戻れない彼女!届かない愛と後悔
チャプター 1 {

A市、山麓の別邸、寝室。 紅の褥(しとね)が波打つ中、男は女の胸元の痣に夢中で口づけていた。 行為が終わると、陸名悠弥は身を起こして座った。 「離婚しよう」 陸名悠弥の声には、何の感情もこもっていなかった。 運動の後で、時水恋はまだ少し息が上がっていた。 彼女は身を翻し、彼の深い瞳を戸惑いながら見つめた。 結婚して一年。 彼の言葉の意味が理解できなかった。 「彼女が胃癌で、余命は半年だ」 陸名悠弥は煙草に火をつけた。 立ち上る煙が、彼の顔をぼんやりと霞ませる。 「死ぬ前に俺の妻になることが、彼女の人生で唯一の願いなんだ」 時水恋は何も言わなかった。 広々とした寝室に、静寂が満ちる。 ベッドサイドの小さなランプが微かに灯り、二人の影が壁に映し出される。 本来は極めて近い距離のはずが、影は遠く引き離されているように見えた。 彼女がすぐに同意しないのを見て、彼はわずかに眉をひそめた。 「ただ、彼女を安心させるだけだ」 彼は言った。 「半年後には、また復縁する」 「時水恋、彼女にはもう半年しかないんだ」 彼の声はとても穏やかで、まるでこれらの言葉が単なる通知であるかのようだった。 時水恋は、彼の横顔を呆然と見つめた。 まるで、彼が口にする要求は、すべて彼女が受け入れなければならないかのように。 彼が一度口にすれば、彼女はまるで聖旨に従うかのように、それを実行しなければならない。 そうだ、二人の間のこの関係は、すべて彼女が一方的に追い求めてきたものだった。 幼い頃の憧れ。 大人になってからも、ずっと彼の後ろを追いかけてきた。 あの年、土砂降りの雨の中、彼は彼女の前に立ちはだかり、手に持った腐った木の切れ端で命がけで彼女の継父に言った。 「もう一度でも時水恋に手を上げたら、ただじゃおかないぞ!」 彼女は殴り殺されそうになっていた。 あの夜、降りしきる雨と生臭い血の向こうに見えたのは、腐った木を握りしめて指の関節が白くなるほど力を込めた彼の拳と、土砂降りの中で冷たくも揺るぎない彼の瞳だった。 彼は彼女の命を救ってくれた。 だから、彼女は彼にどうしようもなく恋をした。 彼の要求は、いつも彼女が実行した。 命がけで、誰よりも完璧に。 彼はいつも、事が終わると彼女の頭を撫で、優しく褒めてくれた。 「恋、よくやったな」 彼の言葉もキスも、いつも軽やかで、二人の関係は常に淡々としたものだったが。 彼女は、それが彼の生まれ持った性分なのだと信じていた。 だから、たとえ誰もが彼女を「下僕」と呼んでも、彼女は喜んでそれを受け入れた。 七年、青春のすべてを、彼女は彼の後ろを追いかけて過ごした。 一年前、陸名隆信の病状が急変し、陸名家内部で厄払いとして彼を結婚させようという話になった。 彼は彼女の元を訪れ、結婚証明書を取りに行った。 長年の想いがようやく成就したのだと、彼女は思った。 しかし、結婚後、彼は彼女に距離を置き、ついには、彼女に対する嫌悪感さえ感じられるようになった。 「時水恋、俺の話を聞いているのか?」 彼女の上の空に気づいたのか、彼は眉をひそめて彼女を見た。 「どうしても、そうしなければならないの?」彼女は尋ねた。 彼は直接答えず、話を逸らした。 「時水恋、彼女はとても可哀想なんだ」 「じゃあ、私は?」彼女は思わず口にした。 彼はすぐには答えず、深い瞳の奥にわずかな苛立ちを浮かべた。 およそ三秒後、彼は再び口を開いた。 「時水恋、彼女はもうすぐ死ぬんだ」 「君は知らないかもしれないが、彼女は俺を愛している。 