契約の花嫁:ソーンの贖罪
第1章

消毒液の匂いが充満する無菌の静寂のなか、私は横たわっていた。 その腕に抱くことさえ叶わなかった、我が子を悼みながら。 誰もがこれを悲劇的な事故だと言った。 足を滑らせて、転んだだけだと。 でも、私には分かっていた。夫に突き飛ばされた、その真実を。 ようやく健司が面会にやってきた。 彼が持ってきたのは花束ではなく、アタッシュケースだった。 中に入っていたのは、離婚届と秘密保持契約書。 彼は冷静に告げた。彼の愛人――私の友人だった女が、妊娠したのだと。 これからは、そっちが彼の「本当の家族」になる。だから、いかなる「不愉快」もあってはならない、と。 彼は、私が精神的に不安定で危険な人間であるかのように捏造した精神鑑定書を使い、私を脅した。 「サインしろ、詩織」 彼の声には、何の感情もこもっていなかった。 「さもないと、この快適な病室から、もっと…警備の厳重な施設に移ってもらうことになる。長期療養のための施設にな」 私が愛した男の顔に、怪物の姿が重なった。 これは悲劇なんかじゃない。 私の人生そのものを乗っ取る、冷酷な企業買収だ。 私が子供を失っている間に、彼は弁護士と会っていたのだ。 私は悲しみに暮れる妻ではなく、処理されるべき負債であり、断ち切られるべき厄介事だった。 私は、完全に、どうしようもなく、閉じ込められていた。 絶望が私を飲み込もうとした、その時。 両親が生前お世話になっていた弁護士が、過去からの亡霊のように現れた。 彼女は重厚で、装飾的な鍵を私の手のひらに押し付けた。 「あなたのご両親が、逃げ道を遺してくださったのよ」 彼女は決意に満ちた目で、そう囁いた。 「今日のような日のために」 その鍵が導いたのは、忘れ去られた契約書。 数十年前に、私たちの祖父たちが交わした約束。 それは、鉄の掟にも等しい婚約契約。 私を、夫が死ぬ以上に恐れる唯一人の男と結びつけるものだった。 冷酷非道で謎に包まれた億万長者、九条院玲と。 第1章 その腕に抱くことさえ叶わなかった命の幻影が、消毒液の匂いが充満する無菌の静寂のなかで、私を苛んでいた。 お腹の奥深くが、幻のように痛む。 かつて希望があった場所には、空虚な空間が広がっているだけ。 糊のきいた薄いシーツからは消毒液の匂いが染みつき、息を吸うたびに、その化学的な鋭さが喉を削るようだった。 密閉された窓の外では、東京の街が灰色の雨と鈍い光に滲んでいて、まるで百万マイルも離れた世界のようだった。 私の世界は、この四つの白い壁と、リズミカルに、そして見下すように鳴り響く心電図モニターのビープ音、そして残酷なまでに無限に繰り返される記憶だけに縮んでしまった。 鋭い衝撃。突き飛ばされた。 滑らかな大理石の床が、私に迫ってくる。 健司の顔は、心配そうに私に向けられてはいなかった。 彼は「彼女」の方を向いていた。私の友人だった女を、その腕で庇うように抱きしめて。 ようやく床に崩れ落ちた私に向けられた彼の瞳には、愛も、パニックもなかった。 ただ、冷たく、恐ろしいほどの無関心。 そして、苛立ち。 私は、彼の幸福への道を塞ぐ障害物だったのだ。 その記憶は、心に突き刺さったガラスの破片だった。 瞬きするたびに、それはさらに深くねじ込まれる。 医者たちは悲劇的な事故だと言った。足を滑らせて転んだだけだと。 でも、私には真実が分かっていた。私は、捨てられたのだ。 ドアがカチリと音を立てて開き、私は過去の泥沼から引き戻された。 ビクッと体が震え、心臓が檻の中の鳥のように肋骨を激しく打ちつける。 どうか、親友の沙耶であってほしい。温かい笑顔と、こっそり持ち込んだチョコレートバーと一緒に。 でも、そこにいたのは健司だった。 彼は花束を持っていなかった。 持っていたのは、滑らかな革のアタッシュケース。 彼はドアのそばに立っていた。完璧に仕立てられたスーツを着た、見知らぬ男。 その深いチャコールグレーの生地は、部屋の光をすべて吸い込んでしまうかのようだった。 