君が死んでも、愛は終わらない
第1章

「ステージ4の膵臓がんです。余命、一ヶ月」 桜井芽衣は、静かに宣告を受け入れた。 結婚七年、誰もがうらやむ「愛妻家」の夫・蓮に捧げた人生は、実は脆い幻想だった。 気づけば、彼のワイシャツには、他の女の口紅がついていた。 「死ぬなら家の外でやれよ、迷惑だ」 最愛の夫から投げつけられた言葉は、彼女の心を木っ端みじんに砕いた。 なぜなら彼女は知っていた——もしもの時、彼がどう動くかを、痛いほどに。 だから彼女は、静かに決断する。 残されたひと月で、すべてを終わらせる。 愛した男との思い出の家が、愛人によって塗り替えられていくのを、 冷めた目で見つめながら。 だが、彼女の死は、終わりではなかった。 彼女が去った後の世界で、蓮という男の地獄は、ようやく始まる——。 愛とは何か。 後悔とは何か。 たったひと月の命が、十年の愛を、永遠の呪いに変える。 すべてを失って初めて、気づく真実。 これは、愛に目覚めるには遅すぎた男と、 愛に死んで、ようやく自由になった女の、 残酷で美しい、永遠の別れの物語。 第1章 桜井芽衣 POV 「桜井さん、検査の結果ですが……ステージ4のすい臓がんです。治療を中止すれば、余命はおそらく一ヶ月もありません。本当に、治療を受けないおつもりですか? ご主人の了承は……?」 「はい、大丈夫です。彼も……きっと、納得してくれます」 電話を切ったあと、私はしんと静まり返った部屋をぐるりと見渡した。胸の奥が、ひりつくように痛んだ。無意識に、指がみぞおちのあたりを押さえた。 ただの胃痛だと思っていた。昔からの持病の悪化だと――まさか、がんだったなんて。 小さくため息をついて、リビングのテーブルに置かれた写真立てに目をやる。指先で、写真の中の十八歳の桜井蓮の笑顔をそっと-なぞった。 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。雪の降る帰り道、髪に舞い降りた白い結晶を見つけた彼が、冗談めかして言ったのだ。 「これって、いわゆる『共に白髪の生えるまで』ってやつかな?」 胸が締めつけられるような、かつての幸福の記憶。私と蓮は幼なじみで、十八のときに恋人同士になった。大学を卒業してからは、狭いボロアパートで彼と二人、夢を追いながら苦労の日々を過ごした。 やがて彼の会社は軌道に乗り、私は新しいマンションと車を手に入れた。私はオシャレが好きで、ブランドの新作は毎シーズン届けられた。旅行が好きな私のために、彼は忙しい合間を縫って、よく遠出にも付き合ってくれた。誕生日も記念日も、彼からのサプライズは欠かさなかった。 私が不妊症だとわかったときも、彼は一言も責めることなく、「全部俺のせいだ」と言った。誰もが口をそろえて言っていた。――桜井蓮は、私のことを溺愛しているって。 でも、その彼が、結婚七年目にして――秘書の女と、外にもう一つの家を作った。 彼はその女、藤原寧々に豪華な一軒家を買い与え、「愛の巣」だなんて言っていたらしい。 毎晩まっすぐ帰ってきた人が、ある日を境に夜帰らなくなり。藤原への態度はどんどん甘くなり、私への態度は冷え切っていった。私を見るたび、彼はまるで嫌悪するかのように眉をひそめた。 考えたくもなくて、床に落ちたガラスの破片を拾い始めた。数日前、蓮との口論の末に割ってしまった花瓶の残骸だった。 あの日は結婚記念日だった。私は彼の好物を用意して、家で待っていた。「今日は早く帰る」と言っていたのに、帰ってきたのは午前二時。 ――また、彼女と一緒にいたのだろう。 私たちは激しく言い争い、そのとき蓮は、私の心を完全に壊す一言を吐いた。 「芽衣、俺には子どもが必要なんだ」 それ以上聞きたくなくて、私は家を飛び出した。彼は追ってこなかった。 それから一週間、私は昔の実家に身を寄せていた。そして、ひどい胃痛で病院に行き、現実を突きつけられた。 