私の夫、神宮寺玲は、東京で最も悪名高いプレイボーイだった。十九歳の女の子を、季節ごとに着せ替えるようにとっかえひっかえすることで有名だった。 この五年間、私は自分が彼をようやく手懐けた、特別な存在なのだと信じ込んでいた。 その幻想が粉々に砕け散ったのは、父が骨髄移植を必要とした時だった。完璧なドナーは、アイリスと名乗る十九歳の少女。 手術当日、玲は彼女を病院に連れて行くことより、ベッドで彼女と過ごすことを選んだ。そのせいで、父は死んだ。 彼の裏切りは、それだけでは終わらなかった。 エレベーターが落下した時、彼は真っ先に彼女を助け出し、私を見捨てた。 シャンデリアが墜落した時、彼は自分の体で彼女を庇い、血を流して倒れる私を跨いでいった。 あげくの果てに、死んだ父が遺してくれたたった一つの形見を盗んで、彼女に渡した。 その全ての仕打ちの間、彼は私を「わがままで恩知らずだ」と罵った。私の父が、もうこの世にいないという事実には、全く気づかないまま。 だから私は、静かに離婚届にサインし、姿を消した。 私が発った日、彼からメッセージが届いた。 「朗報だ、親父さんの新しいドナーが見つかった。手術の日程を決めに行こう」 第1章 小野寺恵美の視点: 私の夫、神宮寺玲が、十九歳の新しいお気に入りの少女を慰めることを選んだせいで、父は死んだ。 あの子が病院へ来てさえくれれば、父の命を救うはずだった骨髄を提供してくれたはずなのに。 東京という街で、神宮寺玲という名前は、夜景のように煌びやかに輝いていた。 彼は不動産界に君臨する神宮寺財閥の御曹司。その一挙手一投足は、ゴシップ誌と経済誌に同じ熱量で記録されるような男だった。 彼の評判は、彼自身よりも先に歩いていた。 彼には、ほとんど病的なまでにはっきりとした好みがあった。若く、無垢な、十九歳前後の女子大生。 彼女たちは、彼の人生における季節の花のようなものだった。 秋学期と共に現れ、春休みまでには枯れていく。 彼のカリスマ性と富に目がくらんだ奨学生たちは、プレゼント攻めにされ、パーティーでこれみよがしに見せびらかされた後、あっという間に捨てられる。 彼女たちの任期は、まるで皇居の衛兵交代のように予測可能だった。短く、華やかな見世物の後には、突然の、そして決定的な退場が待っている。 街は彼の武勇伝で持ちきりだった。 個展を開いてもらった直後に連絡を絶たれた慶應の美大生。 貴重な初版本のコレクションを贈られた後、自分の部屋の鍵が使えなくなっていることに気づいた早稲田の文学部生。 それは残酷で、よくできた仕組みだった。そして東京は、どこか他人事のような fascination でそれを見守っていた。 そして、私がいた。 私は小野寺恵美。専門学校の学費を稼ぐために、三つのバイトを掛け持ちするフリーター。 ペントハウスや由緒正しい家柄なんていう、彼らの世界とは無縁の人間。 私がいたのは、深夜シフトとカップラーメン、そして元高校の国語教師である父の、静かで猛烈な愛情に満ちた世界だった。 そして私もまた、神宮寺玲の世界と衝突した時、十九歳だった。 彼の猛烈なアプローチは、恐ろしく、そして intoxicating だった。 それは東京のセレブたちを騒がせ、私の小さな世界を息もできないほど驚かせた、嵐のようなロマンスだった。 あのプレイボーイが、あの放蕩息子が、突然、信じられないことに、生まれ変わったのだ。 彼は女子大生の行列との関係を断ち切った。 私のお気に入りのユリで私の小さなアパートを埋め尽くすためだけに、花屋を丸ごと買い占めた。 父、小野寺健一の好物であるシチューの作り方を覚え、父がシェイクスピアについて熱弁を振るう間、私たちの狭いキッチンで辛抱強く座っていた。 