彼からは、高級なコロンと、通り抜けてきたばかりの雨の匂いがした。 彼はベッドに近づこうとはしなかった。 心の声が叫んでいた。 (謝る気なんてない。見て。彼は私じゃなくて、機械を見てる。計算しているんだわ) 「詩織」 彼が口を開いた。その声は、彼がビジネスの取引をまとめる時に使うのと同じ、滑らかで理性的なトーンだった。 かつては安心感を覚えたその声が、今では肌を粟立たせた。 私は何も言わなかった。喉は砂漠のように乾き、舌は鉛のように重い。 ただ彼を見つめ、唯一の盾である薄い毛布を指で握りしめた。 彼は柔らかく、しかし決定的な音を立ててアタッシュケースを開けた。 書類の束を取り出し、ベッド脇の可動式テーブルの上に、無機質な音を立てて置いた。 一番上のページには、冷たく、太い文字でこう書かれていた。 『離婚合意書』 「条件は寛大なものだと思う」 彼はそう言って、ようやく私と視線を合わせた。 その眼差しは平坦で、感情が欠落していた。 顎は固く引き締められ、耳の近くの小さな筋肉がぴくぴくと痙攣している。 彼は焦れていた。早くこれを終わらせたがっていた。 「寛大?」 その言葉は乾いたかすれ声となって、私の喉から這い出た。まるで他人の声のようだった。 「あなたは、私たちの赤ちゃんを殺したのよ、健司」 一瞬、彼の顔に何かがよぎった。 罪悪感ではない。後悔でもない。 苛立ち。純粋で、混じりけのない、激しい怒りだった。 「あれは事故だ、詩織。医者もそう認めている」 彼の声は低くなり、危険なほど柔らかくなった。 「それに、君はあれ以来…ずっと体調が悪い。精神的にも不安定だ。こうする方がお互いのためなんだ」 彼はもう一枚の書類をテーブルの上で滑らせた。 秘密保持契約書。 法律用語を拾い読みするうちに、私の血の気が引いていった。 私は彼について、彼のビジネスについて、そして彼の…新しい家族について、一切口外してはならない、と。 「僕には、本当の家族がいるんだ」 彼は続けた。その言葉は毒矢のようだった。 「亜美は妊娠している。僕たちは、いかなる不愉快も避けなければならない。君がこれにサインすれば、君の面倒は見る」 私は彼を睨みつけた。彼の計算され尽くした裏切りの、その残酷さの全貌が、私に襲いかかってきた。 これは悲劇なんかじゃない。私の人生そのものを乗っ取る、企業買収だ。 私は、処理されるべき負債だった。 (彼はこれを計画していたんだ。私が血を流している間に、私たちの子供を失っている間に、彼は弁護士と会っていた。彼は彼女を守っていた。『本当の』家族を) その考えはあまりに卑劣で、あまりに醜悪で、吐き気の波がこみ上げてきた。 「もし、サインしなかったら?」 私は囁いた。戦う気力はもうなく、胃の中には冷たく硬い絶望の石だけが残っていた。 健司はわずかに身を乗り出し、テーブルの端を握る指の関節が白くなった。 紳士的な仮面が、滑り落ちた。 「それなら、選択肢はない」 彼の声は、毒を含んだ шипение のようだった。 「僕には報告書がある。非常に信頼できる医者たちからのな。彼らは皆、君が妄想やパラノイアに苦しんでいると言っている。自分や他人に対して危険な存在だと。この快適な病室から、もっと…警備の厳重な施設に移されるのを見るのは、残念なことだろうな。長期療養のための施設に」 その脅迫は、濃密で息苦しい空気となって部屋に垂れ込めた。 彼は私を精神病院に閉じ込めるつもりだ。 私を消し去り、狂人として描き出し、全てを奪って去っていくのだ。 私の夫。私の未来。私の正気。 残っているとは思わなかった涙が、熱く、静かにこめかみを滑り落ち、髪の中に消えていった。 私は閉じ込められた。完全に、どうしようもなく、打ちのめされて。 彼は私の降伏を見て取った。 ネクタイを締め直し、完璧な落ち着きを取り戻した。 「明日の朝、僕の弁護士がサインをもらいに来る。ゆっくり休め、詩織」 彼は背を向けて歩き去った。 ドアが柔らかく、しかし最終的なクリック音を立てて閉まる。 それは、私の人生が砕け散る音と重なった。 