七年間、私は財閥令嬢としての人生を捨てた。 私を救ってくれた男性と、私たちの息子と共に、ささやかな家で暮らすために。 帝国よりも、愛を選んだのだ。 その選択が粉々に砕け散ったのは、彼が他の女の香水をまとって帰ってきた夜だった。 彼はその浮気を「経営統合」だなんて呼んだけれど、ゴシップ記事が真実を物語っていた。 彼は家族よりも、権力を選んだのだ。 彼の母親は私たちを本邸に呼びつけ、彼の愛人が「唯一の正統な後継者」を妊娠したと発表した。 皆の前で、彼女は私にメイドの仕事を与え、息子は養子としてなら置いてやると言った。 私がすべてを捧げたパートナー、その男は、母親が公衆の面前で私たち母子の存在を消し去っていくのを、ただ黙って隣に立って見ていた。 五歳の息子が、震える声で私を見上げて尋ねた。 その問いが、私の心の最後の欠片を破壊した。 「ママ、あの女の人が赤ちゃんを産むなら…じゃあ、僕はなに?」 だが、とどめの一撃は息子の誕生日にやってきた。 彼の愛人は、私たちを騙して婚約パーティーに出席させた。 そこで彼は、私たちの息子を床に突き飛ばし、自分の子ではないと否定した。 彼の家族が私に襲いかかる中、息子は助けを求めて彼に懇願した。 彼を「旦那様」と呼びながら。 その瞬間、彼が知っていた女は死んだ。 私は息子の手を取り、その人生から永遠に歩み去った。 そして、私が捨てた帝国に電話をかけた。 世界が私の本当の名前を思い出す時が来たのだ。 第1章 真野 卯月 POV: 私の人生が終わったと、はっきりと、心の底から悟った最初の瞬間。 それは、知らない女の香水の匂いから始まった。 安っぽくはない。 むしろ、高価なジャスミンとローズの香り。 私がすべてを捧げた男の襟元に、まとわりつくように残っていた。 七年間、私は真野卯月(まの うづき)だった。 過去を持たない女として、新進気鋭のIT企業「HAGAイノベーションズ」の若きCEO、芳賀瑛士(はが えいじ)と、私たちの息子、大輝(だいき)と共に、都心から少し離れた一軒家で質素な暮らしを送っていた。 でも、それ以前の私は、白銀卯月(しろがね うづき)だった。 白銀コンツェルンの唯一の後継者。 想像を絶する富と権力の世界を、私は何の未練もなく捨て去った。 愛を選んだ。彼を選んだのだ。 今夜、その選択は、まるで自分で建てた墓石のように感じられた。 荷物はもうまとめてある。大輝のクローゼットの奥に隠して。 七年前の父の言葉が、心の奥でこだまする。決して消えることのない、幻の痛みのように。 「あいつは私たちとは違う世界の人間だ、卯月。野心が奴の神だ。いつか、その神は生贄を求めるだろう。そして、お前がその供物になる」 あの頃の私は、父を冷笑的だと非難した。 今ならわかる。父はただ、正しかっただけだ。 私はベッドに横たわり、眠ったふりをしながら、私の血管を流れているはずの「白銀」の血を呼び覚まそうとしていた。 あの冷酷な令嬢は今、どこにいるのだろう? まるで他人の物語に出てくる幽霊のようだ。 胸にぽっかりと空いた、かつて心臓があったはずの空間を感じるだけだった。 寝室のドアが軋んで開いた。 廊下の光を背に、瑛士のシルエットが浮かび上がる。 かつては私の胸を高鳴らせたその静かな自信に満ちた動きが、今はただ胃を締め付けるだけだった。 ジャスミンとローズの香りが、毒の霧のように部屋に充満した。 彼は私が眠っていると思っている。 彼がベッドのそばに腰を下ろし、マットレスが沈むのを感じた。 指が優しく私の頬にかかった髪を払う。 かつては私の聖域だったその感触が、今は汚らわしいものに感じられた。 「卯月?」 彼は囁いた。低く、親密な声で。 