汐見市・宵ノ宮会館。VIP個室の中には、整った顔立ちの男たちが五人、座っていた。その中央で、一際目を引く美貌の男が、苦しげに眉をひそめ、深くうつむいている。どうやら酔いつぶれてしまったらしい。 「兄貴、どうしちゃったんスか? あんなに飲んじゃって」 一番左に座っていた男、広瀬翼が口を開いた。五人の末っ子である彼は、普段から能天気な性格で、この場の微妙な空気をまるで読めていない。 「坂本紗也が明日、汐見に着くそうだ」 言葉を引き継いだのは、線の細い、どこか陰のある男、坂本原愁。 「よくもまあ、戻ってこれたもんスね」翼が鼻で笑った。「兄貴、まさか未練たらしくて、より戻そうとか思ってるんじゃないッスよね? それじゃあ、お義姉さんはどうなるんスか?」 翼の言葉が終わると、誰も口を開かず、個室は一瞬で静まり返った。 しばらくの沈黙の後、原愁が再び口を開いた。「実はな、この二年、兄貴はずっと紗也のことを忘れられずにいたんだ。そうじゃなきゃ、結婚したことを一度も公表しないなんて、ありえないだろ? それに……」 彼は一拍置き、続けた。「お義姉さんが二年間妊娠しなかったのは、兄貴が彼女に大塚家の跡取りを産ませる気がなかったからだ」 「ガシャーン――!」 原愁の言葉が終わるか終わらないかのうちに、個室のドアの外から大きな物音が響いた。続いて、ウェイターの謝罪する声が聞こえた。「申し訳ございません、お客様! 大丈夫ですか?お着替えになられますか?お洋服が濡れてしまわれて……」 「あっ、お客様!お客様!」 声は遠ざかっていく。個室内の間接照明が、虚ろに明滅を繰り返した。やがて、翼が仕方なさそうにため息をついた。 「お義姉さん、いい人なんだけどなあ。兄貴も、紗也みたいな女にどうしてそこまでこだわるんスかね」 「まあいい。兄貴のことだ。本人に任せよう。俺たちがとやかく言うことじゃない。俺はもう行く。明日、出張があるんだ」 そう言って立ち上がったのは、三浦和哉だった。 「俺たちも先に出るわ。兄貴はお前に任せた」 坂本原愁と村上勝也が同時にそう言い残すと、あっという間に個室には翼と、酔いつぶれて意識のない男だけが残された。 …… 望月結衣は、宵ノ宮会館からほとんど逃げ出すようにして飛び出した。 足元はふらつき、何度もよろめきながら、それでも必死に走った。 十分に距離を取ったところで、ようやく足を止める。乾ききっていない酒の染みも気にせず、道端の階段にへたり込むと、その場で嘔吐した。 「うっ……、うぅ……!」 しばらく空嘔きが続き、胃のむかつきがようやく収まるまで、しばらくかかった。 結衣は妊娠している。今朝、病院で結果を受け取ったばかりだった。 喜び勇んで、子供の父親である大塚英志にこのことを伝えようと彼を訪ね、そして、ついさっきの一部始終を聞いてしまったのだ。 吐き終えると、結衣は階段に座り込んだまま、無意識に自分の腹に手を当てた。この中に、小さな命が宿っている。まだ、それは信じられないような不思議な感覚だった。 最近ずっと食欲がなく、吐き気をもよおしていた。胃を悪くしたのだと思い、病院で検査を受けたところ、まさかの妊娠が判明したのだ。 検査結果の用紙は今もバッグの中にあるが、結衣には英志に見せる勇気がなかった。 なぜなら、英志が自分に子供を産ませたくないことを知っていたからだ。 二年前、祖父の治療のため汐見市を訪れた結衣は、大塚家の大塚明夫に出会った。二人の老人はかつての戦友であることを互いに認め合い、祖父は明夫の命の恩人でもあったため、その場は感動の再会に包まれた。 その頃、祖父の病状はすでに重く、結衣を明夫に託してこの世を去った。 戦友への想いと恩義から、明夫は結衣に英志との結婚を勧めた。結衣は、英志が幼い頃に密かに恋心を抱いていた少年だと気づき、一も二もなくその申し出を受けた。 だが後に、自分の想いとは裏腹に、英志には自分と結婚する意思など全くなかったことを知らされる。 結婚の夜、英志は一枚の契約書を差し出し、こう言った。「じいさんが死ぬ気で迫ってきてな。俺としても、あの老人の心を傷つけるわけにはいかない。大塚の妻の座はくれてやるが、それ以上は望むな。二年後にお前と離婚する」 契約書には、婚姻期間は二年間、子供はもうけないこと、離婚後、住んでいた別荘は結衣のものとし、さらに10億円を支払うことが明記されていた。 その瞬間、結衣は悟った。