冷徹旦那様は、結婚後に制御不能
第1章彼は来年の二月まで生きられない

ドアを開けたとたん、ソファで重なり合う二人の体が目に飛び込んできて、石川凪の頭が真っ白になった。 突然林伸一の家を訪ね、「二年間の遠距離恋愛、ついに終わったよ。これで一緒に暮らせる」と告げたら、きっと驚いて喜んでくれるんだ、と。 まさか、目に飛び込んできたのが、これほど目を背けたくなるような光景だとは思いもしなかった。 凪は拳を握りしめた。ソファの二人はあまりに夢中で、彼女の存在にさえ気づいていない。 込み上げる吐き気を必死に堪え、凪はスマートフォンを取り出し、録画モードにした。 二人が体勢を変えたとき、女がようやく凪に気づき、甲高い悲鳴を上げた。 伸一も驚き、慌てて毛布を引き寄せて体に巻き付け、女を背後にかばった。 「どうして帰ってきたんだ?何してるだ?」 凪は目を赤くして言った。「こんな素晴らしい場面、もちろん記録してSNSにアップしなきゃ」 伸一はそれを聞くと、背後の女が糸一本まとっていないのも構わず、毛布を体に巻き付けてソファから降り、凪のスマホを奪おうとした。 「それ以上一歩でも近づいたら、一斉送信する」凪は脅した。 伸一はまったく信じず、そのまま前へ進んだ。 凪はためらわず一斉送信ボタンを押した。 伸一は呆然とした。 いつもは優しく物分かりのいい女が、まさかこんな非情なことをするとは! 「石川凪、死にたいのか!」 伸一は怒りで額に青筋を立て、凪を殺さんばかりの形相だった。 凪はスマホを掲げた。画面にはすでに110が表示されている。「警察に通報したわ」 伸一は目を見開き、言葉を失った。「お前……」 凪の情け容赦ない、冷酷な様子を見て、伸一は凪を指さした。「いいだろう、お前の勝ちだ!」 凪の瞳は冷ややかだった。 「この二年間、まるでゴミにでもしてたってことにするわ。…いいえ、ゴミ以下ね、あんたは」 伸一の家を出た後、凪は親友の平野奏の家へ向かった。 奏の家で五日間過ごし、その間、奏は伸一を罵り続けた。 その日の朝、奏は凪がスマホを見ながら落ち込んでいるのに気づき、寄り添って凪を抱きしめた。「クズ男一人のために、悲しむ価値なんてないわ」 凪は首を振った。「とっくに悲しくなんかない。 ただ、石川雄一が持ってきた縁談をどうしようか迷ってるだけ」 「何ですって?」 凪の父親が彼女に縁談を持ちかけ、帰ってきて話し合うようしきりに催促していたのだ。 相手は家柄が良く、背が高くてハンサム、しかも一人息子だという。 凪が結婚に同意しさえすれば、相手の家は2000万円の結納金を払い、2ヶ月以内に妊娠すれば20億円のボーナス、子供を一人でも産めば、若奥様として無尽蔵の財産を手にできるという。 奏はそれを聞くと手を叩き、鼻で笑った。「それ、あんたの継母の入れ知恵でしょ。 本当にそんな美味しい話なら、自分の娘を嫁がせないわけないじゃない。 どう見たって罠よ」 「何か内情を知ってるの?」 「言ってること自体は本当よ。 でも、肝心なことを一つ隠してる」 「うん?」 奏は言った。「その人の名前は青木浩司。確かにルックスも財力も実力もあるわ。 昔は九条市の女たちがこぞって彼と結婚したがったものよ。結婚できないまでも、一夜を共にしたいってね」 「青木浩司……」 凪はその名を呟いた。「どこかで聞いたことがあるような」 奏は鼻を鳴らした。「九条市の人なら誰でも知ってる名前よ」 そして続けた。「去年、彼が不治の病って報道されて、余命わずかなんだって。 もともと恋人がいたらしいんだけど、それを知って外国に行っちゃったとか」 「はっきり言うわ、死にゆく男よ。彼と結婚するなんて、死人と結婚するようなものだわ」 なるほど、なかなか悲惨だ。 奏は唇を尖らせた。「継母ができれば実の父親も他人同然、って言うけど、 まさにその通りね。あんたの継母、あんたを嫁がせて未亡人にさせる気よ」 「彼が死んだら、再婚すればいい」 奏は目を見開いた。