「彼女、いる?」 宮沢沙織は真っ赤なスポーツカーのボンネットに腰をかけていた。体にフィットした赤いミニドレスがセクシーな腰のラインを浮き彫りにしている。小顔で整った顔立ちは、紛れもない美貌だ。 星のように澄んだその瞳は、今や冷たい虚ろいをたたえていた。 バイクの状態を屈んで見ていた男が、その言葉に顔を上げた。 冷ややかで整った顔立ちには、野性的なインパクトがある。街灯の下に立つ彼は、まるでフェロモン全開のライオンのようだ。 「独身だ」 低く響く声は、谷間を吹き抜ける風のようで、心地よく、人の胸を焦がす。 沙織は満足そうに、少しだけ身をかがめた。 大きなウェーブのかかった栗色の長い髪が胸元に滑り落ちる。髪の隙間には、クラッカーから飛び出した色とりどりの紙吹雪が星のように散らばっていた。 「一晩付き合って。それで修理代はチャラにしてあげる」 彼女は、やられたらやり返すタイプだ。松本海斗がよくも浮気したなら、、自分も他の男と寝て返してやる! それにこの男、スタイルも顔も、すべてが彼女の好みにぴったりだった。 海斗なんか比べものにならないくらいだ。きっと、海斗よりもずっと……激しく、彼女を満たしてくれるに違いない。 男の目が細く、鋭くなった。彼は、数千万円はするスーパーカーに付いたかすり傷を一瞥し、それから自分のがほぼ廃車同然の愛車へと視線を戻した。 実のところ、彼女の車なんて、彼のバイクのタイヤ一つ分の価値にも及ばないのだが。 彼は目を細めると、彼女を腕の中に引き寄せた。整った唇がほんのり上がり、意味深な笑みを浮かべた。 「いいよ。どうせ俺に修理代なんて払えないしな。でも……後悔するなよ、子猫ちゃん」 彼は骨がないかのように柔らかい腰を抱え上げ、そのまま肩に担ぎ、近くのホテルへと向かった。 部屋に入るや否や、沙織は身を翻して男をベッドに押し倒した。ラブホテルは小道具が豊富にあるのが特徴だ。彼女は引き出しを開けると、手錠で男の両手をベッドヘッドにスムーズに繋いでしまった。 「私がリードするのが好きなの」 情熱に火照った肌は誘うような緋色を帯びている。 未熟でぎこちないけれど、懸命に咲き誇ろうとするバラのように、曖昧な照明の下で揺らめいていた。。 強引で頑固な行為は、あっけなく終わった。男が満足したかどうかなんて、気にも留めなかった。 「これでお互いに完済だ」 芳しい汗にまみれた彼女だったが、次の瞬間には男に体勢を入れ替えられ、ベッドに押し付けられていた。切れ長の瞳には、暗い炎が燃え上がっていた。 「これだけ?一晩って約束しただろ? まだ時間は早いぜ」 いつの間に手錠を外したのか考える隙も与えず、彼は激しく突き進んできて、彼女の理性をすべて奪った。 男の大きな手は彼女の真似をして口を覆い、目尻を潤ませ、涙をこらえきれないようにさせた。彼女は嗚咽しながら、ただ受け入れるしかなかった。 一晩と言ったら、本当に一晩中ずっとだった。 沙織は自分が何度意識を失ったのかさえわからなかった。男は飽きることを知らない野獣のように、彼女のすべてを貪り尽くした。 最後に、ドレスを引っ掛けて身に着ける頃には、振り返る勇気すら残っていなかった。 声も出せないほど嗄れた喉が、鋭く警告を発した。 「事故現場の動画は保存してある。このドアを出たら他人同士になる。自分の口はしっかり閉じておけ」 背後から男のだらけた声が響き、満足げな余韻が漂っていた。 「奇遇だな。俺も事故の動画は保存してある」 沙織はその言葉の真意に気づかないまま、バッグを掴んでドアへと向かった。 腰はぐらついて体を支えきれず、よろめいて転びそうになった。 男の意地の悪い笑い声が低く響いた。 「本当にもう一眠りしていかなくていいのか?」 最低! 沙織は思い切りドアを叩きつけた。その最後の力は、まるで男の顔に打ちつけたいような勢いだった。 彼女は気づかなかった。背後で男が送る視線には、狂おしいほどの独占欲が込められていたことを。 ホテルのロビーにある液晶テレビでは、リアルタイムでニュースが流れていた。 「京州の名門同士の結婚話、スキャンダルに!松本家の御曹司、結婚を強要された疑いで婚約パーティー中に不機嫌そうに退席。宮沢家のお嬢様は駄目元でした」 「松本家の御曹司は、お嬢様の異母姉と親しいという噂もあります。お姉様の母親は前妻ですが、なんとその母親がまた宮沢社長の元に戻ったとか。もしかすると、姉妹で花嫁が入れ替わるかもしれませんね」 画面の中の女性は赤いミニドレスを着て、髪にはクラッカーの紙吹雪が散らばっている。幸せそうな笑顔が凍りついたその瞬間を、カメラは執拗にアップで映し出し、醜く晒していた。 一夜の艶事を経て、沙織は不思議なことに胸が締め付けられるような激しい痛みは感じなかった。 以前は海斗に執着しすぎていたのだ。制服時代からウェディングドレスまで続く恋が最も強固だと信じていたから、あんな風に踏みにじられた。 彼以外にも、満足させてくれる男はいるじゃないか。 例えば……昨晩の、体力がつよくて一晩中付き合ってくれた男のように。
