夜の上京市、郊外。 「ドボン!」 暗闇の中、重い水音が響き、静寂を破った。 川辺で休んでいた池田新奈は、その水しぶきを全身に浴びた。 ふと、鼻をついたのは鉄錆の匂い。 彼女にとって、それは嗅ぎ慣れた匂い。 血の匂い。 (水に落ちたのは人間。しかも、傷を負ってる) その推察を裏付けるかように、ほど近い茂みから、押し殺したようなの声が聞こえてきた。 「続けろ!」 「どんな些細な手がかりも見逃すな!」 「生かして帰すな!」 ほどなくして、複数の乱れた足音が耳に迫ってきた。 新奈は咄嗟に身を起こし、その場を離れようとしたが、何かに足首を強く掴まれた。 「助けてくれ……何でも言うことを聞く……」男の声は弱々しく、今にも消え入りそうだ。 その直後、足首を掴む力はふっと抜け落ち、男は動かなくなった。 どうやら、気を失ったらしい。 医者として、目の前の命を見捨てるわけにはいかない。 (これも何かの縁。ならば、救っておくか) 新奈はそう思案しながら、静かに手を動かした。 ウエストポーチから小瓶を取り出し、暗闇の中、指先の感触を頼りに薬を一粒、男の口へと押し込んだ。 足音がじりじりと近づき、揺れる微かな光がこちらを窺い始めた。 彼女は息を殺し、水へと身を沈めた。そして、男の体も水中に押し込み、気配を絶った。 ほどなくして数人の黒服の男たちが現れたが、川面はすでに静まり返っていた。 一行はあたりをしばらく探していたものの、手がかりを得られず、そのまま足早に立ち去った。 人影が完全に遠のいたのを確認すると、彼女は水面から姿を現し、男の身体を引きずって岸へと上げた。 夜の川の水は骨身に染みるほど冷たく、思わず小さなくしゃみが漏れた。 一息つく間もなく、彼女は素早く男の状態を確かめる。 まだ息があるのを確かめると、間髪入れずに心肺蘇生を施した。 どれほどの時間が経っただろうか。男は突然激しく咳き込み、大量の水を吐き出した。 新奈は男の鼻先に手をかざし、かすかな呼吸を感じ取ると、ようやく安堵の息を漏らした。 雲間から月が顔を出し、柔らかな光が辺りを照らし出す。 新奈の目に、男の彫りの深い顔立ちが映った。 なんて綺麗な人。 その時、横たわっていた男の身体がわずかに動いた。 男はかすかに瞼を持ち上げると、ぼやけた視界に少女の姿を捉えた。 月明かりに照らされた、少女の鎖骨。その上に浮かぶ黒い三日月のタトゥーが、鮮烈に目に焼き付いた……。 横山宴之介は視線を上へと滑らせ、少女の顔を確かめようとしたが、瞼は鉛のように重い。 意識は遠のき、再び深い闇へと沈んでいった。 彼女はその様子を見届けると、さらに一粒の薬を男の口に含ませた。 月明かりを頼りに濡れた身体を調べると、腰のあたりに傷が見つかった。 傷口は深く、今なおじわりと血を滲ませている。 だが、幸い急所は外れおり、過度な失血が意識を奪ったのだろう。 彼女は男の服を引き裂いて傷口を洗い、手早く止血の薬を塗り込んだ。 手当てを終えると、彼女は悪戯心に、男の整った顔をつまんだ。 「命拾いの薬、一気に二粒も飲ませたんだから。あなたのその命、結構高くついたわよ」 ひとまず命を救い出すと、新奈は自身の持ち物を確認し、その場を後にしようとした。 だがその時、男の言葉が脳裏をよぎり、彼女は思わず足を止めて男の全身を観察し始めた。 やがて彼女の視線は、首元で揺れる宝石のペンダントに吸い寄せられた。 全体が透き通るような赤色を帯びたそれは、月光を浴びて、息を呑むほどに妖艶な美しさを放っていた。 「求めることは特にない。でも、こういう珍しい物は好きなのよ」 そう呟くと、彼女は身を屈め、そのペンダントをさっと抜き取った。 「命を助けた代わりに、このペンダントはもらっていくわよ。これでチャラね」
