「ん……」 微かな呻きが漏れ、本江安澄がぼんやりと瞼を上げると、不意に、夜空のように深い瞳と視線が絡んだ。 古杉尚行が帰っていた。 ふわりと漂うアルコールの香りに、 彼のキスが重ねられる。 それはいつものように有無を言わさぬ強引さで、 安澄から思考そのものを奪い去った。 とくん、と心臓が跳ねる。 無意識に彼の胸を押し返そうとした指先は、しかし、力なく空を切った。 「動くな」 低く掠れた声には、抗いがたい色気が滲む。 安澄の体は一瞬強張ったが、結局は彼の腕の中に身を委ねることを選んだ。 今日は二人の結婚記念日。 彼の機嫌を損ねたくはなかった。 そっと目を閉じ、彼の息遣いに耳を澄ます。 やがてアルコールの匂いは彼のコロンに掻き消され、甘く痺れるような香りが鼻腔をくすぐり、胸の奥深くまで染み渡っていく。 その香りは安澄を酔わせ、まるで雲の上を漂うような心地にさせた。 彼女の従順な様子を認め、尚行の瞳に昏い光が宿る。 その動きは、さらに大胆さを増していった。 現実へと引き戻された安澄は、喘ぎながら懇願の言葉を紡いだ。 「優しくして……」 「だって、私……」 ――妊娠。 その二文字を告げる前に、けたたましい着信音が鳴り響き、二人の間の甘美な空気を無慈悲に切り裂いた。 情欲に染まっていた尚行の瞳が、着信表示を捉えた瞬間、温度を失う。 彼は躊躇いなく身を起こすと、無駄のない動きで服を身につけ始める。 まるで仮面を剥がすように、先程までの熱情が跡形もなく消え失せていた。 「出かけるんですか?」 呆然と問いかけながら、安澄は無意識にパジャマの前をかき合わせた。 「ああ」 尚行は淡々と応じるだけで、それ以上の説明はない。 「でも……」 「先に寝てろ」 言葉を継ぐことは許されなかった。 彼は身をかがめて安澄の額に軽く唇を落とす。 その声色はどこまでも優しかったが、触れられない壁のような距離を感じさせた。 尚行は一度も振り返ることなく、部屋を出て行った。 彼の背中が扉の向こうに消えるのを呆然と見送って、安澄はしばらくしてようやく我に返った。 (きっと、会社に急用ができたんだわ) (おとなしくしていなければ、彼に嫌われてしまう) 彼を愛し続けて十年。 幸運にも古杉尚行の妻になれたのだから、これ以上を望むのは贅沢というものだ。 自分にそう言い聞かせ、安澄は簡単な身支度を整えると、再びベッドへと滑り込んだ。 そっと自分のお腹を撫でれば、顔には自然と淡い笑みが浮かぶ。 「赤ちゃん、パパはわざと私たちを置いていったわけじゃないの。 だから、パパを怒らないであげてね」 その言葉が消えぬうちに、スマートフォンの通知が不意に彼女の視界に飛び込んできた。 【古杉グループ総裁、深夜の空港に現る。 謎の女性を出迎えか】 添えられた写真には、空港のVIPゲートに佇む尚行の姿があった。 黒いスーツに包まれた長身はひときわ目を引き、圧倒的なオーラを放っている。 そして、その眼差しは――優しさに満ちていた。 それは、彼女が一度も向けられたことのない、慈しむような眼差しだった。 安澄の瞳孔がきゅっと収縮し、全身の血が凍るような感覚に襲われる。 心臓を無慈悲に抉られたかのように、息もできないほどの痛みが胸を貫いた。 しばらくして、彼女は一縷の望みにすがり、震える指でニュース記事を開く。 案の定、そこには見慣れた顔があった。 上野佳奈。 尚行が今も忘れられずにいる、初恋の相手が帰ってきたのだ。 全身が氷水に浸されたように冷え切り、 心臓を鷲掴みにされるような痛みに、 安澄は唇をきつく噛みしめる。 嗚咽が漏れ出さないよう、 必死に耐えた。 この結婚が、どのようにして手に入れたものだったか、忘れたはずもない。 二年前、上野佳奈は尚行との結婚を目前にして、忽然と姿を消した。 当時、取締役会での選抜という正念場にいた尚行には、従順な妻という存在が必要だった。 そして、彼への思慕を隠そうともせず、実家の破産で寄る辺をなくしていた自分こそが、その役割にうってつけだったのだ。 結婚して二年。 この幸せは、卑屈な自分には過ぎた、いわば盗んだものなのだと、ずっと思っていた。 昨日、妊娠が判明するまでは。 二人の間には厳格な避妊のルールがあった。 ただ一度、先月、尚行が接待でひどく酔って帰宅した夜だけ、衝動的に肌を重ねてしまった。 ほんの少しの油断が、この子を授けてくれたのだ。 今、この子の存在を、尚行にどう伝えればいいのか分からない。 