「早見さん, 離婚届の準備をお願いします. できるだけ早く処理してほしいんです. 」親友の桃紗にそう告げると, 彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった. 夫の慎則と私は, 誰もが羨む理想の夫婦のはずだった. しかし, 彼の浮気を知ったあの日, 私の世界は崩れ落ちた. 相手は, 私が目をかけていた後輩バレリーナ. しかも, 3年も前から私たちの向かいのマンションに住んでいたなんて. さらに私を絶望させたのは, 娘の莉結が「花純さんが新しいママになってくれたら, 私, 世界で一番幸せだわ! 」と無邪気に笑っていたこと. 誕生日に「ママなんて, もういらない」と, 血判を押した「関係断絶書」を投げつけられた瞬間, 私の心は完全に砕け散った. 夫と娘からの二重の裏切り. 私がバレエを諦め, 家族に尽くしてきた日々は, 一体何だったのだろう. もう, この家にも, この家族にも, 私の居場所はない. 私は離婚届にサインし, 彼らの前から姿を消した. そして, 奨学財団の理事長として, 自分の人生を歩み始めることを決意した. これは, 全てを失った私が, 本当の自分を取り戻すまでの物語だ. 第1章 服部優花 POV: 「早見さん, 離婚届の準備をお願いします. できるだけ早く処理してほしいんです. 」 早見桃紗の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった. 彼女のグラスが, 彼女の震える指から滑り落ちそうになったけれど, なんとか持ちこたえた. テーブルの向こうで, 桃紗は信じられないという表情で私を見つめている. 彼女の青白い顔は, 私が今言った言葉がどれほど突拍子もないかを物語っていた. 「優花, 一体どうしたの? 慎則さんと何かあったの? 」 桃紗の声は震えていた. 彼女は私の親友だった. 私が星野慎則と結婚する前から, ずっと私の側にいてくれた. 私と慎則の始まりを知っている数少ない人間の一人だ. 桃紗は慎則がどれほど私に夢中だったか, 私がどれほど彼に愛されていたかを知っていた. 彼が私に情熱的なアプローチを繰り返した日々を. 私が彼の情熱に少しずつ心を開いていった瞬間を. 桃紗は知っている. 私たちが学生時代を共に過ごし, 夢を語り合った夜を. 慎則が, 私のために, どれほどの努力を重ねてくれたかを. 私たちが, どれほど固い絆で結ばれていたかを. だからこそ, 彼女は私のこの言葉に, こんなにも動揺しているのだろう. 「まさか, あなたがこんなことを言い出すなんて. 慎則さんとあなたは, まるで絵に描いたような夫婦だったじゃない. 」 桃紗は私の手を取ろうとしたけれど, 私は反射的に引き戻した. その仕草に, 彼女の表情は一層暗くなる. 「優花, 冗談でしょう? 私たち, あなたの結婚式の準備を手伝ったじゃない. あなたは彼を深く愛していたわ. 」 彼女の言葉は, 私の心をチクチクと刺した. 愛していた. 確かに, 私は彼を深く愛していた. 「愛していたわ, 昔はね. 」 私は唇の端を吊り上げた. 私の声は, 私自身が驚くほど冷徹に響いた. 「でも, 絵に描いたような夫婦というのは, たわごとよ. 」 桃紗は息を呑んだ. 彼女の琥珀色の瞳が大きく見開かれ, 戸惑いと悲しみが入り混じっていた. 「何があったの, 優花? 話してちょうだい. 」 彼女の声には懇願の色がにじんでいた. 私は目を伏せた. 「慎則が浮気していたの. 」 言葉は私の口から, 何の感情も伴わずに滑り落ちた. まるで, 他人の物語を語るかのように. 桃紗は絶句した. 彼女の口がかすかに開閉し, 何かを言おうとするが, 言葉が出ないようだった. 「相手は, 私の後輩だったバレリーナ, 榎本花純よ. 」 私は続けた. 桃紗の顔はさらに青ざめた. 