私が車酔いしやすいという理由で、あれほど愛していたスポーツカーさえ手放した。 彼は渋谷のスクランブル交差点の真ん中で、片膝をついてプロポーズした。 いつもは高級ブランドの広告を映し出す巨大ビジョンに、たった一つの、目が眩むような問いかけが表示されていた。 「小野寺恵美さん、結婚してください」 私は、誰もが囁くおとぎ話の主人公になった。 手に負えない野獣を手懐けた、庶民の娘。 五年間、彼は完璧な夫だった。 献身的で、私を溺愛し、そして私が深い愛だと勘違いしていた激しい独占欲を見せた。 彼は私の周りに愛情の要塞を築き、私は心の底から、自分が彼の唯一無二の存在であり、彼の残酷なルールの例外なのだと信じていた。 その幻想が砕け散ったのは、父が病気になった時だった。 急性骨髄性白血病。 医師の言葉は、死刑宣告のように感じられた。 唯一の希望は、骨髄移植。 世界中のドナーバンクを探したが、適合者はいなかった。 絶望が、濃く、息苦しい霧のように立ち込め始めた。 私の完璧な夫、玲が、救世主のように現れた。 彼は神宮寺の財力を使って、大規模なドナー募集キャンペーンを市全域で開始し、検査キットの費用を負担し、父の話をビルボードに掲載した。 彼は泣きじゃくる私を抱きしめ、囁いた。 「僕が必ず助けるよ、恵美。約束する」 そして、奇跡が起きた。 完璧に適合するドナーが見つかったのだ。 彼女の名前は、結城アイリス。慶應大学の奨学生。 彼女は、十九歳だった。 初めて彼女に会った時、彼女は病院のロビーで、か弱く、おどおどした様子で立っていた。 玲が連れてきたのだ。 彼女はシンプルな白いワンピースを着て、バックパックのストラップを神経質に握りしめていた。 彼女は大きな、崇拝するような瞳で玲を見上げ、助ける機会を与えてくれたことに、か細い声で感謝を述べた。 彼女の年齢という偶然の一致――あの魔法の、呪われた数字――が背筋を走ったが、私はすぐにその考えを打ち消した。 この子は、私の父の命を救ってくれる。彼女は天使だ。 手術の日程が決まった。 父、健一は無菌室に移され、移植に備えて化学療法で免疫系が徹底的に破壊された。 彼は無防備で、抵抗できず、アイリスがその身に宿す命の贈り物を待っていた。 手術当日、冷たく無機質な火曜日がやってきた。 移植のタイムリミットは、恐ろしいほど短かった。 化学療法のプロトコルが完了すると、父の体は白紙の状態になり、わずかな感染症にも抵抗できなくなる。 新しい骨髄は、危機的な時間枠内に移植されなければならなかった。 時間だけが、刻々と過ぎていく。 ベッドの横のモニターに表示される父のバイタルサインが、揺らぎ始めた。 機械のビープ音が不規則になり、私の高まるパニックに狂ったようなBGMを奏でていた。 父の容態が、急変している。 防御機能を失った彼の体が、限界を迎えていた。 私は必死でアイリスに電話をかけた。出ない。 もう一度かける。また、もう一度。 手が震えて、携帯をまともに持てない。 応答のない呼び出し音が鳴るたびに、心臓をハンマーで殴られるような気がした。 十数回鳴らして、ようやく彼女は電話に出た。 彼女の声は小さく、奇妙に息の詰まるようなためらいが混じっていた。 「もしもし?」 「アイリス、どこにいるの!?」 私は叫んだ。声がひび割れる。 「病院から電話があったの。父が危篤状態なのよ!今すぐここに来て!手術を、今すぐしないと!」 「私…私、できない…」 彼女はどもった。声が震えている。 「怖いの、恵美さん。注射針のことを考えると…もう…無理…」 「怖い?アイリス、これは父の命がかかってるのよ――」 私が言い終わる前に、聞き慣れた、気だるい声が彼女の電話の向こうから聞こえてきた。 