末期の膵臓がんと診断された日, 私は愛する義兄が大手製薬会社の令嬢と婚約したことを知った. 六年前, 母の再婚によって, かつての恋人だった黒川潤一は私の義兄になった. 彼は, 私の母が彼の家庭を壊したと信じ込み, 私を憎み続けている. 彼は私の病気を知らず, 妊娠していると誤解し, 「その腹の子を堕ろせ. お前のような女に吐き気がする」と冷たく言い放った. 私は彼への愛を抱きしめたまま, 誰にも看取られず, 一人で死んでいった. しかし, 私の死後, 親友の口からすべての誤解が解き明かされる. 潤一は, 私が彼を愛し続け, 彼の子供を一人で産もうとしていたこと, そして病に苦しみながら亡くなったことを知る. なぜ, 愛し合ったはずの二人が, ここまで憎しみ合わなければならなかったのか. 彼の絶望的な後悔と贖罪の物語が, 今, 始まる. 第1章 玲子 POV: 末期膵臓がんと診断され, 余命宣告を受けたその日, 私は愛する義兄が, 大手製薬会社の令嬢と婚約したと知った. 私の残された時間は, 彼への愛を抱きしめるには短すぎた. 医者の言葉は, まるで冷たいナイフのように私の心臓を貫いた. 『末期の膵臓がん, 余命は…そう長くはありません』. 世界が一瞬で白黒に変わった. 私の頭は, その事実を処理しきれずに, ただただ痛みに震えていた. 黒川潤一. かつての恋人であり, 今は私の義兄. 私たちの関係は, 母と彼の父の再婚によって, たった一夜にして歪んでしまった. あれから六年. 愛しい記憶は埃を被り, その上には憎しみと冷酷さが降り積もっていた. 黒川家に入ってからの日々は, 常に嵐の中を歩くようだった. 潤一の瞳には常に私への軽蔑と怒りが宿り, それが私の母にも向けられていると感じていた. 私は, この家庭の中で, まるで不要な異物のように感じていた. 潤一が鍋島凛々子と婚約したというニュースが, 私の凍りついた心にさらに冷たい水を浴びせた. 製薬会社の令嬢. まさか…彼が本当に. 私は急いでタクシーを拾い, 震える手で住所を告げた. 一刻も早く, 彼の元へ行きたかった. 家に着くと, 私は迷わず潤一の書斎へと向かった. そこは, 普段なら私が入ることを許されない, 彼の聖域だった. ドアノブを握る手が, 汗で滑る. 心臓が, まるで喉元まで跳ね上がってくるようだった. ドアを開けると, 彼は書類の山に囲まれて座っていた. 顔を上げ, 私を見ると, その瞳に冷たい光が宿った. 「潤一さん, あの, 鍋島さんとの婚約の件…本当なの? 」私の声は, ひどく震えていた. 「ああ, そのことか」彼は冷笑し, ペンを置いた. 「そんなこと, わざわざ私に確認しに来るようなことか? お前には関係ないだろう. 」 彼の声は, まるで氷のようだった. 私の期待は, 音を立てて砕け散る. 「まったく, お前は何を考えているんだ」彼は立ち上がり, 私に近づいてきた. 「相変わらず愚かな女だな. 」 彼の言葉が, 私の胸に突き刺さる. 息が詰まる. 「私の人生を, これ以上邪魔するな」彼の声は低く, 脅迫的だった. 「お前の母が私の家庭を壊したように, 今度は, お前が私の幸せを壊そうとしているのか? 」 彼の言葉が, 私の全身を硬直させた. 私はその場に立ち尽くし, 何も言えなかった. 彼の憎悪が, 私を飲み込もうとしていた. 喉がカラカラに乾き, 言葉が出てこない. 反論したいのに, 唇が震えるばかりで, 何の音も発せられない. 私は, いつも彼の前では無力だった. この六年, 彼が私に向けてきた冷たい視線や突き放すような態度. それは, 単なる義兄としての距離感ではなかった. 深い, 根源的な憎しみが, ずっと彼の心に巣食っていたのだと, 今, はっきりと理解した. 「そんなこと…」私は無理に笑ってみせた. 頬の筋肉が, 引きつるように痛む. 「私は, ただ…」 苦しい言い訳は, 彼の前では通用しない. 