「眠ってるのか?」 私は動かなかった。 呼吸を一定に保つ。ゆっくりと、穏やかなリズム。 内側で荒れ狂う嵐とは裏腹に。 一時間ほど前、スマホで見たゴシップ記事の見出しが頭から離れない。 『IT界の巨頭、芳賀瑛士と社交界の華、高坂クロエ:経営統合が生んだ理想のカップルか?』 記事には、五つ星レストランから出てくる二人の写真が添えられていた。 クロエの手は、独占欲を隠しもせずに瑛士の腕に絡みついている。 彼女の笑みは勝利に輝き、彼の笑みは…疲れていた。 ジャスミンとローズの香水は、彼の襟元だけではなかった。 髪に、肌に、彼の存在そのものに染み付いている。 それは高坂クロエの香りだった。 彼がHAGAイノベーションズと高坂インダストリーの経営統合を最終決定するという名目で、何週間も彼女と夜を共にしていたことは知っていた。 ビジネスだ、と彼は言った。 必要悪なのだ、と。 私は寝返りを打つふりをして、彼の手を振り払った。 「臭い」 半分は本心からの嫌悪感を込めて、私は呟いた。 「シャワー浴びてきて」 彼は凍りついた。 彼から放たれる緊張が伝わってくる。 「卯月、その…すまない。クロエとの会議が長引いて。彼女、あの香水を浴びるように使うだろ」 彼はこともなげに彼女の名前を口にした。 高坂さん、じゃない。クロエ、と。 「今すぐシャワーを浴びてくる」 彼の声は強張っていた。 彼は立ち上がると、どこか気まずそうにバスルームへ向かった。 数分後、彼は私の石鹸とシャンプーの香りをまとって戻ってくるだろう。 彼女の匂いを洗い流し、ここが、私の隣が、彼の居場所だとでも言うように。 だが、もう彼の居場所はここにない。 他の女の影響力と権力にこれほど依存する男が、どうして本当に私のものだと言えるだろう? 彼はCEOなのか、それとも彼女の着飾ったペットなのか? 世間にとって、私はただの真野卯月。取るに足らない女。 彼が拾い上げた孤児で、分不相応な静かな生活を与えられた幸運な女。 私がHAGAイノベーションズを波紋一つ立てずに飲み込めるほどの帝国の鍵を握る女だとは、誰も知らない。 シャワーの音が止まった。 数分後、彼は腰にタオルを一枚巻いただけの姿で現れた。 引き締まった胸板に水滴が光る。 彼はまだ美しかった。破壊的なほどに。 七年前、事故で大破した車から私を引っ張り出してくれた時と同じ男。 その時の彼の顔に浮かんでいた、私の息を奪ったあの真剣な眼差し。 私は許嫁との結婚から、父の息苦しい世界から逃げ出していた。 凍結した路面で車がスリップし、横転した。 彼は最初に現場に駆けつけ、素手で車のドアをこじ開けて私を助け出してくれた見知らぬ人だった。 彼は私を自分の山小屋に運び、その手で優しく傷を手当てしてくれた。 彼の肩のたくましさ、その黒い瞳の力強さを覚えている。 私の世界にいた、洗練された捕食者のような男たちとは違った。 彼は、本物だった。 「お前はもう俺のものだ」 最初の夜、彼はそう唸った。私をぞくぞくさせるほどの独占欲に満ちた声で。 「俺が見つけた。お前は俺に属する」 彼は永遠を約束した。 私が彼の唯一のパートナーであり、彼の子供たちの母親であり、彼が帝国を築き上げる際に隣に立つ女だと誓った。 今、彼は清潔で温かい肌でベッドに滑り込み、私を腕の中に引き寄せようとした。 だが、ジャスミンとローズの幻影が私の記憶にこびりついていた。 私は身をすくめ、彼に背を向けた。 「卯月、どうしたんだ?」 彼は囁いた。彼の熱い息が私の首筋にかかる。 「なんでもない。疲れてるの」 彼は私を救ってくれた男ではなかった。 あの男はもういない。 野心と裏切りの匂いをさせた、この見知らぬ男に取って代わられたのだ。 