もし告げれば、彼は堕ろせと言うのではないか。 何しろ、彼が愛しているのは、決して自分ではないのだから。 意識が微睡みの縁を彷徨う中、不意に、聞き慣れた声が鼓膜を掠めた。 書斎の方からだ。 彼が、戻ってきたのだろうか? 安澄は身を起こして薄い上着を羽織ると、吸い寄せられるように書斎へと向かった。 ドアの前まで来た途端、羽尾徹也の揶揄うような声が聞こえてきた。 「お前、昨夜帰らなかったのって、上野佳奈と一緒だったからか?」 安澄の心臓が、ずしりと重く沈む。 やはり、彼は本当に一晩中、上野佳奈と共にいたのだ。 「ああ」 尚行の返事は淡々としていて、何の感情も読み取れない。 「じゃあ、 安澄ちゃんはどうすんだよ? 結婚して二年だぞ。 まさかあの子にこれっぽっちも情が湧いてないなんて言わないよな?」 徹也の声には、微かな懸念が滲んでいた。 「あんな良い子、手放して他の男に取られたって、後で泣きついても知らないからな」 「いや、罪悪感が少しあるだけだ」 尚行は気のない口調で言い放った。 「お前が欲しいなら、譲ってやる。 会社に用があるんだろ? さっさと行け」 罪悪感? 彼が自分に抱いているのは、ただそれだけ? 世界から音が消えた。 安澄の瞳から涙がひとすじ、ぽろりと床に落ちる。 ドアノブを握っていた手から、最後の力が抜け落ちた。 やはり、彼は一度も自分に本気になったことなどなかった。 やはり、彼の心の中で、自分は他人にくれてやっても構わないほど、どうでもいい存在だったのだ。 心臓が、ひび割れる音を立てて凍てついていく。 安澄は魂が抜け殻になったように踵を返し、逃げるようにして庭へ駆け出した。 その場にしゃがみ込み、膝に顔を埋める。 涙が止めどなく溢れ、視界を歪ませていった。 十年前に、初めて古杉尚行に出会った日のことを思い出す。 当時の彼は、明るく、容姿端麗で、誰もが羨む家の御曹司。 学園中の女子生徒が憧れる王子様だった。 一方の自分は、実家の会社が倒産し、誰からも蔑まれる惨めな少女に成り下がっていた。 そんな自分を救ってくれたのが、尚行だった。 彼は皆の前で、二度と彼女に手を出すなと警告してくれたのだ。 あの頃の古杉尚行は、まさに天使だった。
そうして安澄は、十年前のあの時、古杉尚行にどうしようもなく恋に落ちた。 彼が海外へ留学すると聞けば猛勉強の末に同じ大学の門を叩き、 優秀であればあるほど、 彼との距離が縮まるはずだと信じて疑わなかった。 やがて、 尚行の方からプロポーズされた時、 安澄は彼の氷のように冷たい心が、 ついに自分という存在によって溶かされたのだと、 そう信じ込んだ。 だが、それらすべてが、ただの思い上がりだった。 尚行の心は、今も昔も、ずっと上野佳奈のもの。 自分は、いてもいなくても変わらない、空っぽの身代わりに過ぎなかったのだ。 安澄は深く息を吸い込み、胸の内で荒れ狂う感情を必死に鎮めようとした。 妊娠している今、医師からは感情を大きく揺さぶらぬよう固く言われている。 お腹の子のためにも、強くならなければ。 涙をぐっとこらえ、立ち上がって寝室へ戻る。 しかし、尚行は彼女に心を落ち着かせる時間など与えるつもりはなかった。 「佳奈が帰ってきた。 離婚しよう」安澄が寝室に入るやいなや、彼は何の躊躇もなく唇を開いた。 離婚、という二文字が、音もなく安澄の胸に突き刺さる。 呼吸さえ奪うほどの鈍痛が、じわじわと全身を蝕んでいった。 その言葉が明確な輪郭を持って響くまで、 心のどこかでまだ淡い希望を抱いていた自分に、 安澄は気づかされた。 しばらくの沈黙の後、 彼女はようやく掠れた声を絞り出す。 「彼女が帰ってきたから、私を捨てるんですか?」 必死に平静を装った声は、それでもなお、抑えきれないほど微かに震えていた。 尚行は眉根を寄せ、不機嫌を隠そうともせずに彼女を見返す。 「結婚した時に言ったはずだ。 分不相応なものを望むなと。 欲しいものがあるなら、金で埋め合わせる」 そうだ、新婚初夜に彼はそう言った。 自分との結婚は、取締役会のやかましい連中を黙らせるためだけの道具だと。 本物の愛情など、決して与えられないと。 それでも安澄は、自らその胸に飛び込み、いつか彼が自分に心を動かしてくれる日を夢見ていたのだ。 安澄は顔を上げ、答えを求めるように尚行の瞳をまっすぐに見据えた。 「この二年間、何度も抱かれました。 ……それも全部、上野佳奈の代わりだったんですか?」 