嘘で捨てた愛、消える記憶
第1章

彼の成功は, 私が彼から去った絶望という名の種から芽生えたものだと, 私は知っていた. かつて彼を救うために「貧乏なあなたには愛想が尽きた」と嘘をついて捨てた. 若年性アルツハイマーで記憶が消える前に, お腹の子と母の形見を託そうと彼の元へ戻った. しかし, 成功した彼は冷酷な目で私を見下ろし, 婚約者と共に私を地獄へと突き落とした. 彼は私を「金目当ての裏切り者」と罵り, 婚約者の美穂は嘲笑いながら, 私の唯一の希望だった母の形見のペンダントを踏み砕いた. 「私のお腹にも彼の子がいるの. あなたの子供なんてただの私生児よ」 美穂の残酷な嘘と暴力によって, 私は心身ともに崩壊し, お腹の小さな命さえも失ってしまった. 私が彼のために借金を背負い, 身を粉にして働いた結果がこの病気だとも知らず, 彼は最後まで私を憎み続けた. そして, 私の記憶が完全に消え去った日. 泣き崩れる彼を前に, 私は無垢な瞳でこう尋ねた. 「あなたは, どなたですか? 」 私はすべてを風に流し, 海辺の療養所へと旅立った. 第1章 千砂 POV: 私は彼のオフィスビルのロビーで待っていた. 革のソファは冷たく, 私の背筋を凍らせる. ガラスの壁の向こうには, 彼が築き上げた, 彼の成功という名の王国が広がっていた. 神谷聡史. いつの間にか彼は, 私が知っていた熱情的な青年ではなくなっていた. 彼の目は, もう私を映していなかった. 秘書が私を見下ろす. 彼女の視線は, 私がここにいること自体が間違いだと言っていた. 私がここにいる理由なんて, 彼女には想像もつかないだろう. 誰も, 想像できない. 「奥寺千砂様, 白鳥美穂様が会議室でお待ちです」 美穂という名前が, 私の胸を締め付けた. 聡史の婚約者. 白鳥財閥の令嬢. 美しく, 聡明で, そして私とは正反対の完璧な女性. 彼女は聡史の隣に立つにふさわしい. 彼が今, 手に入れたいと願う全てを, 彼女は持っていた. 彼は昔, 私に言った. 「千砂, 君と一緒なら, どんな困難も乗り越えられる. 君が僕の翼だ」 その翼は, 彼がどん底にいた時, 彼を救うために自ら折ったものだった. 彼が借金を背負い, 夢を諦めかけたあの時, 私は彼を捨てるしかなかった. 彼に「貧乏なあなたにはもう愛想が尽きた」と嘘をついて, 彼の前から姿を消した. その後, 私は身を粉にして働いた. 夜の仕事, 掛け持ちのアルバイト. ただ彼に残された借金を返すためだけに, 私は生きていた. その過労とストレスが, 私の体を蝕んでいたのかもしれない. 脳神経外科の長野先生の診断は, 私を奈落の底に突き落とした. 「奥寺さん, 若年性アルツハイマー型認知症です. 進行が早いです. 記憶が... 急速に失われていきます」 その言葉は, 私の人生の秒針を早送りした. 残された時間は少ない. 記憶が全て消える前に, 聡史に渡すべきものがあった. 彼の母親から託された, 銀のロケットペンダント. そして, もう一つ. 私のお腹の中に宿った, 聡史の命. この子をどうすればいいのか, 私は彼に相談するつもりだった. 彼には知る権利がある. 私は重い足取りで会議室に向かった. ドアを開けると, 広々とした空間に, 白鳥美穂が一人で座っていた. 彼女は私を見るなり, わずかに眉を上げた. 