私がこの物語の世界にやって来たのは、ただ一つ。北燕侯・顧景之を暗殺するという任務を遂行するためだった。 「泠、愛している」 空一面に咲き誇る花火が、まるで私を祝福しているかのようだった。眼下では、顧景之が片膝をついて私を見上げている。その真摯な眼差しに、私は袖に隠した刃を握る力を、思わず緩めてしまった。 「妻として、私に嫁いでくれないか。生涯、ただ君だけを愛すると誓う」 「はい」 脳内でシステムが警告をけたたましく鳴らし続けていたが、私は構わず、その手を取った。 だが、現実は私の頬を容赦なく打ちのめした。 「蘇泠、侯爵夫人でありながら三年も子をなさぬとは。潔くその座を退き、賢明な者に譲るべきだ」 「……はい」 かつて彼からの求婚を受け入れた時と同じように、私は力なく頷いた。 その夜、燃え盛る炎が私の住む屋敷を焼き尽くし、私をこの苦海から解き放ってくれた。 再び目を開けると、私はあの日――彼が私に求婚した、あの日に戻っていた。 だが今度は、彼が泣きながら懇願していた。「泠、行かないでくれ」 私は震える手で桶を持ち上げ、井戸へと縄を投げ入れると、力いっぱい引き上げた。 侍女も下男もいない暮らし。全てを自分の手でこなさなければならない生活には、とうに慣れてしまった。 ろくな食事もとれない日々が続き、私の手は枯れ木のように痩せ細っている。 感情のこもらぬ手つきで、水の入った桶を地面にどすりと置いた。 水を汲むという単純な作業も、毎日繰り返さなければ、飲む水も体を清める水もないのだ。 「宿主、後悔していますか?」 システムの無機質な声が、脳内に響く。 私は力なく笑みを浮かべるだけで、何も答えなかった。 後悔しているか? もちろん、後悔している。 だが、この世に後悔をなかったことにする薬など、どこにも売ってはいない。 「蘇泠!蘇家はもはや没落した。今のそなたなど、ただの野良犬ではないか!」 北燕侯・顧景之は、彼の愛人を伴って私の前に現れ、そう言い放った。 かつて、盛大な輿入れで正式な妻として迎えられたはずの私は、今や一人の愛人に踏みつけられている。 彼と祝言をあげてから、わずか数年。父も母も、父方と母方の一族も、皆ことごとく没落してしまった。 もはやこの盛京城で、私のことなど覚えている者もいないだろう。 かつての輝きも、この窮屈な暮らしの中で削ぎ落とされ、牙を抜かれてしまった。 「侯爵夫人として三年も子をなさなかったのだ。当然、その座を譲るべきだ」 彼は隣に立つ女の腹を優しく撫でながら言った。私に対する苛立ちとは対照的なその光景は、目を焼くほど痛々しかった。 「……はい」 粗末な麻の衣をまとい、私は水桶のそばに立ち尽くす。 もはや抗う気力もなかった。とうの昔に、自分の運命を受け入れていたのかもしれない。 この三年間、初めのうちは優しかった彼も、時が経つにつれて苛立ちを隠さなくなり、屋敷に帰らない夜が増えていった。彼の冷淡な態度は使用人たちにも伝わり、私は日に日に軽んじられるようになった。 盛京城ではとうの昔から噂が流れていた。北燕侯が外で愛人を囲っている、と。 私もずっと知っていた。だが、まさかその女を私の目の前に連れてきて、出て行けと迫るとは思わなかった。 最初に私を求めてきたのは、彼のほうだったのに。 灯篭祭りの夜、夜空を彩る花火と、大勢の民衆が見守る中で交わした誓いを、どうしてこうも簡単に忘れられるのだろう。 いや、もしかしたら――あの約束を心に刻んでいたのは、私だけだったのかもしれない。 その夜、私は屋敷にいた侍女と下男に暇を出し、燭台の火を手に取ると、屋敷中に火を放った。 燃え盛る炎の中で、使用人たちの叫び声が遠くに聞こえる。薄れゆく意識の中、最後に見たのは、慌てて駆けつけ、愕然と立ち尽くす顧景之の姿だった。 ようやく、解放されたのだ。 この世界での私の任務は、どうやら失敗に終わったようだ。
