夫の蓮と私は、東京の誰もが羨む「ゴールデンカップル」だった。 でも、私たちの完璧な結婚は嘘だった。 彼が持つという稀な遺伝的疾患のせいで、私たちは子供のいない夫婦だった。 彼の子供を身ごもった女性は、必ず死ぬ。彼はそう主張した。 蓮の父親が死の床で世継ぎを要求したとき、彼は解決策を提案した。 代理母だ。 彼が選んだ女、亜梨沙は、まるで若かりし頃の私を、もっと瑞々しくしたような女だった。 突然、蓮はいつも彼女のことで忙しくなった。 私の誕生日を忘れ、結婚記念日もすっぽかした。 私は彼を信じようとした。 パーティーで、彼が友人たちに本音を漏らすのを聞いてしまうまでは。 「佳乃とは深い繋がりを感じる。でも、亜梨沙は…炎だ。燃え上がるような興奮がある」 彼は亜梨沙と軽井沢で密かに結婚式を挙げる計画を立てていた。 かつて私に約束した、あの別荘で。 彼は彼女に家族を、人生を、そのすべてを与えようとしていた。 嘘を言い訳に、私からすべてを奪っておきながら。 裏切りはあまりに完璧で、全身を殴られたかのような衝撃だった。 その夜、出張だと嘘をついて帰ってきた彼に、私は微笑み、愛情深い妻を演じた。 私がすべてを聞いていたなんて、彼は知りもしない。 彼が新しい人生を計画している間に、私がすでに脱出計画を立てていることも。 そして、私がたった今、あるサービスに電話をかけたことなど、知る由もなかった。 人を「消す」ことを専門とするサービスに。 第1章 佳乃 POV: その嘘は、我ながら美しいものだったと思う。 蓮は、彼が経営する多国籍企業「月光院グループ」を動かすのと同じくらいの緻密さで、その嘘を作り上げた。 「母さんは俺を産んで死んだんだ、佳乃」 何年も前、彼はそう言った。 骨の髄まで震わせるような低い声で。 大きくて温かい彼の手が、私の手を包み込んだ。 「月光院の血筋は…呪われている。月の女神は、俺のアルファとしての強さの代償に、母さんの命を奪った。だから俺は、運命の相手を見つけることができない。絆を結べば、相手を殺してしまうから」 私は彼を信じた。 愛していたから、信じた。 女狼なら誰もが夢見る、運命の繋がりへの渇望を、私は押し殺した。 古代の錠前がその鍵を見つけたかのように、魂がカチリとはまる、あの感覚。 私は「契約上のパートナー」という役割を受け入れた。 政略結婚の相手であり、魂ではなく、肩書だけの未来のルナ。 私は、強大なアルファCEOに相応しい、完璧で優雅なアクセサリーだった。 今夜、その美しい嘘が、ほころび始めた。 私たちは、彼の父親の書斎にいた。 古い革と、不満の匂いが空気に満ちている。 厳しい決断の歴史が顔に刻まれたロードマップのような男、月光院家の長老が、巨大な楢のデスクの向こうから蓮を睨みつけていた。 「貴様の生命力は衰えている、蓮」 長老の声は、砂利のようだった。 「私にもわかる。群れも感じている。この群れには世継ぎが必要だ。血筋には世継ぎが必要なのだ。次のブラッドムーンまでに世継ぎを指名できなければ、アルファの称号は貴様の従兄弟に譲ることになる」 その脅しは、重く息苦しい沈黙となって垂れ込めた。 蓮は微動だにしなかった。 「解決策はあります」 彼の声は、冷たく、そっけない。 「『血の融合』の儀式です。古いやり方ですが、血筋の純粋性は保証されます。いわば…代理出産のようなものです」 息が詰まった。 彼は、私に何も相談していなかった。 「これは純粋に、群れの存続のためです」 彼はそう付け加え、ようやく私に目を向けた。 いつもは温かい蜂蜜色をしている彼の瞳は、どこか遠くを見ていた。 彼が選んだオメガの名は、亜梨沙といった。 彼女は、弱小な群れの出身で、不気味なほどに、若くて脆い頃の私に似ていた。 「彼女が俺のアルファのエネルギーに順応するのを手伝う必要がある」 その後、蓮はそう説明した。 「儀式は彼女にとって大きな負担になる。