「ちょっと、本気で考えてるの? あの男、もう病気で弱りきってるんでしょ。今頃どんな不細工になってるか。 それに、こんな土壇場で結婚相手を探すなんて、死ぬ前に自分の子孫を残したいだけでしょ?」 「こんな時にそんなこと考えるなんて、変態よ!」 「でも、見返りが大きい」 「……」 「それに、彼が死ねば財産を相続できる」 凪は淡々とした表情だった。「そうなれば、お金も自由も手に入る。どれだけ多くの人が羨むことか」 奏は呆気にとられた。「あんた、ショックでおかしくなった?」 「本気よ」 凪は真顔になった。「考えたの。愛情なんてもの、幽霊と同じ。噂には聞くけど、見たことはない。 追い求めるだけ無駄よ」 「それに、私たちがこんなに必死で働くのだって、お金を稼いで経済的自由を手に入れるためじゃない? 今、近道があるのに、どうして利用しない手があるの?」 「……なんだか妙に説得力があるんだけど」 凪は笑った。 「それが現実だからよ」 夜、伸一が他人の携帯電話を使って凪に電話をかけてきて、凪を「見かけ倒しの役立たず」と罵った。 電話を切ると、彼はまた別の番号でかけてきた。凪がいくつかの番号を着信拒否にし、ついには電源を切るまで続いた。 翌日、凪が電源を入れると、大量のメッセージがなだれ込んできた。 ほとんどが伸一からで、ありとあらゆる罵詈雑言が並んでいた。 グループチャットは炎上していた。一度も寝たことさえないのに、伸一はそこで凪の胸は豊胸だの、尻軽のくせに清純ぶってるだのといったデマを流していた。 とにかく、一つとして耳に堪えないものはなかった。 凪は深呼吸をした。起こることすべてに理由があると信じようとした。 神様があのクズ男の本性を早く見抜けるよう、あの場面を見せてくれたのだと。 凪は石川雄一に電話をかけ、彼の提案を受け入れた。 父と娘が青木家の大邸宅に着くと、青木浩司の姿はなく、彼の両親が二人を迎えた。 凪が浩司と結婚する意思があると知り、彼らは興奮を隠せない様子だった。 凪の要求はただ一つ、先に入籍することだった。 理由は、法的に有効にするためだ。 結婚式については、不要だと言った。 相手はもちろん異論はなく、むしろ凪が結婚を拒むのではないかと恐れていたほどだった。 双方の合意はとんとん拍子に進み、青木俊一はすぐに役所の職員を自宅に呼び、婚姻届を提出した。 その時になって、凪はようやく浩司の……写真を目にした。 写真の男は奏が言った通り、整った顔立ちで、特にその瞳は深く力強く、人を惹きつけるようだった。 これほどの極上の男、命が残りわずかでなければ、凪に回ってくるはずもなかった。 結婚証明書が凪の手に渡された。凪は合成されたものとはいえ、二人の並んだ写真をじっくりと眺め、まあ良しとした。 青木栞菜が銀行のカードを取り出し、凪に手渡した。式は挙げないが、結納金は変わらず支払われる。 さらに、生活費としてまとまった額が渡された。 とにかく気前が良く、その額の大きさに、凪はカード自体が重く感じられるほどだった。 凪は遠慮せず、堂々と受け取った。 再び結婚証明書に目を落とし、「青木浩司」の四文字を見つめる。 あの男は、両親にこうして「売られた」と知ったら、 いったいどんな気分だろうか。 父親と共に青木家の大邸宅を後にすると、父は満面の笑みを浮かべ、実に上機嫌だった。 「青木家から、ずいぶん見返りをもらったんでしょ」 雄一は一瞬固まり、不自然な表情を浮かべた。「何を言っているんだ」 「とぼけないで」凪は立ち止まって雄一を見据えた。「あなたたちに利益がなかったら、私のことなんて思い出しもしなかったくせに」 雄一は気まずそうな顔をした。「凪……」 凪は手を挙げて、雄一の耳触りのいい言葉を遮った。 凪は先に歩き出し、淡々と言った。 「これで最後よ。 今後、もう連絡しないで」 凪が本当に浩司と結婚したと知り、奏はその場でぐるぐると歩き回った。 だが、もはや手遅れで、後戻りはできなかった。 