「しかも, あの女はもう3年も前から, 私たちの向かいのマンションに住んでいたの. 」 桃紗は椅子に深く沈み込んだ. 彼女は自分の耳を疑っているようだった. 「3年間…? 優花, なぜ今まで気づかなかったの? 」 彼女の声は掠れていた. 私は肩をすくめた. 「私もそう思うわ. でも, 向かいのマンションに住んでいるなんて, 想像もしなかった. 」 「私が知ったのは, つい先週のことよ. 」 私の言葉に, 桃紗はただ黙り込んだ. 彼女は目を閉じ, それから再び私を見つめた. 「どうやって知ったの? 」 私は乾いた笑みを浮かべた. 「偶然よ. 本当に, 偶然. 」 世界は, 時に残酷な偶然を仕掛けてくるものだ. 先週, 私は莉結のバレエのレッスンの送り迎えの途中, 慎則の車を見かけた. 助手席には花純が座っていた. 二人は笑い合って, まるで恋人同士のように. 私は自分の目を疑った. 花純は私の後輩だった. 数年前, 慎則が私を引退させて以来, 私が指導していたバレリーナの一人だった. 私が引退した後も, 彼女は慎則のアシスタントとして, 劇場に出入りしていた. まさか, そんな関係になっていたとは. 私は慎則の車を尾行した. 彼のマンションに着いてから, 二人が一緒に部屋に入っていくのを見た. ショックだった. 私の心臓は, まるで鷲掴みにされたかのように締め付けられた. 翌日, 私は花純が慎則のマンションから出てくるのを何度も見た. 彼女は慎則の服を着ていた. そして, その日の夕方. 私は莉結のバレエのレッスンの帰り, 慎則の車の後部座席に莉結が座っているのを見かけた. そして助手席には, 花純が. 二人はまるで親子のように楽しそうに話していた. 慎則は花純に, かつて私に向けていたような優しい眼差しを向けていた. その光景を見た瞬間, 私の体の奥底にある何かが, 音を立てて砕け散った. 「優花, 大丈夫? 」 桃紗の声が, 私を現実に引き戻した. 私は無意識のうちに, 頬を伝う涙を拭った. 「ええ. 大丈夫よ. 」 私は立ち上がった. 私の心は, 凍り付いた湖のように静まり返っていた. 「私はもう決めたわ. 奨学財団の理事長の職を, 私が引き受ける. 」 桃紗は呆然とした. 「優花, 何を言ってるの? あなたは今まで, 影から支える立場だったじゃない. 」 私は彼女の目を真っ直ぐに見つめた. 「ええ. でも, もうその必要はないわ. 」 私は携帯を取り出し, タクシーを呼んだ. 「早見さん, 今日のところはこれで. 離婚届の件は, くれぐれもよろしくお願いします. 」 彼女は何も言えずに私を見送った. 私はタクシーに乗り込み, 自宅へと向かった. 家に着くと, 全身が震え始めた. 膝の力が抜け, その場に座り込みたくなった. 私はリビングのソファに倒れ込んだ. 目の前の世界が歪む. その時, 玄関のドアが開く音がした. 慎則が帰ってきたのだ. 「優花? どうしたんだ, こんなところで寝ているなんて. 」 慎則の声は優しかった. 彼は私に近づき, 手を伸ばしてきた. 「今日は疲れたんだ. 少し休ませてほしい. 」 彼の言葉は, まるで過去の記憶のように響いた. かつて, 私が疲れている時には, いつもこうして優しく声をかけてくれた. 彼は私の額に手を当て, 熱がないかを確認する. その指先が, 私の肌に触れた瞬間, 私は反射的に身を引いた. 彼の体から, 花純の匂いがした. 甘く, ねっとりとした, 私には覚えのない香水の匂い. 「どうした? 体調が悪いのか? 」 慎則は眉をひそめた. 私は目を閉じた. 「疲れたの. だから, 触らないで. 」 私の声は, 私自身が驚くほど冷たかった. 慎則は少し戸惑ったようだったが, すぐに気を取り直した. 「そうか. 分かった. 何か食べたいものはあるか? 俺が作ろうか? 」 彼は気遣うように言った. 