彼女の犠牲、彼の盲目の憎悪
第1章

上司の神宮寺朔(じんぐうじ さく)に、私は彼の婚約者のために骨髄を提供することを強要された。 彼女が、体に傷がつくのを怖がったからだ。 7年間、私は幼馴染だった男のアシスタントを務めてきた。 今では私を憎悪する、その男の。 でも、彼の婚約者、姫川玲奈(ひめかわ れいな)が欲しがったのは、私の骨髄だけじゃなかった。 彼女は、私に消えてほしかった。 彼女は私に、5億円の贈答品を破壊した濡れ衣を着せた。 朔は私に、砕けたクリスタルの破片の上に膝をつかせ、膝が血に染まるまで許さなかった。 彼女は私に、パーティーでの暴行の罪をなすりつけた。 彼は私を逮捕させ、私は留置場で血まみれになるまで殴られた。 そして、私が漏らしたわけでもないセックスビデオのことで彼を罰するため、彼は私の両親を誘拐した。 未完成の超高層ビルのクレーンから、地上数百メートルの高さに両親を吊るし上げ、その光景を私に見せつけた。 私のスマホが鳴る。彼の、冷たく勝ち誇ったような声が響いた。 「もう反省したか、紗良?謝る気になったか?」 彼が話している最中、ロープが、切れた。 両親が、闇へと吸い込まれていく。 恐ろしいほどの静けさが、私を包んだ。 口の中に血の味が広がる。彼が最後まで知ることのなかった、私の病気の症状だ。 電話の向こうで、彼が笑う。 残酷で、醜い笑い声。 「そんなに辛いなら、その屋上から飛び降りればいい。お似合いの結末だ」 「わかった」 と、私は囁いた。 そして、私はビルの縁から、何もない空へと足を踏み出した。 第1章 骨髄を抜き取るための針は、太く、冷たかった。 小鳥遊紗良(たかなし さら)は、無機質な病院のベッドに横たわり、背中を晒していた。 器具は見なかったが、その存在は感じられた。これから訪れる痛みの、確かな予感を。 医師が再び手順を説明する。その声は穏やかだったが、それで現実が和らぐわけではない。 痛みを伴います。かなりの。 神宮寺朔は、窓際に立ち、背を向けていた。 背が高く、私の車より高価なオーダーメイドのスーツに身を包んでいる。 彼は街を見下ろしていた。まるで自らの領地を眺める王のように。 彼の婚約者、姫川玲奈が事故に遭った。彼女が生きるためにはこの移植が必要だったが、彼女は自分の完璧な肌に傷がつくことなど耐えられなかった。 だから、彼は紗良に白羽の矢を立てた。 彼の個人秘書。 金のためなら何でもすると、彼が信じている女に。 針が、皮膚を突き破った。 紗良は唇を強く噛みしめた。鋭い鉄の味が口いっぱいに広がる。 決して声は上げない。 彼を満足させてたまるものか。 針がさらに深く、腰の骨にある骨髄を探して進むにつれて、彼女の体はこわばり、すべての筋肉が悲鳴を上げた。 体の芯を抉るような、鈍い痛みが全身に広がっていく。 彼女は固く目を閉じ、額には汗が滲んだ。 沈黙は守り抜いた。 それが、彼女に残された唯一のものだったから。 永遠とも思える時間が過ぎ、ようやく処置は終わった。 医師は手際よく、しかしどこか他人行儀な手つきで傷口に包帯を巻いた。 紗良はゆっくりと、痛みに耐えながら体を起こす。 背中は鈍く、執拗な痛みで脈打っていた。 震える手で、服を着る。 朔が、ようやく振り返った。 その顔は相変わらず整っていたが、瞳は冷たく、かつて彼女に向けられていた温かさは完全に消え失せていた。 「終わったのか?」 彼の声は、平坦だった。 紗良は頷いた。自分の声が信用できなかった。 ただ、この場を去りたかった。一刻も早く。 「私たちの契約は…」 なんとか、それだけを口にした。声が、かすれていた。 「これで終わりですか?」 彼女が言ったのは、契約のこと。彼女を彼に縛り付ける、歪んだ取り決め。 この仕事。彼のそばにいるという、終わりのない日々の拷問。 朔は誤解した。 あるいは、そうすることを選んだのかもしれない。 彼はスーツの内ポケットから小切手帳を取り出した。 金額を書き込み、それを引きちぎると、彼女に突きつけた。 「ほら」 彼は唇を歪め、嘲るように言った。 「お前の値段だ。