その声に、私の血の気が引いた。 「ベイビー、誰と話してるんだ?ベッドに戻っておいで」 玲だった。 私の玲。私の夫。 吐き気がこみ上げてきた。 世界が、ぐらりと傾いた。 耳鳴りがする。甲高い悲鳴が、私自身の電話の向こうで鳴り響く、心臓モニターの狂ったビープ音をかき消した。 私は電話を切った。 もう一言も聞く必要はなかった。 私は走った。 病院の待合室から飛び出し、頭の中は空っぽで、ただ howling void。 タクシーを拾い、絞り出すような声で住所を告げた――玲が「海外からのビジネスパートナー用」に確保している、五つ星ホテルのスイートルームの住所を。 彼の黒いベントレーが、私のために乗り心地が一番良いからと買ったあの車が、臆面もなく正面に停まっていた。 キーカードを使った。手が震えて、ドアを開けるのに三回もかかった。 スイートルームは、ガラスとミニマリストな家具が広がる空間だった。 そして、そこに、豪華なソファの上に、私の記憶に永遠に焼き付く光景があった。 結城アイリス、あのか弱く、臆病だった少女が、私の夫の腕の中にすっぽりと収まっていた。 彼女は彼のシルクのシャツを一枚だけ羽織り、袖を肘までまくり上げていた。 彼女の頭は彼の胸に乗り、その表情は至福に満ちていた。 玲は彼女の髪を、信じられないほど優しく撫でていた。かつて、私に触れたのと同じように。 彼は彼女の耳元で何かを囁き、その唇が彼女のこめかみに触れた。 「手術のことは心配しなくていい」 彼の低い、落ち着いた声が聞こえた。 「延期すればいいだけだ。数日くらい、大した違いはない。一番大事なのは、君が幸せでいることだ」 彼は身を乗り出し、彼女の額に柔らかくキスをした。 何千回と私にしてくれた、あの所有欲に満ちた、優しいキス。 私だけのためにあると、彼が言っていたキス。 アイリスは、甘ったるい声でくすくす笑った。 「玲さんって、本当に優しい。あなたなしじゃ、どうしたらいいかわからない」 「その必要はないよ」 彼は囁き返した。 「僕が全部、面倒を見るから」 その瞬間、私の携帯が再び鳴った。 甲高い音が、私の恐怖の靄を切り裂いた。 発信者表示を見た。 病院からだった。 私は、喉が締め付けられるのを感じながら、電話に出た。 「奥様」 医師の声は重く、沈んでいた。 「誠に申し訳ありません。我々は全力を尽くしたのですが…」 彼が最後まで言う必要はなかった。 「お父様は、たった今…息を引き取られました」 世界が、静寂に包まれた。 街の喧騒も、ホテルの空調の音も、私自身の心臓の鼓動さえも――全てが、ただ止まった。 携帯が、痺れた指から滑り落ち、大理石の床に音を立てて転がった。 その音で、二人がこちらを向いた。 そしてその瞬間、私が戸口に立ち、自分自身の破滅の宴に現れた亡霊のように佇んでいたその時、私はようやく理解した。 おとぎ話は終わった。 そもそも、本物ですらなかったのだ。 私はただの季節の一つで、とうとう春が訪れたのだ。 私の世界は、ただ砕け散ったのではない。 存在そのものが、消滅した。 私はよろめき、視界の端から闇が押し寄せてきて、私を丸ごと飲み込もうとしていた。 最後に見たのは玲の顔。その表情は、優しい愛情から、邪魔が入ったことへの苛立ちへと変わっていた。 彼は、今起きたことの重大さを、まだ全く理解していなかった。 理解できるはずもなかった。 だって彼にとって、そんなことはどうでもよかったのだから。