翌朝。 上京市に降り立った池田新奈は、雲頂ホテルの一室にいた。 設備の整ったスイートルームで、彼女は上着を無造作にソファへ投げ捨てると、床まで届く大きな窓の前へと歩み寄った。 天を突く高層ビル、絶え間なく流れる車の河。 久しく目にしていなかった光景だった。 そう。 6歳の時、母は殺され、彼女は人里離れた山奥に捨てられた。 その全ての元凶は、池田家。 もし師匠夫妻が拾ってくれなければ、彼女はとうの昔に、跡形もなく死んでいたに違いない。 今ここに戻ってきたのは、復讐を遂げ、本来自分のものであるはずのすべてを取り戻すためだけである。 思考の渦から我に返ると、新奈はポケットからペンダントを取り出し、太陽の光にかざしてみた。あの負傷した男から外してきたものだ。 洗い上げられた宝石は息をのむほど澄んだ輝きを放ち、一目で高価な品だと知れる代物だ。 ペンダントを握る手に自然と力がこもる。その掌に残る感触をどこか名残惜しく感じていた。 彼女は紐を通し、ペンダントを首にかけ、鏡の前に立って静かに映してみた。 (なかなか似合う。このまま掛けておこう) ペンダントをそっと服の内側へとしまい込むと、新奈はスマートフォンのIPアドレスを切り替え、ニュースアプリを立ち上げた。 ページが切り替わると同時に、黒々と太く組まれた大きな見出しが、視界に飛び込んできた。 「#池田家令嬢・池田知里、重傷で意識不明。池田家、破格の謝礼で献血を募る!」 新奈の目は、その見出しに吸い寄せられ、タップして詳しい内容を開いた。 池田知里は交通事故で大量出血し、その血液型が希少なRHマイナスであることから、病院の血液バンクの在庫が逼迫しているという。 池田家は破格の謝礼を掲げて献血を募っていたが、実際に足を運ぶ者は、ほとんどいなかった。 新奈の唇の端に、抑えきれない笑みが静かに浮かんだ。 (なんとも都合のいい事故だこと) 池田家に入り込むには骨が折れるだろうと覚悟していたが、まさかこんな形で好機が転がり込んでくるとは。 スマートフォンを閉じ、新奈はソファに深く身を沈めた。目を閉じ、胸の内で、渦巻く思考を一つひとつ撫でつけるように整理していく。 RHマイナス。きわめて稀少な血液型――しかし、彼女は持っている。 今の彼女に必要なのは、「身分」だ。上京市で自分が足場を固められるような、そんな身分が。 心を決めると、新奈は上着を掴み、迷いなく部屋を後にした。 彼女が望むのは、ただ池田家へ戻ることではない。彼らに懇願させ、その上で、自分こそが池田家の正統な令嬢であることを世間に向かって盛大に公表させることだった。 上京市第一総合病院。 池田正徳が車を降りたその瞬間、新奈が立ちふさがり、その行く手を遮った。 たった一目見ただけで、正徳は全身を硬直させ、その場に石のように立ち尽くした。 「お前は……」 新奈は目の前の男をまっすぐに見据え、唇の端を微かに持ち上げ、不敵な笑みを浮かべた。 「池田さんとお呼びすべきかしら?それとも……お父様?」 その言葉は、重い雷鳴となって、容赦なく正徳の胸元へと叩きつけられた。 彼は新奈を射抜くように見つめたまま、しばらく声を発することができなかった。 新奈はただ静かにそこに立ち、彼の視線を浴び続けた。 見つめれば見つめるほど、彼の脳裏には、すでにこの世にいない彼女の母の面影が、いっそう鮮やかに浮かび上がってくるのだった。 (もし良心の欠片でも残っているのなら――罪悪感に苛まれるがいい!) 父と娘は、互いにどれほど見つめ合い、どれほど沈黙を重ねたことだろうか。 やがて、耐えきれなくなったように正徳が口を開いた。「お前……本当に、新奈なのか?」 新奈は表情を消して答える。「お父様、DNA鑑定でもしに行ってみますか?」 「いや、いい……」正徳は、老いた目に今にも涙を溢れさせんばかりだった。「お前は、若い頃のお母さんにそっくりだ」 その言葉に、新奈は思わず鼻で笑った。 (あの時、彼が富と栄華に目が眩み、妻と娘を捨てなければ、母は惨殺することも、私が十数年もの間、路頭に迷うこともなかった!) (どの面を下げて、今さら母の名を口にするのか) 「RHマイナスの血液なら、私が持っているわ」 新奈はそう言い放つと、踵を返して病院の中へ向かった。 一瞬の驚喜の後、正徳は我に返り、慌てて彼女の後を追った。 父と娘は、やがて集中治療室の前へと辿り着いた。 透明なガラス窓の向こう、青白い顔をした少女がベッドに横たわり、全身を無数の管でつながれている姿が見えた。 「私の血が欲しいなら、あげてもいい。ただし――条件がある」 彼女はガラス越しに冷然と一瞥をくれると、唇に意味ありげな笑みをうっすらと浮かべた。「私が望むのは――池田家の正統な令嬢として家に戻ること。そのために、盛大なお披露目会を開いてもらうわ」 正徳の顔色が、わずかに曇る。「新奈……住むところがないなら、家を買ってやる。 だが、池田家に戻るというのは、その……」 彼は最後まで言葉を口にしなかったが、新奈には言わんとすることが手に取るようにわかった。 (たとえ彼が頷いても、池田家の連中が首を縦に振るはずがない、とか) 「池田家が私の条件を飲めないというのなら、私も池田知里を助ける義理はありませんね」 そう言い捨てると、新奈は身を翻し、迷いなくその場を後にした。 正徳は慌ててその背中を追いかけ、縋るように彼女の腕を掴んだ。「待ってくれ、新奈!父さんが家に戻って、皆と相談してくるから……」
最終的に、池田家は新奈を家族として迎え入れることを認めた。 しかし、その決定を巡り、正徳と、現在の妻・舒乃が激しく対立し、収拾のつかない状態に陥ったということを新奈は伝え聞いていた。 その日の夕方、新奈は知里のために、一度目の献血を行った。 知里は失血が多すぎたため、今後も彼女のために複数回の献血を行う必要があった。 新奈はいつでも対応できるよう、病院のVIP病室に入院することになった。 ブブッ。スマホが突然、二度震えた。 新奈はスマホを手に取り、届いたメッセージを確認した。 想乃:「横山家の若様き当主、横山宴之介がね、今、街じゅうをあげて、ある人を探してるんだって。20歳前後で、医術の心得があって、鎖骨の上に黒い三日月形の入れ墨がある人らしいよ」 メッセージを一読し、彼女は冗談めかして返信した。「奇遇ね、全部私に当てはまる」 想乃:「ちょっと、ふざけてる場合じゃないわよ!もしかしたら、彼が探しているのはあなたかもしれないんだから」 新奈:「心当たりないんだけど。恨みを買うようなことした覚えもないし」 想乃:「もう一度よく考えてみて。彼を怒らせたとか、何かしてない?」 新奈は、彼女が心配しすぎているだけだと受け流した。 「私、どれくらいの間、上京市から離れてたと思ってるの? あり得ないわ。ただの偶然よ。気にしないで」 最後のメッセージを送ると、相手からの返信はそれきり途絶えた。 こうして、その日のやり取りはそこで終わった。 新奈はあれこれと思案した末に、やはりインターネットで調べてみることにした。 キーワードを打ち込んだ途端、画面に踊り出たのは、無機質な一行だった。 「横山宴之介、28歳」 それだけだった。 新奈:「……」 なんだか、妙に秘密めいている。 彼女は興味を掻き立てられ、スーツケースからタブレットを取り出すと、USBメモリを差し込んだ。華奢な指がキーボードの上を滑るように、目にも留まらぬ速さでコードを打ち込んでいく。 ほどなくして、コードが乱れ飛ぶ画面に、簡素なダイアログボックスが現れた。 「もしもーし。人探し、頼める?」 「ターゲットは?」 新奈の指が素早く走る。「横山宴之介」 「了解。3日」 満足のいく返答を確認すると、彼女はコードの渦巻く画面を閉じた。 時を同じくして、南川別邸では――。 上京市でも一等地とされる場所に建つ豪邸は、煌々と明かりが灯っていた。 「何か、手がかりは見つかったか?」 