記憶をなくした女将軍、運命の人を間違えました
第1章記憶喪失

崖から落ちて記憶を失った私が目覚めた時、覚えているのは自分が将軍であることと、許婚がいるということだけだった。 やがて朝廷からの使者が私の前に姿を現した時、私は胸を高鳴らせ、心が躍った。 しかし、副将が指し示したのは別の男。「あちらが将軍の未来の夫です」と。 信じられるはずもない。「ありえない!私が正気なら、あんな男を好きになるわけがない」 太子は声を上げて笑い、世子は顔を歪め、「後悔するなよ」と吐き捨てた。 確かに、私は後悔しなかった。後に悔やみ、嘆いたのは、彼の方だったのだから。 もっとも、その頃の私は、もはや彼だけを一心に見つめる女ではなかったのだが。 【1】 銀光が閃き、私は一太刀で豚肉の塊を均等な大きさに切り分けた。 西北の兵士たちにとって、久しぶりの肉だ。誰もが喜色満面だった。 もう一太刀、妙技を披露しようとしたその時、遠くから李副将の叫び声が聞こえた。 「大将軍!こんなところにおられたのですか。朝廷からのお方が、もう到着されましたぞ」 言いながら、彼は私の腕を掴んで走り出す。「あ、あ、刀が……」 目端の利く料理長が、慌てて私の刀を受け取った。 主たる天幕の前まで来ると、李副将は私を中に突き飛ばした。 「さあ、とびきり格好良い鎧に着替えてください!下半期の軍資金は将軍にかかっているのですから!」 私は思わず首を横に振る。 この李副将という男は、いつもこうもせっかちだ。都から人が来たからといって、何をそんなに慌てることがある。 私が気にも留めていないのを察したのか、李副将は声を張り上げた。 「将軍、未来の旦那様もお見えですぞ!」 何だと! 私は大急ぎで鎧に着替えて天幕を飛び出し、ついでに「なぜもっと早く言わない」と李副将に文句を言った。 駆けつけると、真っ先に目に飛び込んできたのは、使節団の先頭に立つ一人の男だった。 すらりとした立ち姿は、まるで玉樹のようだ。間違いなく、私の未来の夫に違いない。 私が満足げに頷いていると、二人の男女がこちらへ向かってきた。男の方が、侮蔑に満ちた声で口を開く。 「江時渺、貴様は名家の令嬢でありながら、好き好んでこんな辺境へ来るとは。淑女の欠片もないな」 その腕に抱かれた女が、鼻を覆いながら言った。「あら、忘れられないような匂いですわね」 私は自分の匂いを嗅いでみる。ただの豚の血の匂いだ。どこが不快だというのか。 いつかこの女を戦場に連れて行き、本物の人間の血の匂いを嗅がせてやりたいものだ。それこそ、忘れられない匂いだろうに。 「失礼だが、お前たちは誰だ?私と知り合いか?知り合いでもないのに馴れ馴れしく話しかけるな。この私に、ここから叩き出されたいのか」 二人は憤慨していたが、相手にするのも面倒だった。 こんな辺境まで、わざわざ愛人を連れてくるとは。呆れてものが言えない。 私は二人を突き飛ばし、未来の夫のもとへと急いだ。 【2】 「長旅、お疲れ様でしたでしょう」 声をかけると、目の前の人が振り返り、私はその姿に見惚れた。 (ほう、なかなかの美丈夫じゃないか。悪くない) 男は先ほどの馬鹿二人を一瞥し、不思議そうに尋ねた。「私に言っているのかい?」 (他に誰がいるというんだ) 私が呆れた顔をしていると、未来の夫は楽しそうに笑った。「久しぶりだね、阿渺。ずいぶん変わったようだ」 その言葉は、李副将にも言われた。記憶を失う前の私とは、どこか違うらしい。 だが、そんなことはどうでもいい。違っていようが、私であることに変わりはないのだから。 私は未来の夫の手を取り、熱意を込めて言った。 「さあ、こちらへ。私が直々に部屋へご案内します。私の天幕の隣を使いなさい」 未来の夫は眉を上げ、意味ありげに笑ったが、断りはしなかった。 あの馬鹿二人のそばを通り過ぎる時、男の方が私の名を呼ぶのが聞こえた気がしたが、構うものか。 聞こえないふりをした。 部屋に着き、私が半月前に敵を追撃中に崖から落ち、目覚めた時には記憶を失っていたことを話すと、 未来の夫は驚いたような、それでいて全てを悟ったような顔をした。 「阿渺は、君の許婚が私だと、そう思っているのかい?」 「違うのですか?」 私は問い返す。 彼は首を横に振った。「ううん。そうだよ」