久しぶりに戻ったこの家は、埃っぽいままだ。蓮もこの一週間、一度も帰ってきていないのだろう。 かがんで破片を拾っていたとき、検査結果の紙がポケットから落ちた。私は手を止めて、それを見つめた。 ……彼に伝えるべきだろうか。私が死ぬってことを、彼が知ったら、悲しむだろうか。 自然と目元が熱くなり、それに自分で苦笑する。 ――今の彼なら、「ざまあみろ」とでも言うかもしれない。 気を取り直して片付けを続けていたそのとき、不意に部屋の明かりがついた。 眩しさに目を細めながら玄関を見ると、そこには蓮が立っていた。白いワイシャツの襟元には、赤い口紅の跡。 私の顔を見て、彼は軽く眉を上げた。 「もう拗ねるのは終わったか?」 私は答えず、検査結果の紙をそっとポケットに押し戻す。思いがけず彼が帰ってきたせいで動揺していた私は、手を切ってしまった。 慌ててキッチンに走り、水道の蛇口をひねる。 「新手の演技?自傷?ほんと、甘やかされて育ったんだな、お前は!死ぬなら家の外でやれよ、迷惑だ」 もう何も期待していないはずなのに、その言葉が胸に突き刺さる。 ――昔の彼なら、こんな口調で私に話すことはなかった。 私が不安になれば、どんなに喧嘩をしても優しく抱きしめてくれた。家出をしても、すぐに探し出して「怒る暇もない」と笑っていた。 「俺はお前を甘やかしたいんだ。だから一生、俺から離れられないようにしてやる」 そう言っていた彼は、もうどこにもいない。 水を止め、薬箱を出して自分で手当てをしていると、蓮が少しだけ声のトーンを和らげた。 「芽衣、もういいだろ。あいつとはただの遊びだ」 「業界の連中も皆そうだよ、家はちゃんと守ってる」 「妊娠して子どもが生まれたら、向こうは海外にでも送るつもりだ」 彼の言葉が終わる前に、スマホが鳴った。 「桜井さん、どこ? 一人で怖いの……早く帰ってきてよ……」 藤原寧々の甘えた声が、受話口から漏れ出た。蓮はまるで宝物でも扱うように、優しく彼女をあやしている。 私は何も言わず、包帯を巻き終えた手で、数日放置されていた食事を片付け始めた。 通話を終えた蓮は、私を一瞥もせず玄関へと向かう。 「蓮」 私は背中に声をかけた。 「……今度はなんだよ?」彼は舌打ちをして続けて言った「寧々が熱出してんだ。俺、行かなきゃなんねぇんだよ。くだらないことで――」 「離婚しましょう」 「……は?」 彼は苛立ちを隠さず、こちらを振り返る。 「さっきは自傷、今度は離婚? 何、次は『死にたい』ってか?」 「……もし、ほんとうにもうすぐ死ぬとしたら?」 私がそう呟いたとき、彼は何も言わず、ドアを閉めた。 その音が鳴り終わる直前、私はごく軽い声で言った。 「……あなたの望み通りに」 広すぎる家は、再び沈黙に包まれた。 腹の奥がきりきりと痛み出す。慌てて薬を取り出して飲み込む。 ――痛い。こんなにも痛いのに。 私は彼に伝えたかった。本当に、もうすぐ死ぬんだって。 震える手で、再び彼の番号を押す。けれど、返ってくるのは無機質なアナウンス。 ――着信拒否されていた。 私はかすかに笑って、壁のカレンダーを見上げた。 「……今日が、蓮と『さよなら』する、最初の日なんだね」

第2章

桜井芽衣 POV 数日ほど静養した後、私は馴染みのリユースショップの担当者に連絡し、手持ちの服やバッグ、アクセサリー類をすべて手放すことにした。 「奥さま、桜井社長はほんとに優しい方ですね。昨日、今季の新作をまとめて注文されたばかりなのに、今日にはもう衣装部屋を空けるなんて……」 そんな言葉を聞きながら、私はただ静かに微笑んだ。スマホの画面を指先で滑らせていくと、藤原寧々のSNSが表示された。投稿されたばかりの写真には、まさに今季の新作バッグが映っている。 「ええ、そうですね。彼は『最新品』が誰にふさわしいか、よくわかってますから」 ――どうやら、新しい「持ち主」は、もう決まったようだ。 