新川市の夏の夜は、静まり返っていた。 水野紗奈はソファに腰を下ろし、スマートフォンでニュースを眺めていた。 「川崎グループ社長・川崎峻介、人気女優・戸田沙耶とともに公式イベントへ出席。二人はその後、ホテルで一夜を共にし、親密な様子が撮影され……」 そのニュースはたちまちSNSでトレンド入りし、ネット中を駆け巡っていた。 水野紗奈は黒縁の眼鏡を押し上げながら、無表情のまま写真に視線を落とした。 画像はぼやけていたが、それでも窓辺で抱き合い、唇を重ねる男女の姿ははっきりと確認できた。 その男こそが、彼女の夫――新川市随一の名家、川崎家の後継者、川崎峻介だった。 新川市の経済の要を握る、極めて高貴で特別な存在。 ――滑稽な話だ。 二人は結婚してすでに二年が経つというのに、川崎峻介は一度も家に戻ってきたことがなかった。 結婚の届け出すら、本人は現れず、 彼の弁護士が双方の身分証を持って役所に出向き、すべてを済ませたのだった。 水野紗奈にはわかっていた。川崎峻介がこの結婚をずっと拒んでいたことくらい。 彼が結婚に応じたのは、ただ川崎おばあさんのため。 かつて祖父が川崎おばあさんの命を救った縁で、水野家に衣食住に困らない人生を与えてやってほしい――そう頼まれたのだった。 本当は、少しだけ期待していた。二人の関係が、いつか変わるかもしれないと。 けれど、そんな願いは儚く散った。この二年間、川崎峻介はたびたび若い女優たちとのスキャンダルを起こし続けていた。 水野紗奈は唇を引き結び、スマートフォンを取り出すと、彼の連絡先を探し出した。 ――自分から電話をかけるのは、これが初めてだった。 まもなく、呼び出し音が止まり、通話がつながった。 「……もしもし、水野紗奈です」 「水野紗奈? どの水野紗奈?」 電波越しに響く男の声は、低く、よく通る。 たとえ冷ややかでも、その響きには妙に惹きつけられるものがあった。 水野紗奈はかすかに笑みを浮かべ、スマートフォンを握り締めた。 ――やっぱり。彼は、自分の妻の名前すら覚えていない。 「あなたの結婚証明書に記載されているもう一人、よ」 「……で?用件は?」 男の声は、さらに冷たくなった。 水野紗奈は眼鏡の位置を直しながら、静かに口を開いた。「離婚しましょう」 通話の向こうが、一瞬沈黙した。 そして川崎峻介が問った。「本気でそう思ってる?」 「ええ、もちろん」 「条件があるなら、言ってくれ」 「必要ないわ。川崎社長のお金なんて、欲しくもない。 それに、誰かと“同じ人参”を分け合うなんて、まっぴらごめん。 離婚届は用意してあるし、財産も一切いらない。私は何も持たずに出ていくから」 一息で言い切ると、彼女はそのまま電話を切った。 二人の間に残ったのは、一枚の結婚証明書だけ。それ以外は、見知らぬ他人と何ら変わらなかった。 これからは、橋は橋、道は道。交わることも、重なることもない――もう、何の関わりもない。 水野紗奈は階段を上がると、黒縁の眼鏡を外した。その下から現れたのは、息をのむほど美しい顔立ち。 あらかじめ用意していた離婚届をテーブルに置くと、きちんと荷造りされたスーツケースを引いて、何ひとつ未練を残さず立ち去った。 ――川崎グループ。 やわらかな黄色の照明が、社長室全体をあたたかく照らしている。 デスクチェアに腰かける川崎峻介は、シンプルな白シャツに黒のスラックスという装いながら、どこか近寄りがたい気品をまとっていた。 彼はスマートフォンの画面を見つめ、端正な唇をわずかに持ち上げて、皮肉めいた笑いを漏らした。 ようやく、名ばかりの妻が観念して離婚を申し出てきたらしい。 そのとき、コンコンとドアがノックされた。入ってきたのは、側近の古川大輔だ。 「社長、近藤社長との約束の時間が近づいております」 「ああ」そう軽く応じると、川崎峻介は椅子の背にかけていた上着を手に取った。 「……古川、今日のホットワードは削除しておけ。 それと、離婚証明書の手続きも弁護士に進めさせろ」 古川大輔、「……」 (うちの社長、誰より潔癖なくせに、三日に一度はスキャンダルをばら撒いて……全部、今日のこの瞬間のためだったんだな) 水野紗奈はタクシーを拾い、自分名義のマンションへと直行した。 その物件は市の中心部にあり、3LDK。 一寸の土地にも価値があるエリアで、住宅設備もすべてが整っている。 荷物を片付け終えたあと、水野紗奈は大きな掃き出し窓の前に立ち、煌びやかな夜景を見下ろした。そしてスマホを取り出し、親友に電話をかけた。 「陽葵、離婚したよ」 「……えっ? 紗奈、ついに!?やったじゃない!今日こそお祝いだね、独身復活おめでとう!」 「うん、行く」