「あんたのお父さん、本当に酷い。火の穴だってわかってるのに、あんたを突き落とすなんて。 あんたもあんたよ、なんでそんな気前よく入籍しちゃうの? もし彼があんたを虐待しても、籍を入れてなきゃ逃げられた。でも入籍しちゃったら、もし彼があんたを殺そうとしたって、逃げ場なんてないのよ」 奏は焦りと怒りと心配で、目を赤くしていた。 親友が怒ってくれることに、凪は心が温かくなった。彼女は笑って奏をなだめた。「入籍はしたけど、彼の前に顔を出すつもりはないもの」 奏は凪をじっと見つめた。 凪はいたずらっぽく目を輝かせた。我ながら悪辣な考えだと思うが、事実でもある。 「彼、来年の二月まで生きられないって言ってたじゃない? 残り三ヶ月もないわ。まずは隠れてて、彼がもう動けなくなったら、その時に顔を出すの」 凪の計画は完璧だったが、現実はそう簡単ではなかった。 この言葉を口にしてから数日も経たないうちに、凪のところに使いが来た。。 「青木さんが奥様にお会いしたいと仰っています」

第2章脱げ

厳冬の候、風が骨を刺す ワゴン車の暖房も、凪の微かに冷えた心を温めるには至らない。 彼女は多少なりとも怯えていた。 だが考え直す。彼の生命はすでにカウントダウンに入っている。今さらどんな手を使ってくるというのか? 凪は心を落ち着け、安心させるように奏にメッセージを送った、 車は九条市最大のクラブで停まった。 運転手がドアを開ける。その動作こそ恭しいものの、態度からは敬意が一切感じられなかった。 凪が車を降りると、男が道を案内するように歩き出した。 眩いばかりの廊下を抜け、一番奥の部屋の前で止まる。両開きの大きな扉が開かれ、男は脇に寄った。「青木さん、お連れしました」 そう言って、中に入るよう凪に目配せする。 凪はすでに弓矢がつがえられた状態であり、放つしかなかった。 (どうせ来たのだから)と腹を決め、彼女は堂々と中へ入った。 背後でドアが閉まる。 密閉された空間に緊張した空気が充満し、空気が薄くなる。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。 視線を巡らせると、奥のソファに一人の男が座っている。 深く足を組み、革張りのソファに全身を預けている。距離があり、はっきりとは見えない。 仄暗い部屋の中で、緋色の点が一つ、明滅している。煙草の香りが、空気中に漂っているようないないような。 凪は深呼吸し、歩み寄って、その顔をはっきりと見た。 彼は写真写りが悪い。 実物は写真よりずっと整っている。唯一の違いは、その顔色が写真よりもさらに白いことだった。 黒いシャツの襟元がわずかに開かれ、覗く喉と鎖骨が妙に艶めかしい。 病的なまでの白さが、その立体的な美貌に、異常なほどの陰気な艶を与えていた。 だが、その様子はしっかりしており、どう見ても末期の病人には見えなかった。 この顔なら、確かに彼の子を産みたいと願う女が大勢いてもおかしくない。 さらに近づき、凪はようやく彼が手にしているもの――婚姻届――を認識した。 そうだ。彼が持っているそれは、彼の母親が預かっていたはずのもの。 息子の婚姻届を提出しておきながら、本人に知らせないわけがない。 自分が逃げ切れると思っていたのは、甘い考えだった。 「金のために命を捨てるやつがいるって話、聞いたことないか?」 青木浩司は、目の前の女を凝視した。 こんな時に自分に嫁いでくる女など、金目当てに決まっている。 凪も、逃げられないと悟っていた。そして、その言葉が「財のために死ぬ」という警告であることも。 こうなればヤケだ。凪は唇の端を引き上げ、妖艶な笑みを浮かべる。「どうして、私が浩司さんに恋焦がれ、結婚を企んでいたから……とは考えられないの?」 浩司の指に挟まれた煙草が、強く握りしめられた。 企んでいた……そんな人間はいるだろうが、こんな時ではない。 凪の口から出まかせの嘘と、その見え透いた笑顔を、浩司は一目で見抜いていた。 