すべては、自分が一方的に思い込んでいただけなのだと。 結婚後、二人は明夫が用意した別荘で暮らし始めた。英志は他人に干渉されることを嫌ったため、家事はすべて結衣が担った。 彼女は仕事を持たず、ほぼ毎日、別荘で英志の帰りを待つだけの生活を送った。二人はごく普通の夫婦生活を営んだが、その度に、英志は必ず結衣に薬を飲ませた。 この子の存在は、きっと何かを変えてくれると、彼女は信じていた。 さっきまで、こうして個室の外で聞こえてきた会話を耳にするまでは。 (坂本紗也……) 英志が心の奥に秘め続けてきた女が、もうすぐ戻ってくる。そして、自分と彼との契約期間も、間もなく終わる。 (この子は、私だけの子供だ) 「ピロン――」 物思いにふける結衣のスマートフォンが、着信を告げた。 開いてみると、翼からのメッセージだった。 『お義姉さん、兄貴が酔いつぶれちゃったんで、迎えに来てもらえませんか』
結衣が個室に戻ると、そこには広瀬翼が一人、大塚英志のそばに付き添っていた。 他の三人の姿は、すでになかった。 「翼、遅くなってごめんね」 ドアを押し開けて入ってきた結衣の顔から、涙の痕は完全に消えていた。 「義姉さん、遅くないっすよ!あの三人はもう帰りましたし。俺、今夜ちょっと約束があるんで、悪いんですけど兄貴を家まで連れて帰ってもらえませんか?」 翼はにこやかに結衣を見つめたが、その視線はどこか泳いでいた。 先ほどの個室での会話がまだ頭の中をぐるぐる回っていて、義姉さんに何か言うべきかどうか迷っているのがわかった。 だが結局、彼は口を閉ざした。 和哉言う通りだ。これは兄貴と義姉さんの問題で、自分が余計なことを言うべきじゃない。 「どうしてこんなに飲んだの? このままじゃ、また胃が荒れるわよ」 結衣は英志の前まで歩み寄り、その整った彫りの深い寝顔を見下ろした。心配の言葉が、抑えきれずに漏れた。 「あー……たぶん、俺たち五人、久々に集まったからつい。義姉さん、次は絶対に兄貴を見張ってますから、酒なんて飲ませませんんで!」 翼は頭をかきながら、その場しのぎの言い訳をでっち上げた。 結衣は黙ったまま、眠る英志の横顔をじっと見つめ続けた。長い、長い沈黙だった。 「あの……義姉さん、車は? 兄貴の車、運転できます?」 翼はそう言うと、手に持っていた車のキーを結衣に差し出した。 結衣はうつむいたまま、小さな声で言った。「車じゃ来てないの」 宵ノ宮会館まではタクシーで飛んできた。少しでも早く、あの嬉しい知らせを英志に伝えたくて。でも今思えば、それが何て滑稽だったか。 結衣がキーを受け取るのを見て、翼は素早く言った。「じゃあ俺、兄貴を車まで運びます!」 「ええ、ありがとう」 英志は背が高く体格もいい。翼の助けがなければ、結衣一人で車に乗せるのは難しかっただろう。 「義姉さん、そんじぁ!」 結衣は運転席に座り、翼に軽く会釈をすると、車を走らせた。 結衣が運転免許を取ったのは、英志と結婚してからだ。取ってからもほとんど運転したことはなく、ましてや英志のこんな大きな車は初めてだった。だから、一路、彼女は神経を尖らせてハンドルを握っていた。後部座席の男が目を開けていることには、まったく気づかなかった。 実は、結衣が個室に入ってきた時には、彼はもう目を覚ましていた。ただ、何も言わず、翼と結衣に車まで運ばれるままになっていたのだ。 今夜は確かに、少し感情的になりすぎた。 昼間、坂本紗也から電話があったからだ。 『英志、明日飛行機が着くの。迎えに来てくれない?』 懐かしい声が電話の向こうから聞こえてきた瞬間、英志の呼吸は一瞬止まった。そして、低い声で断った。 『俺はもう結婚した』 そう言って電話を切ったが、気持ちの整理はつかず、夜になって翼たちとつい飲みすぎてしまった。 二年前、彼は意気揚々と、恋人だった紗也のために、街中を巻き込むようなプロポーズを準備した。だが彼女は現れなかった。電話一本で、ダンスの夢を追いかけると告げただけだった。 あの日、彼は一面の花畑に一人立ち尽くし、汐見市中で一番の笑い者になった。 そして次の日、祖父に押し切られる形で、望月結衣と結婚した。 あの時は感情が高ぶったまま、衝動的に婚姻届を出した。二年経って、坂本紗也のことは忘れたと思っていた。なのに、なぜ彼女からの電話一本で、こんなにも心が乱れるのだろうか。 家に着いて、結衣はようやく英志が起きていることに気づいた。 