私は、彼が残した静寂の中で、永遠に続くかのような時間、溺れるように横たわっていた。 モニターのビープ音だけが、私がまだ生きていることの証明だった。 私には何もない。いや、何もないどころか、それ以下だ。 私は解決されるべき問題であり、断ち切られるべき厄介事だった。 空から最後の光が消えようとした、その時。 柔らかいノックの音がした。ドアが再び開く。 私は目を固く閉じ、次なる一撃に備えた。 「詩織さん?」 その声は優しく、女性的で、聞き覚えがあった。 目を開けると、そこに立っていたのは、親切そうな目をした、銀髪をきちんとまとめた年配の女性だった。 葛城先生。両親の弁護士だった人で、もう何年も会っていなかった。 彼女が持っていたのはアタッシュケースではなく、使い古された革のサッチェルバッグだった。 部屋が、少しだけ暖かくなった気がした。 彼女は私のベッドサイドに歩み寄り、その表情には同情と決意が入り混じっていた。 彼女の冷たく乾いた手が、私の腕にそっと置かれた。 ここ数日で感じた、初めての優しい感触だった。 「何があったか、聞きました」 彼女は静かに言った。その視線は、私の打ちひしがれた状態の全てを見抜いていた。 「そして、あの…男が先ほどまでここにいたことも」 彼女は「男」という言葉を、何か汚らわしいものでも言うかのように口にした。 彼女はサッチェルバッグを開け、一本の、装飾的で古風な鍵を取り出した。 真鍮製で重く、シンプルな革のフォブがついていた。 「あなたのご両親は素晴らしい方々でした、詩織さん」 彼女の声は、落ち着いていて、確かだった。 「そして、人の本質を見抜く天才でもありました。彼らは、いつか狼が羊の皮を被って現れるかもしれないと、予見していたのです」 彼女は鍵を私の手のひらに押し付け、私の指をその周りで閉じさせた。 金属が肌に冷たく触れた。 「ご両親は、あなたに逃げ道を遺してくださった」 彼女は囁き、その目は私の絶望を貫くほどの強さで、私を捉えた。 「この鍵は、帝都中央銀行の貸金庫を開けるものです。中には、契約書が入っています。あなたが想像する以上の力を持つ契約書が。健司さんなどが夢にも思わないほどの力を」 彼女は最後にもう一度、私の手を握りしめた。 「ご両親は、あなたが決して本当に閉じ込められることがないように、手を打ってくださったのですよ。さあ、行って。それを使うのです」 彼女は来た時と同じように静かに去っていった。 残されたのは、私の手の中にある鍵の重みと、息が詰まるような暗闇の中に差し込んだ、恐ろしくも、ありえないほど微かな、一本の希望の光だった。

第2章

その脱出は、まるで熱に浮かされた夢のようだった。 健司が訪れた後、私の目に浮かんだ恐怖を見た、佐藤さんという名の心優しい夜勤の看護師が助けてくれた。 彼女は、私には大きすぎる、誰かが脱ぎ捨てたスクラブを見つけてきてくれ、私が通用口から東京の夜明け前の冷気の中に滑り込むのを、見て見ぬふりをしてくれた。 空気は鋭く湿っていて、雨と排気ガスの味がした。 病院の再利用された無菌の空気の後では、それは私の体に衝撃を与えた。 遠くで鳴り響くサイレンの音、濡れたアスファルトを滑るタイヤの音、そして狂ったように打つ自分の心臓の鼓動。全ての音が拡大されて聞こえる。 私はポケットの中の真鍮の鍵を握りしめた。その硬い縁が、痛みを伴いながらも、確かにそこにあることを教えてくれる。 それが、私に残された唯一の現実だった。 帝都中央銀行は、花崗岩と大理石でできた古く、威圧的な建物で、古くからの金と秘密の神殿のようだった。 手がひどく震えて、アクセス票に自分の名前をほとんど書けなかった。 退屈そうな目をした、高橋という名の若い行員は、気づいていないようだった。 彼に導かれて金庫室に入ると、巨大な円形の扉が重く、最終的な音を立てて背後で閉まるにつれて、空気は冷たく、静かになった。 貸金庫は細長い形をしていた。 中には、色褪せた黒いベルベットの上に、一通の、厚い羊皮紙の封筒が置かれていた。 