張り詰めた静寂を破り、玄関のドアを激しく叩く音が響いた。 もうすぐ午前二時だ。 瑛士は心底苛立ったようにため息をついた。 「ここにいろ」 彼の足音、玄関のドアが開く音、そして高坂クロエの執事の、押し殺したような切羽詰まった声が聞こえた。 「芳賀様、申し訳ございません。クロエお嬢様がお加減を悪くされまして。瑛士様をお呼びです」 私の血が凍りついた。 瑛士の即答が聞こえた。 ためらいも、私や眠っている息子のことなど微塵も考えない声。 「すぐ行く」 彼は部屋に戻り、シャツを羽織った。 私の方を見ようともしない。 「クロエが気分が悪いそうだ。ひどい偏頭痛持ちなんだ。行かないと」 彼はまるで仕事仲間について話すかのように、さりげなく言った。 だが、そこには無意識の親密さが漏れ出ていた。 「医者が言うには、ストレスが悪化させるらしい。それに、彼女のこめかみのマッサージの仕方を知っているのは、俺だけなんだ」 彼はドアのところで立ち止まり、罪悪感の影がその顔をよぎった。 「すぐに戻るよ、卯月。クロエはただ…繊細なんだ」 彼は私が待っていると期待していた。 彼が他の女を慰めに行っている間、私がこのベッドで、この家で、じっと座って待っていると。 彼は私が、いつまでも忍耐強く、理解のある卯月でいると信じていた。 私は枕の上で顔を向け、彼に小さく、引きつった笑みを返した。 幽霊のような微笑みを。 「もちろん。ゆっくりしてきて」 安堵が彼の顔に広がった。 なんて愚かな男。 彼は私の微笑みを見て、それを受け入れたと思った。 私の目に氷が張り、背筋に鋼が通っていくのが見えていない。 彼は去っていった。 玄関のドアが閉まる音がして、私と大輝は、もはや家とは呼べないこの家の息苦しい静寂の中に取り残された。 彼は私が待っていると期待していた。 彼は間違っていた。 私はもう二度と、彼を待つことはない。 ---
真野 卯月 POV: 翌朝、私は電話をかけた。 その番号を最後に口にしてから七年が経っていたけれど、指は昨日のことのようにその配列を覚えていた。 ワンコールで、凛とした聞き覚えのある声が応えた。 「白銀家でございます」 「私よ」 私の声はわずかにひび割れていた。 驚きに満ちた沈黙。そして、詰まったような嗚咽。 「卯月お嬢様?ああ、神様、本当に卯月お嬢様なのですか?」 父の執事長、私を育ててくれたも同然の女性と話しながら、涙が頬を伝った。 大輝のこと、父の孫のことを話すと、電話の向こうの沈黙は深く、言葉にならない感情で重くなった。 「旦那様が、いつお帰りになるのかと」 彼女は涙声で言った。 「お孫様にお会いになりたいと。ジェット機でもヘリコプターでも、必要なものは何でも手配するとおっしゃっています。ただ、お帰りください、卯月様。どうか」 家。 その言葉は異国の響きを持っていた。何年も訪れていない遠い国。 私はベッドで眠る大輝を見た。 瑛士が彫ってくれた小さな木彫りの狼を握りしめている。 彼は寝言を言っていた。 「パパ、約束した…大きなパーティー…」 彼の五歳の誕生日は二日後だった。 吐き気の波が私を襲う。 彼には、この場所を去る時に、壊れた約束という深い傷ではなく、幸せな思い出を持っていてほしかった。 最後の一日だけでも、完璧な日を過ごさせてあげたかった。 それが私の過ちだった。 希望とは、危険なものだ。 二日後の夜明け、ドアを鋭く叩く音は、誕生日のサプライズではなかった。 それは瑛士の母、芳賀康子(はが やすこ)だった。 威圧的な二人の男を従えている。 彼女は一度も私を好んだことがなかった。 彼女にとって、私は名もなき、親もなき野良犬で、彼女の尊い血筋を汚した存在だった。 