彼は煙草を灰皿にもみ消し、すっと伸びた指先を揃え、彼女を手招きした。 凪はごくりと喉を鳴らし、さらに一歩近づく。 浩司は組んでいた足を解き、姿勢を正すと、手を伸ばして凪の腕を掴んだ。そのまま力任せに引き寄せ、彼女を自分の胸元へ倒れ込ませる。 凪は不意を突かれて体勢を崩し、彼の上に覆いかぶさる形になったが、すぐに浩司によって体を引き起こされた。 腰に強い圧力がかかる。彼の手のひらが、凪の腰に当てられていた。 厚手のコート越しだというのに、彼の手が触れている場所がじわりと熱を持ち始めている。 凪に一切の反応を許さず、彼は婚姻届で彼女の顎をクイと持ち上げた。その深い瞳が、嘲りを帯びる。「俺に恋焦がれている?」 凪の心臓が速鐘を打つ。だが表情は平静を装った。婚姻届の角が顎に食い込んで不快だったが、臆することなく彼の目を見返す。「九条市の未婚の女性なら、みんな浩司さんに恋焦がれているでしょうね」 「フッ」 浩司は喉の奥で冷笑を漏らした。「死ぬのは怖くないのか?」 「怖い」 浩司は眉を上げた。 凪は真顔で答える。「遅かれ早かれ死ぬなら、死ぬ前に愛する人と夫婦になれれば、もう未練はありません」 浩司の脳裏に「戯言ばかり」という言葉が浮かんだ。 彼は凪を荒々しく突き放し、彼女が座っていた自分の太腿をパンパンと払う。その嫌悪感は、あまりにも露骨だった。 「離婚だ」 そう投げつけるように言って、浩司は立ち上がった。 すらりとした長身は姿勢が良く、 広い肩幅に引き締まった腰、 まっすぐ伸びた両脚。 彼が足を踏み出すと、ズボンの裾が凪のコートの裾を軽くかすめた。 視線の棘に、凪は彼への興味をあっという間に引っ込めさせられた。 「離婚はしません」 浩司が足を止める。その両目に、陰鬱で冷たい光が宿った。 凪は彼を見据える。「ふざけているわけじゃありません」 浩司が目を細めた。 「熟慮した上での決断です」 凪は真情あふれる様子で続ける。「浩司さんの妻になってこそ、正々堂々とあなたの世話を焼き、あなたの子を産める」 「浩司さんに残された時間がどれだけであっても、私は後悔したくない。 自分勝手だと言われても構いません。浩司さんと一緒にいられるなら、私は何だってします」 凪は言葉に感情を込め、瞳まですっかり潤ませていた。 こんな感情を自在に呼び起こせる自分に、我ながら感心する。 浩司が彼女に詰め寄り、冷たい声で尋ねた。「何だってする、だと?」 彼が迫ってきた圧迫感に、凪は一瞬たじろいだが、心を鬼にして頷く。「ええ」 浩司の唇が、わずかに歪んだ。 その浅い笑みに、凪はぞくりと頭皮が粟立つのを感じた。 浩司は再びソファに腰を下ろし、両脚をわずかに開く。 「跪け」 凪は自分の耳を疑った。 彼の開かれた脚、陰険な眼差し、氷のような冷たさ。そのすべてが、彼女の聞き間違いではないと告げていた。 「それもできないのか?」 凪は、奏が言っていた「変態」の意味をようやく理解した。 浩司の目に宿る軽蔑の色を見て、凪は眉をひそめた。だが、すぐにコートを脱いでソファに放り投げると、邪魔な髪をゴムで一つに束ね、まっすぐ彼の太腿を跨いだ。そして、彼の両脇に膝をつく。 「これでいい?」 この体勢では、凪の方が浩司よりも少し高くなる。見下ろす形になった彼の瞳に、一瞬だけ驚きの色がよぎるのを、凪は見逃さなかった。 身体にフィットした黒いウールのセーターが、彼女の玲瓏な曲線を浩司の目の前に惜しげもなく晒している。ジーンズに包まれた臀部は丸く、まっすぐに伸びた腰つきは、いかにもしなやかそうだった。 二人の距離はあまりにも近い。互いの呼吸が混じり合う。 その体勢はひどく煽情的で、いつ火花が散ってもおかしくなかった。 凪は稀代の美人だった。婚姻届の写真よりも、数段艶めかしい。 流し目がちな瞳。狐のように吊り上がった目尻が、微かな笑みを湛えて人を誘う。 浩司は両腕を広げてソファの背もたれに預け、その深い瞳に彼女の蠱惑的な笑みを映し込んでいた。 