冷酷な元婚約者への甘い罠
第1章

「結婚申請書はここに提出してください」 今日, 私はこの言葉を聞く喜びを味わうはずだった. しかし, 一本の電話が全てを壊した. 「芽枝が困っているんだ」 婚約者の藤原は, 私の目の前で婚姻届を奪い返し, 元カノの元へと走り去った. 土砂降りの雨の中, 私は暴漢に襲われた. 愛犬のハルが私を守ろうとして, 目の前で蹴り殺される. 薄れゆく意識の中で彼に助けを求めたが, 電話の向こうから聞こえたのは冷酷な嘲笑だけだった. 「僕がお前を助けに行く義理などない」 私が死の淵を彷徨っている時, 彼は他の女を抱きしめていたのだ. 五年間の献身は, 裏切りと死という形で報われた. 奇跡的に一命を取り留めた私は, 地獄の底から這い上がった. もう, かつての従順な私ではない. 私は復讐の鬼となり, 彼に偽りの愛を囁く. 「定九郎, やり直しましょう」 彼を破滅させ, 全てを奪い尽くすために. 第1章 Teruko POV: 「結婚申請書はここに提出してください」--今日, 私はこの言葉を聞く喜びを味わうはずだった. 役所の職員が差し出したペンを握る藤原の手が, 突然震え始めた. 私の隣で, 彼はただ一点を見つめていた. 彼のスマートフォンが鳴り響く. 画面には見慣れない番号が光っていた. 藤原は, ひどく慌てた様子で電話に出た. 「芽枝? どうしたんだ, こんな時間に…」 彼の声が, 驚くほど優しく, そしてどこか興奮しているように聞こえた. まるで十代の少年に戻ったかのように, 藤原の顔は赤く上気し, 目は輝いていた. 私はその変化に, 心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた. 藤原は電話の向こうの相手を必死に慰めていた. 「大丈夫だ, 芽枝. すぐに飛んでいくから. そこに動かずに待っていてくれ」 彼の言葉は, まるで私には聞こえないように, 私を透明人間のように扱っていた. 次の瞬間, 彼は信じられない言葉を口にした. 「すみません, 今日の婚姻届の提出はキャンセルでお願いします」 彼の視線は私を完全に避けていた. 私は呆然と立ち尽くした. 必死で平静を装い, 彼の腕を掴もうとした. 「定九郎, ちょっと待って. どういうこと? 」 私の声は震えていたが, それは彼には届かないようだった. 藤原は振り返り, 一瞬だけ私と目が合った. 彼の目に宿る一抹の戸惑い. 私はその目に, 絶望的な懇願を込めた. 「…大丈夫よ, 定九郎. 後にして, まず届けを…」 私は笑顔を作ろうとしたが, 唇は意思に反して歪んだ. 藤原は私の言葉を無視し, 婚姻届を職員から奪い取るように引き戻した. そして, そのまま出口へと足早に向かっていった. 周りの視線が, 私に突き刺さる. 同情, 好奇, そして憐れみ. 私は衝動的に彼の背中を追いかけた. 「待って, 定九郎! 」 彼の肩に手が触れた瞬間, 彼は苛立たしげに私を振り払った. 「芽枝が困っているんだ. 彼女は僕を必要としている」 彼の声には, 私への配慮のかけらもなかった. 「困っているって, 何が? 」 私は問いかけた. 彼は答えない. ただ, その目に映る芽枝への優しい光が, 私の胸を切り裂いた. ああ, そうか. 私なんて, 彼の眼中にないんだ. 私はこの五年間, 何のために生きてきたのだろう. 