濃い赤色の蝋で封印されている。 倉田家の家紋。両親の葬儀以来、見ていなかった家紋だった。 恐怖とアドレナリンが入り混じり、不器用になった指で、封蝋を破った。 中の文書は重く、紙は古びてパリパリしていた。 書体は古風で、解読が難しい形式的な法律用語で書かれていた。 しかし、冷たく、現代的なフォントでタイプされた名前は、見間違えようがなかった。 私の名前、倉田詩織。 そして、もう一つの名前。 その名前は、私の息を呑ませた。 九条院玲。 (何?) その名前が、頭の中で響き渡った。 九条院玲。 悪名高いほど冷酷で、桁外れに裕福で、そして病的なほど世間から姿を隠している、九条院グループのCEO。 彼は東京のエリート界における幻影であり、健司が必死に相続しようとしている橘ホールディングスの、直接的で熾烈なライバルだった。 彼は伝説であり、鮫であり、亡霊だった。 そして、今、私の震える手の中にある、鉄の掟にも等しい、法的に拘束力のある文書によれば、彼は私の婚約者だった。 それは、数十年前に私たちの祖父たちが交わした、あらかじめ取り決められた婚約契約だった。 それぞれの初孫同士を結びつけるという約束。 それは、二つの強力な一族を統合するための、王朝的な同盟だった。 インクと法律で封印され、時とともに忘れ去られていた約束が、今、ここに。 (これが葛城先生の言っていたことだわ。健司が夢にも思わないほどの力を持つ契約書) その大胆さ、その中世的な奇妙さに、私は圧倒された。 両親は私に命綱を遺してくれた。しかし、それは巨大な海獣に繋がっていた。 私は契約書を握りしめ、混乱した頭で銀行からよろめき出た。 灰色の朝の光が、きつく、ざらざらと感じられる。 街は目覚め始め、通りは普通の生活、普通の問題を抱えた人々で溢れかえっていた。 彼らは怪物から逃げているわけでも、神話の人物との婚約契約書を握りしめているわけでもない。 その時、彼らを見た。 通りの向こう側、黒いセダンのそばに立つ、黒いスーツの男が二人。 彼らは目立たないようにしようとしていたが、その視線は鋭すぎ、その静止はあまりに捕食者のようだった。 一人が電話を耳に当て、その目はまっすぐに私を捉えていた。 健司の手下だ。 彼は待っていなかった。すでに私を狩り始めていたのだ。 冷たく鋭いパニックが、私を襲った。 脳が命令を出す前に、足が動き出していた。 私は走った。 朝の雑踏に飛び込み、病院支給のスニーカーが濡れた歩道を叩く。 人々の怒鳴り声を無視して、彼らを押し分けた。 スクラブは粗末な変装で、私が場違いな人間であること、逃げている人間であることを示していた。 (考えろ、詩織、考えろ!どこへ行けばいい?) 沙耶のアパートは、彼らが真っ先に探す場所だろう。 ホテルには身分証明書とクレジットカードが必要だが、どちらも病院の私のハンドバッグの中だ。 私は、何の手段も持たない幽霊だった。 追跡は、店のショーウィンドウと人々の顔のぼやけた連続だった。 ちらりと肩越しに振り返る。 彼らは近づいていた。恐ろしいほど、運動能力に優れた動きで。 彼らは追いついてきている。 肺が焼けるように痛い。 まだ弱く、回復途中の体が、抗議の悲鳴を上げていた。 絶望が、パニックの縁を侵食し始める。 彼らに捕まる。 引きずり戻され、健司は脅迫を実行するだろう。 鍵のかかった部屋、永遠に沈黙させられるイメージが、私を前に進ませた。 その時、それが見えた。 他のビル群の上に、黒曜石の刃のようにそびえ立つ、権力と野心の記念碑。 九条院グループの本社ビル。 それは狂気の沙汰だった。 絶望的な、最後の賭け。 しかし、それは東京中で、健司が容易に手を出せない唯一の場所だった。 それは、ドラゴンの巣。 そして私は、ドラゴン自身からの招待状を手にしていた。 最後の力を振り絞り、私は広々とした、風の吹き抜ける広場を横切り、光り輝くガラスと鋼鉄のエントランスに向かって疾走した。 背後の二人の男が叫び、全力疾走に切り替えた。 