私は任務遂行者として、様々な小世界を渡り歩き、そこに巣食う最大の悪役を排除して平和を守ってきた。 そして、この世界での任務対象が、北燕侯・顧景之である。 数多の世界を渡り歩いてきたが、私の心を動かし、この地に留まりたいと思わせたのは顧景之、ただ一人だった。 だが、なんという滑稽さか。私の真心は、無残にも踏みにじられたのだ。 ゆっくりと痛みが薄れていく中、私は完全に息絶えた。 最後に脳内に響いたのは、システムの無機質な声だけだった。 「やり直しの機会を与える。今度こそ、過ちを繰り返すな」 その言葉の意味を理解する間もなく、耳元で誰かが私を呼ぶ声が聞こえ始める。「お嬢様、お嬢様……」 やかましい声に、頭がずきりと痛んだ。 ゆっくりと目を開けると、見慣れた天蓋が視界に入る。 ここは、私がまだ嫁ぐ前に使っていた閨房ではないか。 まさか、戻ってきたというのか。 システムが、私を過去に? 今度こそ、この手で必ず顧景之を殺してやる。 「泠、やっと目が覚めたのね!」 母が嵐のように部屋へ飛び込んできた。 私は丞相府の嫡女として、幼い頃から蝶よ花よと育てられた。対する母は、生粋の女将軍だ。 父のような優男が、一体どうやって母を射止めたのか、今でも不思議でならない。 「今日は灯籠祭りよ。まさか北燕侯から逃げるために、仮病を使っているんじゃないでしょうね」 私は母を見つめ、ひとつ瞬きをした。 灯籠祭り……。 それは、前世の悲劇が始まった、まさに運命の転換点。 システムは私をこの時に戻したのか。 母がそう勘ぐるのも無理はない。本来の私は、そういう奔放な娘だったのだから。 顧景之に三年間虐げられるうちに、その牙をすっかり抜かれてしまったに過ぎない。 「そんなわけないじゃない。もちろん行くわ!」 私は勢いよく寝台から起き上がると、鏡台の前に座った。銅鏡に映る自分の顔を見て、しばし呆然とする。 瑞々しい肌に、鮮やかな紅色の唇。 視線を落とせば、そこにはまだ白く細い指先があった。私は苦々しい笑みを浮かべる。 誰が想像できただろう。前世、父と母が相次いで亡くなった後、後ろ盾を失った私が、後宮で日々虐げられることになるとは。侯爵夫人という身分は名ばかりで、その暮らしは侍女以下だった。 ましてや、世界を渡り歩く任務遂行者であるこの私が、そこまで落ちぶれるとは。 (システム?) 目が覚めてから、以前のあのやかましいシステムの音が聞こえない。不思議に思い、心の中で呼びかけてみた。 しかし、何度問いかけても応答はない。 おそらく休眠状態にでも入ったのだろう。 「この衣装も素敵だし、こっちもいいわね……」 我に返ると、母が独り言ちながら衣装を選んでいた。しかし、どぎつい赤や紫、あるいは深緑と、目に痛いものばかりだ。 私は慌てて駆け寄り、唯一まともに見えた一着を指差した。「あれがいいわ」 淡い黄色の衣装は、私の肌の色によく映える。 そして何より重要なのは、顧景之がこの色を嫌っていたことだ。 前世、あれほど長く夜を共にしたというのに、その理由を知ることはついになかった。 だが今の私にとっては、彼が嫌悪するものすべてが好ましい。 母が何か言う前に、私はさっさと衣装を手に取り、隣の部屋で着替え始めた。小言を聞かずに済むように。 皮肉なものだ。前世では、その小言さえ聞きたくても聞けなくなってしまったというのに。 今度こそ、決して情けなどかけない。 豪華絢爛な馬車に揺られながら、道端の物売りの声に耳を傾ける。私は袖に隠した短剣を握りしめ、心の奥底に渦巻く憎しみを押し殺した。少なくとも、他人に悟られてはならない。 「泠」 聞き慣れた声がして、馬車がゆっくりと停止した。 細く長い指が御簾を上げると、比類なき美貌が私の目の前に現れる。 決して忘れられぬ顔。前世の私は、この顔に惑わされ、一歩また一歩と破滅へと堕ちていったのだ。 私は静かに目を伏せ、眼差しに宿る憎悪を隠すと、彼の手のひらに自分の手を重ね、馬車から軽やかに降り立った。 「今夜は君のために、特別なものを用意したんだ」 北燕侯は私の異変に気づいていないのか、相変わらず優しい声で囁く。 だが、この羊の皮を被った狼こそが、私の両親の一族を乗っ取り、私を裏切った張本人なのだ。 前世、後宮に閉じ込められていた私は、ずっと理解できなかった。結婚前、顧景之との仲はあれほど睦まじかったのに、なぜ彼はあんなにも変わってしまったのか。 来る日も来る日も私を虐げ、かつての面影は微塵もなかった。 死ぬ間際になって、ようやく悟ったのだ。最初から、彼の狙いは私の後ろ盾――一族が持つ権力だったのだと。 「ええ、とても楽しみだわ」