核心を突く問いを投げかけられるとは思っていなかったのか、尚行は一瞬、虚を突かれたように押し黙る。 その沈黙を、安澄は肯定と受け取った。 ぱきり、と。 心にひびが入り、完全に砕け散る音がした。 尚行が自分を愛していないことなど、とうに知っていた。 だが、 この二年間の数えきれない夜が、 彼が自分を抱くことは受け入れの証なのだと、 愚かな幻想を抱かせていたのだ。 初めから終わりまで、 尚行の心に自分の居場所など、 ひとかけらも存在しなかった。 安澄は静かに目を閉じ、長く息を吐き出す。 「……わかりました。 離婚、します」 そう告げると、彼女は背を向け、必要最低限の荷物を手早くまとめると客間へと向かった。 その背中を、尚行は眉根を寄せたまま見送る。 胸の奥から、わけのわからない苛立ちがせり上がってきた。 安澄がそばを通り過ぎようとしたその時、彼は衝動的に彼女の腕を掴み、何かを言いかけた。 だが、まさにその瞬間、上野佳奈からの電話が鳴り響いた。 尚行が電話に出るため腕を緩めた一瞬の隙に、安澄は彼とすれ違い、客間へとその姿を消した。
『もしもし、佳奈?』 『ああ、大丈夫だよ……』 その後の言葉は、もう安澄の耳には届かなかった。 ただ、電話口から漏れ聞こえた信じられないほど優しい声色だけが、彼女の心を容赦なく打ちのめす。 客間のドアを閉め、力なくベッドに崩れ落ちると、嗚咽が漏れないよう必死に口元を両手で覆った。 離婚という事実は受け入れたはずなのに、尚行の自分に対する氷のような非情さと、上野佳奈に向ける蜂蜜のような優しさの落差が、鋭利な刃となって心を抉り続ける。 どうすればいいのだろう。 この子は、どうすれば。 安澄にはもう、何もわからなかった。 ただひどく疲れ、ひどく痛み、このすべてから逃げ出してしまいたいと、それだけを思った。 浴室から、ざあざあと絶え間なく水の音が響く。 安澄はまるで人形のように機械的な仕草で服を脱ぎ、シャワーの下に身を置いた。 熱い湯が肌を打つが、心の芯まで凍てつかせた寒気は一向に和らがない。 やがて彼女は堪えきれずにその場にしゃがみ込み、膝に顔を埋めた。 降り注ぐシャワーの音を隠れ蓑に、抑え殺していた嗚咽を解き放つ。 なぜ。 なぜ、これほどまで非情な仕打ちができるのか。 泣き疲れた安澄が、 服を着ようとふらりと立ち上がった、 その時だった。 濡れた床に足を取られ、 体勢を崩してしまう。 「きゃっ!」 下腹部に走る激しい痛みに、安澄の口から苦悶の呻きが漏れた。 か細い手で、無意識に打ち付けた箇所を庇う。 主寝室にいた尚行は、その悲鳴を耳にするなり、弾かれたように駆けつけた。 浴室のドアは開いたままで、床に倒れ込む安澄の姿が目に飛び込んでくる。 彼女は顔を青白くさせ、冷や汗を滲ませ、衣服は乱れ、小さな手で必死に下腹部を押さえていた。 どこかを強く打ち付けたのは明らかだった。 尚行の心臓が、理由もなくきゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。 彼は飛ぶように安澄のそばへ駆け寄ると、その華奢な体をためらうことなく抱き上げる。 「どうした!? どこを打ったんだ!」 その声には、本人さえ気づかぬほどの焦燥が滲んでいた。 安澄はまだ衝撃で頭がぼうっとしており、目の前の男をただ茫然と見つめ、しばらくしてようやく我に返った。 「……大丈夫」 彼女は尚行の腕から逃れようともがいたが、鋼のような腕はそれを許さず、むしろさらに強く彼女を抱きしめた。 「動くな!」 尚行の厳しい叱責に、安澄はびくりと身を硬くする。 「他に怪我がないか確認する」 尚行はそう言うと、彼女をベッドまで運び、その上にそっと降ろした。 そして身を屈め、まるで壊れ物にでも触れるように、安澄の体に他に傷がないか慎重に検め始める。 その心配そうな眼差し、真剣な横顔に、安澄の心に再び愚かな妄念が芽生えてしまう。 彼女は衝動的に尚行の手を掴み、しわがれた声で問いかけた。 「古杉尚行……もし、私が妊娠していると言ったら、それでも離婚するつもりですか?」 もし、この子のことを考えて、離婚しないと言ってくれたなら――。 安澄は、祈るような思いで尚行の答えを待った。 だが、尚行は一瞬動きを止めただけだった。 やがて、氷のように冷たい声が、無慈悲に彼女を突き放す。 「避妊はしていた。 妊娠などありえない」 そして、こう付け加えた。 「万が一、できていたとしても――堕ろせ」