私自身, 本当に彼のことを心配しているのか, それとも, ただ彼の幸せを妬んでいるだけなのか. その感情の複雑さに, 私は自分でも混乱していた. もう, 彼との間に希望はない. あの純粋な恋の日々は, 完全に過去のものとなってしまった. それは, 私にとって, 死の宣告と同じくらい重い現実だった. 「でも, 潤一さん, 鍋島さんは…あなたに本当にふさわしい人なの? 彼女は, その, 少し…」 私は言葉を選んだ. 彼の婚約者についての悪い噂を, 彼に伝えるべきか, 迷った. しかし, 心の奥底で彼には本当に良い相手と結ばれてほしいと願っていた. 彼が, 私のような不幸な存在と関わることで, さらに不幸になるのは見ていられなかった. 「お前のような底辺の女に, 私の婚約者の品定などできるはずがないだろう」彼はあざけり笑った. 「身の程を知れ, 古川玲子. 」 「お前と彼女では, 立つ場所が違う. 住む世界が違うんだ. 」彼の言葉は, 私の心を深くえぐった. 彼の瞳は, 私をゴミを見るような軽蔑に満ちていた. その視線が, 私の全身を焼き尽くすようだった. 彼はゆっくりと椅子から立ち上がった. 窓から差し込む夕日が, 彼の鋭い輪郭を逆光で浮かび上がらせる. その表情は, 影に隠れてはっきりとは見えない. しかし, 彼の全身から放たれる冷たいオーラは, 私を凍りつかせた. 「いいか, 古川玲子. お前はもうこの家の人間ではない. 私の家族の事情に口を出す権利など, お前には一切ないんだ. 」 「私は…私は, この家の財産なんて, 何も求めていません! ただ…」私は必死に訴えようとした. しかし, 彼は私の言葉を聞き流し, 背を向けたまま, 書斎のドアに向かって歩き始めた. ドアノブに手をかけ, 彼は迷いなく部屋を出て行こうとした. 「お兄, ちゃん…! 」私の口から, 思わず, この六年一度も口にしたことのない呼び名が漏れた. その言葉に, 彼の背中がびくっと震え, 彼は凄まじい勢いで私の方を振り返った. その瞳は, 獲物を睨みつける獣のように凶悪だった. 「今, 何と言った? 」低い声が, 部屋いっぱいに響き渡る. 「誰がお前の兄だ? 二度と, その汚い口で私をそう呼ぶな! 」 私と母がこの家にやってきてから, 彼は私を「兄」と呼ぶことを許さなかった. 彼の母親が家を出ていったのは, 私の母のせいだと, 彼は今でも信じている. その誤解が, 私たちをここまで引き裂いたのだ. 彼はずっと私を憎んでいた. 愛しいはずの私を, 彼の人生を狂わせた元凶として, ずっと憎み続けていたのだ. 私がどんなに困難な状況にあっても, 彼が一度たりとも私に手を差し伸べなかった理由. それは, 愛ではなく, 憎悪だったのだ. 確かに, 私は彼の前で, 一度も「お兄ちゃん」と呼んだことはなかった. 彼に嫌われるのが怖くて, その距離を保ってきたのに. 「ごめんなさい…でも, 私…」私の声は, 哀願するように細くなった. 心臓が, まるでガラスのように砕け散る感覚に襲われた. 体中の細胞が, 悲鳴を上げているようだった. 「その呼び名には, 吐き気がする」彼は嫌悪感を露わにした. 「親子関係はともかく, 私とお前は, 永遠に赤の他人だ. それだけは, 絶対に忘れるな! 」 彼の言葉が, 私の頭の中で木霊する. 目の前が真っ暗になり, 平衡感覚を失った. 足元がおぼつかなくなり, 私はそのまま床に倒れ込んだ. 冷たい大理石の床が, 私の頬に凍えるような感触を与えた. 「また芝居か」彼は冷たく吐き捨てた. 「お前のそういう, わざとらしい態度には, もううんざりだ. 」 「もう我慢の限界だ. そんなに苦しいなら, 自分で死んでしまえ. それが一番, 手っ取り早いだろう. 」 彼は私のことなど気にも留めず, 冷たい視線を残して, 書斎から去っていった. ドアが静かに閉まる音が, 私の心臓に鉛の塊を落としたようだった. 私は震える腕で床を支え, ゆっくりと体を起こした. 全身が鉛のように重い. 