彼に手を引かれ、縁結びの祠へとたどり着く。そこでは数えきれないほどの恋人たちが、縁結びの木の下で永遠の愛を祈っていた。 彼は期待に満ちた眼差しで、私に一枚の木札を差し出した。「泠、ここに願い事を書いて木に掛ければ、叶うんだ」 前の世と寸分違わず、彼が綴った言葉は『ただ泠と一生を添い遂げ、永遠に離れぬことを願う』。 私は、彼が満足げに最後の一画を書き終えるのを黙って見ていたが、なかなか自分の筆を動かせずにいた。 「泠、早く書くんだ。ここの神様はとても霊験あらたかなんだぞ」 彼の真摯な瞳を見つめ、唇をきゅっと結ぶ。胸中は言いようもなく複雑だった。 世間の誰もが知っている。北燕侯は血も涙もない男で、戦場では敵将の首を掲げて士気を鼓舞し、かつては切り落とした首を蹴鞠にしたことさえあると。 世間の誰もが知っている。北燕侯は神仏を信じず、寺社に足を踏み入れたことなどなく、ましてや縁結びの祠に良縁を祈りに来るなどあり得ないと。 だが、世間の誰もが知っている。彼が丞相府の長姫である蘇泠に心を寄せていることも。かつて彼女が漏らした冗談一つで、城の北まで馬を走らせて白梅の枝を折り、ただ佳人の笑顔一つを求めたという逸話を。 今、彼の瞳を見つめながら、目の前の現実が真実なのか偽りなのか、私には分からなかった。もしこれが偽りだというのなら、なぜ最後まで偽り通してはくれなかったのか。 「いいえ、結構よ。私が望むものは、誰かに頼って手に入れるものではないわ。この手で掴み取るの」 (あなたをこの手で殺めるようにね) 私は心の中で、静かにそう付け加えた。 私が頑なな様子を見せると、彼はそれ以上何も言わず、自分の木札を桃の木に掛け、静かに手を合わせて祈りを捧げた。 その完璧なまでの演技に、私は思わず鼻で笑った。 突如、夜空一面に大輪の花火が打ち上がる。記憶の中の光景と、まったく同じだった。 顧景之が私の隣に戻り、手を握って何かを言おうとするのを、私は遮った。 「景之、あなたは本当に本気なの?」 私の顔には、かつてないほど真剣な光が宿っていた。 「泠、君への想いは天地神明に誓える!」 彼はきっぱりと言い放った。前の世の出来事がなければ、大雨の中、父と母の助命を乞うても彼に会うことすら叶わなかったあの過去がなければ、あるいは信じたかもしれない。だが今、私の心を占めるのは、目の前の男をひと突きにしたいという衝動だけだった。 顧景之は私の目の前で片膝をつく。その眼差しは優しく、そして敬虔に満ちていた。 夜空を彩る輝きは多くの人々を惹きつけ、私たちの周りには幾重もの人垣ができていた。 群衆がひそひそと交わす会話を聞きながら、私は顧景之をただ見つめていた。袖口に隠した短刀が鞘走り、ゆっくりとその姿を現す。 「あの方は北燕侯では?」 「なんて情熱的なのでしょう。蘇家の姫君は本当に幸せ者ね」 「絵に描いたような美男美女で、まさにお似合いの二人だわ」 私は彼を立ち上がらせると、もう一度その瞳をじっくりと見つめた。生きている彼を見るのは、これが最後になるかもしれない。 「泠、承諾してくれたのか?」 顧景之は感極まった様子で私を強く抱きしめる。彼の背中が、完全に無防備な状態で私の目の前に晒された。 時を同じくして、袖口から短刀を抜き放つ。今、この刃を彼の心臓に突き立てれば、私は任務を終え、この世の全てから解放されるのだ。 だが、次の瞬間。ざわめく群衆の中から、甲高い悲鳴が上がった。 どこからともなく現れた覆面の男たちが、私たちめがけて殺到してきたのだ。 場は一瞬にして大混乱に陥った。 顧景之は私を庇うように前に立ちはだかり、刺客の刃を受け止める。 私は呆然と、次々に現れる刺客たちを見つめ、咄嗟に短刀を袖の中へと戻した。 (おかしい……前の世では、刺客なんて現れなかったはず。まさか、これがバタフライエフェクト……?) 周りでは人々が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、顧景之が連れていた護衛たちが刺客の幾人かと斬り結んでいた。 だが、多勢に無勢。防ぎきれなかった一人が、こちらへ向かってくる。 「泠、危ない!」