「定九郎, もしかして, あなたが私にプロポーズしたのも, 芽枝さんへの当てつけだったりするの? 」 私の声は, 私自身でも信じられないほど冷たかった. 「この五年間, あなたの傍で, あなたがどん底の時も, 私がずっと支えてきたんじゃないの? 芽枝さんのために, 私を捨てるというの! ? 」 私の感情は限界を超え, 声はヒステリックに響いた. 「いい加減にしてくれ, 輝子! 」 藤原は私の言葉を遮った. 彼の顔には, 苛立ちと嫌悪感がはっきりと浮かんでいた. 私への愛情は, もう完全に冷え切っている. 私の心も, 急速に冷たい氷に包まれていくようだった. 「これで終わりよ, 定九郎. あなたとはもう, 一切の関係を持たない」 私は覚悟を決めて言い放った. 彼の表情が, 一瞬で冷酷なものに変わった. 「何を言っているんだ? 大体, お前はただの僕の恋人だろう? 僕に捨てられたからって, そんなに騒ぎ立てるな」 彼は私の手を乱暴に振り払った. その手は, まるで汚いものに触れたかのように, すぐに拭われた. 「僕がお前と結婚したいなんて, 一度も言ったことはない. 勝手に僕に執着していたのはお前の方だろう? 」 藤原の言葉は, 私の心を砕くには十分すぎた. 彼はそのまま車に乗り込み, アクセルを強く踏みつけた. 冷たい雨が, 私の頬を叩きつけた. 私はその場に立ち尽くし, ただ彼の去りゆく車のテールランプを見つめていた. 私は気づいたのだ. 私にとっての切り札である「別れる」という言葉は, 彼にとっては何の意味も持たない. 彼の心の中には, 私が存在していないのだから. 彼の言葉が, 耳の奥でこだましていた. 「僕がお前と結婚したいなんて, 一度も言ったことはない…」 私の体は震えが止まらなかった. 雨に打たれながら, 私はまるで石像のように動けずにいた. 今朝の記憶が, 鮮明に蘇る. 「輝子, ほら, 結婚申請書だよ. これにサインすれば, 僕たちは晴れて夫婦だ」 彼はそう言って, 優しく私の額にキスをした. 朝食には, 私の好きなオムライスが用意されていた. 「今日からは, 僕が毎日輝子に朝食を作るからね」 彼の言葉は, 甘く, そして独占欲に満ちていた. 彼は婚姻届を, まるで宝物のように大切に抱えていたのに. あの時の彼の言葉も, 笑顔も, 全てが偽りだったのか. 私は信じたくなかった. この五年間, 私が彼に捧げた愛と努力は, 一体何だったのだろう. 私は自分の全てを彼に捧げ, 私自身を放棄していたのだ. それが, こんな形で報われるなんて.

第2章

Teruko POV: 心も体も, 鉛のように重い. 私の感情は, すでに限界を超えていた. 彼との関係が, 今, 完全に終わろうとしていることを, 体全体で感じていた. 私は凍える体を引きずって, 私たちの家へと向かった. いや, 彼が「私たちの家」と呼んでいた, 私がデザインし, 私が費用を出し, 彼の名義で購入された, あの家だ. 玄関のドアを開けると, ハルが尻尾を振りながら駆け寄ってきた. ゴールデンレトリバーのハルは, 私の顔を舐め, その体を私に擦り付けた. 彼の変わらない愛情に, 私の冷え切った心に温かいものが込み上げてきた. 私はハルを抱きしめ, 声を出して泣いた. ハルの柔らかい毛の中に顔を埋めると, 一瞬だけ, 私の心を覆っていた暗い雲が晴れた気がした. その時, 玄関のドアが乱暴に開かれた. 