業者を見送ったあと、私は親友の佐藤ことりを誘って「一つ付き合って」とだけ伝え、車を出した。目指したのは、郊外の静かな丘にある霊園だった。 車が霊園の前で止まったとき、ことりは驚いたように私を見る。 「……ここって、墓地じゃないの?」 私は何も言わず、彼女の手を取って管理棟へと向かった。 受付では、丁寧な対応のスタッフがパンフレットと区画図を渡してくれた。 案内を受けながら、私は樹木葬エリアを中心に見学した。桜の木の下、陽当たりのいい場所にある一角がなんとなく気に入って、そこに決めた。そして、その場で仮契約と内金の支払いも済ませた。 私には、もう身寄りがいない。両親は数年前に他界し、兄弟もいない。亡くなったあと、誰かがお墓を訪れることもないだろう。 だったらせめて、自分の最期くらいは自分で準備しておこうと思ったのだ。 ……今まで、蓮が稼いできたお金を私はあまり使おうとしなかった。彼のためにと遠慮して、贅沢もそこそこにしてきた。だけど、ようやく「使ってもいい」と吹っ切れたときに、それが自分の墓になるなんて。 ――男に尽くす人生なんて、本当に馬鹿らしい。 スタッフに「墓所名義のお名前をお願いします」と言われ、私は迷いなく書き込んだ。 「桜井芽衣(旧姓:遠山)です。自分のために見に来たんです」 驚いた様子の職員と、目を丸くしたことり。その視線を気にも留めず、私は静かに手続きを終えた。 霊園を出たあと、ことりが運転席で怒鳴るように言った。 「芽衣!どういうこと!?なんで自分のお墓なんて見に来てんのよ!?」 その声には、焦りと不安、そして深い恐怖がにじんでいた。彼女は、私が消えてしまうことを本気で恐れている。 私はぼんやりとした目で窓の外を見ながら、淡々と答えた。 「膵臓がん。ステージ4なの。もう……余命、一ヶ月だって」 それはまるで、天気でも話すかのような平静さだった。 本当は、一人で来るつもりだった。 でも――こんなことを一人で抱えていると、あまりにも寂しすぎると思った。 それに、ことりには私の最期をきちんと見届けてもらいたかった。そう思った。 ことりの目に涙が浮かんでいるのを見て、私はふと、少しだけ嬉しくなった。 ――ねぇ、蓮。 あなたはもう、私のことなんて何とも思ってないかもしれないけど…… それでも、まだ私を大切にしてくれる人が、ちゃんといるのよ。 しかしその瞬間、腹部を激しい痛みが襲った。 冷や汗が滲み、私は座席に身を倒しながら息を詰めた。 ことりはすぐに「病院に行こう!」と叫んだが、私はかすれた声で「……家に帰りたい」と頼んだ。 怖かった。無機質な病院のベッドも、機械音だけの孤独な空間も。そこで最期を迎えるのが、どうしても嫌だった。 ことりを心配させないように必死に意識を保っていたが、ついに限界がきて、私はそのまま意識を失った。 ぼんやりと意識が戻りかけたとき、隣で誰かが叫んでいるのが聞こえた。 「桜井蓮!あんたって人は……!今すぐ帰ってこい!この最低男!」 ことりの怒鳴り声だった。 蓮が家に戻ったとき、ことりの姿はもうなかった。 私は一人、ソファに座って、両手で湯呑みを握っていた。 たった数日で、すっかり痩せてしまった。以前はちょうどよかった服も、今では身体の上でぶかぶかしている。 ――この病気は、本当に人を蝕んでいく。 「また何の茶番だ?いい加減にしてくれ。俺がどれだけ忙しいか分かってるのか?」 蓮は苛立ちを隠さずに眉をひそめた。 私は何も言い返せなかった。 そのとき、再び玄関のドアが開く音がした。入ってきたのは藤原寧々で、手には果物の入った袋を提げている。 私が何か言う前に、彼女の方から急いで口を開いた。 「奥さま、私が無理に来たんです。午後、桜井さんと街で買い物してたときに、あなたが倒れたって聞いて……心配で……」 ――つまり「忙しかった」って、愛人とデートしてたってこと? 