彼女は大輝を、まるで一族の汚点であるかのように、薄いベールで覆った嫌悪の目で見つめた。 「着替えなさい」 彼女は冬の朝のように冷たい声で命じた。 「二人とも。瑛士が本邸で重要な発表をする。あなたたちも出席する義務がある」 大輝の目が輝いた。 「パパ、いるの?僕を待ってるの?」 私は答えることができなかった。 不安の塊が胃の中で固く締まっていく。 これが誕生日のためではないことはわかっていた。 これは、処刑だ。 芳賀家の本邸は広大でけばけばしく、成金が必死に旧家のふりをしようとしている記念碑のようだった。 私たちが大広間に通されると、非難がましい顔の海が一斉にこちらを向いた。 空気は百合の香りと裁きで満ちていた。 そして、一段高くなった壇上には、瑛士が立っていた。 彼は私を見ていなかった。 彼の目は、隣に立つ高坂クロエに注がれていた。 彼女は優雅に自分のお腹に手を当てている。 独りよがりで、捕食者のような輝きを放っていた。 康子が前に進み出た。その声は権威に満ちて響き渡る。 「皆様にお集まりいただいたのは、喜ばしい知らせを分かち合うためです。クロエさんがご懐妊されました。芳賀家の財産を継ぐ、世継ぎです」 儀礼的な拍手の波が部屋に広がった。 「この子こそが」 康子は続けた。その視線は群衆をなぞり、そして凍るような正確さで私に突き刺さった。 「HAGAイノベーションズの唯一の正統な後継者となります。瑛士とクロエさんは来月、正式に結婚式を挙げます」 私は瑛士を見つめた。かつて愛した男の面影を必死に探した。 彼は私と目を合わせようとしない。 ただそこに立っているだけだった。ハンサムな彫像のように。 母親が私と私たちの息子を彼の人生から組織的に消し去っていく間、彼はクロエのお腹の上に置かれた彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。 「父親になるのが待ちきれないよ」 彼は、皆に聞こえるように大きな声で言った。 小さな手が、震えながら私の手を握った。 私は大輝を見下ろした。 彼の顔は青白く、目は混乱と、私の心を粉々にするほど深い痛みで見開かれていた。 「ママ」 彼はかろうじて聞こえる声で囁いた。 「パパ、父親になるのが待ちきれないって…あの女の人が赤ちゃんを産むなら…じゃあ、僕はなに?」 その問いは、部屋を沈黙させる devastating な告発として、空中に漂った。 瑛士の従兄弟たちが数人、くすくすと笑った。 「見ろよ、あの私生児」 そのうちの一人が嘲笑った。 「本当にここに自分の居場所があると思ってるのかね」 「不義の子なんて、うちの一族の評判に傷がつくわ」 別の者が付け加えた。 「跡継ぎになんてなれるわけがない」 康子の笑みは勝利に満ち、残酷だった。 「ご心配なく。解決策はあります。スキャンダルを避けるため、この子は家の養子として、情け深く引き取ってやりましょう。そして、この子の乳母については」 彼女はそう言って、私を射抜くような目で見つめた。 「メイドとして、引き続き我が家に仕えさせても構いません」 その時、数週間前に盗み聞きした会話を思い出した。 康子の鋭く、陰謀めいた声がクロエに告げていた。 「あなたは純粋な血筋の方ですもの、お嬢様。瑛士にちゃんとした跡継ぎを産んであげなければ」 すべてが嘘だったのだ。 私たちを捨てるための、周到に練られた計画。 大輝が泣き始めた。小さな顔を伝う、声にならない涙。 「僕は孤児じゃない」 彼は震えながら囁いた。 「僕は違う」 瑛士がようやく身じろぎした。 彼は半歩前に出て、何かを言おうと口を開いたが、クロエが彼の腕を制するように手を置いた。 