だが、俺たちの結婚があるから、君を傷つけたくないと言って、俺と彼女は一線を越えたことはない」 「俺が何かを与えようとしても、彼女はいつも拒むんだ」 「彼女はとても優しい。 だから、君が譲ってやれ」 「時水恋、君を悪女だと思わせないでくれ」 彼の声は平静すぎて冷酷だった。 彼女の心は、まるでナイフで切り裂かれるようだった。 既婚男性と関係を持ち、口先だけの偽善的な言葉を二、三並べることが、優しいということらしい。 自分の夫を譲ろうとしない妻は、悪女と呼ばれるらしい。 彼女は、何年も前と寸分違わぬ彼の顔を見つめた。 深い眉と目、通った鼻筋、剣のように鋭い薄い唇。 いつから、彼は変わってしまったのだろうか。 おそらく、「彼女」が現れたあの日からだ。 「本当に離婚するの?」彼女は最後に尋ねた。 彼は答えず、唇を固く一文字に結んだ。 やがて、彼の薄い唇がわずかに開いた。 彼は言った。 「ああ、君は……」 「いいわ」 彼が何かを言い終える前に、彼女は同意した。 彼は一瞬、呆然とした。 目を細め、彼女を値踏みするような視線で見た。 「時水恋、君も随分と強かになったな」 彼の口調には、珍しく怒気が含まれていた。 「俺が君の同意を必要としていると見越して、脅迫するつもりか?」 時水恋は何も言わず、壁に映る二人の影を静かに見つめていた。 陸名悠弥は手元の煙草を揉み消すと、それ以上は何も言わず、慌ただしく服を着て、大股で外へ出て行った。 彼女がどう思うかなど、全く気にしていないようだった。 自分が突きつけた要求が、どれほど屈辱的で、受け入れがたいものであるかにも。 なぜなら、彼は知っているのだ。 彼女が自分から離れられないことを。 長年、ずっとそうだった。 「バタン!」 陸名悠弥はドアを叩きつけて出て行った。 寝室には、時水恋だけが残された。 彼女は、彼が出て行った時に閉められたドアを静かに見つめていた。 ベッドの端に、一人で長い間座っていた。 「ブーブー」 携帯電話が振動して通知を知らせる。 誰かが彼女にメッセージを送ってきたのだ。 彼女は手を伸ばして携帯電話を取った。 「彼女の裏アカウント」と登録された人物からメッセージが届いていた。 彼女の裏アカウント:【彼がまた会いに来てくれたわ】 添付された画像は、玄関のガラスに映る陸名悠弥の横顔だった。 彼の顔には穏やかな笑みが浮かび、その瞳には、彼女が一度も見たことのない優しさが宿っていた。 指がわずかに止まり、時水恋は画面を上にスクロールした。 一つ前のメッセージは:【彼は、心の中に私がいるって言ってくれたの】 さらにその前は:【雨の夜は寒くない? 私は寒くないわ。 彼がそばにいてくれるから】 さらにその前は:【愛されていない人こそが愛人なのよ。 時水恋、あなたは彼が縁起を担ぐために仕方なく選んだ相手に過ぎない。 彼は私の美意識を高く評価し、私のセンスを認めている。 彼が愛しているのは、私なの】 …… このようなメッセージは、数えきれないほどあった。 少しずつ、一滴ずつ、すべてが彼の裏切りの証拠だった。 七年間、彼女に常に淡々としていた陸名悠弥が、別の人の前では… … これほどまでに生き生きとしているとは、彼女は知らなかった。 最後までスクロールしても、彼女はもう内容を見ていなかった。 ただ機械的にすべての記録を読み終え、最初のメッセージで止まった――【私が誰だか分かるでしょう。 今日のリビングの花は綺麗だった? 私が贈ったの。 彼はとても美しいって言ってくれたわ】 ふっ…… 誰だか、もちろん分かっている。 各界の富豪の別荘や高級マンションなどに花を飾ることで有名な、とあるプラットフォームの人気フローリスト、浅井静だ。 時水恋も、かつてこれらの記録を陸名悠弥に見せたことがあった。 