうに軽く押し問答をしていると――人混みの向こうから、すらりとした大柄な男が早足でこちらに近づいてくるのが見えた。 宮崎蒼だった。彼はスマートフォンを片手に、通話しながら足を止めない。「…もう空港に着いたんです、だから薬は早く飲んで――」 電話の向こうからは、穏やかで優しい女性の声が細やかな口調で聞こえてきた。「ちゃんと覚えてる?夢ちゃんは今日は赤いワンピースを着てるの。髪は長い巻き髪で、スーツケースは黒よ……」 「おばあちゃん、見つけたよ……」そう答えかけた瞬間、宮崎蒼の目がぴたりと止まった。 赤いワンピース。長い巻き髪。黒のスーツケース。――すべてが一致していた。 けれど、その女性今は別の男に肩を抱かれながら、車に乗り込もうとしていた。 宮崎蒼の声が、急に冷たくなった。 「……もう切るよ」 その唇には、どこか皮肉めいた笑みが浮かび、深い瞳にはわずかな冷淡さが宿っていた。 彼はスマートフォンをしまうと、きびすを返してその場を離れた。 車へ戻ると、ハンドルを握り、ふと目を上げた先――そこには、さきほどのスポーツカーの中で寄り添う男女の姿が、まだ視界に残っていた。 男は優しく、女の髪を整えてやっていた。宮崎蒼からは、女の正面の顔までは見えなかった。けれど、もうそんなことはどうでもよかった。 その顔が、見る見るうちに曇っていく。 そして――かすかに、乾いた笑いをもらした。 ……こんな展開、最初から予想できたはずだったのに。 電撃結婚した妻が、まる一年もの間汐見浜に現れず――別の相手を見つけていたとしても、無理もないことだ。 宮崎蒼は唇をきつく結び、スマートフォンを取り出すと、短いメッセージを打ち込んだ。 それを送信すると同時に、アクセルを踏み込んで、車は加速していった。 ———— その日の午後、霧島夢は淡い色合いのシンプルで上品なビジネススーツに着替え、宮崎グループに初出社した。 宮崎グループは、汐見浜で屈指の大企業だ。その本社に入れるのは、誰もが認める一流の人材ばかり。 霧島夢は、優れた経歴を買われて本社に抜擢され――そのポジションは、なんと宮崎グループ社長・宮崎蒼の上級個人広報だった。 広報部の主任・蒼井嵐が、夢を伴って宮崎蒼のもとへと案内する。 霧島夢はまだ知らなかった。彼女の直属の上司――宮崎蒼こそが、自分の電撃婚の相手、つまり“蒼穹空”その人であることを。 ただ――婚姻届を提出した際、宮崎蒼は人を簡単に信用しない慎重な性格ゆえ、普段公にしている名前ではなく、本来の本名である「蒼穹空」の名を使っていた。この事実を知っているのは、ごくわずかな、彼にとって最も信頼できる人間たちだけだった。

チャプター 2 宮崎社長とは以前からの知り合い?

霧島夢と蒼井嵐はエレベーターに乗り、最上階へと向かった。 道中、蒼井嵐は終始にこやかで、途切れることなく紹介し続けていた。「最上階は宮崎社長のオフィスと私的エリアになってるの。特別な用がない限り、誰も立ち入れないのよ」 霧島夢は黙って聞き入っていた。 新しい上司についての注意事項は、確かにしっかり把握しておく必要がある。 蒼井嵐はふと彼女に視線を向け、何気ないふうを装いながら問いかけた。「霧島さんって、ずっと海外支社にいらしたって聞きましたけど……どうして突然、本社に異動されたんですか?もしかして、宮崎社長とは以前からお知り合いだったり?」 問いかけの中に浮かぶ瞳の色は、抑えきれない好奇心を物語っていた。 宮崎グループが創設されて以来、いわゆる“上からの抜擢”という前例は一度もなかった。 霧島夢は、その慣例を破った初めての存在だ。 蒼井嵐にはどうしても知りたかった。この女性がいったいどれほどの腕前を持ち、いかにして宮崎蒼の信頼を得たのかを。 なにしろ、宮崎蒼は自身の個人広報には常に厳格な基準を課していて、妥協など一切しない 霧島夢はわずかに眉をひそめた。あけすけにプライバシーを詮索されるのは、あまり気が進まない。 彼女は蒼井嵐のネームホルダーに目をやり、冷ややかに言った。「広報の仕事って、まず空気読む力が大事じゃない?」 