彼女の準備を万全に整えるのが、俺の義務だ」 彼の「義務」は、彼女のプライベートなマンションで長い夜を過ごすことから始まった。 そして、一晩中。 私の誕生日は、来たかと思うと過ぎ去っていった。 彼が約束してくれた盛大な祝賀会は、短い謝罪のメッセージと共にキャンセルされた。 『亜梨沙が俺のエネルギーに拒絶反応を示している。彼女を安定させなければならない』 私たちの契約記念日、私は一晩中待った。 時計の針が深夜零時を過ぎた。 諦めかけたその時、絆で結ばれたペアだけが共有する精神感応、マインドリンクを通して、囁きが聞こえた。 『記念日おめでとう、佳乃』 それだけだった。 感情も、彼の存在感もない。 ただ、何キロも離れた場所から、頭の中に響く言葉だけ。 今夜、嘘は完全に砕け散った。 チャリティーの会合からの帰り道、人気のない道で、群れを持たない野良の狼、はぐれ狼の小集団に車を襲われた。 酸っぱい絶望と狂気が混じった彼らの悪臭が、空気に満ちた。 私は戦った。 爪が肉を引き裂き、私の内なる狼が唸り声を上げて表面に現れた。 無様な戦いだったが、私はアルファのパートナーだ。 弱くはない。 戦いが終わった時、私の車はスクラップになり、体は引っ掻き傷だらけだった。 私はマインドリンクで蓮に呼びかけた。 『蓮、助けて。襲われたの』 沈黙。 『蓮、お願い!どこにいるの?』 その沈黙は、物理的なものだった。 私の心の中にある、冷たい壁。 彼は私をブロックしていた。 私は心臓に冷たく重い石を抱えながら、残りの3キロを足を引きずって歩いた。 ペントハウスに近づくと、別の匂いが夜風に乗って鼻をついた。 甘い。むせ返るような甘さ。 女狼のフェロモン。 そして、それは私の匂いではなかった。 群れのプライベートクラブの外で、彼らを見つけた。 姿は見えなかったが、蓮の精神ブロックが一瞬、滑ったのだろう。 彼のベータに向けられた自慢話、その断片的な思考が、物理的な打撃のような力で私の心に叩きつけられた。 『佳乃は俺の魂に完璧にフィットする、穏やかな港だ。でも亜梨沙は…亜梨沙は、俺の狼が渇望する野火なんだ』 足から力が抜けそうになった。 野火。 彼は彼女のために、密かな絆の儀式を計画していた。 かつて私を連れて行くと約束した聖地、月の女神の聖域で。 震える手で、私はスマートフォンを取り出した。 蓮は今夜、北の国境を視察しに行くと私に告げていた。 しかし、私がまだバッグに入れていた、彼と同期されたタブレットに通知が光っていた。 亜梨沙からのメッセージ。 「今夜のデート、待ちきれない!完璧なドレスを選んだよ」 私の心は壊れなかった。 ただ、止まった。 氷になり、そして塵になった。 私は家には帰らなかった。 車をUターンさせ、群れの連中が存在しないふりをしている街の一角へと向かった。 かすかな三日月の印が一つだけ記された、何の変哲もないドアに歩み寄った。 看板にはこう書かれていた。 「影の聖域」 ここは、姿を消す必要がある人間が訪れる場所。 そして今夜、私は悟った。 それこそが、今の私に必要なことなのだと。 ---
佳乃 POV: 一週間後、「影の聖域」から渡された使い捨ての携帯電話に、暗号化されたメッセージが届いた。 「新しい身元を確立。目的地:パリ、ヨーロッパ中立地帯。追って指示を待て」 パリ。 遠い世界。 私の名前、佳乃という名が、何の意味も持たない場所。 「月光院グループの未来のルナ」という肩書が、ただの亡霊と化す場所。 その考えは、安堵の波となって私を貫き、膝から崩れ落ちそうになるほどだった。 私は、この人生に私を縛り付けていた糸を切り始めた。 高級ブランド専門の委託販売店に入り、蓮がくれた、私の未来の役割を象徴する「月光石のネックレス」を匿名で寄付した。 あの綺麗で、空っぽな約束は、他の誰かが身につければいい。 その夜、私はペントハウスの壮大な暖炉に火を熾した。 一つ、また一つと、私たちの思い出を火にくべていく。 