私は首を横に振った. 「いいえ. 何もいらないわ. 」 慎則は少し残念そうにしながらも, キッチンへと向かった. 私はゆっくりと立ち上がり, リビングテーブルの上にあるものに目をやった. そこには, 私が桃紗から受け取った離婚届が, 慎則の私物の上に置かれていた. 慎則がキッチンから戻ってきた時, 彼はテーブルの上の離婚届に気づいた. 彼の顔色が一瞬にして変わった. 「これは…何だ? 」 彼の声は低く, 硬いものだった. 私は何も答えなかった. 慎則は離婚届を手に取り, 内容を確認する. 彼の目つきが, 次第に鋭くなる. 「優花, これはどういうことだ? 」 彼は離婚届を私に突きつけた. 私は依然として無言だった. 「冗談はやめてくれ! 俺たちが離婚するなんて, ありえない! 」 彼の声は怒りに震えていた. 私はただ, 冷めた目で彼を見つめた. 慎則は私の腕を掴んだ. 彼の指が, 私の肌に食い込む. 「優花! 何か言え! 一体どうしたんだ! 」 彼の怒鳴り声が, 部屋中に響き渡る. 私は目を閉じた. 「放して…」 私の声は, か細く震えていた. 慎則は私の言葉を聞き入れず, さらに強く腕を掴んだ. その時, 彼の私物のポケットから, 何かが飛び出した. 「ドサッ」という音を立てて, それが床に落ちた. 慎則は一瞬, 手を緩めた. 私は床に落ちたものに目をやった. それは, 女性用のピアスだった. 慎則は顔色を変えた. 「これは…」 彼は慌ててピアスを拾い上げようとした. しかし, 私の足がそれを阻んだ. 「何だ, これは? 」 私の声は, 凍り付いた氷のように冷たかった. 慎則は顔面蒼白になった. 「これは, その…仕事仲間のだ! 落とし物を預かっていたんだ! 」 彼の声は焦っていた. 私は冷笑した. 「そう. 仕事仲間のね. 」 慎則はピアスをポケットにしまい込み, 再び私に向き直った. 彼の顔には, 焦りと怒りが入り混じっていた. 「優花, 俺たちは離婚しない! こんな馬鹿げたことはやめろ! 」 彼は再び私の腕を強く掴んだ. その時, 私の頭がテーブルの角に強く打ちつけられた. 「ガツン! 」という鈍い音がした. 鋭い痛みが, 私の頭を貫いた. 目の前が白くなる. 私はよろめき, その場に倒れ込んだ. 部屋の中は, 一瞬にして静まり返った. 慎則は呆然と私を見つめている. 彼の顔からは, 血の気が引いていた. 「優花…大丈夫か? 」 彼の声は震えていた. 彼は私に駆け寄り, 頭を抱き起こそうとした. 「ごめん…ごめん, 優花. まさかこんなことになるなんて…」 彼は何度も謝罪の言葉を繰り返した. 彼の顔には, 後悔の色がにじんでいた. 私は頭の痛みに耐えながら, 彼の手を振り払った. 私の指先が, 生温かい液体に触れる. 血だった. 「大丈夫よ. 」 私の声は, まるで遠くから聞こえるかのように響いた. 慎則は私の頭から流れる血を見て, さらに狼狽した. 「血が…優花, 病院へ行こう! 救急車を呼ぶぞ! 」 彼は携帯を取り出そうとした. しかし, その時, 彼の携帯が鳴り響いた. 聞き覚えのある, 特別な着信音. 慎則の体が一瞬にして硬直した. 彼は私と携帯を交互に見て, 狼狽していた. 「早く出たら? 大事な仕事の電話でしょう? 」 私の声は, 嘲笑を含んでいた. 慎則は戸惑いながらも, 携帯を耳に当てた. 彼の声が, かすかに聞こえる. 「もしもし…今? いや, 大丈夫だ…分かった…」 彼の声は, 私には聞こえないように, ひどく抑えられていた. 彼は私を一瞥し, そして再び携帯に目をやった. 「優花, ごめん. 急な仕事が入ってしまった. すぐに戻るから, それまで安静にしていてくれ. 」 彼は私にそう言い残し, 慌てて玄関へと向かった. 彼のポケットから, 再び何かが落ちそうになった. 先ほどのピアスだった. 彼はそれを慌てて拾い上げ, ポケットにねじ込んだ. 