「森田柊音、雫怜はこの数年、森田家のためにどれだけの名誉をもたらしたか分かっているのか?それに比べて、家の長女であるお前は何の役にも立たないばかりか、トラブルばかり引き起こしている」 「それに、雫怜はお前の命を救ったこともあるだろう。今こそその恩を返す時だ!」 「俺は雫怜を選ぶ。雫怜を解放しろ。森田柊音のことは……好きにすればいい」 「俺も雫怜だ!」 「俺も……」 郊外の廃工場の中。手足を縛られ、抵抗すらできない森田柊音は、三人の兄たちがそれぞれに森田雫怜を選ぶのを、ただ絶望のなかで聞いていた。 最後に望みを託したのは――幼い頃から共に育ち、十年以上想い続けてきた婚約者、安藤優真だった。 すぐ目の前、ひとりの英明で端正な男が、整ったスーツ姿のまま交渉テーブルにどっしりと腰を下ろしていた。 その男と目が合った瞬間、森田柊音は助けを乞うようなまなざしを向けた。だが、男の薄い唇がわずかに動いただけで、彼の表情には一片の感情も浮かばなかった。 「俺が欲しいのは雫怜だけだ。もし雫怜の髪の毛一本でも傷つけてみろ、お前たちを絶対に許さない。……それ以外の女?好きにしろ。俺には関係ない」 冷たい。あまりにも冷酷で、あまりにも無情。 ――この人が、自分が十数年も愛し続けてきた人間なのか? あのとき、重い病に倒れ、何度も死亡宣告を受けた彼を救うために、命を削ってまで献血し続けた――それが、森田柊音が心から愛した人だったのに。 答えなんて、もうとっくに分かっていた。それでも、実際にその男の口から、あまりにも冷たく、何のためらいもなく見捨てられた瞬間――柊音の胸は、ぎゅうっと締めつけられた。 痛い。 胸が、岩で押し潰されるように痛む。 ひとことですら返す力が、もう残っていなかった。 ただ、茫然と見つめることしかできなかった。救い出された森田雫怜が、涙をこぼしながら安藤優真の胸に飛び込むのを――たった今まで冷たい目で自分を突き放していたはずの婚約者が、その頬の涙を優しく拭ってやるのを。 三人の兄たちは、実の妹のように森田雫怜を囲み、傷ひとつつかないようにと気を配り、声をかける。 誰ひとり、森田柊音に目を向けようとはしない。 ――たとえ...... ――たとえ、ほんの一瞬でも。 彼女を待っていたのは、救いではなく、ただ醜悪な誘拐犯たちだった。肥え太り、悪臭を放つ彼らの身体がじりじりと近づいてくる。顔には邪悪な笑みが浮かび、まるで獲物を前にした獣のようだった。 「へへっ、まさか森田家が、私生児のために本家のお嬢様を見捨てるとはな。 俺たちみたいなドブの底で生きてきた人間にも、高嶺の花だった森田家の令嬢を抱けるチャンスが回ってくるとは思わなかったぜ」 「兄弟たち、焦るなよ。一人ずつ、順番だ……」 柊音の背は壁に押し付けられ、もはや退く場所すらなかった。 喉はすでに枯れ果て、叫びすぎて血の味さえ感じる。 遠くに見える、温かな笑顔で寄り添う五人の姿が、ただ残酷だった。心が、音もなく砕ける。 希望の灯が、静かに消えていく。 お母さん…… ――せめて、最後にもう一度だけ、勇気を……! 柊音は、突如として顔を上げ、壁に向かって勢いよく突っ込んだ。 だが、その自殺めいた衝動は、すぐさま察知されてしまった。 先頭に立っていた誘拐犯が、素早く彼女に追いつき、無慈悲にも頭皮を鷲掴みにすると、容赦なく後方へと引き倒した。
「バシンッ!」 鋭く乾いた音が響くと同時に、柊音の頬に烈火のような平手打ちが叩きつけられた。 「ちっ……この豚女が。お楽しみの前に死ぬ資格なんてないんだよ」 狂気と侮蔑に満ちた罵声が飛び、強烈な一撃により、柊音の意識は闇へと沈んだ。 だが、誰一人として気に留める者はいない。 誘拐犯たちは下卑た笑い声を漏らしながら、脂ぎった汚い手を彼女の身体へと這わせ、 己の欲望をぶつけようとする。 「ビリッ――」 「ビリ……ッ」 しかし──! 柊音の衣服が今にも暴漢たちに引き裂かれようとした、その刹那。 「シュッ!」 先ほど、あの一撃で気を失っていたはずの柊音が、突如として目を開けた! その瞳には、もはや一片の怯えもなかった。代わりに宿っていたのは、幾多の修羅場を超えてきた者だけが纏える、研ぎ澄まされた王者の冷徹な光──。 危機を本能で察知した森田柊音は、即座に身を翻した。 縛られていた両手を素早く掲げ、しなやかな蛇のように動かしながら、首領の首元に巻き付けた。 地面を蹴り、体をひねって一気に力を込めた。 「ゴキッ」 首領の暴漢は反応する間もなく、頸骨をへし折られて地面に崩れ落ちた。 同時に。 数人の誘拐犯が驚いて固まっている隙を突き、柊音は一歩踏み出すと、高く振り上げた脚で横薙ぎに蹴り払った。彼女に襲いかかろうとしていた誘拐犯たちは、まとめて地面に叩き伏せられた。 危機は、たった一瞬で終わった。 だが――さっき、あの平手打ちで我に返ってからというもの、柊音の眉間の皺は一度も消えていない。 何かがおかしい。とても、おかしい。 