しかし、彼は、これらが浅井静からのものだという証拠はないと言った。 それどころか、彼女がわざと裏アカウントを使って自分に送りつけ、浅井静を陥れようとしているのではないかと疑った。 記録には写真がほとんどなく、たとえあったとしても、一般人が第三者の視点から簡単に撮れるようなものばかりだったからだ。 今日のものを除いては。 これを陸名悠弥に見せるべきだろうか。 携帯電話を脇に放り投げ、時水恋はベッドサイドの引き出しの最下段から一つのファイルを取り出した。 その中から、今日の昼間、受け取ったばかりの妊娠証明書を取り出す。 彼女は、陸名悠弥の子を宿していた。 最も不適切な時に。 涙が書類の上に滴り落ち、大きな染みを作った。 彼の心は、とっくに彼女のものではない。 たとえ証明したところで、何になるというのだろうか。 涙を拭う。 時水恋は、陸名悠弥が煙草に火をつけたライターを手に取り、書類に火をつけた。 彼は知らない。 離婚は、彼女が彼の要求に応じる最後の機会なのだということを。 七年の青春、七年の歳月。 彼の恩は、もう十分に返した。 彼女も、もう彼を愛するのはやめよう。 }

チャプター 2 赤ちゃん、堕ろして

翌日、 市役所の駐車場。 に停められたマイバッハの車内で、陸名悠弥は左手で軽くハンドルを叩いていた。 「悠弥、恋ちゃんと結婚してもう一年よ。 そろそろ子供を作りなさい」 スマートフォンのスピーカーから、老婦人の声が響く。 陸名悠弥の口元には、困惑と根気強さが入り混じった苦笑が浮かんだ。 「おばあちゃん、僕たちはまだ若いんだから、焦らなくていいんだよ。 それより、おばあちゃんこそ体を大事にして。 おじいちゃんのことも……」 「焦らなくていいわけないでしょう!」老婦人の声が、彼の言葉を遮った。 「おじいちゃんはだいぶ良くなったけど、私たちだってもう年寄りだもの。 いつお迎えが来たっておかしくないのよ」 「おばあちゃん……」 「余計なことは言わなくていい」老婦人の声が、真剣な響きを帯びる。 「悪い噂も耳にしてるわ。 恋ちゃんをいじめたりしないことね」 三秒ほどの沈黙が落ちる。 「聞こえているの?」と祖母に促され、陸名悠弥はこめかみを揉んだ。 「分かったよ、おばあちゃん」 さらに二言三言交わして電話を切った後も、彼の指は無意識にハンドルを叩き続けていた。 視線は、少し離れた市役所の建物に注がれている。 唇を固く引き結んだまま、 彼はスマートフォンを手に取った。 メッセージ一覧を開き、「吾愛」と登録された花屋のアイコンを躊躇うように指でなぞる。 だが、すぐに下へスワイプし、「時水恋」とのトーク画面を開いた。 最後のメッセージは、今朝彼が送った、市役所で落ち合い離婚手続きをするという通告だった。 彼女は、まだ来ていない。 わずかに眉を寄せ、彼はメッセージを打ち込む。 陸名悠弥:「どこだ?」 その瞬間、コン、コン、と車の窓が叩かれた。 窓の外には、時水恋の少し青ざめた顔があった。 ドアを開け、助手席に滑り込んだ彼女は、 一度だけ陸名悠弥に視線を向けた。 昨日と同じ服――彼女がコーディネートしたものだった。 この数年、彼の身の回りのものは全て彼女が整えてきた。 香水やネクタイといった小物から、オーダーメイドのシャツやスーツまで、何もかも。 「なぜ遅れた?」彼が問うと、 時水恋は視線を逸らしたまま 「遅れてないわ」と答えた。 ただ、以前のように、彼の一言のために早朝から馬鹿みたいに待つようなことは、もうしないだけ。 無意識にハンドルを叩いていた指がぴたりと止まる。 陸名悠弥は眉をひそめて彼女を窺った。 