藤原だった. 彼はまだ怒りが収まらない様子で, 電話口に向かって怒鳴っていた. 「ここは僕の家だ! 誰を連れてこようと僕の自由だ! 」 彼はそう言い放ち, 私に気づかないまま, 部屋の明かりをつけた. 部屋の隅でハルを抱きしめていた私を見て, 彼の顔が硬直した. 「あら, お邪魔だったかしら? 」 私の声は皮肉に満ちていた. 藤原は電話を乱暴に切り, 私に向かって一歩近づいた. だが, すぐに歩みを止め, 私を鋭く睨みつけた. 「まだいたのか, 輝子. そんなに僕から離れられないのか? 」 彼の言葉は, まるで鋭いナイフのように私の胸を突き刺した. 私は再び, 無言の涙を流した. 藤原は私に近づき, 手を伸ばそうとした. 「輝子, 落ち着け. 君の気持ちは分かる. だから, 何か必要なものがあれば, 言ってくれ」 彼の声には, 僅かながら優しさが混じっていたが, それは私をさらに深く傷つけた. 「僕が芽枝をここに呼ぶのは, 彼女が困っているからだ. 君には別の住まいを用意する. それから…」 彼はハルに目を向けた. 「芽枝は犬アレルギーなんだ. ハルは…どこか別の場所に預けてくれ」 私の心臓が, 冷たい氷に包まれた. 私の両親の唯一の形見であるハルを, 彼は何の躊躇もなく排除しようとしている. 彼の視線には, 私とハルに対する一切の愛情が感じられなかった. 彼の心の中には, 芽枝しかいない. 私は怒りに震え, 彼を突き飛ばした. 「ハルは私の家族よ! 私にとって, ハルはあなたよりも大切な存在なの! 」 私の声は, 初めて彼に向かって感情を剥き出しにした. 藤原は, まさか私が自分を突き飛ばすとは思わなかったのだろう. 彼は驚きと怒りで顔を歪めた. 「輝子, 何を言っているんだ! そんなに不貞腐れるな. 僕が誰を愛そうと, お前には関係ないだろう! 」 彼は一方的に怒鳴り散らした. 私はもはや, 彼と話す気力さえ失っていた. 私はハルを抱きかかえ, 寝室に駆け込んだ. ドアを閉め, 鍵をかけた. 藤原は外からドアを叩き続け, 私を罵倒した. 「輝子! 開けろ! いつまでそんな子供みたいなことをしているんだ! 自立できない女は邪魔なんだよ! 」 彼の言葉が, ドアの向こうから容赦なく突き刺さる. この家は, もう私にとって安らげる場所ではなかった. 私はハルを抱きしめ, 震える体を落ち着かせようとした. 外は台風のような暴風雨が吹き荒れている. 朝までには, この嵐が過ぎ去ってくれることを祈るしかなかった. 翌朝, 目が覚めると, 家の中は静まり返っていた. 藤原の罵声も, ドアを叩く音も聞こえない. 私は恐る恐る寝室のドアを開けた. リビングには, 折りたたまれた一枚のメモが残されていた. 「荷物はまとめておいた. 出て行け. 輝子へ」 簡潔な彼の字だった. 私はそのメモを握りしめ, 音を立てて引き裂いた. そして, ハルを連れて, この家を出た. どこへ行く当てもなく, 雨の中を歩いた. ハルは私の足元に寄り添い, 震えていた. 私たちは廃墟のような寂れた通りを彷徨い歩いた. 誰もいない場所. だが, その孤独が, 一瞬だけ私を安心させた. 私はこの世界に一人ぼっちではない. ハルがいる. その時, 暗闇から二つの人影が飛び出してきた. 私はよける間もなく, 彼らとぶつかった. 耳には, まだ通話中の藤原の電話から, 女性の甲高い悲鳴が響いていた.