今の自分の動き――誘拐犯たちを反射的に倒していった一連の身のこなしは、いったい何だったのか? なぜ、こんなにも身体が自然に動いたのか? まるで、それが自分本来の姿だったかのような、そんな感覚に襲われたのだ。 「…っ!」 正にその瞬間だった。 次の一秒――! 長いこと封じられていた記憶が、まるで大海を逆流する激浪のように、容赦なく彼女の脳内に押し寄せた―― 誕生、幼年期、誘拐、そして―― 義父、裏社会、血、殺戮――! 思い出したのだ! 六年前、海音市一の資産家・森田家の長女だった彼女が、仇敵にさらわれたあの日から――その後の四年間、記憶の底に沈んでいたすべてが、今、蘇った! 彼女は、世間が想像していたような、享楽にまみれた暗い娼館に売り飛ばされたわけではなかった。 実際には、世界最大の裏社会組織――ブラック・カタストロフの教父・坂本征司に見初められ、義理の娘として迎え入れられ、組織へと連れ帰られたのだった。 あの四年間―― 彼女はまるで人が変わったようだった。生き延びるというただ一つの執念を武器に、かつては肩の荷すら持てなかった森田家のかよわい令嬢が、一転して、世界最強の黒社会組織――ブラック・カタストロフの若きお嬢様となり、ついにはその後継者として組織全体に認められる存在にまで上り詰めた。 あの頃の彼女は、教父・坂本征司のもとで最も優れた義娘であり、数万にも及ぶ後継候補たちの中で、血の闘いを生き延びた、唯一の生存者だった。 まさしく、名実ともに“裏社会の女王”だった。 ただ、彼女の記憶に残っているのは二年前――ある極秘任務の最中、部下たちの裏切りに遭い、地雷が敷き詰められたエリアに誘い込まれたことだけだった。 たぶんあのとき、偶然近くにいた住民に助けられて命を拾い、警察に保護されたのだろう。その後、DNA鑑定によって、四年前から行方不明だった森田家の令嬢・森田柊音であると判明し、森田家へと送り返された――そんな経緯だったに違いない。 不幸なことに、その一件で彼女は丸四年分の記憶を失っていた。 ……そして、ついさっき、ようやくすべてを思い出したのだった。 その時―― 怒声が、前方から響き渡った。 「森田柊音!?」 「君って女は、 いったい何をしてるんだ!?」
森田雫怜が誘拐された場所に駆けつけた安藤優真と森田家の三兄弟は、まずは雫怜を宥めるように言葉をかけた。ところがその直後、目の前に現れたのは――両手を縛られた状態で、なんとテロ組織の一団を制圧した森田柊音の姿だった。 ……これは、冗談か? そんな馬鹿な話があるか! そもそも両手を縛られていようが、いまが全盛期だろうが、森田柊音は森田柊音でしかない。荷物ひとつ持てず、腕力も皆無で、格闘術の師範さえも「この役立たずが!」と怒鳴るほどのポンコツだったのだ。そんな彼女が―― 銃弾をかいくぐって生き延びてきた、歴戦の誘拐犯たちと互角に渡り合っただって? そんなの、夢の中の出来事じゃないと説明がつかない! だからこそ、たったひとつの可能性が浮かび上がる。 ――あの連中は本物の誘拐犯なんかじゃない。すべては森田柊音が金を積んで集めた、茶番劇の共演者どもに違いない! この女、またしても昔のように、自分の気を引くためだけに――こんな馬鹿げた芝居を打ったのだ! だが、よりにもよって雫怜まで巻き込むなんて――なんて無茶を……! そう思った瞬間、安藤優真の眉間に浮かぶ青筋がぴくりと跳ねた。 怒りという名の感情が、全身を一気に支配していく。 そして、ほとんど噛み殺すような声音で、森田柊音の名を叫んだ。 「いいだろう……いいだろう!全部お前の仕業だったんだな、森田柊音!この一連の誘拐事件も、すべてお前が仕組んだってわけだ!――柊音、俺はてっきり、お前がやっと過ちに気づいて悔い改めたと思ってた。もう少し罰を与えてから助け出すつもりだったが……まさか、まだそんなふざけた真似を繰り返してるとはな! そんなに俺のことが好きなのか? 好きすぎて……雫怜にまで手を出さずにはいられなかったってわけか!?」 雫怜は優真の胸に身を預け、小鳥のように身をすくめながら、信じられないという顔で声を震わせた。「そんな……お姉ちゃん、もう私のことそんなに憎んでたんだ……?でも、私、本当にお姉ちゃんと争いたくなんてなかったのに……もし、もしもそんなに私のことが嫌いなら、私、出ていくよ…… お姉ちゃんの邪魔をしてるのが私だって思うなら、私がこれまでやってきた研究成果、全部……お姉ちゃんに譲ってもいいから……」 「森田柊音!!」力のない囁きのような雫怜の言葉だったが、その一つ一つが鋭く、三人の兄たちの胸を突き刺した。 次に彼らが柊音を見たとき、その目には怒りと失望が燃えていた。まるで彼女を八つ裂きにでもしそうな勢いで。 「俺たち、どれだけ前世の業を積んだら、こんな邪悪な妹を持つ羽目になるんだよ……雫怜が本当の妹だったら、どれだけよかったか。お前なんて、森田家の最大の恥だ!」 立て続けに投げかけられる数々の言葉が、柊音の胸に、この二年間味わってきた屈辱のすべてを呼び覚ました。