彼は彼女を見て、そして私たちを見た。その顎はためらいで固く引き締められていた。 彼は何も言わなかった。 彼は彼女を選んだ。野心を選んだのだ。 それで終わりだった。 希望の最後のきらめきが消え、冷たく硬い怒りだけが残った。 私は一歩前に出て、大輝を背後にかばった。 「この子はあなた方とは何の関係もありません」 私の声ははっきりと、揺るぎなく響いた。 「この子は、芳賀家の人間ではありません」 私は膝をつき、大輝の顔を両手で包み込んだ。彼の涙が私の指を濡らす。 「大輝」 私自身の声も震えていた。 「よく聞いて。これからは、あの人はあなたの父親じゃない。わかる?二度とあの人をそう呼んではだめ」 瑛士の頭がはね上がった。その目は衝撃に見開かれている。 彼はようやく私を、本当に私を見た。その顔には必死の、問いかけるような表情が浮かんでいた。 だが、かつてそこに見た愛は消え、虚無に取って代わられていた。 私はもう彼に対して何も感じなかった。侮蔑以外は。 大輝はしゃくりあげた。五歳児の世界が崩壊する、胸が張り裂けるような音だった。 私が立ち去ろうとすると、クロエが私の前に立ちはだかった。その笑みは毒だった。 「そんなに急がないで。指輪の件があるわ」 彼女は私の指にはめられたシンプルなサファイアの指輪を指差した。 瑛士の祖母の形見だった。 大輝が生まれた日に彼がくれたものだ。 本当の結婚指輪までのつなぎだと、私が彼の真の伴侶であり、唯一の存在である証だと約束して。 「瑛士」 私は危険なほど静かな声で尋ねた。 「あなたもこれに同意したの?」 彼は身をすくめ、目をそらした。 「それは…ただの家の家宝なんだ、卯月。家族の元にあるべきものだ」 もちろん。すべては家族のため。彼らの家族。 ゆっくりと、意図的に、私は指から指輪を抜いた。 肌に冷たく感じた。 私はそれをクロエに差し出し、完璧に手入れされた彼女の掌に落とした。 「おめでとうございます」 私は言った。唇は笑みの形に歪んでいたが、目は笑っていなかった。 「あなたが望むすべての幸せが、その指輪と共にあらんことを」 瑛士は信じられないという表情で私を見つめていた。 私は振り返り、泣きじゃくる大輝を腕に抱き上げた。 振り返らなかった。 彼は私が行くのを見ていた。口をわずかに開け、まるで今になって足元の地面が崩れたことに気づいたかのように。 彼は手遅れだった。 ---
真野 卯月 POV: 大輝は私の腕の中で泣き疲れて眠ってしまった。 その小さな体は、破片のように私を貫く震えるような嗚咽で揺れていた。 私は彼を強く抱きしめ、新しい人生を、私たちをすでに待っていてくれる、私たちを愛してくれる祖父がいることを囁き続けた。 「でも…パパはもう僕を愛してないの?」 彼は私の肩に顔をうずめ、小さく壊れた声でしゃくりあげた。 「ママだけが僕を愛してるの?」 「そんなことないわ、坊や」 私は声を詰まらせ、自分の涙が彼の髪に落ちるのを感じた。 「たくさんの人があなたを愛している。譲二おじいちゃまはあなたに会うのが待ちきれないのよ。あなたは王子様になるの」 「今すぐ行ける?」 彼は体を離して私を見上げた。目は赤く腫れている。 「おじいちゃまに会いに行ける?」 彼はためらった。その小さな手はポケットの中の木彫りの狼を握りしめている。 瑛士が彼にくれた最後の贈り物だった。 「でも…パパと離れたくない」 私の心は砕け散った。 喉の奥の塊を飲み込み、無理やり強い母親を演じた。 「わかってるわ、ベイビー。でもパパと、パパのママは…私たちがここにいることを望んでいないの。これからは、あなたのことを『瑛士おじさん』って呼んでほしいんだって。そうできる?」 