私は回転ドアを突き破り、商業の聖堂のように広大で豪華なロビーに飛び込んだ。 床は磨かれた黒い大理石で、吹き抜けの三階建ての天井を映し出していた。 空間の中央には、ブロンズと鋼鉄の巨大な抽象彫刻が鎮座している。 空気は金の匂いがした。清潔で、無菌で、ほのかに心地よい、おそらくは白茶のような香りがした。 完璧なスーツを着た男女が、静かで効率的な目的を持って動き、その声はひそやかだった。 私の、薄青いスクラブを着たみすぼらしい姿、乱れた髪、パニックに陥った呼吸――その全てが、この静かで完璧な世界を、きしむ音を立てて停止させた。 厳しい顔つきの、山のような体格の警備員が、すぐに私を止めようと動いた。 「奥さん、ここに入ってはいけません」 「九条院玲さんに会わせてほしいんです」 私は息を切らしながら、かすれた声で言った。 彼は短く、ユーモアのない笑い声を上げた。 「そうでしょうね。あなたも、他の皆さんも。出て行ってください。今すぐに」 彼が私の腕を掴もうとした。 私を追っていた男たちが、今やドアのところにいたが、別の警備員に一時的に阻まれている。 時間がなかった。 私の絶望は、生の、原始的な叫びとなって爆発した。 「九条院玲!」 その声は、洞窟のような空間に響き渡った。 全ての頭が振り向いた。全ての会話が止まった。 その後に続いた沈黙は、絶対的で、衝撃に満ちていた。 警備主任の顔が硬くなった。 「もういい。出ていけ」 「いや!」 私は叫び、手の中の文書を必死で探った。 私はそれを掲げた。厚い羊皮紙が震えている。 「契約書があるんです!彼との…婚約契約書が!」 私の主張の、そして私の姿の、その馬鹿馬鹿しさが、空中に漂った。 周りの人々の顔に、同情と不信が見て取れた。 彼らは私が狂っていると思った。 たぶん、私は狂っていたのかもしれない。 そして、変化が起きた。 ロビーに、集団的な息を呑む音がさざ波のように広がった。 アトリウムの遠端にある、壮大で浮遊するような階段の近くに立っていた人々が、モーゼの前の紅海のように分かれた。 私は彼らの視線を追って、上を向いた。 階段の頂上に、一人の人物が立っていた。 背後の巨大な窓を背に、シルエットになっている。 彼は背が高く、第二の皮膚のように完璧に裁断されたスーツを着ていた。 この距離からでも、彼から放たれる力は palpable だった。 それは静けさであり、一言も発することなく空間全体を支配する、内に秘めた強さだった。 彼は階段を下り始めた。その動きは流れるようで、計算されていた。 彼が近づくにつれて、その顔立ちがはっきりしてきた。 鋭く、貴族的な頬骨、強い顎、そして黒い髪。 しかし、私を虜にしたのは、彼の目だった。 それは驚くほど、氷のような灰色で、アトリウムの向こう側から、私の目に釘付けになっていた。 怒ってもいないし、驚いてもいない。 それは、評価し、分析し、そして全く、恐ろしいほどに冷たい目だった。 九条院玲。 神話の男。 私の未来をその手に握る男。 そして、その氷のような眼差しには、一片の既視感もなかった。

第3章

九条院玲のオフィスの静寂は、彼自身と同じくらい絶対的で、心をかき乱すものだった。 そこは彼を完璧に反映した空間だった。ミニマリストで、力強く、そして個人的な温かみが一切ない。 壁の一面は床から天井までの窓で、東京の神のような眺めを提供していた。雨に濡れた通りやビルが、地図のように広がっている。 他の壁はむき出しで、厳しいギャラリーホワイトに塗られていた。 家具は、ダークで磨かれた木製の巨大なデスクと、二脚の革張りの椅子だけ。 空気は古い革と高価なインク、そして建物の奥深くにあるサーバーから発せられるかすかなオゾンの清潔な匂いがした。 私は椅子の一脚に座っていた。冷たい革が、スクラブの薄い生地に張り付く。 嵐の中から拾われてきた野良犬が、高価な絨毯の上に滴を垂らしているような気分だった。 羊皮紙の契約書が、私たちの間のデスクの上に置かれていた。この現代性の神殿における、奇妙で古代の遺物。 