お前は昔から、自分の体を切り売りするのが得意だったな、紗良?」 その言葉は、針よりも深く彼女を傷つけた。 彼女は小切手に目を落とし、それから彼の顔を見上げた。 子供の頃から愛してきた顔。 今では、侮蔑以外の何も映さない顔。 差し出されたそれを受け取ろうとする手が、震えていた。 指先が彼に触れると、彼は火傷でもしたかのように手を引いた。 彼女は小切手を受け取った。 お金が必要だった。喉から手が出るほどに。 彼女はそれを丁寧に折り畳んでポケットにしまい、溢れそうな涙を隠すように俯いた。 バッグを手に取り、一言も発さずに部屋を出た。 病院のドアが背後で閉まると、都会の空気が肌に冷たかった。 彼女は壁に寄りかかった。背中の痛みと心の疼きが、一つの耐え難い重荷となってのしかかる。 いつもこうだったわけじゃない。 お金も、憎しみもなかった頃があった。 神宮寺朔が冷酷な億万長者ではなく、ただの朔だった頃。 私の、朔だった頃。 彼は孤児として、私の家族のもとにやってきた。 世界に見捨てられた、物静かで聡明な少年。 小鳥遊家は彼を迎え入れ、実の子のように愛した。 彼は私たちの小さな、幸せな家族の星だった。 私と朔は兄妹のように育ったが、私たちの絆はもっと深かった。 裏庭に二人で植えたプラタナスの木陰で育まれた、誰にも言えない、秘められた恋心。 彼は何でもこなし、偉大な未来を約束された、輝ける少年だった。 紗良は彼の影であり、親友であり、彼の笑顔を守る者だった。 二人きりの時、彼はただ、私の家族を愛し、私を愛してくれる少年だった。 私たちの完璧な世界は、彼の実の父親が現れた日に粉々に砕け散った。 神宮寺巌。 IT業界でその名を知らぬ者はいない。人々を駒としか見なさない、冷酷な巨頭。 彼は優秀な息子を取り戻すためなら、手段を選ばなかった。 彼はまず、紗良の家族を破滅させることから始めた。 両親は不可解な状況で職を解雇された。 善良で正直な父は、犯してもいない暴行罪の濡れ衣を着せられた。 母はひき逃げ事故の被害者となり、その「事故」は彼女の体を蝕み、絶え間ない痛みを残した。 巌は紗良に、不可能な選択を突きつけた。 彼は彼女に、5億円を提示した。 「この金を受け取れ」 感情の欠片もない声で、彼は言った。 「そして息子に、愛していなかったと伝えろ。あいつとの未来より、この金を選んだと。さもなければ、お前の家族がどうなるか…わかるな?」 彼らを守るため、そして朔を父親という毒から守るため、彼女は選択した。 彼女は、命よりも愛した少年の前に立った。 そして、人生で最も残酷な言葉を口にした。 「私、このお金をもらうわ、朔。5億円よ。あなたに、これ以上の価値があるっていうの?」 彼の目に映ったもの――生の、打ち砕かれた絶望――は、彼女が一生背負っていく傷となった。 彼は彼女を信じた。 振り返ることなく去っていった。 金のために自分を裏切った少女への、燃えるような復讐心を胸に抱いて。 7年が過ぎた。 朔は傷心の少年ではなく、自力で億万長者となった男として戻ってきた。 父親よりも冷酷で、非情な男に。 そして、彼は復讐のためにやってきた。 彼は彼女を個人秘書にした。 彼の新しい人生、新しい婚約者、そして彼の終わりのない、創造的な残酷さを最前列で見せるために。 毎日が新たな苦痛であり、彼女の「裏切り」を思い出させる新たな仕打ちだった。 紗良はポケットから小切手を取り出し、その金額を見た。 大金だった。 両親の、かさむ医療費には十分だった。 そして、彼女自身の医療費にも。 朔が知らないこと、誰も知らないこと。 小鳥遊紗良は、死にかけていた。 末期の白血病。 医師は彼女に、数週間、運が良ければ一ヶ月の命だと告げていた。 その金は、彼女にはない未来のためのものではなかった。 残されたわずかな時間で、両親に安らかな暮らしを提供するためのものだった。 彼女は静かな公園へ歩いて行き、ベンチに腰掛けた。 もう一度小切手を見てから、スマホを取り出した。 メッセージアプリを開く。 朔とのチャットが、一番上にピン留めされていた。 彼のプロフィール写真は、冷たい会社のロゴ。 