「チェックアウト、お願いします」 フロントの二人のスタッフは、まさにその話題で持ちきりだった。顔を上げると、動画と瓜二つの顔が目の前にある。話し声がピタリと止まった。 浮かべた笑顔には、どうにも隠しきれないぎこちなさが滲んでいる。 そのうちの一人が、わざわざ手元の動画と目の前の驚くほど美しい女性を見比べ、視線を顔から首筋へと滑らせた。驚きと好奇心を押し隠しながら、淡々と手続きを進めていく。 車に乗り込み、帰路についた沙織は、フロントで見られた奇妙な視線の意味に思い当たった。 バッグから鏡を取り出し、首筋を確認する。そこには、目を覆いたくなるほど生々しいキスマークが残っていた。 彼女はファンデーションを取り出し、痕跡を軽く叩くようにして隠した。 あの男はいったい、どれほどの体力をを持っているのか。 疲れというものを知らないかのようだった。 交通事故のいざこざをきっかけに始まった、ただの一夜の過ち。そう考えると、沙織は思わず自嘲気味に笑ってしまった。 30分後。スポーツカーが宮沢家の別荘へ滑り込むのと、ほぼ同時に黒のポルシェ・カイエンが並ぶように停車した。 ドアが開き、海斗は壊れ物でも扱うかのように大切そうに宮沢雪乃をエスコートして降ろした。沙織の姿を認めた瞬間、その顔色がすっと曇った。 「雪乃を刺激するな。話なら後で聞く」 昔と変わらない落ち着き払った態度。「生理中は冷たいもの禁止」「スカートで登校するな」と彼女を管理していた頃の口調そのままだ。 かつては、そんな海斗を愛していた。 今はただ、吐き気がするだけだが。 「ちょうどいいわ。婚約破棄しましょ」 陽光の下、しなやかに立つ彼女の肌は雪のように白い。その絶世の美貌は言葉にできないほど艶めいていた。 海斗は一瞬言葉を失った。だが、彼女の首元に散らばるキスマークに気づいた途端、瞳が一気に赤く染まる。 雪乃を放り出し、大股で駆け寄ると、沙織の手首を万力のように掴み上げた。骨が砕けそうな強さだ。 「昨夜、何をしてた?誰に触らせたんだ!」 その剣幕は、まるで浮気現場を押さえた夫のよう。 皮肉にもほどがある。 「離して」沙織の瞳は、氷のように冷え切っていた。 「俺が甘やかしすぎたせいで、こんな図に乗るようになったのか。まさか首にキスマークなんてつけてくるとはな」 海斗は、沙織が自分を裏切るなどとは微塵も思っていない。すべては自分への当てつけだと、勝手に決めつけていた。 振りほどこうとしても、力負けしてビクともしない。沙織はふと、挑発的な笑みを浮かべた。 「首だけじゃないわよ。全身くまなくね。彼は私を抱きながら『愛しい君』なんて囁いて……情熱的に、何度も」 海斗の表情が見る見る歪み、掴んでいた手の力が、思わず緩んだ。 「……その件については説明する。だから、こんな真似で雪乃を刺激するな」 どうやら彼は、あの動画の存在を知っているらしい。 つくづく、救いようのない男だ。 沙織は我慢の限界を超え、その頬に平手打ちを見舞った。 「何するのよ!」悲鳴を上げて雪乃が駆け寄り、沙織の腰にしがみつくように抱きつくと、勢いよく彼女を押しのけた。「私が海斗さんを好きなの!私が彼につきまとったのよ!あんなに優しくしてくれてるのに、どうしてぶったりするの!」 涙ながらの健気な訴えとは裏腹に、沙織の耳元には陰湿で嘲るような低い声が届いた。 「結婚式ですっぽかされた気分はどう? 私はね、手首を少し切っただけで、海斗が心配で仕方ないって、ずーっと抱きしめてキスしてくれたの……」 毒蛇に巻きつかれたような、冷たくて気持ち悪い感覚。沙織はうんざりして、その体を振り払おうと手を伸ばした。指先が雪乃の腕に触れた、その瞬間――。「きゃあ!」雪乃は悲鳴を上げて派手に吹き飛び、無様に尻餅をついた。包帯を巻いた手首から、じわりと赤い血が滲み出した。 「宮沢沙織!」 海斗は怒りで顔面蒼白になり、急いで雪乃を抱き起こした。「謝れ!今すぐ雪乃に謝罪しろ!」 「海斗さん、そんなに怒らないで」雪乃は自分に向けられた海斗の手を握りしめ、情愛たっぷりに、けれど哀れっぽく訴えた。「私が悪いの。人の婚約者を好きになったりして……沙織ちゃんが怒るのも当然だわ。私が我慢すればいいだけの話よ」 そのいじらしい姿に、まんまと絆される男がここに一人。 「雪乃、泣くな」