最初の記念日にもらったドライフラワーの薔薇。 雪の中ではしゃぐ私たちの写真。 プライベートな式で交わした、他愛ない手書きの誓いの言葉。 炎がすべてを飲み込み、長年の愛と嘘を灰に変えていくのを、私はただ見つめていた。 蓮が「国境への出張」から帰ってきたとき、彼は何も気づかなかった。 ネックレスがなくなった私の首筋を、彼は素通りした。 愛用の品々が消えた、がらんとした部屋の空虚さにも、彼は気づかなかった。 「俺たちの写真はどこだ?」 彼はネクタイを緩めながら、何気なく尋ねた。 「浄化に出しました」 私は平然と、穏やかな声で言った。 「長老が、ペントハウスのエネルギーが淀んでいると仰っていたので」 「いい考えだ」 彼はそう呟き、すでにスマートフォンに気を取られていた。 彼は何の疑いもなく、その嘘を信じた。 彼の心は、別の場所にあった。 彼女のところに。 しかし、彼の罪悪感は、公の場でのパフォーマンスを要求した。 彼は群れのグランドホールで、私のために豪華な「埋め合わせ」の誕生日パーティーを開いた。 それは私のためのものではなかった。彼自身のためのものだった。 世界に、そして自分自身に、彼がまだ完璧なアルファであり、献身的な夫であることを示すための。 私は自分の役を演じきった。 頬が痛くなるまで、微笑み続けた。 そして、彼女が現れた。 亜梨沙は、蓮のベータの腕に抱かれて入ってきた。 彼女はシンプルな白いドレスを着ており、その曲線が体にぴったりと張り付き、無垢でありながら妖艶に見えた。 別の群れから訪れていた長老が彼女を見て、私に温かく微笑みかけた。 「佳乃さん、妹さんはとても可愛らしい方ですね」 彼は言った。 血の気が引いた。 蓮は、いつものように抜け目ない政治家だった。 彼はその場をうまく収めた。 亜梨沙のそばに歩み寄り、彼女の腰のくびれに所有権を示すように手を置いた。 「こちらは亜梨沙・ディアスさんです」 彼はアルファの力に満ちた声で、部屋中に告げた。 「群れの大切な友人です。彼女は私のエネルギーを安定させる手助けをしてくれています。我々全員にとって、大きな貢献です」 彼は彼女を私の後釜だとは言わなかった。 その必要はなかった。 彼は彼女を自分の「安定装置」と呼び、そうすることで、私のパートナーとしての役割を、純粋に儀礼的なものへと貶めた。 私は会社の顔。彼女は、男の心臓。 私は一晩中、彼を見ていた。 彼の目が彼女を追う様子を。 彼が彼女の耳元に何かを囁き、彼女を赤面させる様子を。 ある時、彼女の黒髪が一筋、顔にかかった。 蓮は、考える間もなく手を伸ばし、優しくその髪を彼女の耳にかけた。 それは、小さく、親密な仕草だった。 彼が何年も私にしてこなかった類のもの。 それは、公の場での宣言だった。 後で、息を整えるために婦人用のラウンジに隠れていると、二人の女狼が囁き合っているのが聞こえた。 「…先週、トップクラスの不妊治療クリニックで二人を見たわ」 一人が、ゴシップに満ちた声で言った。 「手をつないだりして。すごく愛し合っているように見えた」 もう一人がため息をついた。 「可哀想なルナ佳乃。きっとご存知なのでしょうね」 私は冷たい大理石の壁にもたれかかった。 囁き声が、私の最悪の恐怖を裏付けた。 これは間違いではない。 これは、一時の気の迷いではない。 これは、クーデターだ。 私を追い出すために、慎重に計画され、意図的に実行された陰謀。 そして私は、その真っ只中に立ち、カメラに向かって微笑んでいた。 ---