彼女の写真は、今も実家の裏庭にあるプラタtナスの木のままだった。 チャットの履歴は一方的だった。 彼女が打ち込んでは、送れなかったメッセージで埋め尽くされていた。 『朔、今日は雨だね。昔、一つの傘に入ったの、覚えてる?』 『プラタナスの木、すごく大きくなったよ。もうすぐ誕生日だね』 『今日、ニュースで見たよ。疲れてるみたいだった』 それらは、7年間の沈黙と憎しみの深い溝を埋めようとする、小さく、哀れな試みだった。 彼女は新しいメッセージを打ち込んだ。指が、ぎこちなく動く。 『朔、ごめんなさい』 その言葉を、滲む視界で見つめた。 何に対して謝っているのだろう? 彼の心を傷つけたこと? 家族を救ったこと? 今もまだ、彼を愛していること? 彼女はメッセージを消した。 意味がない。どうせ彼には届かない。 何年も前に、ブロックされているのだから。 背中の痛みは、今日という日を絶えず思い出させる、脈打つような疼きだった。 魂の傷が、物理的な形となって現れたかのようだった。 彼の憎しみは、受けるべくして受けているものだとわかっていた。 選択をしたのは、自分なのだから。 でも時々、痛みが彼女を眠らせてくれない真夜中に、こう自問せずにはいられなかった。 彼は私のことを、少しでも思い出してくれただろうか? 本当の私を? 彼と一緒に木に登り、星空の下で夢を語り合った、あの少女を? それとも、私はただの亡霊で、彼が心の中に創り上げた金に汚い怪物に取って代わられただけなのだろうか? 彼女は頭を後ろにもたせ、疲労の波が押し寄せるのを感じた。 白血病は静かな泥棒のように、彼女の体力、呼吸、そして命を奪っていく。 弁護士にはすでに連絡し、彼女が逝った後のことはすべて手配済みだった。 両親のための信託。 ささやかで、静かな葬儀。 奇妙なほどの安堵感があった。 解放感。 戦いは、もうすぐ終わる。 彼女は最後に一度だけ、朔のことを思った。 『愛してる』 その言葉は、もはや信じることもなくなった神への、静かな祈りだった。 『ずっと、愛してた』 『この憎しみをあなたに残したまま、逝かなければならないことを、ごめんなさい』 『これで、おあいこだね、朔。もう、あなたに何の借りもない』 彼女は立ち上がった。体中が軋む。 背中の生々しい傷は、心の古傷とまったく同じように、新しく、そして深く抉られていた。 彼の冷たさには、もう麻痺していた。 それは慣れ親しんだ痛みであり、彼女の日常の一部だった。 彼女は、暗く冷たい海にゆっくりと沈んでいく船だった。 そして、それを止める術は何もなかった。 しかし、沈んでいく中でも、彼女の中の小さく、頑固な一部が、完全に壊れることを拒んでいた。 それは、プラタナスの木の下にいた、あの少年を今も愛している部分だった。 息が詰まるほど深い憎しみと絡み合った、愛。 愛と憎しみ。 それが、彼女に残されたすべてだった。

第2章

一週間後、彼女のスマホが朔からのメッセージで震えた。 「チャリティーオークション。午後8時。帝国ホテル」 それは依頼ではなく、命令だった。 紗良は時間通りに到着した。彼女のシンプルな黒いドレスは、周りのきらびやかなガウンや宝石とは対照的だった。 朔はプライベートブースにいた。競売人が高価なアンティークや美術品を紹介するのを、退屈そうに眺めている。 彼は彼女に気づいても、何の反応も示さない。 ただ、無表情でステージを見つめているだけだった。 次々と品物が通り過ぎていく。 ヴィンテージカー、ダイヤモンドのネックレス、亡き巨匠の絵画。 朔は眉一つ動かさなかった。 その時、競売人が次の品物を披露した。 「そして今夜、真にユニークな逸品が登場です!手彫りのクリスタルの白鳥、一対!永遠の愛の象徴でございます!」 それは美しく、光を受けて無数の小さな虹を放っていた。 その夜初めて、朔は背筋を伸ばした。 その黒い瞳に、興味の光が宿る。 別の男が競りを始めた。 朔は即座に対抗した。 価格はみるみるうちに吊り上がり、すぐに白鳥の本来の価値を上回った。 それは意志のぶつかり合い、朔ともう一人の入札者の間の、力の誇示となった。 