その一言には、蒼井嵐の無神経さを皮肉る含みがあった。 ちょうどその時、エレベーターが最上階に到着した。 霧島夢は彼女を一瞥することもなく、さっさと先に降りた。 蒼井嵐の顔がわずかに引きつった。 唇を噛みしめ、彼女もすぐ後に続く。 ――新人のくせに、あの口ぶりは何様のつもり? 二人はオフィスの外で静かに待っていた。 蒼井嵐は腕時計に目をやると、少し離れた場所へ行って電話をかけ、戻ってくるなり霧島夢に告げた。「宮崎社長は、まだ移動中だそうよ。もう少し待っててほしいって」 霧島夢は軽く頷いて、理解を示した。 再び沈黙が落ち、数秒経った……蒼井嵐はついに我慢できず、口を開いた。「ねえ、どうして宮崎社長が遅れてるか、知ってる?」 その問いかけには、明らかに意図があった。――『個人広報に選ばれたからって、いい気にならないで』。蒼井嵐の言葉には、そんな無言の圧が込められていた。 霧島夢は、上司のゴシップになど興味はなかった。ただ黙って聞き流すことにした。 だが蒼井嵐は、彼女の無関心さに構わず、話し続ける。「今日、宮崎社長の奥様が汐見浜に戻ってきたんですって。それで、社長は全部の仕事を後回しにして空港まで迎えに行ったそうよ。ほんと、仲睦まじい夫婦よね」 そう言って、蒼井嵐は両腕を胸の前で組み、うっとりしたような、そしてどこか寂しげな表情でため息をついた。「宮崎社長って、若くして結婚してるのよね。あんなに完璧な男性を射止めたのって……一体どんな女性なのかしら?」 霧島夢はその言葉を聞きながら、今日の自分の出来事を思い出し、胸の奥がざらついた。 ――つくづく、人と比べるもんじゃない。 今朝、彼女は車の中で蒼穹空を待った末に、「急な用事で行けない」という連絡をようやく受け取ったばかりだった。 いくら忙しいと言っても……宮崎グループの社長より忙しいなんてことがある? 内心で毒づいたそのとき――「ピン」という音とともに、エレベーターの扉が開いた。 蒼井嵐はすぐさま身なりを整え、霧島夢の腕を軽く引いた。 エレベーターの扉がゆっくりと開いていく―― 現れたのは、完璧に仕立てられたスーツを纏った男だった。すらりと伸びた手足に、凛とした立ち姿。歩を進めるたびに、その存在感が空気を変えていく。 高身長に長い脚、広い肩幅と引き締まった腰。鼻筋は通り、唇は薄く、輪郭のくっきりとした顔立ちは、どこを見ても隙がないほど整っていた。 霧島夢は目の前の男を見上げながら、おおよその身長を推測した――おそらく188センチはあるだろう。 そして何より、彼の全身から漂う気品が、どこに立っていても人の視線を引き寄せて離さないのだった。 「宮崎社長」 蒼井嵐の声が、その視線を遮った。 霧島夢はふっと意識を戻し、自ら一歩前に出て名乗った。「宮崎社長、初めまして。霧島夢と申します。 私は海外支社から異動してきた広報担当の、霧島夢です」 その名を耳にした瞬間、宮崎蒼の眉が微かに動いた。 どこかで聞いた覚えがある――そんな感じだったが、すぐには思い出せないようだった。 一瞬だけ戸惑うように目を細めると、彼は目の前の女性を一瞥し、言った。「オフィスで話そう」 そう言い終えるや否や、宮崎蒼はすでにオフィスの中へと足を踏み入れていた。 霧島夢も、何のためらいもなく身を翻し、自然な足取りでその後に続いた。 —— デスクの前――宮崎蒼は視線を落とし、手元の資料に静かに目を通していた。 彼が霧島夢を選んだのは、去年、海外で一つ厄介な広報対応を、彼女が一人で見事に収めたからだった。 だが、それ以上に―― 宮崎蒼は履歴書を最後のページまでめくり、その瞳に一瞬だけ光が宿った。 「君、デザインもできるのか?」 その低く響く声が、静まり返ったオフィスの空気を破った。 霧島夢は、その問いが最初に飛んでくるとは思っておらず、一瞬だけ呆けた。そしてすぐに、少し戸惑いながらも答える。「少しだけ、やっていました」 宮崎蒼は顔を上げ、その視線を霧島夢の落ち着いた表情の上にすっと走らせた。そして、淡々と問いを重ねる。「君の本職は広報だろう。