「待って…」 私の声は, 彼の耳には届かなかった. 彼は玄関のドアを閉め, 去っていった. 部屋には, 私と, 頭から流れる血だけが残された. 私は頭の傷を抑えながら, ゆっくりと立ち上がった. 体よりも, 心が深く深く刺されていた. 彼の焦った表情, 嘘をつく時の癖, そしてあの特別な着信音. 全てが私には分かっていた. 彼は今, 花純の元へ向かったのだ. 愛とは, 人を盲目にするものだ. 私自身が, その盲目の中にいたのだから. 私はゆっくりとバスルームへ向かい, 頭の傷を処置した. 痛みは, もはや感じなかった. 処置を終え, 私は莉結の部屋へ向かった. ドアの隙間から, 莉結と花純の声が聞こえてきた. 「ねえ, 花純さん, パパが言ってたんだけど, 花純さんと結婚したら, 私のお弁当も花純さんが作ってくれるんだって! 」 莉結の楽しそうな声が聞こえてくる. 「もちろんよ, 莉結ちゃん. 莉結ちゃんが世界で一番好きなお弁当を作ってあげるわ. 」 花純の甘ったるい声が, 私の耳に届いた. 私の心臓が, 再び締め付けられる. 「やったー! 花純さんが新しいママになってくれたら, 私, 世界で一番幸せだわ! 」 莉結の無邪気な声が, 私の心を深く深く抉った. 私の体から, 全ての力が抜けていく. その場に座り込みたくなった. 私の心臓は, まるでガラスのように砕け散った. 莉結は花純を「新しいママ」と呼び, 私を裏切っていたのだ. 私の存在は, この家にはもう必要ない. この家族には, もう私という居場所はない.
服部優花 POV: 莉結が花純を「新しいママ」と呼んだ瞬間, 私の体は崩れ落ちた. リビングの床に座り込み, 全てが終焉を迎えたことを悟った. その夜, 私は一睡もできなかった. 頭の痛みよりも, 心の痛みが私を苛んだ. 私は過去を振り返っていた. 慎則と出会ってからの, 私の人生の全てを. 慎則は, 私にとって, 最初で最後の男性だった. 彼は私の世界を彩り, 私を愛してくれた. 誰もが認める才気あふれる振付師だった彼が, 初めて私に声をかけてきたあの日. 「君のバレエは, まるで夜空に咲く花のように美しい. 」 舞台の袖で, 彼は熱い眼差しで私を見つめていた. 私はその視線に戸惑い, 顔を赤らめた. 彼はそれから, 毎日私の楽屋に通い詰めた. 私の練習を見守り, 私を励まし, 私を褒め称えた. 彼は私のバレエへの情熱を理解し, 私の夢を応援してくれた. 慎則は, 私の生活リズムに合わせて, 自分の生活を変えてくれた. 夜遅くまで続くレッスンに付き添い, 早朝からの練習にも来てくれた. 彼は私と全く違うタイプの人間だった. 私は内向的で, 彼は社交的. 私は控えめで, 彼は情熱的. それでも, 彼は私のために, 変わろうと努力してくれた. 「優花がいるから, 俺は強くなれる. 」 彼はそう言って, いつも私を抱きしめてくれた. 彼の腕の中にいると, 私は世界で一番幸せな人間だと感じた. ある日のことだった. 私たちのバレエ団に火災が起きた. 練習中, 突然警報が鳴り響き, 煙が充満した. 私はパニックになり, 逃げ遅れてしまった. 炎が迫り, 熱と煙が私の呼吸を奪っていった. その時, 慎則が私を助けに来てくれた. 彼は炎の中に飛び込み, 私を抱きかかえて外へと連れ出してくれた. 途中で, 崩れ落ちる梁から私を庇い, 彼は左腕に大火傷を負った. 病院のベッドで, 彼は私を見つめ, 弱々しく微笑んだ. 「優花, 無事でよかった. 」 彼の声は掠れていた. 私は涙を流しながら, 彼の傷だらけの腕を握りしめた. 「どうして…どうして私なんかを助けるために…」 私の言葉に, 彼は優しく微笑んだ. 「君を失うくらいなら, 俺の命なんて惜しくないさ. 」 その夜, 彼は私に告白した. 「優花, 俺と結婚してくれ. 