「あなたが奥寺千砂さん? 」 その声は涼しげで, 私を値踏みするような響きがあった. 彼女の周りには, 秘書や他の社員たちが群がっていた. 彼らは私を好奇の目で見ていた. 「はい, 奥寺です」 私の声は, ひどく掠れていた. 彼女の視線が, 私の質素な服装を上から下まで舐めるように動く. まるで, 汚れたものを見るかのように. 「神谷社長に何か御用ですか? アポイントは? 」 彼女の言葉は, 私の存在を否定するナイフのようだった. 私は秘書でも顧客でもない. ただの過去の亡霊. 「アポイントは... ありません. でも, 彼に直接お渡ししたいものがあって」 美穂は口元に微かな笑みを浮かべた. まるで, 私の愚かさを嘲笑うかのように. 「あいにく, 彼は今, 忙しいの. あなたのような『金目当て』の元カノと会う時間はないわ」 私の耳に, その言葉が突き刺さった. 金目当て. 彼も, そう思っているだろう. そう思わせて, 彼の前から消えたのは, 私自身だから. 「金目当て... ? 」 私は繰り返した. 心臓が鉛のように重い. 彼女の目は, 私の中のわずかな希望の光を容赦なく踏み潰した. 「そうよ. 彼がどん底だった時, 捨てた女が, 彼が成功した途端に戻ってくるなんて, あまりにも陳腐なストーリーだと思わない? 」 彼女の言葉は, 氷のように冷たかった. 私は何も言い返せなかった. その通りだから. 彼女の言葉は, 私が作った嘘によって生まれた真実だった. 「あなた, 一体どういうつもりなの? 神谷社長を困らせるなら, それなりの覚悟が必要よ」 彼女は立ち上がり, 私にゆっくりと近づいてきた. その視線は, 獲物を追い詰める猛禽類のようだった. 「彼はもう私のもの. あなたのような過去の女に, 入り込む隙などないわ」 私はただ, 俯いた. 彼女の言葉は, 私の全てを否定した. 私が彼のためにしてきたこと, 私が彼の前から消えた理由, そして私が今抱えている病と命. 「まあ, でも…」美穂は私の肩に手を置いた. 「あなたがどんなに彼に未練があっても, 彼は決してあなたには戻らない. あなたはただの昔の女. そして私は, 彼の未来の妻よ」 彼女の指が, 私の首元のロケットペンダントに触れた. それは聡史の母の形見. 私が彼に返しに来た, 唯一の理由. 「こんな安っぽいもの, 今更彼に押し付けて, 何を企んでいるのかしら? 」 彼女は小馬鹿にしたように笑った. 私の心臓が, まるでガラスのように, 音を立てて砕け散った. 「これは... 」私は言葉を探したが, 声が出なかった. 美穂はペンダントを掴み, 私の首から引きちぎろうとした. 私は反射的にそれを守ろうと手を伸ばす. 彼女の爪が, 私の皮膚を引っ掻いた. 「しつこい女ね. いい加減にしてくれないかしら? 」 彼女の表情は, 一瞬にして冷酷になった. 私は彼女の目の中に, 憎悪の炎を見た. 私が, 彼女にとってどれほど邪魔な存在なのかを. 「私は... 」 私は抵抗しようとした. でも, 体から力が抜けていく. 記憶が薄れていくように, 私の意識もまた, 遠のいていくようだった. 「もういいわ. あなたのような過去の亡霊は, 未来を邪魔するだけよ」 美穂は私のロケットペンダントを掴んだまま, 嘲るように笑った. このペンダントを, 彼に返さなければ. 記憶が, 消える前に.