小野寺恵美の視点: 夢。これは夢に違いない。 私は霞のかかった記憶の中を漂っていた。全てが始まった、あの日に。 五年前のことだ。 記憶は鮮明で、残酷なほど色鮮やかに、もう私の人生ではない人生を再生していた。 私は十九歳だった。 そのディテールはいつも、私の過去の風景の中で、点滅するネオンサインのように際立っていた。 十九歳。神宮寺玲が、いつも好んでいた、まさにその年齢。 彼は東京の王様で、銀座の王子様だった。 そして私は、彼が出席していた高級ケータリングのイベントで、月々の家賃よりも高価なシャンパングラスのトレイを必死にバランスを取りながら運ぶ、ただのウェイトレスだった。 混雑したボールルームの向こうで、私たちの視線が交わった。 ありきたりな、三文恋愛小説のような展開だけど、それは実際に起こった。 彼の視線、驚くほど強烈な青い瞳が、騒音と煌めきを突き抜け、めまいがするような一瞬、私は部屋の中でたった一人の人間になったような気がした。 彼は神宮寺玲。 私は彼が誰なのか知っていた。誰もが知っていた。 悪名高いプレイボーイ、私と同じ年頃の女の子に目がない、恋多き男。 純粋で、混じり気のないパニックが、私を貫いた。 彼は一緒にいたセレブの輪から離れ、捕食者のような優雅さで私に向かってきた。 彼は私の目の前で立ち止まり、その長身が私に影を落とした。 「君、これ運んでいい年齢なの?」 彼は低い、面白がるような声で尋ねると、私の震えるトレイからグラスを一つ摘み上げた。 残りは、言うまでもなく、歴史になった。 それはまるで、金と星屑で紡がれたファンタジーのような、目まぐるしい歴史だった。 彼は執拗で、一途な集中力で私を追いかけた。それは恐ろしく、そして完全に魅惑的だった。 彼は私の専門学校の授業に、ヴィンテージのロールスロイスを迎えに寄越し、クラスメートたちを困惑させた。 彼は私の小さなアパートを、ジャングルのように見えるほどたくさんの花で埋め尽くした。 私が一度、映画で見たパリの街並みが好きだと言っただけで、三回目のデートに私をパリへ連れて行った。 彼は私のどんな気まぐれにも応え、何気ない一言も全て覚えていた。 私がパクチーが嫌いなこと、古い白黒映画が好きなこと、ピアノを習っておけばよかったと密かに願っていること。 翌日、スタインウェイのグランドピアノが、市内で最も人気の講師と共に私のアパートに届けられた。 世界は、プレイボーイがついに落ち着いたと見た。 私は、失われたピースを見つけたかのような男を見た。 彼の母親、神宮寺綾子、冷徹で現実的な神宮寺家の女帝は、反対した。 彼女は私を庶民、金目当ての女、一時的な気晴らしと見なした。 しかし、玲は断固として譲らなかった。 彼女が私たちの結婚を祝福しなければ、相続権を放棄し、帝国から去ると脅した。 私たちの結婚式で、千本の白いバラのアーチの下、彼は私の目を見つめ、壮大な大聖堂に響き渡る誓いを立てた。 「みんな、僕には愛なんてないと決めつけていた」 彼は囁き、親指で私の頬をなぞった。 「彼らは正しかった。君に会うまでは。君はただの女の子じゃない。君は唯一の、そして最後の女性だ。今日この日から、僕の世界は君で始まり、君で終わる」 私は彼を信じた。 ああ、なんて信じきっていたんだろう。 私たちの結婚生活の五年間は、その約束の証だった。 彼は完璧な夫だった。 記念日や誕生日を一度も忘れたことはなかった。 私が寂しがっていると、夕食を共にするためだけに世界中を飛び回った。 彼はプロポーズした渋谷の交差点のGPS座標を内側に刻んだ指輪を特注した。 「帰り道を忘れないようにね」と彼は言った。 私の人生は、おとぎ話だった。 そして、父が病気になった。 玲は私の支えだった。 完璧な適合者である結城アイリスを見つけてくれたのも彼だった。 彼は彼女のスポンサーになり、学費、住居、考えられる全ての必要経費を支払った。 