どうして履歴書にデザイン画まで載せてる?」 この質問には、霧島夢も予想していたようだった。 淀みなく、はっきりと答える。「最近、宮崎グループがアパレル業界でのシェア拡大に力を入れていると伺いました。広報の役目は、企業のブランドイメージをどう魅せるかにもあると思いまして……それで、いくつか描いてみたんです」 宮崎蒼は小さく頷いた。 宮崎蒼は静かに書類を閉じると、視線を横に移し、蒼井嵐のほうを見やった。「彼女を連れて、業務をひと通り案内してくれ。それから、何かひとつ仕事を任せてみて」 蒼井嵐は一瞬、目を見開いた。 ……これで面接、終わり? あまりにもあっさりしていて、内心では納得のいかない思いが渦巻いた。 だが、それを口に出すことはなく、彼女はただ一言、従順に答えた。「かしこまりました」 オフィスを出た瞬間、霧島夢はようやく胸の奥の緊張が解けるのを感じた。 握っていた手をそっと緩めると、ほんの数分だったはずなのに、掌にはじんわりと汗が滲んでいた。 ――これから、あの冷徹そうな社長と直接向き合っていくのかと思うと……思わず、心の中で小さくため息をつき、自分自身に「しっかりしろ」と言い聞かせた。

チャプター 3 提携取消

ふたりが広報部に到着すると、蒼井嵐が控えめな笑みを浮かべながら同僚たちに紹介した。「こちら、新しく入った同僚の霧島夢さんです」 それに応えるように、霧島夢は簡潔な自己紹介をした。声の調子は淡々としているが、言葉は丁寧だった。「ご一緒できて嬉しいです。これから、どうぞよろしくお願いします」 彼女の迅速な入社に、社員たちは明らかに驚いた様子でざわつき始めた。 「この人が、海外支社から来たっていう宮崎社長の個人広報? 確かに綺麗な人ではあるけど、実力のほどはどうなのかしらね」 「でも、あの宮崎社長が選ぶくらいだし、ただ者じゃないはずよ」 「羨ましいよね、毎日あの顔を間近で見られるなんて。仕事の疲れも吹き飛びそう」 そのざわめきは、一語一句漏らさず霧島夢の耳に届いていた。だが、彼女は微笑を浮かべたまま、何も言わなかった。 けれど、蒼井嵐の顔色の方がみるみるうちに曇っていく。その視線には、不快と苛立ちが色濃く滲んでいた。 ――やっぱり気に食わない。 宮崎蒼の面接は、いつだって厳しい。それなのに、ほんの二言交わしただけで、彼女を採用だなんて…。 見た目だけ取り繕って何の意味があるというのか。 蒼井嵐は、霧島夢にもこの会社の裏にある苦労を味わわせてやろうと決めた。 しばらく考えた後、彼女は一番やっかいなクライアントを夢に押しつけることにした。 「宮崎社長が、まずはこれを任せて様子を見ようって。今、みんなの手元のプロジェクトはほぼ終わりかけていて、残ってるのは宮崎グループの周年記念パーティーで使うBGMの選定くらいなの」 蒼井嵐はごく自然な口調で言った。「相手とのやり取りはあなたが担当して。BGMを確定させてちょうだい」 霧島夢は眉を寄せ、前のめりに尋ねた。「何か問題でもあるんですか?」 ――宴会で使うBGMなんて、一番簡単なセクションのはずだ。それが今になっても決まっていないなんて、怪しい。 だが蒼井嵐は、それ以上語りたいくない。資料一式を夢に放り渡すと、「このあとクライアントが直接来るから。会って話せば、すぐに分かるわよ」 そう言い残すと、蒼井嵐はそのまま自分のデスクに戻っていった。 霧島夢もそれを見て、これ以上は聞いても無駄が察し、黙って頷いた。 資料を手に取った彼女は、そのまま会議室へと足を向ける。 扉が閉まると同時に、オフィスには再びひそひそとした噂話が広がり始めた。 「新人、もう終わったわね。氷見春樹がどれだけ神経質で扱いづらいか、知らない人なんていないでしょ。それに――あの人、女癖も最悪らしいし」 「一秒だけ黙祷してあげよ。…ご愁傷様、頑張ってね」 ―― 会議室。 霧島夢は手際よく、クライアントの情報をメモしていった。 相手の名前は氷見春樹――ピアニストだ。 今回の宮崎グループ創立三十周年記念晩餐会では、彼のピアノ曲を採用したいと考えていたが、何が原因なのか、どうしても交渉がまとまらないままだった。 