彼は私を見つめた。その表情は衝撃で無感情だった。 ゆっくりと、彼の手が木彫りの狼を離した。 再び彼の目に涙が溢れた。 「いやだ」 彼は囁いた。 そして、必死の懇願が続いた。 「ママ、お願い、待ってくれない?僕の誕生日まででいいから。もしかしたら…もしかしたら彼が来てくれるかもしれない。ほんの少しの間だけでいい。そしたら行こう。約束するから」 彼は、自分を公然と見捨てた男からの最後の思い出、最後の愛のかけらを乞うていた。 どうして断れるだろうか? 「わかったわ、坊や」 私は涙に濡れた彼の頬にキスをして囁いた。 「待ちましょう」 しかし、瑛士は来なかった。 大輝の誕生日が来た。五本のろうそくが立てられたケーキが、手つかずのままテーブルに置かれている。 私たちの小さな家の静寂は、耳をつんざくようだった。 ついに私は我慢の限界に達し、スマホを掴んで彼の番号をダイヤルした。手は怒りで震えていた。 「彼に約束したでしょ」 彼が電話に出ると、私は吐き捨てるように言った。 「彼は五歳なのよ、瑛士。一日中窓辺に座ってあなたを待っていたの。どうしてこんなことができるの?」 電話の向こうは長い間沈黙していた。 そして、カチッという音。 彼は電話を切った。 大輝は火の灯っていないろうそくを見下ろし、肩を落とした。 「大丈夫だよ、ママ。彼は忙しいんだ」 彼は小さく、震えるような笑みを無理やり作った。 「瑛士おじさんは、とても偉い人だから」 「おじさん」という言葉が、物理的な打撃のように感じられた。 私の心は百万の小さな破片に砕け散った。 私は瑛士に電話をかけ直し、叫び、怒り狂い、彼が壊したものを元に戻すよう要求しようとした。 その時、テキストメッセージが画面を照らした。彼からだった。 『本邸に来てくれ。大輝にサプライズがある』 私はスマホを大輝に見せた。 彼の目に、希望の小さな火花が灯った。 「覚えててくれたんだ!ママ、僕の誕生日を覚えててくれたんだ!大きな赤いトラック、買ってくれたのかな?」 別のテキストが届いた。 『パーティーを用意して待ってる。急いで』 大輝は有頂天になり、私をドアの方へ引っ張った。さっきまでの傷心は忘れ去られている。 彼はそこへ向かう道中ずっと、五歳児の希望と夢を興奮気味にしゃべり続けた。 しかし、私たちが大広間に足を踏み入れた瞬間、騙されたのだとわかった。 部屋は風船や飾り付けで満たされてはいなかった。 何百本ものバラと、シャンパンをすする優雅に着飾った客たちで埋め尽くされていた。 子供の誕生日パーティーではなかった。 婚約パーティーだった。 大輝は気づかなかった。 彼はそびえ立つ多層ケーキのそばに立つ瑛士を見て、純粋な喜びに顔を輝かせながら、まっすぐに彼に向かって走っていった。 「パパ!」 彼の声は、突然静まり返った部屋に響き渡った。 「ケーキを切るのを、僕が手伝うのを待っててくれたの?」 瑛士は顔を上げ、私たちを見て心底驚いたように目を見開いた。 「卯月?大輝?どうしてここに?」 彼は仕立ての良いタキシードを着ており、クロエがきらびやかなイブニングドレスで彼の腕にしがみついていた。 客たちが囁き始めた。その目は大輝と瑛士の間を行き来している。 「あれは…彼の子?」 「彼には子供はいないと思っていたが」 瑛士の顔が硬くなった。 彼は大輝から一歩後ずさった。残酷で、見下したような仕草だった。 「誰をパパと呼んでいる?」 彼は冷たく鋭い声で尋ねた。 彼は大輝を突き飛ばした。強くではなかったが、私の小さな息子がよろめき、磨かれた床に倒れるには十分だった。 大輝は彼を見上げた。その目は恐怖と混乱で見開かれていた。 私は駆け寄り、彼を腕に抱き上げた。 