「脱げ」 冷たく、色の薄い唇がわずかに開き、続きを促した。 凪は平静を装って息を整えると、彼に手を伸ばし、その胸元へと運んだ。 玉のように白く細い指が黒いボタンに触れる。まるで黒と白の碁石が響き合うような、独特の美しさがあった。 凪は手元がぶれないよう意識しながら、そっと彼のボタンを外していく。ボタンがホールを抜けるたび、彼の胸元がさらに開かれていく。 日に焼けた肌ではない。冷たい色の白い肌が、また別の魅力を放っていた。 一つ。 二つ。 肌の露出が増えていく。 凪は息を詰める。先ほどまでの余裕の笑みは、すでに引きつり始めていた。 わずかに視線を上げると、浩司が感情のない目で見つめ返してくる。その姿は、まるで高みから見下ろす王のようだった。 そして自分は、彼の目には、彼を楽しませるための玩具に過ぎない。 凪は覚悟を決め、彼のボタンを外し続けた。やがて、彼女の手が不意に彼の腹筋に触れてしまう。その瞬間、彼は凪の手を掴んだ。強い力だった。 凪は顔を上げ、彼の底知れぬ暗い瞳を見つめる。心臓が跳ね上がった。 「こんなに遅い。いつになったら子供が作れる?」 浩司は彼女の速度に不満のようだ。 凪の呼吸が乱れる。 このまま逃げ出したくはなかった。 彼女は再び口角を引き上げた。「そんな、無理やりじゃ……。 聞いたんです。情が動いたときにできた子供は、より美しく、より賢くなるって」 浩司が目を細める。「そう?」 「ええ」 凪は大胆にも、掴まれていない方の手で、彼のシャツの下の素肌を探ろうとした。 浩司は素早かった。その手首を掴む。「俺だけ脱がせてどうする?」

第3章あの男、底知れぬ

青木浩司の視線が、石川凪の玲瓏たる姿を這う。その意味は明白だった。 凪は表情をこわばらせた。だが、引く気はない。本当にこんな場所で彼が事に及ぶだと信じていなかった 凪は服の裾を掴み、捲り上げる。 細く白い腰があらわになり、黒いセーターの下で白い下着の縁がひどく目を引いた。 突如、浩司は凪を体から突き放す。その顔には嫌悪が満ちていた。 凪はよろめき、倒れそうになる。なんとか体勢を立て直すと、内心の喜びを押し殺し、無実を装い傷ついた表情を浮かべた。 浩司は、芝居がかった女を一瞥する。金のためなら、そこまで身を投げ出せるとは。 今、金に目がくらんでいるが、自分が死んだ後、この女が「夫に先立たれた」というレッテルを一生背負うことになるとは考えないのだろうか。 彼自身はどうでもいい。だが、婚姻は、遊びであってはならない。 「出ていけ!」 浩司は、こういう偽善的な女が嫌いだった。 凪はまるで解放されたかのように内心で歓喜しながらも、表面上は名残惜しそうな表情を浮かべた。 「あなた……」 浩司は苛立った。「二度と言わせるな!」 凪は一切の躊躇なくセーターを下ろし、コートをひっ掴んで部屋を飛び出した。 クラブの外へ出ると、ようやく凪は心の底から安堵の息を漏らした。 コートを羽織っていなくても、寒さは感じない。心臓が、今もまだ激しく高鳴っていた。 刺激的で危険な展開だったが、幸い無事に逃げ切れた。 まさに九死に一生を得た。翌日、凪は奏を誘い、豪華な食事に出かけた。 「あんた、本当に肝が据わってるよね」 奏は凪に感服せざるを得なかった。 凪は奏の腕に絡みつく。「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってね」 奏はもうお手上げだった。 「あの男に本気で手を出されるかもって、怖くなかったわけ?」 「あのルックスに、体格、家柄。好感を抱くなって方が無理でしょ」 「ん?」奏が眉をひそめる。 「彼の子を産むのも、悪くないかもね」 凪は付け加えた。「私たち二人の子供なら、絶対美形に決まってる」 奏:「……」 凪がへらへらと笑うと、奏は火遊びが過ぎると忠告した。 もし相手がまた離婚を切り出してきたら、今度こそ応じなさい、と。 