第2章闇を捨て、光へ

【1】 歓迎の宴で、私は未来の夫となる人を隣に座らせた。 席に着く間もなく、先ほどの男が血相を変えてやってきた。 「江時渺、何の真似だ?私が煙を側室に迎えたいと言っただけで、そこまで私を無視するとはな」 意味が分からなかった。そもそも見ず知らずの男だ。彼が誰を側室に迎えようと、私には関係のないことである。 蹴り出してやろうかと思ったその時、李副将が私のそばへ寄ってきた。 「違います、将軍、違います」 「何が違う?この私が間違うことなどありえない」 「いえ、将軍が人違いをされている、と申し上げたいのです。そちらの方こそが、将軍の許嫁である侯爵家の若君、宋晋明様でございます」 青天の霹靂だった。私は思わず隣の男に視線をやった。 では、この人は一体……。 彼はすっと扇子を閉じ、軽やかに笑った。「阿渺、私だよ。慕長川だ」 慕長川。大魏の皇太子である。 まさか。私は信じられずに叫んでいた。 「あり得ない、絶対にあり得ない!私がどんなに男を見る目がなくても、こんな浮気性の男を選ぶわけがない!」 私の言葉に、広間は水を打ったように静まり返った。ただ一人、慕長川だけが声を上げて笑っている。 視線を戻せば、宋晋明の顔は怒りでどす黒く染まっていた。 「江時渺!お前、もう二度と我が侯爵家の門をくぐれると思うな!侯爵夫人など夢のまた夢だ!」 隣の葉挽煙は勝ち誇ったような笑みを浮かべながらも、取り繕うように宋晋明をなだめている。 笑わせるな。この私は三十万の軍を率いる大将軍だ。 たかが侯爵夫人の椅子など、くれてやると言われても願い下げである。 「それは好都合だ。では、この縁談はなかったことに。若君の物分かりの良さには感謝する」 宋晋明は怒りの勢いを削がれ、信じられないといった顔で聞き返した。「……何だと?」 どうやらこの男、頭の出来が悪いだけでなく耳まで遠いらしい。 若くして難聴とは、気の毒なことだ。 慈悲深い私は、親切にもう一度繰り返してやった。 「だから、この私が、お前なんぞいらんと言っているのだ!」 彼はカッと顔を赤らめ、息も絶え絶えに吐き捨てた。「後悔するなよ!」 それだけ言うと、葉挽煙の腕を引いて足早に去っていった。 「ごゆっくりどうぞ、お見送りはいたしませんが。ああ、今日は実に良い日だ。酒を持ってまいれ!」 その声が聞こえたのか、宋晋明の体がぐらりと傾ぎ、危うく倒れそうになるのが見えた。 【2】 酒に手を伸ばしたところで、慕長川に制された。 「怪我は完治していないはずだ。酒は飲めないだろう」 どうしてそれを、と訝しんでいると、彼の視線が私の頭へ向いているのに気づいた。包帯だ。 目覚めて三日もすればこの通り元気だったから、頭を打ったことなどすっかり忘れていた。 私は素直に杯を置いた。 そばで鬼のような形相でこちらを睨んでいた軍医が、ふぅ、と安堵のため息を漏らす。 「ありがたや、ありがたや。ようやくこの大魔王を手懐けられる方が現れた」 そう言うと、軍医は弾むような足取りで去っていく。その実に楽しげな後ろ姿に、無性に腹が立って拳がうずいた。 逃げた軍医の代わりに、私は慕長川に矛先を向けた。 「先ほど、殿下が私の許嫁かと尋ねた際、なぜ肯定されたのですか?」 慕長川は私の問いには答えず、悠然とした仕草で手酌で一杯あおった。 私が痺れを切らして掴みかかろうとした、その時。ようやく彼が口を開いた。 「忘れたのか、阿渺。我々は幼馴染だろう。六つの頃、君が言ったのだぞ。『私の夫になって』と。それを嘘とは言えまい」 あまりにも晴れやかに笑うものだから、こちらも毒気を抜かれてしまった。 「まあ、そう言われれば、そうだが……」 改めて目の前の男をじろじろと観察する。やはり、私の目は節穴だったに違いない。 幼馴染の皇太子を袖にして、よりによってあの好色な侯爵家の若君に懸想するとは。 あんな男に嫁ぐと聞かずに父を困らせ、 ついには根負けさせてこの縁談を認めさせたというのだから。 李副将の話では、私が記憶を失った直接の原因も宋晋明にあるらしい。 奴が遊女を側室に迎えるという知らせを受け取ったせいで、私は心を乱し、注意散漫になって敵の罠にはまり、崖から転落したのだという。 どう考えても、宋晋明はろくでもない男だ。 都広しといえど、正室を迎える前に側室を囲うなどという不届きな貴族は聞いたことがない。 だが、もういい。過去の私など死んだも同然。 今の私は、新しい私だ。私は闇を捨て光を掴む。まずは、宋晋明を叩き出すことからだ。