顔色が少し悪い。 昨夜、彼が離婚を切り出したせいで眠れなかったのだろう。 だが、大したことではない。 「さっき、おばあちゃんから電話があった」陸名悠弥は前方に視線を戻して言った。 「俺たちが離婚することは、年寄りには言うな。 刺激が強すぎる」 時水恋はすぐには応じず、ただ問い返した。 「おばあちゃん、電話でなんて?」 「子供の催促だよ」陸名悠弥は目を細め、その目に苛立ちの影がよぎる。 長い沈黙が車内を支配した。 数分は経っただろうか。 やがて、時水恋はふっと笑った。 陸名悠弥は左手を固く握りしめ、窓の外を見つめたまま何も言わない。 彼も、自分の子供がどんな姿で、いつ生まれてくるのかを想像したことはあった。 時水恋と肌を重ねる夜、彼女の腹を撫でながら、耳元で囁いたこともある。 「恋、いつ俺に子供を産んでくれるんだ」と。 ただ… … どうせ彼女は妊娠していない。 半年後に復縁すれば、遅くはない。 ビビアンに残された時間は、あと半年なのだから。 車外を人々が行き交う。 さらに三秒が過ぎた頃、時水恋が口を開いた。 「最後にもう一度だけ聞くわ、悠弥。 本当に私と離婚するの?」 「考え直したいのか?」今度こそ、彼の声には抑えきれない怒気がこもった。 家ではビビアンが待っているのだ。 彼が離婚の意思を改めて明確にすると、時水恋はもう何も言わず、一枚の書類を取り出して陸名悠弥に差し出した。 彼が訝しげに受け取ると、それは財産分与の合意書だった。 「離婚するんですもの、はっきりさせておきましょう」彼女は言った。 「陸名家の財産は、私が受け取るべき分だけいただきます」 「離婚の冷却期間中にそれぞれが稼いだお金は、各自のものとします」 そう言うと、時水恋はペンを取り出し、彼の隣に置いた。 「問題なければ、サインしてください」 書類に目を通すにつれ、陸名悠弥の眉間の皺が深くなる。 定型的な契約書は簡潔で、確かに彼女は何も多くを求めていない。 彼女の欄には、すでに「時水恋」という署名がなされていた。 彼は、彼女の意図を測りかねていた。 ただの偽装離婚なのに、なぜこんな契約書が必要なのか? 浅井静に残された時間は、あと半年。 ビビアンの最期を看取り、その後は祖父母の望む通り、また彼女と元の鞘に収まるつもりだった。 陸名悠弥の思考の中では、時水恋にとっての相手は常に自分一人しかいないことになっていた。 彼女の許容範囲は、驚くほど広い。 かつて彼は彼女にうんざりし、わざと自己を捨てさせるようなことまでさせた。 彼女は一度も拒まなかった。 それどころか、最後にはその結果を手に彼の前に現れ、「悠弥、見て。 できたよ。 すごいでしょ?」と、にこやかに言ったのだ。 彼女は、この上なく従順な妻だった。 この七年間、彼はそれを何度も確かめてきた。 もし浅井静がいなければ、彼の結婚生活は、おそらくこのまま波風もなく続いていったことだろう。 しかし… … 脳裏に、血を吐きながらも気丈に振る舞う浅井静の顔が浮かび、息が詰まるほど胸が痛んだ。 陸名悠弥は隣の窓に目をやった。 ガラスに映るのは、時水恋の無表情な横顔。 彼女は、これで自分を脅すつもりなのだろうか? なにしろ、彼女はかつて偽造した記録で浅井静を陥れようとしたことがある。 彼女は、浅井静を憎んでいるのだ。 呵……。 彼はサインペンを手に取ると、 迷いなく自分の欄に署名した。 誰にも、自分を脅すことなどできはしない。 契約書は一式二部。 時水恋は自分の分を受け取った。 そして、 車を降りた。 淡々と、機械的に、手続きは進む。 整理券を取り、書類を提出し、 離婚申請書に記入する。 