「ドナーを幸せで健康に保たないとね、恵美」 彼は私を腕に抱きながら説明した。 「彼女は僕たちの天使だ。僕たちは彼女に全てを捧げなければならない」 私は疑問に思わなかった。 父のことで頭がいっぱいで、微妙な変化に気づかなかった。 玲がアイリスの様子を伺う電話が、私の様子を伺う電話よりも頻繁になったこと。 彼が彼女にプレゼントを買い始めたこと――「勉強のため」の新しいノートパソコン、「慶應で浮かないように」のデザイナーズブランドの服、「安全に病院に通えるように」の新車。 彼は彼女と過ごす時間が増え、ディナーに、美術館に、オペラに連れて行くようになった。 「彼女の気分を上げておかないと」と彼は言った。「幸せなドナーは、健康なドナーだからね」 かつて私が風邪をひいただけで、数億円の取引を放り出して帰ってきた夫が、今ではアイリスが頭痛がするという理由で、私たちのディナーデートをキャンセルするようになった。 かつて私たちのペントハウスを埋め尽くしていた花は、今では彼女の寮の部屋に届けられていた。 私たちが古い映画を見て過ごした静かな夜は、アイリスがドナーになることで「不安を感じている」からと、彼が慌てて駆けつける時間に取って代わられた。 変化はあまりにも緩やかで、父への配慮というマントの下に巧妙に隠されていたため、私はほとんど気づかなかった。ほとんど。 冷たい恐怖が、私の胃の中でとぐろを巻き始めた。 おとぎ話が、檻のように感じられ始めた。 ある夜、私はついに彼に問い詰めた。 「玲、これって…ちょっとやりすぎじゃない?あなたの時間の全てを、彼女と過ごしているわ」 彼は私を見た。その表情は、優しく諭すようなものだった。 「恵美、恩知らずなことを言わないでくれ。彼女は君のお父さんの命を救ってくれるんだ。今、彼女の幸せが一番大事なことじゃないか?」 彼は正しかった、そうでしょう? なんて自分はわがままなんだろう。私は恥ずかしくなった。 私は謝罪し、疑念を心の奥に埋めた。 彼を信じることを選んだ。 その信頼が、私の破滅を招いた。 あの夜の記憶、彼女との電話での彼の声は、嘘だった。 彼はただ彼女を慰めていただけではなかった。 私はその時、震える声で尋ねた。 「あなたの約束は、どうなったの?私は違うって、言ったじゃない」 彼はため息をついた。純粋な苛立ちの音だった。 「君は違ったよ、恵美。君は十九歳だった。純粋で、穢れを知らなかった。でも、君はもう十九歳じゃない。アイリスはそうだ。違いがわかるかい?」 「じゃあ、私自身じゃなかったの?」 私は囁いた。言葉が喉に突き刺さるガラスの破片のようだった。 「ただ、私の年齢だけだったの?」 「大げさに言うな」 彼は吐き捨てた。 「僕はアイリスの面倒を見なければならない。彼女には借りがある。僕たち二人ともだ」 嘘は完璧で、完全だった。 彼は父の命を、自らの裏切りの盾にしていたのだ。 鍵が錠に差し込まれる音で、私は夢から、過去から、現実に引き戻された。 目を開けると、病院の無機質な白い天井が広がっていた。 一時間前、葬儀社から電話があった。 父の葬儀の手配は済んだ。 彼は逝ってしまった。 胸にぽっかりと開いた穴は、物理的な痛みであり、かつて心臓があった場所の空虚だった。 玲は、ここにいなかった。 私が倒れてから、一度も。 彼はアイリスと一緒にいた。 それは、彼女のインスタグラムのフィードを無感動にスクロールして知った。 たった三十分前の、新しい投稿。 玲のベントレーのハンドルに置かれた彼女の手の写真。 手首には、新しいダイヤモンドのブレスレットが輝いていた。 