鼻の奥から, ツンと鉄の匂いがした. そっと指で触れると, べっとりとした血が, 指先に付着していた. 手のひらに付いた血が, 私の視界を赤く染める. 目の前がぼやけて, 世界が歪む. 末期がん. 体は, もう限界だった. 彼の冷たい言葉は, 私の命をさらに削り取っていく. あと少し, ほんの少しでいいから, 彼からの温かい言葉が欲しかった. 彼が私を気遣ってくれる, たった一言でも良いから. 膝から力が抜け, 私は再び冷たい床に崩れ落ちた. もう, これ以上立つ気力もなかった. 手のひらの血を, 必死に服で拭おうとする. しかし, 血は止まらない. 拭いても拭いても, 鼻からは赤い液体がとめどなく流れ出る. 止まらない. 私の体は, もう私の言うことを聞かない. 私はその場に座り込み, 膝を抱え込んだ. 全身が震え, どうすることもできない. 声も出せずに, ただ, 涙だけがとめどなく溢れ出した. 頬を伝う涙は, 血の味と混じり合った. なぜ, こんなにも私だけが苦しまなければならないのだろう. 神様は, 私に一体何を望んでいるの? 愛し合ったはずの二人が, こんなにも憎しみ合うなんて. この愛は, 一体どこで道を間違えてしまったのだろうか. 余命いくばくもないという現実. そして, 愛する人からの, 心臓を抉られるような言葉. 私は, もう何も感じたくなかった. 足元がふらつくまま, 私は書斎を出た. 廊下に出ると, ぼんやりとした光が, 私の目を刺した. 「玲子, 大丈夫? 潤一さんと, 何かあったの? 」母が心配そうな顔で, リビングのドアの向こうから私を見ていた. 彼女の顔には, 私を待っていた焦りがはっきりと見て取れた.
玲子 POV: 「玲子, 顔色が悪いわ. 鼻血でも出したの? 」母が私に近づき, 私の顔を覗き込んだ. 母の視線が, 私の鼻と, 手のひらに付いた血痕を捉える. その瞳には, かつて私を愛してくれた父の暴力から逃れた時の, あの怯えた光が宿っていた. 私は慌てて血を拭い, 「大丈夫よ, お母さん. ちょっと転んじゃっただけ. 潤一さんとは何もないわ. 」と嘘をついた. 母は, 私の言葉を聞いて, ほっとしたように息を吐いた. 「そう, ならいいのだけれど. 最近, あなた, 痩せたでしょう? 早く部屋に戻って休みなさい. 」 母の優しい言葉が, 私の心を締め付けた. 私は震える体を必死で支え, 自分の部屋へと戻った. 一歩一歩が鉛のように重い. ベッドに倒れ込むと, 額に冷たい汗が滲み出る. 体中の痛みが, 私を蝕んでいく. 私は引き出しから, 隠していた鎮痛剤を取り出し, 水なしで飲み込んだ. この痛みから逃れたかった. 一刻も早く, 意識を手放したかった. 眠りの中でなら, 何もかも忘れられるだろうか. あの憎しみに満ちた瞳も, 冷たい言葉も, そして, 自らの死も. どうか, 夢の中だけは, 平和であってほしい. 私の意識は, 深い痛みの淵へと沈んでいく. かすむ視界の中で, 私は過去へと引き戻された. 潤一と出会った, あの頃の記憶. あの頃の私たちは, まだ純粋な恋人同士だった. 私が育ったのは, 貧しい地域だった. 日々の生活に追われ, 笑顔もまともに見せられないような家庭だった. そんな私を, 彼は見つけてくれた. 握った手は, 温かかった. 私たちは, 手をつなぎ, 桜並木の下を歩いた. まだ, 何の憂いもなかった頃. 私は, 自分の家庭の苦しさを彼に隠した. 彼に, 余計な心配をかけたくなかったから. 潤一もまた, 自分が裕福な家庭の御曹司であることを私に隠していた. 彼は, 私の前ではただの「潤一」だった. 私たちは, 互いの不幸を分かち合い, 慰め合った. それが, 私たちの愛の始まりだった. お互いの苦しみを理解し, 寄り添うことで, より深く結びついたのだと信じていた. 「いつか, こんな生活から抜け出して, お前と幸せになるために, 俺は会社を継ぐんだ」 彼は, 私の隣で, 目を輝かせながらそう言った. 