「1億円!」 競合相手が叫んだ。 朔はためらわなかった。 「5億」 会場は静まり返った。 もう一人の入札者は首を振り、席に着いた。 競売人は呆然としながらも、木槌を打ち鳴らした。 「落札!神宮寺様が5億円で落札されました!」 彼は朔の方を向き、好奇心に満ちた笑みを浮かべた。 「神宮寺様、差し出がましいようですが、これはさぞかし特別な女性への贈り物なのでしょうな?」 朔の冷たい表情が和らいだ。 彼はテーブルのマイクを手に取り、その滑らかで深い声がボールルームに響き渡った。 「婚約者の玲奈へ贈るものだ」 そう言うと、彼の唇に温かい笑みが浮かんだ。 それは、紗良が7年間見ていなかった笑顔だった。 「彼女は、私の人生で最も大切な存在だ。彼女のためなら、どんな代償も惜しくない」 会場は拍手に包まれた。 紗良は心臓が締め付けられるのを感じた。 一つ一つの言葉が、彼女を打ちのめす。 彼は観衆のために演じている。だが、そのメッセージは彼女に向けられたものだった。 彼女が失ったもの、金のために投げ捨てたものを、これでもかと見せつけるための、もう一つの方法。 彼女は今、自分の居場所を悟った。 自分は彼の過去を思い出させる存在であり、彼がその残酷さを研ぎ澄ますための砥石に過ぎないのだと。 それ以上でも、それ以下でもない。 朔が席を立とうとした時、次の品物がステージに運び込まれた。 それは、大きな布で覆われた檻だった。 競売人の声が響き渡る。 「そして、今夜最後にして最もスリリングな逸品…壮麗なる、純血のチベタン・マスティフです!」 布が引き剥がされた。 中には、夜のように黒い巨大な犬がいた。その目は、燃える石炭のようだ。 檻の格子に体を押し付け、牙を剥き出しにして唸っている。 それはペットではなく、獣だった。 観衆の間に、不安などよめきが走った。 突然、バキンという大きな音と共に、檻の掛け金の一つが壊れた。 犬がドアに体を叩きつけると、ドアが勢いよく開いた。 混乱が勃発した。 巨大な犬がステージから飛び降りると、人々は悲鳴を上げて逃げ惑った。 それは、黒い毛皮と唸り声の塊だった。 そして、まっすぐに朔に向かってきた。 時間が、ゆっくりと流れるように感じられた。 考えるより先に、紗良の体が動いていた。 彼の前に、身を投げ出していた。 「朔、危ない!」 犬が彼女に激突し、その重みで地面に倒された。 信じられないほどの灼熱の痛みが走る。犬の牙が、彼女の腕に食い込んだ。 彼女は、生の、恐怖に満ちた悲鳴を上げた。 もう片方の腕を犬の太い首に回し、引き離そうとしたが、あまりにも力が強い。 犬は頭を振り、彼女の肉を引き裂いた。 「紗良!」 朔が彼女の名前を叫ぶのが聞こえた。 彼が侮蔑以外の感情を込めてその名を呼んだのは、何年ぶりだろうか。 その声に、一瞬、パニックが聞こえた。 恐怖が、聞こえた。 彼が動くのが見えた。 彼女と獣の間に割って入ろうと、その体を盾にしている。 警備員たちが殺到し、ようやく犬を彼女から引き離した。 彼女の腕は、血と破れた布で無惨な状態だった。 痛みは凄まじく、世界がめまいと共に黒く染まっていく。 彼女は崩れ落ち、その頭は朔の膝の上に着地した。 意識を失う前に最後に見たのは、彼の顔だった。 青ざめ、こわばり、その黒い瞳は、彼女には名付けようのない感情で見開かれていた。 彼女が目を覚ますと、そこは病院の一室だった。 消毒液の匂いが鼻をつく。 腕には分厚い包帯が巻かれ、もう片方の手には点滴の針がテープで留められていた。 朔が、ベッドのそばの椅子に座っていた。 彼は疲れ果てているように見えた。いつも完璧なスーツはしわくちゃで、顎には無精髭が生えている。 彼女の目が開いたのを見ると、彼の瞳に光が灯った。 「目が覚めたか」 彼の声は、荒々しかった。 彼は立ち上がってベッドに近づき、カルテを手に取った。 「医者が言っていた。かなりの量の血を失ったそうだ。貧血がひどいと」 貧血。 彼はそう思っている。 紗良は彼の手からカルテを奪い取ろうとしたが、その動きで腕に激痛が走った。 彼女が顔をしかめた、その瞬間、それが見えた。 