私は鼻で笑った。 「何その態度……!」 蓮の眉間にシワが寄る。「芽衣、お前、いつからそんな礼儀知らずになった?」 「あなたの『礼儀』って、妻を裏切って外で浮気すること?」 私の冷たい一言に、彼は言葉を失った。 「奥さま、ごめんなさい。全部私が悪いんです。桜井さんを責めないでください……」 藤原寧々の声は泣きそうに震えていたが、その表情にはどこか勝ち誇ったような余裕がにじんでいた。 「ご迷惑ですよね……今すぐ帰ります」 その瞬間、蓮が怒鳴った。 「俺も一緒に行く!こんなヒステリックな女がいる場所なんて、もう家じゃない!この家も、そろそろ『新気分』にしないとな」 怒りに満ちた蓮の表情を見た瞬間、私はふと、引っ越してきた初日を思い出した。 あの日、彼は私の手を引いて、家の隅々を一緒に回ってくれた。 ソファに並んで座りながら、彼は言っていた。 ――「お前がいる場所が、俺の帰る家だ」 それなのに、今の彼は「ここは家じゃない」と言い捨てた。 私は湯呑みを握りしめ、視線を落としたまま、必死に涙を堪えた。 蓮は彼女の手を取り、部屋を出ていこうとする。 だが、そのとき、電話の着信音が鳴った。彼は数秒ためらったのち、スマホを持ってベランダに出ていった。 蓮の姿が見えなくなると、藤原寧々の表情が一変した。 ふっと肩の力を抜き、書棚の方へ歩み寄ると、私が大切にしていた詩集を一冊引き抜いた。 「この詩集、蓮さん『古臭い』って言ってたわよね。そろそろ新しいのに変えたら?って」 私は眉をひそめた。――どうしてそれを……? 「まさか、私が初めて来たと思ってる?」 彼女は微笑みながら、部屋の中を見渡した。 「このソファも、キッチンも、書斎も、そして……あなたたちのベッドさえも。私はあなたが思ってる以上に、この家のことをよく知ってるわ」 氷水を頭から浴びせられたような感覚。私はその場で凍りついた。 この家の家具はすべて私がこだわって選んだもの。 でも今は、それらすべてが吐き気を催すほどに汚らしく見えた。 「そうそう、書斎の椅子、もう変えた?あれ、ちょっと座り心地悪かったのよね……」 ――もう耐えられなかった。 私は手を振り上げ、彼女の頬を打った。 パチンという音が室内に響く。藤原寧々の頬が真っ赤に腫れ上がる。 彼女はかすかに笑みを浮かべた後、突然しゃくりあげるように泣き出した。 「奥さま……ごめんなさい……次はもうしませんから……」 その直後、荒々しい力が私を突き飛ばした。 「芽衣、お前また何してるんだ!?」

第3章

桜井芽衣 POV 蓮は藤原寧々をしっかりと腕に抱き寄せた。声を出そうとしたけれど、喉の奥が締めつけられ、何も言葉にならなかった。 涙が頬をつたう頃には、もう彼の背中は遠ざかっていた。私は、どうしても今の彼を、あの十八歳の少年と重ねることができなかった。雪の中を駆けてきたあの背中と、今、冷たく去っていく背中が、視界の中で重なり、引き裂かれる。 ――あの日、雪が降る駅前で「ずっと一緒に白髪になるまで」と笑ったあの人とは、もうまるで別人だ。 「……芽衣、もしお前が本当に死にそうだったとしても、俺は同じことを言うと思うよ」 彼は一度も振り返らず、そう言い残して出ていった。 「死んでくれるなら、やっと静かになる。だったらさっさと死ねばいい」 その瞬間、全身から力が抜け、私はその場にへたり込んだ。 ……ああ、この人、本気で私が死ぬことを願ってるんだ。 それからというもの、蓮は二度と家に戻ってこなかった。私ももう、何も期待していなかった。 遺品整理リストを作り、遺影用の写真を撮り、最期に着る服を買いに行った。 写真屋では、数ある写真の中から、少し横を向き、遠くを見つめる一枚のモノクロ写真を選んだ。もう二人で写る必要はない。私だけの旅立ちだ。 数日後、写真屋の店主から「現像できましたよ」と連絡を受け、私は受け取りに向かった。 