彼の瞳には, 父親に認められたいという強い願いが宿っていた. 私は, ただその言葉を信じていた. 彼の夢が, 私の夢でもあった. 「私も, 自分の力で, お母さんと幸せになりたい」 私がそう言うと, 彼の瞳には真摯な痛みが宿った. 彼は, 私の頬を伝う涙を, 親指でそっと拭ってくれた. その指先は, ひどく不器用で, しかし, とても温かかった. 彼は私をぎこちなく抱きしめた. 初めての抱擁は, 甘く, そして頼りないものだった. 私の肩を, ぽんぽんと軽く叩く彼の掌. それが, どれほど私を安心させたか. 「俺が, 必ずお前を守る」彼の声は, 幼く, しかし, 固い決意に満ちていた. 私は, あの時, 彼の温かい胸の中で, 永遠の幸せを信じていた. この愛が, いつまでも続くのだと疑いもしなかった. 私の涙は, 彼のシャツに染み込んでいく. あの頃は, それが永遠に続くと思っていたのに. しかし, その幸福な日々は, あっけなく終わりを告げた. 「玲子, 別れてほしい」 ある日, 彼は突然, そう告げた. 彼の瞳は, 私を知らない人のように冷たかった. 「嫌, どうして…? お願い, 理由を教えて! 」 私は必死で彼の服の裾を掴み, 涙ながらに問い詰めた. 「もう, お前を好きじゃないんだ」 彼は, ただそれだけを言い残し, 私の前から去ろうとした. その簡潔な言葉は, 私の心を深く切り裂いた. 「そんなの, 嘘よ! 」私は彼の言葉を信じることができなかった. 私たちの愛は, そんなに簡単に終わるはずがない. 私は諦めなかった. 毎日, 彼の家まで通い, 彼を追いかけた. 雨の日も風の日も, 彼の会社の近くで, 彼を待ち続けた. 彼の好きな花を贈り, 手作りの弁当を届けた. 「古川玲子が, 黒川潤一を追いかけ回している」という噂は, すぐに社内中に広まった. 彼の同僚たちは, 私を好奇の目で見つめた. しかし, 私は屈しなかった. そして, ついに彼は, 私を受け入れてくれた. 私たちの関係が, 再び元に戻るという希望が私の中に生まれた. しかし, その希望は, すぐに絶望へと変わった. 彼の父親が再婚した相手が, 私の母だったのだ. その瞬間, 私たちの恋は, 永遠に終わった. 私たちは, 義理の兄妹となり, もう二度と, 恋人には戻れない. この関係は, もうどうにもならない. そう悟った時, 私の心は, 完全に死んだ. 激しい痛みに, 私は目が覚めた. 夢から覚めても, 現実は変わらない. 体中の痛みが, 私の全身を襲う. 右の腹部を, 無意識のうちに強く押さえつけた. 痛みを和らげようと, さらに強く. しかし, 痛みは増すばかりだった. 私の体は, 汗でぐっしょりと濡れている. シーツも, 私の汗で湿っていた. 天井をじっと見つめる. そこには, 私の未来は映っていなかった. 愛と憎しみ. この二つの感情が, 私の心の中で渦巻いている. 私は, この運命を受け入れるしかなかった. 潤一への愛は, まるで私の身体に張り付いた皮膚のように, 剥がすことのできないものだった. 憎まれても, 蔑まれても, 私は彼を愛することを止められない. 私は, なんて哀れな存在なのだろう.
玲子 POV: 彼の幸せを邪魔するな, そう言われた. ならば, 彼の幸せを邪魔してやろうか. 一瞬, そんな恐ろしい考えが頭をよぎった. 彼を驚かせてやろう. 彼が, 私の存在を心底疎ましく思うように. 「玲子, どうした? こんな時間に」母は, 私がリビングにいることに驚いたようだった. 「ごめんなさい, お母さん. 喉が渇いて…」 リビングに降りると, 潤一がソファに座っていた. 彼は私を一瞥し, 眉をひそめた. 「まだこの家にいたのか. しつこい女だな」彼の声は, いつも通り冷酷だった. 私は無視された. しかし彼は, 何気ない様子で私に水を差し出した. 