一生, 君を守り続けるから. 」 彼のプロポーズは, まるで夢のようだった. 私は涙を流しながら, 彼のプロポーズを受け入れた. 私たちは最高峰のバレエ学校を卒業し, 結婚した. 彼は私の家族からの反対を押し切り, 私との結婚を選んでくれた. 私には両親がいなかった. 孤児として育った私を, 彼だけが大切にしてくれた. 私は彼と結婚して, 初めて「家族」という温かさを知った. 専業主婦として, 彼のキャリアを支えることに, 私は喜びを感じていた. 私が引退した時, 彼は言った. 「優花, これからは君が俺の人生の全てだ. 俺が君を幸せにする. 」 彼の言葉を信じていた. 私は, 彼と莉結の幸せのために, 自分の全てを捧げてきた. しかし, いつからだろうか. 彼の態度は変わり始めた. 彼は多忙を理由に, 家に帰らないことが増えた. 私への関心も, 次第に薄れていった. 「俺の仕事は, 君には理解できない. 」 彼はそう言って, 私を突き放すようになった. 莉結も, 彼の影響を受けて, 私に反発するようになった. 「ママのせいで, パパは家に帰ってこないんだ! 」 莉結の言葉が, 私の心を深く傷つけた. 私は自分を責めた. 私が彼をもっと支えられていれば, 彼は変わらなかったのだろうか. 私は彼の機嫌を取ろうと必死になった. 彼のために, 新しい料理を勉強し, 彼好みの服を選んだ. しかし, 彼の目には, もう私は映っていなかった. 私が彼の心を取り戻そうと必死だった頃, 私のもとに匿名で一本の電話がかかってきた. 「奥様, ご主人が他の女性と親密にしている動画があります. よろしければ, 送らせていただきますが. 」 私はその電話を, 最初は信じなかった. しかし, 好奇心に抗えず, 動画を受け取ってしまった. その動画には, 慎則と花純が, まるで恋人同士のように抱き合っている姿が映っていた. 私の心は, 完全に砕け散った. 私が必死に彼を追いかけていた頃, 彼は別の女性と愛し合っていたのだ. 私が自己欺瞞の中で, 彼に尽くしていた頃, 彼は別の家庭を築いていたのだ. その動画を見た瞬間, 私の人生は, 音を立てて崩れ落ちた. 「優花? 」 桃紗の声が, 私を現実に引き戻した. 彼女は私の目の前に, 数枚の書類を差し出している. 離婚届だった. 彼女は私の表情を見て, 何も言わなかった. 私は離婚届を手に取った. 慎則のサインは, 既に済まされていた. 私の指が, 署名欄をなぞる. 躊躇はなかった. 私の心は, 既に死んでいたのだから. 私はペンを握りしめ, 自分の名前を書き込んだ. 服部 優花. 書き終えた瞬間, 私の心に, 深い解放感が訪れた.
服部優花 POV: 慎則はそれから, ほとんど家に帰らなかった. たまに来るメッセージは, いつも同じ内容だった. 「仕事が忙しい. しばらく帰れない. 」 私はもう, 彼の行方を尋ねることはしなかった. 彼の言葉に, 何の感情も抱かなかった. 私の心は, 深い海の底に沈んだかのように, 静まり返っていた. 私の日々は, 変わらず淡々と過ぎていった. 自分のことだけに集中し, 心を閉ざした. 莉結の誕生日が近づいてきた. かつては, 家族三人で盛大に祝っていたものだ. 慎則はいつも, 莉結のために最高のプレゼントを用意し, 私も手作りのケーキを焼いた. しかし, 今年は違った. 慎則は誕生日にも帰ってこなかった. 莉結は不機嫌だった. 「パパがいないのは, ママのせいよ! 」 莉結はそう言って, 私を責めた. 私は何も言えなかった. 私は何度も慎則に電話をかけたが, 彼は一度出たきり, すぐに切ってしまった. 「忙しいんだ. 莉結の誕生日は, また今度ゆっくり祝ってやる. 」 彼の声は冷たかった. 私はため息をついた. 莉結はますます機嫌が悪くなった. 私は彼女のために, 慎則が気に入っていたブランドのバレエシューズを用意し, 心を込めてケーキを焼いた. 