結婚生活で苦しめられるなんて、それはもうDVだ。そしてDVは夫婦間の問題として扱われがちで、加害者側に強力な制裁が下ることは少ない。 「わかってる」 凪は、奏が自分のために言ってくれていると分かっていたので、素直に頷いた。 食事を終えると、奏もだいぶ落ち着きを取り戻した。 二人は談笑しながらショッピングモールを歩いていたが、不意に凪が足を止めた。 奏も顔をしかめる。「あのクズ!」 凪は林伸一に会いたくなかった。もはや感情の問題ではなく、純粋に生理的な嫌悪感を抱いていた。 「行こ」 凪は奏を引っ張って、別の方向へ進もうとする。 奏は眉をひそめた。「何よ、怖いの?」 「あいつ、まだシメてないんだけど」 そう言うと、奏は凪の手を振り払い、腕まくりをして飛び出そうとした。 凪が奏を掴む。「怖いんじゃない。汚いものに触れたくないだけ」 それを聞いて、奏は「ペッ」と唾を吐く仕草をした。「確かに。反吐が出るわ」 二人は踵を返した。 「石川!」 伸一が追いかけてきて、二人の前に立ちはだかった。 奏が凪をかばい、伸一と真っ向から対峙する構えを見せる。 凪は奏を自分の隣に引き寄せ、自ら伸一と向き合った。「何のつもり?」 「お前のせいでメチャクチャだ。こっちが何がしたいか、だと?」 伸一は面目を丸潰れにされたのだ。この女をさんざん痛めつけなければ、この怒りは収まらない。 言いながら、伸一は凪に掴みかかろうと手を伸ばす。 凪が素早く身をかわし、彼は空振りする。 伸一は逆上し、さらに乱暴に凪の手首を掴もうとした。 凪は、その手を振り払いざま、伸一の顔面に平手打ちを食らわせた。 乾いた音が響き渡り、凪の手がジンジンと痛んだ。 伸一は殴られた頬を押さえ、驚愕に目を見開いて凪を睨みつける。「石川、よくも殴ったな!」 「手にナイフを持ってなくて幸運だったと思いなさい」 凪は憎悪を込めた目で見据える。「それと、これ以上私に付きまとうなら、あんたの家に乗り込んでやるから」 凪は、相手が強ければ強いほど反発する気性だった。本気で怒らせれば、命知らずの行動に出る。 伸一は凪と付き合っていたとはいえ、実際に会ったのは数えるほどで、ほとんどが電話やSNSでの連絡だった。 そのたびに凪は優しく、甲斐甲斐しかった。だから伸一は、凪のことを「妖艶な見た目をした、従順な女」程度にしか思っていなかったのだ。 まさか、これほど気性の激しい女だったとは。 この女は、飼いならさなければならない。 野次馬がどんどん増えていく。奏が凪の手を引いてその場を離れた。 こういう時、好奇の目にさらされ、あれこれと論評されるのは、決まって女の方だ。 伸一は殴られた頬をさすりながら、凪の背中に向かって叫んだ。「お前がいつまで強気でいられるか、見ものだな!」 少し離れた場所から、浩司が今の一部始終を目撃していた。 凪が、あの男に平手打ちを食らわせた場面も、すべて。 古川良介は、凪がこれほど物怖じしないことに驚いていた。 「あの男は林伸一。界隈では有名な道楽者です。 数日前、連中の間で彼に関する動画が出回りました。 今にして思えば、あの動画を撮影し、拡散させたのは……奥様、かと」 動画はとっくに伸一が手を回して削除させていたが、良介はどうにか探し出し、そのスマートフォンを浩司に差し出した。 浩司は動画に目を通したが、何も言わなかった。 良介は口を引き結び、スマートフォンをしまう。「この林伸一という男は善人ではありません。奥様にあれだけの恥をかかされたのですから、報復に出る恐れがあります」 「何事も、行動を起こす前に、その結果どうなるかを計算すべきだ」 浩司は踵を返した。「報復されるというのなら、それも自業自得だ」 「……」 凪が浩司の法的な妻であることを、今、主人に思い出させるべきだろうか。 良介は浩司の後に続く。「では、やはり離婚はなさるのですか?」 浩司は、凪のあの偽善的な顔を思い浮かべ、 思わず眉根を寄せた。 