「これでも飲んで, さっさと自分の部屋に戻れ」 表面上は礼儀正しく振る舞う彼. しかし, その瞳には, 私への激しい嫌悪感が宿っていた. 「お前とは, 同じ空気を吸うのも嫌だ」彼の言葉が, 私の心臓を凍らせる. 彼は, 私から目を逸らすように, 急いで部屋を出て行った. その足音は, まるで私から逃げるかのようだった. 私がどれほど彼に嫌悪され, 避けられているか. この六年, 毎日, 肌で感じてきた. コップの中の水面に, 私の視線が吸い込まれる. 水面が揺れるたびに, 私の心もざわめいた. 私はゆっくりと水を飲んだ. 冷たい水が, 焼け付くような喉を潤していく. グラスの感触が, なぜか懐かしい. 彼の優しさは, いつもすぐに消え去る泡のようだった. 水は冷たかったが, その中には, 微かな温かさが宿っているように感じられた. それは, まるで, かつて彼がくれた, ほんの一瞬の優しさのようだった. 涙で, 視界が滲む. 私はなぜ, 彼に別れを告げられても, 彼を追いかけ続けたのだろう. あの時, 私はただ, 誰かに助けを求めていたのだ. この苦しい状況から, 私を救い出してほしいと. 彼の温かい言葉が, 私を救ってくれると信じていた. 彼がくれた, ほんの一瞬の甘い時間は, この六年の苦しみを耐え抜くための唯一の支えだった. そして今, 私は末期の病に侵されている. それでも, 私は彼を愛している. この愛は, 私が自分自身で作り上げた, 悲しい幻想なのかもしれない. それでも, 私はこの幻想を抱きしめたかった. せめて, 命の終わりには, 「私は彼を愛していた」と胸を張って言いたかった. 数日後, 私は親友の早田涼歌穂と一緒に病院にいた. 彼女は私の唯一の理解者であり, 私の病を知る唯一の人間だった. 「玲子, 今日は調子どう? 」涼歌穂は, いつもの明るい声で私に話しかけてくれた. 私たちは, 待合室の椅子に座っていた. 定期的な検査のために, 病院に来ていたのだ. その時, 病院の入り口に, 見慣れた顔が見えた. 潤一だった. そして, 彼の隣には, 鍋島凛々子がいた. 凛々子のお腹は, もうだいぶ大きくなっている. 二人は寄り添い, 幸せそうに微笑んでいた. 私は, とっさに顔を背けた. 彼らに見つかりたくなかった. しかし, 私の行動は, かえって彼らの注意を引いてしまったようだ. 「玲子, どうしたの? 」涼歌穂が, 私の様子を心配して尋ねる. 周りの人々が, 私を訝しげな目で見ていた. 何人かは, 顔を背けるようにして, 私から距離を取った. 私は, そんな周囲の視線など, どうでもよかった. 私の頭の中は, 潤一と凛々子の姿でいっぱいだった. 潤一の隣で, 凛々子が幸せそうに笑っていた. 彼があんな風に笑うのを, 私はどれだけ見ていなかっただろう. あの頃の彼は, 私の前ではいつも, どこか憂いを帯びていた. 彼の笑顔は, いつも一瞬で消えてしまう儚いものだった. 私は, 彼の隣にいることが, 彼を苦しめているのだと, ずっとそう思っていた. 彼が私に見せていた冷たい態度は, 私だけのものだったのだ. 彼が, 私以外の人間には, あんなにも優しい笑顔を見せることを, 私は忘れていた. 私は, そっと顔を上げた. 彼らが, もう立ち去っていることを願って. しかし, 潤一の視線が, 私を捉えていた. 彼の眉間に, 深い皺が刻まれた. 彼は, 私から目を逸らすように, 隣の窓口へと向き直った. 彼の瞳は, 私を見るたびに, いつも軽蔑と嫌悪に染まっていた. 「見ないで. 私なんて, 汚くて醜い. きっと, あなたの幸せを壊す厄介者だと, そう思っているんでしょう? 」 彼の視線が, 一瞬, 私の腹部で止まった. その目は, 冷たく, そして鋭かった. 彼の瞳に, 深い疑念が宿っているのが分かった. まさか…彼が, 私が妊娠しているとでも? 彼は, もう私を愛していない. 私の苦しみを, 何一つ理解しようとはしない. この愛は, やはり, 私だけのものなのだ.