第2章

千砂 POV: 会議室の空気は, ナイフのように鋭く, 私の皮膚を切り裂いた. 白鳥美穂は, 私のロケットペンダントを掴んだまま, 挑戦的な視線を送っていた. 私は, ここで引き下がるわけにはいかないと, 本能的に感じた. 「そのペンダントは, 彼の母親の形見です」 私の声は, 予想以上に冷静だった. 美穂の眉が, わずかにぴくりと動いた. 「だから何? そんなもの, 彼にとっては何の意味もないわ. 彼はもう, 新しい家族と未来を築こうとしている」 彼女は鼻で笑った. その冷たい声は, 私の心臓を凍らせた. 「あなたは知っているの? 聡史さんが, そのペンダントをどれほど大切にしていたか」 私は一歩, 前に踏み出した. 私の言葉は, 彼女の完璧な仮面を剥がす刃となる. 「あなたは彼の過去を知らない. 彼の苦しみも, 彼の夢も, 何もかも」 美穂の顔から, 笑みが消えた. 彼女の目は, 怒りに燃え上がった. 「黙りなさい! あなたなんかより, 私の方がずっと彼を理解しているわ! 」 彼女の声が, 会議室に響き渡った. 秘書たちが, 怯えたように顔を見合わせる. 「理解しているのなら, なぜ私を追い出す必要があるんです? 」 私は問いかけた. 私の言葉が, 彼女の冷静さを打ち砕く. 「もうすぐ, 私たちは結婚するのよ. あなたは, 私たちの邪魔でしかない! 金目当てで戻ってきた裏切り者が! 」 彼女はヒステリックに叫んだ. その顔は怒りで歪み, 美しい容姿は一瞬にして醜悪なものへと変わった. 「あなたが彼を捨てたせいで, 彼がどれほど苦しんだか, 知っているの? ! あなたは, 彼を裏切ったのよ! 」 美穂の言葉が, 私の心臓を深く抉る. 裏切り者. その言葉は, 何よりも私を苦しめる真実だった. でも, 私は何も言えない. 彼の借金を肩代わりするため, 彼に「貧乏なあなたには愛想が尽きた」と嘘をついて去ったのは, 他でもない私だから. 「どこで何をしていたか知らないけど, その間に何があったかは知らないけど, 彼はもう, あなたの手の届かない存在になったのよ! 」 彼女は私を指差して叫んだ. その指の震えが, 彼女がどれほど私を憎んでいるかを物語っていた. その時, 会議室のドアが勢いよく開いた. 神谷聡史がそこに立っていた. 彼の目は, 凍るような怒りを宿していた. 美穂は, 聡史の姿を捉えた瞬間, 表情を一変させた. その目には, 計算高い輝きが宿った. 彼女は, 手元にあった水を, 自らの頭から勢いよくかぶった. そして, 悲鳴を上げた. 「嫌! 来ないで! 千砂さん, やめてください! 」 彼女の悲鳴は, まるで私が彼女を襲ったかのような響きだった. 聡史の顔が, さらに怒りで歪む. 「美穂! 」 聡史は, 矢のような速さで美穂の元へ駆け寄った. 彼は美穂を抱きしめ, 私を睨みつけた. その目は, 私を殺すかのような憎悪を宿していた. 「何を, しているんだ」 彼の声は, 地を這うような低い声だった. 私は, 彼の拳が私の頬を捉えるのを感じた. 頬が熱く, そして焼けるように痛んだ. 私は体制を崩し, よろめいた. 「聡史さん... 私は, 何も... 」 私は言葉を紡ごうとしたが, 彼の視線が, 私の声を奪った. 彼の目は, 私を人間だとは見ていなかった. ただの, 邪魔な物体. 「まだ, しらを切るのか. お前は本当に, 最低な女だな」 美穂は聡史の腕の中で, 嗚咽を漏らしていた. 「聡史様... 彼女がいきなり... 私のこと, 汚いって... 」 美穂の嘘泣きが, 聡史の怒りをさらに煽った. 「まさか, お前が僕の邪魔をしに来るとはな. あの時, 僕を捨てたお前が, 今更どんなツラ下げて戻ってきたんだ? 」 彼の言葉は, 私の心臓を深く, 深く切り裂いた. 私は, 過去の聡史を思い出した. 「千砂, 君がいるから, 僕は頑張れるんだ. 君は, 僕の希望だ」 そう言って, 私を抱きしめてくれた彼の腕. 私を優しい目で見つめてくれた彼の瞳. 今, 目の前にいる彼は, あの頃の面影はどこにもなかった. 彼は, 私の最も愛する人であり, 最も深い絶望の源へと変わってしまった. 彼の言葉は, 私の心をズタズタにした. 彼はもう, 私にとっての希望ではなかった. 彼は, 私を苦しめるだけの存在になってしまった. 「... 私の言葉に, 耳を傾けてくれなかったのは, あなたでしょう? 」 私の声は震えていた. でも, もう, 引き返せない. 「お願いだから, 私の前から消えてほしい. もう, あなたとは, 関わりたくない」 私がそう言うと, 聡史の顔がさらに歪んだ. 彼の目は, 私を憎悪で貫いた. その憎悪の視線が, 私のお腹の存在を, まるで呪うかのように, 焼き尽くすようだった.