広大な寝室で、横山宴之介は窓辺に身を寄せるように立っていた。 その立ち姿はどこまでも凛としていた。重傷を負っているとは思えぬほど、その佇まいは圧倒的な存在感を放っている。 指先には煙草が挟まれ、先端の火が、明滅するようにちらついている。 藤井颯太は深くうつむき、答えた。「いえ、まだ掴めておりません」 宴之介は眉間の皺をいっそう深く刻み、手にした煙草を灰皿に捻じ込むようにして火を消すと、冷ややかな声で命じた。「――探し続けろ」 「承知しました」 応じた後、颯太は懐から金箔の施された招待状を取り出し、宴之介の前に恭しく差し出した。 「若様、もう一件ご報告が」 宴之介は手にした招待状に視線を落とし、眉根を寄せて問いかけた。「どこの家だ?」 「池田家のお披露目会だそうです。池田正徳が外で作った娘を家に迎え入れられることになりまして……。池田藤幸様より、若様には「是非ともご出席を」とのことです」 「「是非とも」か……」宴之介は薄い唇の端を歪め、どこか面白がるように繰り返した。 颯太は探るように尋ねた。「お断りいたしましょうか?」 若様は滅多に宴席に顔を出されない。この程度の誘い、普段なら見向きもされないはずだ 池田家の当主が再三懇願してきたのでなければ、わざわざこの招待状を若様の前に運ぶことすらなかっただろう 宴之介は招待状を指先でつまみ上げると、その底知れぬ瞳に、真意の読み取れない色が濃く滲んでいた。 この池田家の私生の娘――大したものだ。自分ひとりのために、池田家をここまで動かすとは 彼は不意に考えを翻した。「いや、池田藤幸に伝えろ。必ず行くと」 お披露目会の当日、空は晴れ渡り、雲ひとつなかった。 新奈は病院を抜け出し、車を郊外の山へと走らせた。 険しい山道にもかかわらず、彼女は慣れた足取りで迷いなく母の墓へと辿り着いた。 ぽつんと佇む墓には墓標もなく、雑草だけが深く生い茂っていた。 この道に通じている者でなければ、簡単には辿り着けなかっただろう。 新奈は墓の前に跪くと、生い茂る雑草を一本、また一本と丁寧に抜き始めた。 その手つきは慈しむように優しく、静かだった。永い眠りについた母を、決して起こさぬように。 やがて、彼女は深く身をかがめて額ずき、冷たい土に額を押し当てたまま、しばらく身じろぎひとつしなかった。 (もうすぐよ。お母さんが手にするはずだったもの、私が全部取り戻してあげる) もう一度静かに手を合わせると、彼女は立ち上がり、迷いのない足取りでその場を後にした。 宴は午後に予定されていた。ホテルに戻った新奈は着替えを済ませ、プロのヘアメイクを呼んで支度を整えた。 全ての支度が整う頃には、窓の外はすでに夕暮れの色に染まっていた。 約束の時間は過ぎていた。スマホの画面には正徳からの不在着信が、20件以上ずらりと並んでいた。 それでも新奈は慌てることもなく、階下で荷物を受け取ってから、ようやく出発の準備を整えた。 その頃、池田家の本邸では、この突如現れた私生の娘の到着を、誰もが待ち構えていた。 しかし、主役はいつまで経っても姿を見せず、ざわめきがあちこちで囁きへと変わっていった。 最も苛立ちを募らせていたのは、正徳の妻である舒乃だった。 彼女は普段から正徳に遠慮というものがなく、この時も忌々しげに悪態をついていた。「あの娘が日取りを決めた時から分かってたわ。わざとなのよ!よりによってあの女の命日を選ぶなんて、私たちへの当てつけじゃない!」 「どうしてこんなに都合よく、知里にあんなことがあった途端、RHマイナスの血が街から消えるのよ! あの子が戻ってきてから、ろくなことがない!これじゃあ、これからも先が思いやられるわね!」 (本当に、一体どうなってるんだ) 正徳は無言のまま俯き、こめかみに浮かんだ血管が、かすかに脈打っていた。 その時だった。玄関の方が、にわかに騒がしくなったのは。