第3章

【1】 素晴らしい朝は起床から始まる。 今日は慕長川を軍営に案内し、地元の責任を果たそうと思っていた。 ところが、出かけると運悪く宋晋明と葉挽煙に出くわしてしまった。 二人は軍営の中で情熱的に語り合い、通り過ぎる兵士たちを全く気にしていない。 私を見ると、宋晋明は鼻を鳴らし、得意げな顔で言った。 「後悔してる?ちょっと頼むだけで許してやるよ。 」 私は彼を一瞥し、心の中で思った。 誰が彼の許しを必要としているのか。 振り返らずに去ろうとしたら、宋晋明が我慢できずに私を引き止めた。 「江時渺、ふざけるな。 俺の我慢にも限度があるんだぞ!」 彼の我慢が限度に達しているかどうかは知らないが、私の方はもう限界だった。 彼の肩を押さえ、膝を彼の背中に押し付け、葉挽煙の悲鳴の中で彼を地面に押し倒した。 「世子、昨日私ははっきり言ったはずだ。 我々の婚約は解消された。 もう私を煩わせないで。 」 私は彼を振り払い、宋晋明は支えを失い、顔から地面に突っ込んだ。 ああ、これは私のせいじゃない。 彼が弱くて立っていられなかっただけだ。 宋晋明は猛然と顔を上げ、舞い上がる土の中で、歯を食いしばった顔を見せた。 「江時渺、後悔するなよ。 世子の俺はもうお前を必要としない。 」 葉挽煙は慌ててハンカチを取り出し、宋晋明の顔を拭き始める。 その後、皮肉っぽく言った。 「江小姐は一時的に受け入れられないだけよ。 世子、怒らないで、これからは……」 「やめて!」 私は彼女に口を閉じさせ、ついでに周囲を見回した。 葉挽煙は困惑して左右を見渡した。 私は無理に笑顔を作り、「ここは軍営です。 江将軍と呼んでください、江小姐ではありません。 そして、愛を語るのは遠くでしてください。 軍営を混乱させないで。 」 その言葉を聞いて、葉挽煙は顔を歪め、しばらく言葉を失った。 【2】 慕長川がテントから出てくるのを見て、私は今日の目的を思い出し、急いで彼の側に駆け寄った。 「殿下、今日は軍営を案内しましょうか?」 慕長川は特に異議を唱えなかった。 宋晋明と葉挽煙の横を通り過ぎるとき、突然何かにつまずいたように感じて、体が傾いて倒れそうになった。 自分の強力な武力で立ち直ろうと思っていた矢先、慕長川が手を差し伸べ、しっかりと私を抱きしめた。 下を見ると、葉挽煙が足を伸ばしているのが見えた。 私がまだ文句を言う前に、宋晋明が爆発した。 「何をしているんだ!男女の分別を守らないのか。 お前には婚約者がいるのに、どうして他の男と抱き合えるんだ!」 時々、本当に人の頭がどうかしていると思うことがある。 私は彼の頭を指さし、しみじみとため息をついた。 「本将軍の提案は、人生をやり直すのがいい。 20年後にはまた立派な男になれるだろう。 さもなければ、人の言葉が理解できず、生きていても無駄で、本将軍の拳を食らうだけだ。 」 宋晋明は一瞬呆然とし、その後さらに激しい怒りを見せた。 彼は過去の私のことをたくさん話し、以前の私はこんなではなかったと言った。 彼も過去を語れる。 今の私は違う。 私は記憶を失ったわけではない。 私が口を開く前に、慕長川が私の表情を見た。 彼の顔が曇ったのを見るのは初めてで、その声には冷たい霜があった。 「宋世子、私はただあなたと話したくないだけで、死んだわけではありません。 あなたは皇威を侮ることをして、逆らうつもりですか?」 狂ったようだった宋晋明は正気に戻り、すぐに声を上げることができなくなった。 彼の前に立っているのは大魏の太子で、彼が侮辱できる相手ではなかった。 「行きましょう、阿渺。 」 私はうなずき、去る前に足を払って二人を転倒させた。 彼らの悲鳴を聞いて、私はとても満足した。 結局、私は根に持つタイプなのだ。

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