そして背景には、ピントが合っていないが、運転する玲の横顔が、優しい笑みを浮かべて写っていた。 キャプションにはこう書かれていた。 「気分転換に、サプライズ旅行に連れて行ってくれる人がいるの。本当に恵まれてる。#感謝 #最高の一日」 私はその投稿に「いいね」を押した。 指が勝手に動いた。機械の中の幽霊のように。 携帯がメッセージの着信で震えた。玲からだった。 「アイリスがまだ病院の一件で少し動揺している。気分転換に、数日間軽井沢に連れて行って、再手術の前にリラックスさせてくる。心配するな、全部僕がやるから」 私はメッセージを睨みつけた。 苦々しい、ヒステリックな笑いが喉の奥から込み上げてきた。 彼は知らない。 彼は新しいおもちゃを慰めるのに忙しくて、確認さえしていなかった。 再手術などないことを、彼は知らない。 父が死んだことを、彼は知らない。 彼の怠慢が、彼の全くの自己中心的で自己陶酔的な裏切りが、私が知る限り最も優しい男を殺したことを、彼は知らない。 彼はこれを、ただの障害だと思っている。 彼のお金で解決できる、また一つの問題だと。 彼は間違っていた。 これが、終わりだ。 私を恐怖させるほどの冷静さで、私は携帯を開き、五年間一度もかけなかった番号に電話をかけた。 「神宮寺綾子様のオフィスでございます」 「恵美です」 私は平坦で、生気のない声で言った。 「離婚したいと、お伝えください。どんな書類にもサインします。一円もいりません。ただ、解放されたいんです」 「奥様」 秘書はショックを受けたようだった。 「よろしいのですか?」 「これほど確信したことは、人生で一度もありません」 私は言った。 「彼には、彼の十九歳たちをくれてやると伝えてください。全員、彼のものでいいわ」 私は電話を切り、綾子の弁護士が一時間以内にメールで送ってきた離婚届を見つめた。 その効率の良さは冷酷だったが、私はそれに感謝した。 がらんとした病院のビジネスセンターの隅で、プリンターが唸り、私の人生を彼の人生から切り離す書類を吐き出した。 一枚一枚が、墓石のように感じられた。 私はペンを手に取った。 手は、震えていなかった。 これは、ただの終わりではない。 これは、私の戦争の始まりだった。
小野寺恵美の視点: 翌朝、私は自分が経営するギャラリーに足を踏み入れた。 この四年間、私の聖域だった場所。 そして、上司のクララに辞表を渡した。 「恵美?これは何?」 彼女は、私の手からパリッとした封筒を受け取りながら、驚きで目を見開いた。 彼女は上司というより、友人だった。 父のこと、移植のことも知っていた。 「辞めます、クララさん」 私は静かだが、きっぱりとした声で言った。 「この街を、離れます」 「でも…お父さんの手術は?大丈夫なの?」 新たな痛みの波が押し寄せたが、私はそれを押し殺した。 「父は、亡くなりました。もう、いません」 彼女の顔が曇った。 「ああ、恵美。なんてこと…本当に、ごめんなさい」 彼女はデスクを回り、私を抱きしめた。 「玲さんは?あなたが辞めること、知ってるの?彼はあなたがこの場所をどれだけ愛しているか、知っているのに」 「私たちは、離婚します」 私はそっと身を離しながら言った。 その言葉は、まるで習い始めたばかりの外国語のように、舌の上で異質な感じがした。 その後の呆然とした沈黙は、聞き耳を立てていた同僚たちの同情的な囁きによって破られた。 彼らは集まってきて、お悔やみの言葉を述べ、信じられないという表情を浮かべた。 「でも、玲さんはあなたを溺愛していたじゃない」 サラという若いインターンの一人が言った。 「いつも花を贈ってくれたり、あの高級車で迎えに来てくれたり…完璧な旦那様よ」 私は彼女を訂正しようとはしなかった。 