それぞれが受付票を受け取り、冷却期間が明けた後、再びここへ来て離婚証明書を受け取る手筈だ。 一連の流れを終え、二人は市役所を出た。 頭上では太陽が高く昇り、 その光は時水恋の体にぽかかと降り注いでいた。 陸名悠弥は行き交う人々を眺める。 結婚する者と離婚する者は、一目でわかる。 ちょうど、一組の夫婦が手をつないで出てきた。 女性の顔には、とろけるように甘い笑みが浮かんでいる。 ふと、一年前、婚姻届を出しに来た時の時水恋の顔が、あんな笑顔だったことを思い出した。 陸名悠弥は隣の時水恋を一瞥する。 彼女の顔には、相変わらず何の感情も浮かんでいない。 「離婚の手続き中も、カードには金を振り込んでおく」彼は言った。 「爺さんたちには離婚のことは言うなよ」 彼女の返事を待たず、彼は背を向けて歩き去った。 時水恋は、彼の車が角を曲がり、見えなくなるまで見送った。 やがて、彼女が呼んだタクシーも到着する。 二台の車は、全く逆の方向へと走り出した。 一台はビビアンのフラワーアトリエへ。 もう一台は、A市立病院へ。 陸名悠弥がフラワーアトリエのドアを開けると、浅井静が彼に気づき、微笑みかけた。 彼は受付票を取り出して見せ、言った。 「済んだよ。 あいつ、特に騒ぎもしなかった」 同じ頃、時水恋は予約した整理券を手に、婦人科の診察室に入った。 医師の向かいに座る。 医師はカーテンを引いた。 「恋、本当にこの子、堕ろすの?」 医師であり親友でもある小林澄玲が、心配そうに尋ねた。 「あんなに欲しがってたじゃない。 この間も、体調まで整えてたのに」 時水恋は受付票を隣のテーブルに置いた。 「ええ」彼女は静かに言った。 「堕ろして。 ……もう、要らないから」

チャプター 3 下腹部の鈍痛、流産の兆候

離婚届を目にした小林澄玲は、驚きに目を丸くした。 二人は十年来の親友だ。 時水恋が陸名悠弥にどれほど狂おしいほど焦がれていたか、澄玲は誰よりも知っている。 かつての恋は、陸名悠弥のためなら命さえ投げ出しかねない、そう言っても過言ではないほどだった。 一年前、二人が結婚した時、澄玲は一抹の不安を覚えつつも、親友がようやく長年の願いを叶えたことを心から喜んだものだ。 それなのに、今…… いったい、何があったというのだろう? 「もう、愛してないの」澄玲が問いかけるより先に、恋が静かに口を開いた。 彼女は澄玲をまっすぐに見つめ、唇の端をかすかに上げて美しく微笑む。 その笑みは、澄玲にかつての彼女の面影を――時水家が没落する前、父親が亡くなる前、そして彼女自身が泥濘に突き落される前の、誇り高い令嬢だった頃の姿を――ありありと思い起こさせた。 その瞬間、澄玲の胸のつかえがすっと下りるような気がした。 「妊娠のことは、陸名には伝えてない」恋は言葉を続ける。 「三十日の離婚冷却期間中に、余計な揉め事は起こしたくないから。 彼には黙っておくのが一番よ」 三十日間の離婚冷却期間。 その間にどちらか一方が翻意すれば、申請は取り下げられ、婚姻関係は継続される。 その言葉で、澄玲は恋の決意が揺るぎないものであることを悟った。 事情を飲み込んだ澄玲は、まず恋に必要な検査項目を指示してから、口を開いた。 「恋、手術は数日後になるわ」 「どうして?」恋が不思議そうに首を傾げる。澄玲は答えた。 「知ってるでしょ? あなた、Rhマイナスだから。 万が一に備えて、輸血用の血液を確保しなきゃいけないの。 血液センターには連絡して、調整をお願いしたから。 一週間くらいで届くと思う」 恋は一瞬、呆然と時が止まったようになったが、すぐにその瞳の奥に悲しみの影がよぎった。 その血液型は、亡き父から受け継いだものだった。 