玲は私の向かいに座り、文書ではなく、私を見ていた。 彼の氷のような灰色の目は容赦なく、私の防御を一枚一枚剥ぎ取っていく。 彼がロビーで呆然と見つめる群衆をたった一つの鋭い仕草で退け、エヴリンという名の厳格そうな秘書に私をプライベートエレベーターで案内させて以来、彼は一言も発していなかった。 私の心臓はまだ、肋骨に対して狂ったようなリズムを刻んでいた。 (何か言って。何でもいいから。怒ってるの?追い出すつもり?彼は一瞥でガラスを粉々にできそうだわ) 私は膝の上で手を組み、指の関節が白くなった。 ついに、彼は契約書を手に取った。 彼の長く、優雅な指が、驚くほど繊細に古い紙を扱った。 彼はゆっくりとそれを読み、その表情は読み取れなかった。 聞こえるのは、羊皮紙の柔らかな擦れる音と、窓に静かに、そして執拗に打ちつける雨音だけ。 彼の顎は固く、集中を示す硬い線を描いていた。 驚きも、衝撃もなく、ただ静かで、強烈な集中力だけがあった。 永遠に感じられる時間の後、彼は文書をデスクに戻し、端に完璧に揃えた。 「私の法務チームがこれを確認する必要がある」 彼の声は低く、響き渡るバリトンで、ロビーの大理石のように冷たく滑らかだった。 「だが、祖父の署名には見覚えがある。本物のようだ」 私は、自分が息を止めていたことに気づき、息を吐き出した。 「本物です」 彼は椅子の背にもたれかかり、革が柔らかくうめいた。 指を組み、その視線は私をその場に釘付けにした。 「それで、倉田さん。私に何を望む?」 その質問は氷の塊だった。 彼は契約書に何が書かれているか知っている。 彼は私を試しているのだ。 (彼はお金目当てだと思っている。これはゆすりだと思っているんだわ) その考えが胸を刺し、私の恐怖に新たな屈辱の層を加えた。 「保護を」 私の声は震えていたが、はっきりしていた。 「私の…夫、健司が、私を精神科施設に強制入院させようとしています。今も、彼の手下が私を探しています。この契約書が…私にとって唯一の希望でした」 玲の目が、ほとんど気づかないほどに細められた。 「橘ホールディングスの、健司か」 それは質問ではなかった。彼は私の夫が誰であるか、正確に知っていた。 もちろん、知っているだろう。彼らはライバルなのだから。 「はい」 私は囁いた。 彼はもう一度、長い沈黙を守った。その視線は、私の乱れた姿――安物のスクラブ、目に浮かぶ野生的な恐怖――をなぞった。 彼は計算していた。私には想像もつかない変数を、天秤にかけていた。 「契約は履行しよう」 彼は言った。その言葉は、裁判官の判決のような最終性をもって告げられた。 安堵の波が私を襲い、頭がくらくらした。 「しかし」 彼は続けた。その声はさらに低くなった。 「この取り決めの条件については、完全に明確にしておこう。私は君に私の名前を与える。絶対的な保護を提供する。誰も君に手出しはさせない。その見返りとして、君は公の場で九条院夫人としての義務を果たす。君は名目上の妻であり、それ以上でもそれ以下でもない。これは取引だ。愛情を期待するな。友情を期待するな。それ以上のものは何も期待するな。理解したか?」 彼の提案の冷たさは、顔を平手打ちされたようだったが、それは私が歓迎する平手打ちだった。 それは正直だった。 健司の息苦しい嘘の網の後では、玲の残酷なまでの明快さは、奇妙で、苦い種類の安堵だった。 彼は見せかけをしていなかった。 彼は檻を提供していたが、それは安全な檻だった。 「理解しました」 私は、かろうじて囁くような声で言った。 私には他に選択肢がなかった。 彼は一度、鋭く、決定的な動きで頷いた。 インターホンのボタンを押す。 「エヴリン、婚姻届を持ってきてくれ。それから、法務チームに30分後に区役所で会うように伝えろ」 事が進んでいる。 本当に、進んでいる。 数時間のうちに、私は病院の囚人から、九条院玲の婚約者になったのだ。 彼の秘書がフォルダーを持って入ってきた、ちょうどその時。 