何の意味がある? 彼女たちが見てきたのは、全て幻想だったのだから。 私は静かに、デスクの上の数少ない私物を小さな箱に詰めた――父と私の写真立て、父がくれたマグカップ、父が好きだった詩集。 帰ろうとした時、正面の窓際の騒ぎが私の注意を引いた。 「わあ、噂をすれば」 サラが囁き、外を指差した。 「彼が来たわ」 私の体は硬直した。 そこには、縁石に停められた、紛れもない神宮寺玲の黒いベントレーの輝きがあった。 私は深呼吸をして、覚悟を決め、最後のギャラリーを出た。 振り返らなかった。 車まで歩き、助手席のドアを開けた。 私を迎えた光景は、あまりにもグロテスクなほど親密で、息が詰まった。 アイリスが助手席で丸くなり、玲の肩に頭を預け、まるで眠っているかのように目を閉じていた。 彼女はまるで、暖かさと保護を求める子猫のようだった。 ドアが開く音で、二人は飛び上がった。 アイリスの目がぱちりと開き、パニックに陥った無邪気な仮面がすぐに彼女の顔を覆った。 「恵美さん!私…私たちは、ただ…」 彼女はどもりながら、慌てて体を起こした。 「どうでもいいわ」 私は感情のない声で言った。 私は後部座席に乗り込んだ。革のシートが冷たく、異質な感じがした。 「その箱は何だ?」 玲が尋ね、私の膝の上の段ボール箱に目をやった。 「大掃除か?」 「辞めたの」 私は簡潔に言った。 彼は眉をひそめた。 「どうして?後で話そう。ロオジエに席を予約したんだ。お父さんの好きな、体にいい料理を全部注文しておいた。彼のために、少し持ち帰ろうと思って」 父の名前が、あまりにもさりげなく、全く無神経に口にされたことは、物理的な打撃だった。 白熱した怒り、それに続く氷のような悲しみの波が、私を襲った。 叫び出さないように、血の味がするまで頬の内側を噛んだ。 私は何も言わず、ただ窓の外を眺めた。街がぼやけて通り過ぎていく。 レストランの、豪華な個室で、玲は間違った客に対して完璧なホストを演じていた。 彼はアイリスの世話を焼き、彼女の膝にナプキンを置き、水のグラスが常に満たされていることを確認し、彼女のために特別なノンアルコールカクテルを注文した。 「体力をつけないとね」 彼は、かつては私だけに向けられていた優しさのこもった声で彼女に言った。 「君はヒーローなんだから、アイリス」 彼女は頬を染め、目を伏せた。 「そんなことないです、玲さん。ただ、お役に立てて嬉しいだけです」 私は彼らの向かいに座っていた。彼らの饗宴における、見えない幽霊。 私は彼らを見ていた。私の心臓は、胸の中で死んだように重い塊だった。 彼の目が彼女の上をさまよう様子、彼が彼女のくだらない冗談に笑う様子、彼が親指で彼女の唇からパンくずを拭う様子を見ていた。 「恵美さん、食べないんですか?」 アイリスが、ねっとりとした甘い声で尋ねた。 彼女は玲を見て、そして私に視線を戻した。その目には、勝利の輝きがちらついていた。 「怒ってます?玲さんが、こんなに優しくしてくれるから?」 私は彼女を見て、静かにフォークを手に取った。 「いいえ」 私は落ち着いた声で言った。 「怒ってないわ。食事を楽しんで」 私は黙って食べた。絶品の料理が、口の中で灰のように感じられた。 食事の途中、玲の携帯が鳴った。 彼が取らなければならない、仕事の電話だった。 「二人で先に車に行っててくれ」 彼は、すでに心ここにあらずといった様子で言った。 「すぐに行くから」 私は立ち上がった。逃げ出せることに感謝した。 アイリスが部屋からついてきた。 私たちは黙ってエレベーターまで歩いた。 磨かれた真鍮のドアが滑るように閉まり、私たちを鏡張りの小さな箱に閉じ込めた瞬間、アイリスの態度は一変した。 