霧島夢が資料を読み終えた直後、オフィスの扉が押し開けられた 入ってきたのは、白いカジュアルなシャツを着た男性だった。袖は肘のあたりまで無造作にまくり上げられ、その佇まいにはどこか気だるげな雰囲気が漂っていた。 霧島夢はすぐに立ち上がり、柔らかく微笑んだ。「氷見先生、こんにちは。霧島夢と申します。これから宮崎グループの晩餐会用のBGMについて、私が担当させていただきます」 「うん」 氷見春樹は短く返事をし、霧島夢の隣の椅子を何のためらいもなく引いた。 椅子に深く腰かけると、そのまま彼女をじっと見つめる。瞬きひとつせず、視線を逸らすこともなく――。 霧島夢はそっと視線を伏せ、その目を彼の視線から逃がした。 席に着くと、何気ない動作でわずかに身を横へずらし、慣れた手つきで淡々と切り出した。「氷見先生がなかなかご承諾くださらないのは、やはり今回の提携に何かご懸念がおありなのでしょうか? もしそうでしたら、どうか正直にお聞かせください。可能な限りご希望に沿えるよう、誠心誠意ご対応いたします」 氷見春樹は彼女に一瞥をくれたが、言葉はなく、そのまま黙していた。 霧島夢の胸の奥に、ふと小さな違和感が灯る。けれども、その表情はあくまで穏やかで礼儀正しく保たれていた。「氷見さんが全国ツアーの準備でお忙しいのは承知しています。だからこそ、こちらの誠意をお伝えしたくて。パーティー当日、特別に時間を取ってツアーの宣伝枠をご用意します。それをささやかな贈り物として…… いかがでしょうか?」 氷見春樹はしばし黙考し、ようやく口を開いた。 「霧島さんの提案は……魅力的ですね」 そう言って、微笑を湛えたまま彼女を見やる。 夢は、用意していた契約書を静かに彼の前へ差し出す。「こちらが契約書です。ご確認いただければと思います。もし何かご不明な点があれば、すぐにでも修正いたしますので」 しかし氷見は椅子の背もたれに体を預け、両腕を後頭部に回した。「字が多すぎて、読む気になれないな」 その言葉に、夢は一瞬言葉を詰まらせる。 「そっちに来て、条文を読み上げてくれない?」 霧島夢を見る視線は、興味津々 夢はそっと唇を引き結ぶ。 ――この仕事を始めてから、変わった要求なんて山ほど見てきた。 契約書を読むくらい、大したことじゃない。 彼女は静かに身体をずらし、氷見のそばへと寄る。ただし、決して近づきすぎず、きちんと節度ある距離を保ったまま。そして、一言一句漏らさずに契約書の条文を読み上げていく。 けれど、どうしても意識してしまう。熱を帯びた視線が、まるで火傷を起こしそうなほど強く、彼女の全身を這うようにまとわりついてくるのだった。 居心地の悪さに、まるで椅子に針でも仕込まれているかのような感覚に襲われる。 霧島夢は背筋を正すのをやめ、不快感を無理にやり過ごそうとした。 そのとき、不意に氷見春樹が身を乗り出した。 夢は咄嗟に身体を引いた。 氷見は微笑んだ。けれど、引き下がる様子もなく、さらに距離を詰めてくる。 「君がつけてる真珠のネックレス、とても綺麗だね。すごく似合ってる……」 そう言いながら、彼は夢の首元に手を伸ばした。 夢は眉をひそめ、その手を避けた。胸の奥に広がる嫌悪感は、もはや無視できないほどだった。 「氷見さんがそのネックレスを気に入ったのなら、後ほど会社に同じものをお送りします。今は契約の話を続けましょうか」 氷見春樹の手が宙で止まり、鼻先で笑った。「宮崎グループには、どうやら本気で組む気はなさそうだね。そうなると――話す意味もないか」 まるで霧島夢を手玉に取ったような顔で、彼は片眉を上げて彼女を見下ろす。その視線には、かすかな脅しの色さえにじんでいた。 そのとき――。オフィスの扉が再び開き、低く落ち着いた声が響いた。 「契約は白紙だ」 宮崎蒼が無表情のまま氷見春樹の前まで歩み寄り、霧島夢をその背後へとかばうように立った。

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