また、父さんのことを思い出してしまった。 もし、お父さんがまだ生きていてくれたなら…… 「……うん」 込み上げる熱いものをぐっとこらえ、恋は赤くなった目元で微笑みながら頷いた。 「それから、少し流産の兆候がある。 この数日は、くれぐれも無理しないでね」 澄玲は痛ましげに恋を見つめ、その瞳には親友を思う心が滲んでいた。 幼い頃から共に育った、かけがえのない親友。 澄玲には、恋の悲しみが自分のことのように伝わってくる。 澄玲は恋の手を握りしめた。 「ちょっと待ってて。 今日の午前シフト、もうすぐ終わるから。 後で一緒に帰りましょう」 恋は頷き、外の廊下で澄玲を待つことにした。 彼女はそっと自身の下腹部に視線を落とした。 流産の兆候。 この子は、私の決意を察して、自ら先に逝こうとしているのだろうか。 恋は唇を固く結び、用紙を手に次の検査室へと向かった。 「ブーッ、ブーッ」 携帯が震え、銀行口座の残高変動を知らせる通知が届く。 これは、冷却期間中に陸名悠弥との財産を明確に分けるため、彼女が新しく開設した口座だった。 これからの収入は、すべてここに振り込まれる。 残高変動の通知とほぼ同時に、もう一件、新しいメッセージが届いた。 「作詞作曲の報酬が振り込まれました。 経理から送金済みですので、ご確認ください」 恋は陸名悠弥と結婚する前、裏方のミュージシャンとして活動していた。 彼女は音楽を愛していた。 幼い頃、父がまだ健在だった頃は、時水家の令嬢として何不自由なく育ち、その才能を伸ばす機会にも恵まれた。 その後の人生は浮き沈みが激しく、かえって物事への深い洞察力を与えてくれた。 父も、まさか自分が亡き後、趣味として授けたこの技能が、娘の生命線となるとは夢にも思わなかっただろう。 少し考えてから、恋は返信する。 「確認しました。 ありがとうございます」 相手からの返信は早かった。 「当然の報酬ですよ。 正直、この数年、あなたは数々のヒット曲を生み出してくれました。 本当に、表舞台に戻る気はないんですか? 実は、最近あなたにぴったりの番組があるんですよ。 詳しい資料はメールで送りましたので、確認してください。 特別出場枠を確保しておきますから」 恋はメールを開いてみた。 それは音楽コンテスト形式のバラエティ番組で、ルールは複雑ではなく、既存の音楽番組と大差ないが、オリジナリティの高さが強く求められるようだった。 恋は返信した。 「少し、考えさせてください」 返信を終え、携帯を置いた、その時だった。 下腹部に、また鈍い痛みが走る。 その心細さからか、再び父のことが思い出された。 今日、父を思うのはこれで二度目だった。 …… その頃、インターネット上では、「話題」のタグが付いたトレンドワードが次々と画面を駆け巡っていた―― 「浅井静胃がん」 「有名フラワーアーティスト浅井静、命のカウントダウン」 「人生最後の半年、浅井静が病魔に笑顔で立ち向かう」 …… 最も注目を集めている記事の内容は―― 「……本誌の取材により、有名フラワーアーティストの浅井静さんが胃がんに罹患し、余命半年であることが判明しました。 しかし、彼女は悲嘆に暮れることなく、この最後の半年の出来事をすべてネットユーザーと共有していくと表明。 死へのカウントダウン文学が、現実のものとなっています」 動画の中で、浅井静は痛々しいほどの微笑みを浮かべ、カメラに向かって語りかける。 「残された半年、私の人生を皆さんと共有したいと思います。 他意はありません。 ただ、私と同じ病気で苦しむ方々の心の支えに、少しでもなれたらと。 皆さんが元気になれることを願っています」 記者が再びフレームインする。 