第3章

千砂 POV: 会議室の空気は, 鉛のように重く, 私を押し潰しそうだった. 聡史の目は, 氷のように冷たく, そこに宿る光は, 私に向けられた憎悪だけだった. 「何が目的だ. 金か? それとも, 僕の成功が妬ましいのか? 」 彼の声は, 感情のこもらない, ただの機械的な音だった. 金. その言葉は, 私にとって毒だった. 私は金のために彼を捨て, 金のために彼を救った. そして今, 金のために彼に会いに来た. そう, 金が欲しい. 私の病を治すため, そしてこのお腹の子を守るため. でも, 彼の言葉は, 私の魂を汚すようだった. 私は反論しようと口を開いたが, すぐにまた閉じた. 彼に何を言っても無駄だ. 彼はもう, 聞く耳を持たない. 「謝罪しろ. 美穂に」 彼の命令は, 絶対的なものだった. あの時, 私を守ってくれた彼の言葉が, 今, 私を傷つける. 「あなたには, 真実が見えないんですか? 」 私は問いかけた. 私の声は, ひどく掠れていた. 「真実などどうでもいい. 僕の婚約者を傷つけたお前が, 謝罪するのが筋だろう」 彼の言葉は, 私の心に深く突き刺さった. 真実などどうでもいい. 彼は, 私の存在そのものを否定した. 「謝れ」 彼の声が, 会議室に響き渡った. 私は, 過去の彼を思い出した. 私が困っている時, いつも私の盾になってくれた彼. 「千砂は, 俺が守る」 そう言って, 私の手を握ってくれた彼. あの頃の彼は, どこにもいなかった. 彼の目は, 私をまるで, 見知らぬ他人のように見ていた. 私は自嘲するように, 小さく笑った. そして, 美穂の方へゆっくりと歩み寄った. 「申し訳ありませんでした, 白鳥さん. 私の不注意で, あなたの服を汚してしまいました」 私の頭は, 深く下がっていた. その言葉は, 私の魂を削り取るようだった. 美穂は, 嘲るように口角を上げた. 「それだけ? もう少し, 誠意を見せてもらえないかしら」 彼女の声は, 私をさらに追い詰めた. 聡史の目が, 私を冷酷に見ていた. 「美穂. 遠慮することはない. やり返してやれ」 聡史の言葉が, 私の耳に信じられない響きで届いた. 彼は, 私を傷つけることを, 彼女に促したのだ. 美穂は, にやりと笑った. そして, テーブルの上の水を迷わず掴み, 私の顔に, 勢いよくぶちまけた. 氷のように冷たい水が, 私の顔を打った. そして, 冷たい雫が, 私の頬を伝って流れ落ちる. まるで, 私の涙のように. 私は何も言わなかった. ただ, 冷たい水を拭い, 彼女の冷酷な目を見つめ返した. 美穂は, 私の反応が気に入らないようだった. 彼女の顔には, 苛立ちが浮かんでいた. 「反省しているのかしら, この女は」 彼女は聡史に問いかけた. 聡史は, 私の麻痺したような表情を見て, 冷たく言い放った. 「彼女には, 何をやっても無駄だ. 何をされても, 何も感じない人間だからな」 彼の言葉は, 私の心を深く抉った. 彼の言葉は, 私が彼から離れたあの瞬間から, ずっと私を苦しめてきた. 私は, もう何も感じない. 彼の言葉も, 美穂の態度も, 私を傷つけることはできない. 私はもう, 痛みを感じることを諦めた. 私はただ, 深く頭を下げた. そして, 会議室を後にした. もう, 何も残されていない.

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