「帰りましょう」 「もうお帰り?」 クロエの声は、甘ったるい毒を含んでいた。 彼女は私たちの前に立ち、勝ち誇った笑みを浮かべている。 「パーティーは始まったばかりなのに。あなたが来てくれるのを、とても楽しみにしていたのよ」 彼女は自分のスマホを掲げ、瑛士の番号から彼女が送ったテキストを見せた。 「大輝くんが孤児になったお祝いに、ちゃんとしたお祝いをしてあげるべきだと思ったの」 彼女は瑛士の体に身を寄せた。 「言ってあげて、ダーリン。この迷い込んできた子供が、あなたとは何の関係もないって、みんなに」 瑛士は私を見た。その目は、私がもはや持ち合わせていない理解を求めていた。 そして、彼はクロエを、権力と影響力のある客たちを、そして手に入れようとしている帝国を見た。 彼は小さく、ほとんど気づかれないほどに頷いた。 それが彼の答えだった。 「私の息子は迷子じゃないわ」 私は怒りに震える声で吐き捨てた。 「そして、彼の父親は世界で最も偉大な男性よ。あなたがなれるはずもないような、素晴らしい人」 私は去ろうとしたが、クロエが私の腕を掴んだ。 「よくも!」 彼女は金切り声を上げ、そして彼女の手が飛んできた。彼女の平手打ちの鋭い音が、大広間に響き渡った。 「嘘をついて、この家族を侮辱するなんて!あなたと、その私生児が!」 彼女は群衆に向き直った。その顔は正義の怒りに満ちた仮面をかぶっている。 「彼女はすべてを台無しにしようとしているわ!ここから追い出して!」 康子の親戚たちが前に押し寄せた。その顔は憎悪に歪んでいる。 彼らは私を取り囲み、押し、突き飛ばした。 拳が私の胃にめり込み、息が詰まった。 私は大輝の周りに体を丸め、背中と頭に降り注ぐ打撃から彼を守ろうとした。 痛みの霞の中で、私は瑛士を見た。 彼は凍りつき、その顔は恐怖とためらいのキャンバスだった。 彼は何もしなかった。 そしてその瞬間、私は悟った。 何年も前に私の命を救ってくれた彼に感じていた恩義は、これで完全に返済されたのだと。 利子付きで。 突然、小さく、必死な声が混沌を切り裂いた。 大輝が私の腕から抜け出し、瑛士の足元に身を投げ出していた。 その小さな手は彼のズボンの生地を掴んでいる。 「お願い」 彼はしゃくりあげた。その声は、子供が知るべきではない痛みでかすれていた。 「お願いします、旦那様。やめさせて。ママをいじめないで」 旦那様。 パパじゃない。旦那様。 世界が止まった。 殴打が止まった。 瑛士は大輝を見下ろした。その顔は青ざめ、全身が震えていた。 「今…なんと言った?」 大輝は顔を上げた。涙が頬を伝っていたが、その視線は揺るぎなく、不自然なほど大人びていた。 「私たちはもう行きます、旦那様。もうご迷惑はおかけしません」 彼はふらつきながら立ち上がり、私を助け起こした。 手を取り合って、小さな、傷ついた少年が、打ちのめされた母親を導いていく。 部屋中のすべての目が見守る中、私たちはその大広間を歩き去った。 ポケットの中でスマホが震えた。瑛士からのテキストだった。 『家に帰ってくれ、卯月。大輝を連れて。今夜そこへ行く。すべて元に戻すから』 大輝は画面をちらりと見た。その顔は無表情だった。 彼は私を見上げた。 「ママ」 彼は静かだが、しっかりとした声で言った。 「譲二おじいちゃまは、僕たちに会いたがってる?」 「何よりもね」 私は囁いた。 「じゃあ、今すぐ行こう」 その夜、私は暖炉に火を熾した。 すべてを燃やした。 すべての写真、すべての手紙、あの小さな木彫りの狼も。 私たちの人生の最後の記憶が灰に変わるのを見届けると、私は大輝の手を取った。 私たちはドアから出て、二度と振り返らなかった。 ---