オフィスのドアが、勢いよく開け放たれた。 健司が、怒りの仮面をかぶって飛び込んできた。 彼は二人の高価そうな弁護士を従えていた。 彼の完璧なスーツはわずかに乱れ、髪は雨で湿っていた。 彼は野生のようで、追い詰められていた。 「そこにいたか!」 彼は唸り、その燃えるような怒りの目が、私を捉えた。 「こんなことをするだろうと思っていたぞ!」 彼は私に向かって大股で歩き、私を掴もうとするかのように手を伸ばした。 「詩織、正気じゃないぞ。君は病気なんだ。家に帰るぞ」 彼の弁護士たちが一度に話し始め、玲に対して法的な脅迫をまくし立てたが、玲は微動だにしなかった。 彼はただ、どこか detached な好奇心を持って、その混乱が繰り広げられるのを見ていた。 「彼女は俺の妻だ!」 健司は叫んだ。その声は静かなオフィスに響き渡った。 「彼女は精神的に不安定なんだ!サイコブレイクを起こしている金目当ての女だ!」 彼は玲のデスクにファイルを投げつけた。 それは磨かれた木の上を滑り、中身をぶちまけた。 捏造された精神鑑定報告書。 私の信頼性と自由を剥奪するためにデザインされた、嘘で満たされた書類。 それを見て、吐き気がした。 「彼女には助けが必要なんだ」 健司は言った。その声は今や、玲に対する演技として、偽りの懸念のトーンを帯びていた。 「彼女は病院にいるべきだ。俺には裁判所の命令がある」 彼は再び私に飛びかかり、その指が万力のように私の腕を掴んだ。 その感触は電気ショックのようで、純粋な恐怖の衝撃だった。 私は叫び声を上げ、引き離そうとした。彼の突き飛ばし、冷たい大理石の床の記憶が、頭の中でフラッシュバックした。 突然、筋肉と上質な仕立て服の壁が、私たちの間に立ちはだかった。 玲は、静かで、衝撃的な速さで動いていた。 彼は私の真正面に立ち、その体で私を庇った。 彼の手が上がり、健司の手首を掴んだ。その握力はあまりに強く、健司は痛みに叫び声を上げ、その指は即座に私の腕を離した。 「私の妻に、触れるな」 玲は断言した。 彼の声は大きくはなかった。 それは致命的なほど低く、嵐を約束する静かな雷鳴だった。 部屋の温度が、20度下がったように感じられた。 健司は彼を見つめ、衝撃で沈黙し、顔面蒼白になった。 玲は、健司から目を離さずに、背後に手を伸ばし、エヴリンの震える手からペンを取った。 彼はフォルダーから婚姻届を引き出し、一本の、鋭く、意図的なストロークで、自分の名前をサインした。 彼は健司の手首を離し、一歩後ろに突き飛ばした。 そして、静かにドアのところに現れた警備主任の方を向いた。 「桐山」 玲は落ち着いた声で言った。 「橘氏と彼の同伴者を、私のビルから退去させてくれ。そして、彼を破滅させろ。経済的に。職業的に。個人的に。我々の持つ全てのリソースを使え。彼に何も残らないようにしろ。分かったか?」 「承知いたしました、九条院様」 警備主任は、厳しい笑みを浮かべて言った。 健司は、脅迫と罵詈雑言を叫びながら引きずられていった。彼の注意深く構築された世界が、リアルタイムで目の前で崩壊していく。 ドアが閉まり、オフィスは再び、耳をつんざくような静寂に包まれた。 私は震えていた。体全体が、衝撃と、恐ろしくも爽快な解放感で震えていた。 私は玲の背中を見つめた。わずか5分の間に、私の保護者、私の夫、私の復讐者となった男の背中を。 彼は一瞬、肩を緊張させて静止していた。 そして、ゆっくりと、私の方を向いた。 氷の仮面は消えていた。 初めて、彼の冷たいファサードにひびが入り、その灰色の目に浮かんでいたのは、生の、無防備な強烈さだった。 彼は一歩近づき、その視線は私のものを探っていた。 彼は身を乗り出し、その声は低く、緊急を要する囁きで、私だけに向けられていた。 「さあ」 彼は、私の衝撃を切り裂くように、その一言を言った。 「全て話せ。奴が殺した、赤ん坊の話からだ」

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