第3章

Teruko POV: 暗闇から飛び出してきた二つの人影は, 私を避けようともせず, そのまま私の体にぶつかってきた. 私はよろける間もなく, 地面に転倒した. その衝撃で, 手に持っていたスマートフォンが宙を舞い, アスファルトに叩きつけられた. まだ通話中だった藤原との電話から, 甲高い女性の悲鳴がはっきりと聞こえた. 「定九郎さん, 怖い! 輝子さんが追いかけてくる! 」 それは, 安岡芽枝の声だった. 彼女は藤原の腕に縋りつき, 震える声で訴えている. 「私, 輝子さんに何かされたらどうしよう…定九郎さん, 私を見捨てないで…」 その声には, 不安と同時に, 巧妙な計算が隠されているように聞こえた. 私は一瞬で理解した. 全てが仕組まれていたのだ. 結婚申請書を提出する日. 芽枝からのタイミングの良い電話. そして, 今, この場所での偶然の遭遇. これら全てが, 藤原が私を完全に切り捨てるための, 周到な計画だったのだ. 私はこの五年間, 彼らの舞台で愚かな脇役を演じていた. 私の存在は, 彼らにとっては邪魔でしかなかったのだ. 電話の向こうでは, 藤原が芽枝を優しく抱きしめ, 耳元で囁いていた. 「大丈夫だ, 芽枝. 僕はもう輝子とは終わったんだ. 僕たちは最初から合わなかった. 君を傷つけるようなことはさせない」 彼の声は, あの朝, 婚姻届の前に私に囁いた言葉と同じくらい甘い響きを持っていた. 私の心は, 冷たい鉄塊のように硬く凍りついた. 私は決して, 誰かの被害者にはならない. 私は決して, 彼らに屈しない. 脳裏に, 藤原が私を口説いた時の言葉がフラッシュバックする. 「輝子, 君がいないと生きていけない」 彼は私を繋ぎ止めるために, 膝までついて懇願したのだ. そして, 婚約指輪を差し出し, 「僕の妻になってほしい」と誓った. あの頃の甘い言葉は, 全てが嘘だったのか. 私が彼に捧げた青春と愛情は, ただ彼らの都合の良い物語の道具にされていただけなのだろうか. 私は体が寒さに震えるのを感じた. 雨はさらに激しくなり, 私の体を冷やしていく. その時, ハルが低い声で唸り始めた. 私の足元に寄り添っていたハルが, 暗闇の奥を警戒している. 私は振り返り, 暗闇の中にじっと目を凝らした. 人影が, 私たちに向かってゆっくりと近づいてくる. 私は冷たい汗が背中を伝うのを感じた. 恐怖で, 心臓が大きく脈打つ. 私は震える手で, ポケットからスマートフォンを取り出した. 画面はひび割れていたが, まだ辛うじて動く. 私は藤原の番号を呼び出そうとした. 繋がらない. 彼の声を聞くのは, もう無理なのだ. 私は必死でタクシーアプリを開こうとしたが, 指が震えて上手く操作できない. 背後から, 荒々しい声が聞こえた. 「おい, そこの女! どこへ行くんだ? 」 私は振り返る間もなく, 強い力で肩を掴まれた. 「やめて! 離して! 」 私は悲鳴を上げたが, 声は雨音にかき消された. 私は必死でスマートフォンを耳に当てたまま, 誰かに助けを求めようとした. だが, 藤原の電話からは, 芽枝の甘えるような声しか聞こえない. 「このクソ女, 金目のものを持ってるだろう. 出せ! 」 男たちの手が, 私のバッグに伸びる. 私は必死で抵抗したが, 彼の体重が私の上にのしかかり, 身動きが取れない. その時, ハルが唸り声を上げ, 男に向かって飛びかかった. 「ガウッ! 」 「このクソ犬が! 」 男はハルを乱暴に蹴り飛ばした. ハルは甲高い悲鳴を上げ, 地面に倒れ込んだ. 「ハル! やめて! 」 私は悲痛な叫びを上げた. 男は私の叫びを無視し, ハルをさらに何度も蹴り続けた. ハルは, もう動かなくなった. 私の全身から力が抜け落ちた. 私の大切なハルが, 目の前で…. 私は魂が抜けたように, ただ男たちに抵抗することもなく, その場に崩れ落ちた. 男は私の髪を掴み, 何度も何度も頭を地面に打ち付けた. 痛みで, 視界が真っ白になった. 私は朦朧とした意識の中で, まだ繋がっている藤原の電話の向こうに向かって, 最後の力を振り絞って囁いた. 「定九郎…助けて…」 だが, 電話の向こうから聞こえてきたのは, 藤原の冷たい声だった. 「おい, 輝子. お前, いつまでも僕に縋りつくつもりか? いい加減にしろよ. 僕が助けに行く義理などない」 そして, 誰かの冷笑が聞こえた. 「あはは! こんな雨の中, まだ男に縋ってるのかよ, みっともない女」 それは, 藤原の友人, 桜田の声だった. 彼らの声は, 私の意識が完全に闇に沈む直前まで, 私の耳にまとわりついて離れなかった.

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