内気で、感謝に満ちた少女は消え、その代わりに、にやにやと笑い、目に鋼のような光を宿した女が現れた。 「彼、あなたのこと、退屈だと思ってるのよ」 彼女は、悪意に満ちた声で言った。 「あなたは美しくて完璧な人形みたいだって。でも、人形は所詮、ただのモノ。情熱も、何もない。彼はもう、それに飽き飽きしてるの」 その言葉は私を打ちのめしたが、私は何も見せなかった。 「年を取ってきたって言ってたわ」 彼女は、軽蔑の目で私をなめるように見ながら続けた。 「もう、しおれ始めた花だって」 突然、エレベーターが激しく揺れ、私たちはバランスを崩した。 照明が点滅し、そして消え、私たちは完全な暗闇に突き落とされた。 アイリスは甲高い、恐怖に満ちた悲鳴を上げ、私の腕に掴みかかった。彼女の爪が私の肌に食い込んだ。 「大丈夫よ」 私は、驚くほど落ち着いた声で言いながら、非常ボタンを手探りで探した。 「エレベーターが止まっただけ」 インターホンから、くぐもった、不明瞭な声が聞こえてきた。 彼らは問題を認識している。誰かを送っている、と。 しかしその時、エレベーターが再び、今度は金属がきしむ嫌な音を立てて揺れた。 数フィート落下し、ガツンという衝撃と共に止まった。 アイリスは叫び始めた。純粋な恐怖からくる、生の、原始的な叫び声だった。 「助けて!誰か助けて!死んじゃう!」 また揺れた。 より長い落下。 私自身の心臓も肋骨に打ち付けられていたが、頭は奇妙に冴えていた。 私は壁に身を寄せ、指の関節が白くなるまで手すりを握りしめた。 「玲さん!玲さん、助けて!」 アイリスは泣き叫び、床に崩れ落ちた。 その時、私たちはそれを聞いた。 外からの、慌ただしい足音。叫び声。 そして、混沌を切り裂く、息をのむような声。 「アイリス!恵美!そこにいるのか!」 玲だった。 「玲さん!」 アイリスは、涙でかすれた声で叫んだ。 「助けて!すごく怖いの!」 メンテナンス作業員の、切迫した声が、壊れたドアの隙間から聞こえてきた。 「旦那さん、メインケーブルがほつれてる!いつ切れてもおかしくない!ドアをこじ開けて、一人ずつしか引き出せない!選んでくれ!」 エレベーターの中の空気が、濃く、重く、息苦しくなった。 沈黙。 ドアのすぐ外から、玲の荒い息遣いが聞こえた。 アイリスの絶望的な、しゃくり上げるような泣き声が聞こえた。 私自身の心臓の、私の人生の秒読みをするかのような、狂ったドラムの音が聞こえた。 息詰まる暗闇の中、私は彼の答えを待った。 そして、それは来た。 彼の声は、全ての感情を剥ぎ取られ、冷たく、明瞭で、そして、完全に最終的なものだった。 「アイリスを助けろ」 私の血は、氷に変わった。 ドアが、人が一人やっと通り抜けられるくらいにこじ開けられた。 玲の手が中に伸びてきて、私を完全に無視し、アイリスを暗闇から引きずり出し、彼の腕の中に抱きしめるのが見えた。 彼女はヒステリックに泣きながら、彼にしがみついた。 「大丈夫だ、ベイビー、大丈夫」 彼は彼女の髪を撫でながら囁いた。 「僕がいる」 彼はメンテナンスクルーの方を向いた。 「次は、妻を」 しかし、彼らが私を助けようと動いたその時、金属が引き裂かれる耳をつんざくような音が、空気を満たした。 エレベーターが、落下した。 世界は、吐き気を催すような動きのぼやけた塊になった。 胃が喉までせり上がってきた。 全てが真っ暗になる前に最後に見たのは、玲の顔。その目は、私が名付けられない何かのきらめきで、大きく見開かれていた。 最後に聞いたのは、もう聞き覚えのない声で叫ばれた、私自身の名前だった。 手遅れだった。 いつだって、手遅れだったのだ。