佳乃 POV: ここから出なければ。 ボールルームの空気は香水と嘘でむせ返り、窒息しそうだった。 私は言い訳をして、廊下の先にある静かなラウンジに向かった。 ドアに近づくと、むせ返るような匂いが鼻をついた。 蓮の匂い――松と冬の空気――が、亜梨沙の甘ったるい匂いと絡み合っていた。 彼らは、そこにいた。 一緒に。 私の足は床に凍りついた。 ドアのわずかな隙間から、彼らが見えた。 蓮は亜梨沙を壁に押し付け、彼女の髪に指を絡ませ、その口を貪るように塞いでいた。 それは優しいキスではなかった。 飢えた、必死の、野獣のようなキスだった。 そして、彼の声が聞こえた。 彼女にだけ向けられた、低い唸り声。 「佳乃と一緒にいるのは、俺の責任だ」 彼は彼女の唇に囁いた。 「お前と一緒にいるのは…本能だ」 彼はわずかに身を引くと、親指で彼女の頬を撫でた。 「俺のためにいい子でいてくれたら、お前が欲しがっていたあの珍しい黒真珠を買ってやる」 世界が傾いた。 自制心だとか、「血の呪い」だとか、慎重でなければならないとか、彼の話はすべて嘘だった。 彼は私のために自制していたのではなかった。 単に、私に惹かれていなかっただけだ。 こんな風には。 私はドアから後ずさった。 心臓が、胸の中で死んだ重りになった。 数分後、亜梨沙が出てきた。 唇は腫れ上がり、頬は紅潮していた。 彼女はそこに立っている私を見て、勝ち誇ったような小さな笑みを浮かべた。 彼女はまっすぐ私に歩み寄り、以前にはなかった自信に満ちた目で私を見つめた。 「佳乃さん」 彼女の声は、偽りの甘さに満ちていた。 「申し訳ないのですが、月の湧き水を一杯いただけますか?アルファのエネルギーで…とても喉が渇いてしまって」 それは権力誇示だった。 オメガが、未来のルナに給仕を頼むなんて。 私はただ彼女を見つめていた。 衝撃で頭が真っ白になった。 彼女が話しながら一歩後ろに下がった時、巨大な狼の氷の彫刻にぶつかった。 全体がぐらりと揺れた。 恐ろしい一瞬、それは宙に浮いているように見えた。 そして、それは崩れ落ちた。 カミソリのように鋭い氷の破片がシャワーのように床に飛び散った。 私は顔を守るために腕を上げたが、遅かった。 大きくてギザギザの破片が、私の額に叩きつけられた。 その衝撃で、私は足元をすくわれた。 白く燃えるような、目のくらむ激痛が頭を襲った。 私は大理石の床に激しく打ち付けられ、その衝撃で歯がガチガチと鳴った。 温かく、べたつく液体が顔を流れ落ち、視界を遮った。 血だ。 痛みの霞の中で、蓮がラウンジから駆け出してくるのが見えた。 混沌とした光景に、彼の目は見開かれた。 一瞬、希望に満ちた鼓動が鳴った。 彼は私のもとに駆け寄ってくると。 私は間違っていた。 彼は私を完全に無視し、その視線は数フィート離れた場所に凍りついている無傷の亜梨沙に注がれていた。 彼は彼女の前に身を投げ出し、まるで彼女こそが危険に晒されているかのように庇った。 「大丈夫か?赤ん坊は無事か?」 彼はアルファの命令(コマンド)の紛れもない力を含んだ声で怒鳴った。 彼は彼女の頭からつま先までを検分し、その手は彼女の平らな腹の上を彷徨っていた。 血の海に横たわる私を、完全に無視して。 パーティー全体が静まり返っていた。 誰もが見ていた。 アルファが、公式のパートナーが床で血を流している間に、愛人を守るのを。 私の視界の端がぼやけ始めた。 自分でも知らない力で、私は体を起こした。 彼を見なかった。 見ることができなかった。 頭を高く上げ、私はボールルームから歩き去った。 後ろには、血の跡が続いていた。 群れのメンバーたちの、哀れみと軽蔑の視線が、物理的な打撃のように感じられた。 群れの病院で、ヒーラーが私の額の傷を縫合している時、彼らを見た。 蓮は亜梨沙を同じ病院に連れてきていた。 彼は彼女を高級なVIP病棟に案内し、その腕を保護するように彼女の周りに回し、私にはもう聞こえない慰めの言葉を囁いていた。 彼は彼女を、貴重で、壊れやすい宝物のように扱っていた。 消毒液の匂いが鼻を焼く、その無菌の救急処置室に横たわりながら、私は最後の決断を下した。 姿を消すだけでは不十分だ。 この絆、この人生を、月の女神自身でさえ元に戻せないほど完全に断ち切らなければならない。 ---