帰ろうと角を曲がったところで――蓮と藤原にばったり出くわした。 「……何してる。まさか俺を尾行でもしてるのか?」 くだらない言い合いはしたくなかった。腹の奥がまた疼きはじめていて、私はただその場を去りたかった。 「桜井さん、奥さま、写真を撮りに来たみたいです」 藤原がそう言って、私の手元にある封筒に手を伸ばそうとした。私は思わず一歩引いた。 「奥さま、見られたくないみたいですね。そんなに秘密にして……もしかして、何か隠してるんじゃ?」 彼女の声音は一見控えめで、けれど含みをもったその言葉に、蓮が目を細めた。視線が私の腕の中の写真フレームへと向かう。 「何を隠してる?」 痛みがどんどん強くなる。それでもここで立ち去ることだけを考えていたのに、蓮が私の手首をぐっと掴んだ。 その瞳にあるのは、かつての優しさではなかった。あるのは――嫌悪と疑念。 でも、私はもうその目に傷つくような女ではなかった。 「別に……あなたには関係ないことよ」 私は静かに彼の手を振りほどこうとしたが、彼は封筒を掴んで離さなかった。その拍子に写真フレームが落ち、袋から滑り出た中身が地面に、表向きで露わになった。 ――私の遺影。モノクロの、静かな顔。蓮の驚愕に凍りついた顔と、陽の下で鋭いコントラストを描いた。 「……え? これ……白黒写真?」 藤原が驚いたように言う。けれど、彼女の唇はわずかに笑っていた。 私はただ、その写真を見つめた。 ――やっぱり、見られてしまったか。 彼は、これを見て後悔するだろうか。こんなにも冷たくしたことを、少しでも悔やむだろうか。 「これが……お前の『隠し事』か?」 冷ややかな声が響いた。 蓮の顔には、一切の哀しみも、動揺もなかった。あるのは、ただ冷酷な静けさ。 「……今度は本気で死ぬつもりか?よくもそんな芝居を……!」 かつて、私が咳をしただけで心配で眠れなかった人が――今の彼は、私の死すら「芝居」だと疑っている。 私はふと、笑ってしまった。 「ダメかしら? 少しくらい後悔するあなたの顔、見てみたかったの」 「じゃあ勝手に死ねよ」 そう言い捨てて、彼は私を突き飛ばし、振り向くこともなく歩き出した。 その瞬間、もう限界だった。私は崩れるように地面に倒れた。 「奥さま!?」 周囲から驚きの声があがる。藤原が駆け寄り、私の身体を抱き起こした。 そして、私の耳元にそっと囁いた。その首元に、蓮が私に贈った誕生日のネックレスがきらりと光る。 「見たでしょ? あの人はもう、あなたが死んでも微塵も動じない。……あなた、もう愛されてないのよ」 私は残された力で、彼女の手を振り払った。 その瞬間―― 「……やめろ、寧々。構うなよ。どうせ、また芝居だ」 蓮の声がした。振り返りもせず、冷たい声で吐き捨てた。 「演技が好きなら、勝手に一人で演じてればいい」 私は通りすがりの人に助けられて、どうにか家へ戻った。 ソファに倒れ込むようにして、やっと一息つく。 痛み止めを飲んで、少しだけ腹の痛みが和らいだ。 けれど、心の中は真っ暗なままだった。 目を閉じると、あの言葉が何度も何度もよみがえる。 ――「じゃあ、勝手に死ねよ」 私は思い出す。あの冬のことを。 私は重い肺炎にかかって、何度も危篤の宣告を受けた。お金もなくて、彼は親戚や友人の家を回り、頭を下げ続けた。 何度も断られ、罵倒されて、それでも必死だった。 そんな彼が、ある日、病室で私の足元に膝をつき、泣きながら手を握った。 「芽衣……お願いだ、薬を飲んで。……死なないでくれ」 ――あの時、あんなにも私を生かしようとしてくれた人が、今は誰よりも私の死を願っている。 壁のカレンダーを見上げる。余命の「ひと月」は、もうすぐ終わる。 ……良かったね、蓮。あなたの望んだ通りになる日が、もうすぐ来るわ。

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