「する」 凪は奏の家で暗くなるまで過ごした。奏は改めて伸一をさんざん罵った後、凪が報復されるのではないかと本気で心配し始めた。 当の凪は、まるで怖気づく様子もない。 「いっそ、あんたの旦那に頼んでみたら? どうあれ、あんたはあの人の妻なんだから。伸一を黙らせてもらいなさいよ」 凪は浩司のことを考えると、やはり心が怯んだ。 あの男は、底が知れない。 「本気であの人を旦那扱いできると思う?」 「じゃあ、どうするのよ。 いっそ、私と一緒に住む?」 「あいつも、私には手出しできないわよ」 凪が「自分の身は自分で守れる」と再三保証し、奏はようやく彼女を家に帰した。 今住んでいる部屋は、父親が継母と再婚する前に凪のために買ってくれた2LDKのマンションだ。広くはないが、凪にとってはそれで十分だった。 シャワーを浴びてソファに寝転がり、動画を眺めていると、画面に見知らぬ番号がポップアップした。 知らない番号だ。凪はしばらく待ってから、通話ボタンを押した。 『どちら様?』 『明日の午前8時、役所で離婚だ』 凪はその声を聞き、改めて画面の番号を見つめた。 真っ先に浮かんだのは、彼がどうやって自分の番号を知ったのか、ということだった。 だがすぐに、彼のような金持ちにとって、自分の電話番号を調べることなど造作もないことだと気づく。 本当に、執念深い。 凪はソファの上であぐらをかくと、わざとらしく口角を上げる。その声色は、甘く、柔らかい。『私は、一生添い遂げるつもりで結婚したの。 一度結婚したからには、離婚なんてしません』 『離婚しない?なら、未亡人になるのを待つつもりか?』 「……」 その言葉は、凪の心を不快にさせた。 確かに、当初はそうなることを期待していた。だが、当の本人からその言葉を突きつけられると、また別の感情が湧いてくる。 『そんな言い方しないで。 今の医学は進んでるんだから、どんな病気だって治せるわ。 あなたが前向きに治療に協力して、明るい気持ちでいれば、きっと良くなる』 凪は、本心からそう思っていた。 誰だって、そんな風に言われたら堪えるはずだ。 浩司は窓のそばに立ち、電話の向こうの女が、いかに心のこもっていない表情をしているかを想像していた。 『これ以上、醜態を晒したくないなら、分別をわきまえるんだな』 浩司は女に釘を刺す。 凪には、彼がこの結婚を本気で拒絶していることが伝わってきた。 お互い馬鹿ではない。凪が本気か、それとも演技か、彼に分からないはずがなかった。 『その件は、あなたに従うわけにはいかないわ。 どうしてもと言うなら、あなたのご両親に話しなさい。ご両親が同意するなら、私も応じる』 確かに衝動的な結婚ではあった。だが、誰と結婚しようと、結果は同じだったかもしれない。 彼との結婚は、ある意味、より「単純」だ。 浩司が、わずかに目を細める。 なかなかに賢い女だ。 彼の両親は、この結婚を大いに喜んでいる。同意するはずがない。 浩司は、この女の計算高さに、ますます嫌悪感を募らせた。 「俺に逆らう方が、簡単な道だとでも思ったか?」 その低く抑えた声には、明らかな不快感が滲んでいる。凪は、やはり心のどこかで彼を恐れていた。 「もう遅いわ。あなた、体調が良くないんだから、早く休んで。 あなたの気が変わるか、ご両親を説得できたら、また連絡して」 『おやすみなさい』 凪は浩司に反論の隙を与えず、一方的に通話を終了した。 スマートフォンを置き、ふう、と長い息を吐く。 凪は、画面の番号を見つめ、やがてその名前を登録した。 「青木浩司」 スマートフォンを置く。脳裏に、浩司の蒼白く、しかし端正な顔が浮かんだ。 今頃、激怒しているに違いない。 どちらにせよ、できるだけ彼を避け、顔を合わせないに限る。 しかし翌日、青木夫人が使いをよこし、凪を本宅に連れてくるよう命じたのだった。

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