彼の、手の甲。 そこには、真新しい絆創膏と、小さな穿刺痕があった。 注射の、跡。 看護師が、明るい笑顔で入ってきた。 「あら、よかった、目が覚めたんですね!本当に優しいパートナーさんですね。一晩中付き添ってくださって、血液バンクの在庫が少なくなった時も、ご自分で輸血してくださったんですよ」 紗良は衝撃を受け、彼を見つめた。 彼が、彼女に血を。 彼を見上げると、彼はさっと顔を背け、彼女の視線を避けた。 看護師は続けた。 「事務手続きのために、いくつか確認させてください。こちらの方、パートナーさんでよろしいですよね?」 「いいえ」 紗良の声は、静かな部屋に、はっきりと、そして固く響いた。 「違います」 「私の上司です。神宮寺様」 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。 朔の頭が、彼女の方へ勢いよく戻る。その顔は暗く、束の間の温かさは消え去り、見慣れた氷の仮面が戻っていた。 看護師は突然の緊張を察し、そそくさと部屋を出て行った。 「上司?」 朔は、危険なほど低い声で繰り返した。 「俺がお前にとって、それだけの存在だと?」 彼は一歩近づき、その影が彼女を覆った。 「なぜだ、紗良?なぜ俺の前に飛び出した?」 彼の目は彼女の目を捉え、答えを要求していた。 「もっと大きなボーナスが欲しかったか?それとも、もっと良い人事評価か?お前にとっては、すべてに値段がつくんだろう?」 その問いはあまりにも不当で、あまりにも残酷で、彼女は言葉を失った。 苦いものが、喉の奥からせり上がってくる。 彼の命を救ったばかりなのに。 これが、彼の答えだった。 二人の間に、重く、息の詰まるような沈黙が流れた。

第3章

紗良は目を閉じ、病院の毛布の端を握りしめた。 「仕事ですから」 彼女は、かすれた声で言った。 「秘書として、あなたの安全を守るのは私の責任です」 彼女はもう一度言った。 彼自身が築き上げた、二人の間の壁を補強するように。 プロフェッショナルとしての、境界線を。 「それだけです」 朔の顔はさらに暗くなった。 今にも破裂しそうな嵐雲のようだ。 「仕事、か」 彼は、皮肉に満ちた言葉を繰り返した。 「そうか」 彼は財布を取り出し、分厚い一万円札の束を彼女のベッドサイドテーブルに投げつけた。 現金が、白いシーツの上に散らばる。 「なら、これは報酬だ」 彼は嘲笑した。 「よくやったな。お前は昔から金に汚かったな、紗良?かつて5億円を欲しがった時のことを思い出す」 その金額、彼女の裏切りの値段に言及されたことは、平手打ちのようだった。 彼は返事を待たなかった。 踵を返し、部屋を出て行った。 高価なコロンの香りと、彼の侮蔑の重さを残して。 数日後、退院した紗良は、オークションに関する最後の任務を命じられた。 5億円のクリスタルの白鳥を、朔の屋敷にいる姫川玲奈に直接届けなければならなかった。 玲奈は満面の笑みと偽りの気遣いで、彼女を玄関で迎えた。 「紗良さん!わざわざ持ってきてくれてありがとう。まあ、腕が痛々しいわ!まだ痛むの?」 「大丈夫です」 紗良は、頭を下げて言った。 俯いた時、玲奈の目が純粋な、混じりけのない憎悪に閃くのが見えた。 それは一瞬で消え、甘い笑顔に戻った。 「素敵だわ」 玲奈は重い箱を受け取りながら、うっとりと言った。 「朔様は本当に優しいの」 そして、彼女が振り返った瞬間、その手が「滑った」。 箱は、大理石の床に叩きつけられた。 不快な破壊音が、壮大な玄関ホールに響き渡る。 紗良は衝撃で顔を上げた。 5億円もした、永遠の愛の象徴である美しいクリスタルの白鳥が、今やキラキラと輝く破片の山と化していた。 玲奈の甘い仮面は消え去り、勝ち誇ったような悪意に満ちた表情に変わっていた。 ちょうどその時、物音に気づいた朔が入ってきた。 彼は床に散らばったクリスタルの破片を見て、即座に顔を硬くした。 「何があった?」 彼は、紗良に視線を固定して問い詰めた。 「紗良さんが…」 玲奈は、声を震わせ、泣き始めた。 