沙織は、人目もはばからず寄り添う二人の姿を冷ややかに眺め、小さく鼻で笑った。「自分が卑しい真似をしてるって、自覚はあるのね」 男の鋭い視線が突き刺さった。 「本当に君にはがっかりだ。彼女は君の姉さんだぞ。危険な状態からやっと抜け出したばかりなのに、わざわざそんなふうに刺激する必要があるのか?」 「姉さん?」沙織は軽く笑ったが、その瞳は冷え切っていた。「妹の婚約者と寝る姉さんのこと?」 「お前!」海斗は言葉に詰まり、宮沢雪乃を支えながら宮沢家の方へ歩き出した。沙織の横を通り過ぎた瞬間、ふいに足を止め、冷えた声で言い放った。「入り口で待ってろ」 彼はいつもの命令口調だった。そして、沙織が当然のように従うと信じ切っている態度でもあった。 だが次の瞬間、目の前を赤い影が横切った。 沙織はクラッチバッグを提げ、片手で収まりそうな細い腰を揺らしながら、黒いラムスキンの靴音を響かせた。その姿は艶やかな赤い狐のように、不羈だった。 「私の家よ。あんたに指図される理由はないだろう」 海斗はその場に立ち尽くし、遠ざかる背中を見つめて我を忘れた。 なんだか、沙織が変わってしまったような気がした。 「海斗さん」 横から甘く柔らかい声が聞こえ、彼の思考は引き戻された。 「あの人は昔からああいう性格なの。気にしないで。後でちゃんと言っておくから、もうあなたを怒らせたりしないわ。まずは部屋に戻って休もう」 雪乃は目を赤くし、彼の腕を掴んで動こうとしない。 「海斗さん……そばにいてくれるって、約束したでしょう?」 泣き出しそうな深い情愛に、海斗の心が揺れた。 「もちろんだ。君は僕が好きすぎて思い詰めてしまったんだから。怪我が治るまで、ずっとそばにいるよ」 沙織が二階へ上がり、シャワーを浴びて着替えを済ませた頃、ようやく海斗と雪乃が入ってきた。 家の玄関先まで来て浮気現場を見せつけるとは。バルコニーから見ていて吐き気がした。 「キスはもう十分?」 沙織は黒のレザーソファに身を沈め、細長い脚を気だるげに組む。その姿は、警戒心むき出しの野良猫のようだった。 言葉が終わるや否や、階上から怒鳴り声が響いた。 「また何をでたらめなことを!ますます礼儀を知らなくなったな!」 宮沢健一の四角ばった顔には、不機嫌さがありありと浮かんでいる。彼の後ろから降りてきたのは小林美和、健一の元妻だ。 今や主の座を乗っ取り、世間からは名実ともに宮沢夫人となっている。 全身を宝飾品で飾り立てても、顔に滲む意地の悪さは隠しきれない。ただし、善人を装う演技力に関しては、雪乃以上だった。 沙織は言い争うのも面倒で、スマホを数回操作した。次の瞬間、玄関の防犯カメラ映像が、リビングの大型液晶テレビに映し出される。 画面の中では、男女が固く抱き合い、我を忘れて貪るように口づけている。口元には唾液の糸さえ見えた。 「沙織ちゃん、何するのよ!」 雪乃は顔を覆い、人に見られるのが恥ずかしいとばかりに悲鳴を上げ、二階へと駆け上がっていく。その間も、しくしくという泣き声が聞こえていた。 まるで浮気現場を押さえられたのではなく、とんでもない被害を受けたかのような振る舞いだった。 「雪乃、もう馬鹿な真似はしないでちょうだい!」 美和は慌てて後を追いかけつつ、わざとらしい焦り声を上げた。雪乃は病人なのだから刺激してはいけないと、誰かさんに思い出させるためだ。 案の定、健一は怒りに任せてテレビの電源コードを乱暴に引き抜いた。 「宮沢沙織、家をここまで掻き乱さないと気が済まないのか!」 「私が騒ぎを起こしているの?それとも宮沢雪乃が起こしてるの?」 沙織は、かつて自分を愛してくれた父親を冷ややかに見つめた。心は氷のように冷え切っている。 母が亡くなってから初めて思い知ったのだ。大切にしていた家族の絆など、一瞬で跡形もなく崩れ去るものなのだと。 まるまる16年だ。母は心血を注いで支えてきたのに、初七日すら明けないうちに、この男は元妻とその娘を家に迎え入れた。 どうしてこれほど非情になれるのか。