「莉結, お誕生日おめでとう. 」 私は莉結にプレゼントとケーキを差し出した. しかし, 莉結はそれを受け取ろうとしない. 「こんなもの, いらないわ! 」 莉結はプレゼントを床に叩きつけた. 新しいバレエシューズが, 音を立てて壊れた. 私の心臓が, 再び締め付けられる. 「どうしてママはいつもそうなの? ママのせいで, パパは家に帰ってこないんだ! 」 莉結の声は, 私を罵倒するものだった. 「パパは花純さんのことが好きだもん! ママはもう, パパの邪魔よ! 」 莉結の言葉が, 私の心を深く抉った. 「ママなんて, パパの足枷でしかないわ! パパが世界的な振付師になれたのも, 花純さんの支えがあったからよ! 」 莉結は私の目を真っ直ぐに見つめた. その瞳には, 憎悪が宿っていた. 「ママは, いつもパパのキャリアに嫉妬してたじゃない! 自分はもう踊れないからって! 」 彼女の言葉は, 私が最も隠したかった心の闇を暴いた. 「ママは, 自分に両親がいないからって, パパにばかり依存してる! 花純さんみたいに, 自立した女じゃないんだから! 」 莉結の言葉は, 私の心を砕き, 私を地面に叩きつけた. 「ママは, 何の取り柄もないくせに! 花純さんは, バレエも上手だし, パパの仕事も手伝えるし, 何よりパパを笑顔にできるんだから! 」 莉結の顔は, 憎悪と軽蔑に歪んでいた. その表情は, 7歳の子供とは思えないほど残酷だった. その時, 莉結はテーブルの上の紙切れを掴み, 私に投げつけた. 「これ! パパと花純さんが用意したの! ママはこれにサインして, さっさと出て行って! 」 紙切れは私の足元に落ちた. 私は震える手でそれを拾い上げた. それは, 莉結と私の「関係断絶書」だった. 莉結の稚拙な文字で書かれたその書類には, 「服部優花は, 星野莉結の母親ではない」と記されていた. そして, その下には, 莉結の指紋が, まるで血判のように赤く押されていた. 私の心臓が, 激しい痛みに襲われる. 視界が真っ白になる. 「ママなんか, もういらないわ! 私の人生から消えてちょうだい! 」 莉結はそう叫ぶと, 自分の部屋へと走り去った. ドアが激しく閉まる音が, 私の耳を劈いた. 私はその場に立ち尽くしたまま, 動けなかった. 頭の痛みが, 再び私を襲う. その時, 莉結の部屋から, 花純の声が聞こえてきた. 「莉結ちゃん, 大丈夫? ママがまた何か言ったの? 」 花純の甘ったるい声は, 私の心をさらに深く抉った. 「うん…ママが, 花純さんのこと悪く言うの…」 莉結の泣き声が聞こえてくる. 「大丈夫よ, 莉結ちゃん. 花純さんが莉結ちゃんの新しいママになってあげるから. 」 花純の声には, 確かな優越感がにじんでいた. 私は花純の言葉に, 全身の血の気が引いていくのを感じた. 私の体は, まるで氷のように冷たくなった. 私は莉結にとって, 本当に邪魔な存在だったのだろうか. 私が孤児として育ったから, 莉結は私を恥じているのだろうか. 私がバレエをやめて, 輝かしいキャリアを失ったから, 莉結は私を軽蔑しているのだろうか. 私が慎則の心を引き留められなかったから, 莉結は私を憎んでいるのだろうか. 私の存在は, 莉結を不幸にしているだけなのだろうか. 莉結は, 花純を, 私よりも深く愛している. それが, 全てだった. 私は乾いた笑みを浮かべた. 私の目からは, もう涙は流れなかった. 私はゆっくりと立ち上がり, 莉結の部屋のドアへと向かった. ドアの隙間から, 莉結が花純に抱きついているのが見えた. 私は静かにドアを閉めた. そして, 莉結の部屋に置いてあった, 彼女への誕生日プレゼントの山に, あの「関係断絶書」をそっと忍ばせた. 「これで, 莉結は喜ぶわ. 」 私の声は, 私自身が驚くほど冷静だった.