「わざとじゃないって、わかってるの…」 「私は触っていません!」 紗良はパニックに陥りながら、必死に説明しようとした。 「彼女が落としたんです!」 朔の視線は、氷のようだった。 「これは玲奈への贈り物だった。俺たちの愛の象徴になるはずだったものだ」 彼は前へ進み出て、紗良の怪我をしていない方の手首を掴んだ。その握力は、鉄のようだった。 「お前は、何を壊せば気が済むんだ?俺の人生にある美しいものを、すべて破壊しなければならないほど、嫉妬深く、ひねくれているのか?」 「違う!朔、聞いて…」 しかし、玲奈のすすり泣きはさらに大きくなった。 傷心の被害者を演じる、見事なパフォーマンスだった。 「朔様、彼女を怒らないであげて。事故だったのよ。きっと、彼女も謝りたいと思ってるわ」 朔は、涙に濡れた玲奈の顔から、紗良の顔へと視線を移した。 彼の決断は、すでに下されていた。 「謝れ」 彼は、鋼のように冷たい声で命じた。 「膝をついて、玲奈に謝れ」 紗良は恐怖に震えながら、彼を見つめた。 「何?いや!玄関には防犯カメラがあるはずです。映像を確認してください!何が起こったかわかります!」 玲奈のすすり泣きが一瞬止まり、その目に恐怖の色がよぎった。 だが、すぐに彼女は落ち着きを取り戻した。 彼女は、紗良が知らない何かを知っていた。 二人の大柄なボディガードが前に進み出て、紗良の肩を掴んだ。 「神宮寺様」 一人が、平坦な声で言った。 「玄関のセキュリティシステムは、今朝からメンテナンスのため停止しております」 もちろん、そうだろう。 ボディガードたちは、彼女を無理やり跪かせた。 彼女の膝は、砕けたクリスタルの破片の上に直接着地した。 静かなホールに、鋭い、軋むような音が響き、続いて足から突き上げるような灼熱の痛みが走った。 彼女は、苦痛に満ちた息を詰まらせ、叫び声を上げた。 彼女は懇願するように、朔を見上げた。 彼は、彼女のズボンから血が滲み始めるのを見た。 彼は、彼女の顔に浮かぶ苦痛を見た。 そして、何もしなかった。 彼は玲奈を信じた。 彼は、これからもずっと玲奈を信じるだろう。 「謝れ」 彼は、以前よりもさらに冷たい声で繰り返した。 「そして、弁償しろ。5億円だ。お前の退職金から差し引いておく」 退職金。 彼は、彼女を解雇するつもりなのだ。 膝の痛みは、心の痛みに比べれば何でもなかった。 涙が顔を伝い、床の血と混じり合った。 彼女は玲奈を見た。玲奈は今、手の後ろに小さな、勝ち誇った笑みを隠していた。 「ご…ごめんなさい」 紗良は、口の中で灰のような味のする言葉を、なんとか絞り出した。 「誠意が足りないみたいね、朔様」 玲奈は、残酷な猫なで声で言った。 「もう少し、自分のしたことを反省する必要があるんじゃないかしら」 玲奈は大きなガラスのドアまで歩いて行き、それを開けた。 外では空が暗くなり、突然の嵐が荒れ狂い始めていた。 雨が激しく降りつけ、風が唸りを上げている。 「外で跪かせましょう」 玲奈は提案した。 「私が、彼女が本当に反省したと感じるまで」 朔は、自らの血の海に跪く紗良を見て、それから婚約者を見た。 彼は頷いた。 「そうしろ」 ボディガードたちは彼女を外へ引きずり出し、冷たく濡れたベランダの石の上に跪かせた。 雨はすぐに彼女をずぶ濡れにし、薄いドレスを肌に貼り付けた。 彼女は震えた。冷気が、骨の髄まで染み渡る。 膝の痛みは、白く燃える炎のようだった。 ガラスのドア越しに、朔が玲奈の肩に優しく毛布をかけ、慰めの言葉を囁いているのが見えた。 紗良は目を閉じた。心が、遠のいていく。 何年も前の、別の嵐を思い出した。 雷を怖がる彼女を、朔は抱きしめ、いつも守ってやると言ってくれた。 彼女は目を開けた。 記憶は消え去った。 残っているのは、冷たい雨と、無関心なボディガードたち、そして今や見知らぬ他人となった男だけだった。 彼女の涙は雨と混じり、膝から流れる血を石段へと洗い流していった。 彼女は一人だった。 まったく、完全に、一人だった。

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