三十分後。 上庭クラブ。 ここは新川市でもっとも有名な会員制クラブであり、 権力者や富豪たちがこぞって通う高級な社交と娯楽の場だ。 一階では、耳をつんざくような激しい音楽が流れ、 ダンスフロアではカラフルな照明が乱舞し、人々が汗を撒き散らしながら熱狂していた。 水野紗奈はハイヒールの音を響かせながら二階へと上がり、ボックス席で酒を片手に盛り上がる女性の肩を軽く叩いた。 「陽葵」 小森陽葵は彼女の親友で、愛らしく整った丸顔がチャームポイントだ。 「ちょっと、紗奈!美女発見。お姉さんにチューさせなさい!」 そう言うなり、陽葵は紗奈を抱き寄せ、頬にキスを一つ落とした。 紗奈は吹き出しそうになりながら、陽葵を軽く突き飛ばし、自分のグラスに酒を注いだ。 「ねえ紗奈、あんたの旦那って、もしかして相当バカなんじゃない? こんなに綺麗で才能のある女を手放しておいて、わざわざ外で浮気?理解不能なんだけど」 陽葵がグラスを掲げて乾杯しながら、惜しむように言った。 紗奈は一口だけ口をつけ、花が咲いたように艶やかな笑みを浮かべた。「まあ、確かにバカだね」 川崎峻介の目には、自分なんて田舎くさくて垢抜けない女にしか映っていなかったのだろう。 けれど――彼は知らなかった。 「ふん、でもいいのよ。あの男がいらないって言うなら、それで結構。うちの紗奈さんには山ほど男が群がってくるから」 陽葵はにやりと笑いながら、紗奈の首に腕を回した。「ねえ紗奈、離婚までしておいて、まだ“男の香り”も知らないなんて、笑われちゃうわよ? いい男ならいくらでも紹介できるけど、どんなタイプが好み? 今日、特別にセッティングしてあげる」 水野紗奈、「……」 親友の本音がどれだけ“男に食べられちゃえ”と思ってるか、よくわかる。 「ふざけないでよ。今日は飲んで、明日からは仕事に専念するって決めたの」 「いいね。仕事に本気な女って、一番魅力的だよ。 紗奈、これからは二人で生きていこう」 「やめて、あんたの“運命の人”が、後ろから八メートルの大刀持って追いかけてきそう」 「……」 ふたりでお酒を飲みながら、あれこれ話しているうちに、すっかり酔いが回っていた。 紗奈は、陽葵に手を引かれて、ダンスフロアへ。けれど、ちょっとお腹が苦しくなってきて、先にトイレに向かった。 二階のトイレには「故障中」の札がかかっていたため、三階へ足を運んだ。 三階には、個室のVIPルームが並んでいる。 カーペット敷きのフロアに足を踏み入れると、ふわりと柔らかい感触が足裏に伝わった。 少し飲みすぎたせいか、足元がふらついた紗奈は、体を支えきれず、横に倒れ込んでしまった。 隣の個室の扉が突然開き、紗奈はよろけて床に倒れ込んだ。 室内はほとんど灯りがなく、薄暗さの中、 寝室のほうからだけ水音が微かに響いている。 頭がぼんやりとした。ふらつく身体を起こして出口に向かおうとした、そのとき―― 寝室のドアが開いた。背後から男の腕が伸び、彼女を無理やり壁に押しつけた。 「お前、誰だ。俺を嵌めるつもりか?」 怒気を含んだ低い声に、欲望を抑え込んでいる気配が混じった。 その瞬間、壁に打ちつけられた衝撃で、紗奈の頭は一瞬だけ冴えた。 この声――川崎峻介だ。 「ち、違う……!」 「違う?じゃあ、どうやってここに入った?」 男の呼吸は荒く、まるで何かを必死に堪えているようだった。 「わ、私……部屋を間違えただけ……。 どいて……んっ……」 紗奈は目を見開き、男の突然のキスに凍りついた。とっさに彼を押しのけようとする。 「助けてくれ。恩は必ず返す」 水野紗奈「……」 ――離婚届にサインしたばかりなのに、また元夫と関わってしまうなんて! 熱に浮かされたような一夜を過ごし、朝を迎えた彼女の体は、まるで全身が打ち身のように痛んでいた。 やわらかな風がレースのカーテンを揺らし、差し込む朝日が男の寝顔をほのかに照らす。整った顔立ちは穏やかで、どこか無防備だった。 紗奈はしばらくその顔を見つめた。だがすぐに、自分の体の痛みに顔をしかめながらベッドを離れた。 昨日離婚を切り出したばかりの男と、まさかその夜に寝てしまうなんて。 きっと彼は、未練がましく身体を使って引き止めようとしているとでも思うだろう。 ――そんな女じゃない! 奥歯を噛みしめるようにして、紗奈は服を手早く身につけると、音を立てぬよう部屋を抜け出した。 その数分後、斜め向かいの個室の扉が静かに開いた。