「記者の取材によりますと、浅井静さんと陸名グループの陸名悠弥社長の間には以前から噂がありましたが、陸名社長はすでに結婚されています。 果たして、陸名社長が妻を捨て、後悔の念に駆られて彼女を必死に追いかけるという、メロドラマさながらの展開はあるのでしょうか」 その声に気づいたのか、浅井静はふわりと笑みを浮かべて歩み寄ると、礼儀正しく記者の言葉を遮り、マイクの前に立った。 彼女はカメラに向かって語りかける。 「私が悠弥お兄さんのことを好きなのは事実です。 隠すようなことではありませんから」 「彼はとても素晴らしい方ですもの。 彼を好きなのは、きっと私だけではないでしょう」 「ですが、皆様にお伝えしたいのは、私は他人の家庭を壊すつもりは毛頭ないということです。 それが、私の信条ですから。 ありがとうございます」 …… そう言い終えると、浅井静は画面から姿を消し、記者が再び報道を続けた。 彼女は人混みを抜け、待たせていた車に乗り込むと、そこでようやく口元の笑みを解いた。 隣に座っていたN国から招かれた「高級付き添い人」が、躊躇いがちに白湯を差し出す。 「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどう?」静は冷ややかに言い放った。 「運転手は身内よ」 高級付き添い人は、ようやく声を潜めて言った。 「浅井さん……診断結果は胃潰瘍だったはずです。 我々療養院に胃がんと偽装させるだけでも相当なリスクなのに、なぜ今になってネットで生配信など……」 静は侮蔑するようにフッと笑ったが、付き添い人にはその意味が分からない。 「あなたたちの療養院は医療機関かしら?」彼女が問う。 付き添い人は頷いた。 「私のカルテは、あなたたちの病院で独立して管理されているのよね?」彼女が続ける。 付き添い人は再び頷いた。 「私のカルテには、末期の胃がんで余命半年と書かれている。 そうよね?」彼女が重ねて問う。 付き添い人は一瞬ためらったが、最後には頷いた。 「それが何か?」 静は唇の端を吊り上げて笑う。 「これが真実よ。 誰に調べられたって、怖くも何ともないわ」 「しかし、あなたは胃がんではありません。 今後もし……」 「解決策は二つあるわ」静は警告するように付き添い人を見据えた。 「一つ。 今後、私はあなたたちの療養院や他の場所を転々としながら治療を受け、『愛の奇跡』が起きて完治したことにする」 「二つ。 あなたたちの病院の診断ミス。 そのせいで私は長期間、誤った治療を受けさせられた、とね」 静の顔には、あからさまな脅迫の色が浮かんでいた。 「この二つの解決策、どちらがお好み?」 付き添い人は顔面を蒼白にし、絞り出すように言った。 「申し訳ありません、浅井さん。 私の考えが浅はかでした。 やはり、あなた様のお考えは実に周到でございます」 静は冷笑を浮かべた。 「浅井さん、これからどちらへ?」 気まずい空気を払うように、付き添い人が尋ねた。 静は気のない様子で携帯を操作しながら答える。 「A市立病院」 付き添い人は少し焦ったように言った。 「しかし、それは……」 「カルテを持って、痛み止めをもらうだけよ。 びくびくしないで」 静は陸名悠弥に、後ほど病院まで迎えに来るようメッセージを送った。 悠弥からはすぐに返信が来た。 「わかった」 その頃、恋は病院の化粧室にいた。 下腹部を走る鈍い痛みに耐えながら、血の滲んだ紙を、彼女はただ握りしめていた。 流産の兆候だった。

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