戸田沙耶の顔には、怒りが色濃く滲んでいた。周囲を素早く見渡し、上着の前をぎゅっと引き寄せると、早足でその場を離れようとした。 昨夜、彼女は新作映画のヒロイン役を手に入れるため、マネージャーに連れられて数名の業界大物たちとの食事会に参加していた。 だが、食事の途中から頭がふらつき始め―― 目が覚めた時には、すでに監督のベッドの上だった。 最低な老いぼれ男……まさか、本当に手を出すなんて! けれど、芸能界ではこんな話は珍しくもなんともない。 ヒロインの座をつかむため、彼女には声を上げる選択肢すら残されていなかった。 思い出すだけで胸がざわついた。身体の奥にまで残る痛みに、足元がぐらついた。そのまま横に傾き―― ドンッ。隣の個室の扉に思いきりぶつかってしまった。 戸田は大きく息を吸い込み、ふらつく身体を何とか立て直すと、慌てて服を整え、立ち去ろうとした。 そのとき――カチャリ、と音を立てて、目の前の扉が開いた。 川崎峻介が、白いバスローブ姿でそこに立っていた。その深く鋭い瞳には、冷ややかな光が宿っている。 戸田の心臓が一拍、跳ねた。どこか後ろめたい気持ちが、無意識に浮かび上がる。 「か、川崎社長……」 ここ数日、戸田沙耶と川崎峻介の噂が絶えずトレンド入りしていた。 世間では彼女が川崎峻介の新たな恋人になったのだと囁かれている。 けれども――それがマネージャーによる話題作りのためのデマであることを、彼女自身が一番よくわかっていた。 川崎峻介は、ずっと冷ややかだった。 にもかかわらず、ネットにあふれる虚偽の情報について、彼が否定の一言すら発しないのはどういうわけか……。 「昨夜、俺の部屋にいたのは君か?」 廊下に人影はなく、そこに立っていたのは彼女一人だった。峻介の視線が、戸田の首筋に残る赤い痕へと静かに落ちた。漆黒の瞳が、冷たく揺れていた。 あの女が起きた時、彼はすでに目を覚ましていた。 ただ、女があまりにも早くその場を去ってしまったため、声をかける暇がなかったのだ。 今、廊下には誰の姿もない。ここにいるのは、戸田沙耶ただ一人だった。 昨夜、自分を助けてくれたのは――彼女だったのか。 戸田はふと足を止め、川崎峻介の端正な顔立ちを見つめた。瞳の奥がわずかに揺れる。 まさか昨夜、彼が――女と寝た? でも、その相手が誰かもわかっていない? 「川崎社長、私……」 「中で話そう」 ベッドに残っていた、あの赤の痕跡が頭をよぎった。峻介の声は、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。 戸田の胸に、かすかな喜びが灯る。急いで彼のあとに続いた。 「昨夜、君は『部屋を間違えた』から、俺の部屋にいたと言ってたな?」 ソファに腰を下ろし、峻介はふと目を上げて彼女を一瞥した。 記憶は曖昧だったが、女が彼の腕の中で咲き乱れる瞬間だけは、妙に鮮明に刻まれている。 もし、それが彼女の策略ではないのだとしたら――自分は、彼女に借りがあるのかもしれない。 「はい。本当は、今村監督の部屋で台本の読み合わせをする予定だったんですが、間違えて別の部屋に入ってしまって……」 戸田は、すっと視線を落とし、その目に浮かんだ鋭い光をそっと隠した。 峻介はしばし黙り込んだあと、問いかけた。「君は、どんな補償が欲しい?」 戸田はふと顔を上げ、彼を見据えた。唇が微かに動いた。「結構です、川崎社長。私たちはもう大人ですから。昨夜のことは、私の中ではもう終わっています」 川崎峻介――新川市で最も権勢を握る男。 彼がひとたび足を動かせば、この街は三度揺れると言われている。 数えきれないほどの女たちを見てきた男にとって、一夜の過ちは取るに足らぬ出来事なのだろう。 もし今ここで補償を求めれば、それはかえって彼の中で自分の価値を下げてしまう。 「君は星影メディアの看板女優だ。安心しなさい。最上級の案件をすべて君に回す。一年以内に、トップ女優の座に押し上げてみせる」 峻介の口から放たれたその言葉に、 戸田の胸が高鳴った。 だが、込み上げる喜びは必死に押し殺し、穏やかな声で応えた。「ありがとうございます、川崎社長」 「もう行っていい」 峻介は、戸田の澄ました表情を見て、心中で彼女を少し見直した。 「はい」 戸田は高鳴る鼓動を必死に押さえながら、くるりと背を向け、立ち去ろうとした。 「待て」 川崎峻介の突然の声が、彼女の呼吸を止めた。 振り返ると、峻介がベッドのそばで身を起こし、床に落ちていた上等な翡翠のペンダントを拾い上げるところだった。 「これは――君のものか?」