彼女は彼を見て言った。「起きてたの?降りて歩ける?」 「ああ」 英志は短く答えたが、アルコールのせいか、まだ少しふらついているようだった。 結衣は体をかがめて彼を支え、車から降ろした。 英志はそのまま結衣に寄りかかってきた。彼女から香る、いつものミントの爽やかな香りが、一瞬だけ酔いを覚まさせる。 二人で屋敷に入ると、結衣は慎重に彼をソファに座らせ、自分は台所へ向かい、酔い覚ましの茶を入れに行った。 英志はソファに背を預け、結衣の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。 間もなく、結衣が酔い覚ましのお茶を持って戻ってきた。ちょうど、眉間に深い皺を寄せた英志が目に入った 「これ、飲んで」 結衣は茶を差し出した。 英志はそれを受け取ると、一気に飲み干し、顔を上げて結衣を見た。彼女はその場に立ちすくみ、微動だにしなかった。 「何か用か?」 突然の問いかけに、結衣の表情がわずかに揺らいだ。 (何を考えてたんだろう……今、子供のことを話せば、もしかしたらって……?) ばかばかしい。二人の契約は、もうすぐ切れるのに。余計な波風なんて、立てるべきじゃない。 無意識に、結衣は嘘をついた。 「ええと……今日、おじい様から電話があって、時間があるときに顔を見せてほしいって」 「わかった。明日、一緒に本家へ行こう」 「……うん」
大塚英志が深い酔いに沈んでいた翌朝、結衣はいつもより早起きし、彼の胃をいたわる優しい粥をことことと煮ていた。 粥がちょうど良い加減に仕上がった頃を見計らったように、英志が階下へ降りてくる気配がした。 「起きた?朝ごはん、できてるよ」 階段の踊り場に立つ英志に、結衣は静かに声をかけた。 英志は無言で食卓につき、差し出された粥を口に運び始める。二人の間に会話はなく、朝の静けさだけが流れていた。 わずかに重苦しい、沈黙。 「ピロン――」 その空気を切り裂くように、英志のスマホがメッセージの受信を知らせた。 彼は視線を落とし、画面に目をやった。 「英志、あなたが他の誰かと結婚するなんて信じられない。私をわざと怒らせようとしてるんでしょ? どうなろうと、私は空港で待ってるから。あなたが来るって信じてる」 差出人は、坂本紗也。英志は画面を消し、返信はしなかった。 二年前、彼女が汐見を発った時、全ての連絡先はブロックしたはずだ。新しく変えた番号からの連絡なのだろう。 「ピロン――」 続けて、もう一通。 「英志、二年前、私があなたの前から消えたのには、どうしても言えない理由があったの。あなたのこと、忘れた日なんて一度もない」 「ピロン――」 「英志、もしあなたが来てくれなかったら、私はここを動かない。ずっと待ってる」 スマホの画面に表示されるメッセージを睨みつけながら、英志は唇を固く結んだ。 ブロックしようと指を動かしかけた、まさにその瞬間だった。 「英志、あなたがずっと知りたがってた、ご両親の事故の真相、ずっと知りたがってたでしょう?私に手がかりがある」 その一文を目にした瞬間、英志の瞳が激しく揺れた。 彼はスマホを置き、結衣に向き直った。「今日は、急に用事ができた。じいさんのところには行けそうにない」 (……やっぱり) 昨夜、あの場所で聞いてしまった会話が脳裏をよぎる。結衣は胸の奥からこみ上げる苦しさをそっと飲み込み、できるだけ平静を装って微笑んだ。 「うん、分かった。おじい様には私から言っておく。行ってらっしゃい」 英志はちらりと結衣を見た。結婚して二年、彼女はいつもこうだった。何を言っても逆らわず、ただ静かに、優しく、彼の言葉を受け入れる。 良き妻だった。友人たちの前でも決して失態は見せず、非の打ちどころがない。夫婦の営みだって、不思議なくらいに肌が合った。だからこそ、自分が彼女にどういう感情を抱いているのか、最近は余計に分からなくなっている。 (ただの慣れ、かもしれない) そばにいることが、空気のように当たり前になってしまった。だが、かつて真綾に注いだような、あの熱く燃え上がるような愛情を、彼女に移し替えることはどうしてもできない。 二年前のあの日、沙耶が持っていってしまったのだ。愛というものに対する、すべての熱量を。 真綾は、彼が少年時代から憧れ続けた相手だった。舞踊科のマドンナである彼女が、自分を射止めるためにあれほど熱心に尽くしてくれたこともあった。なのに、未来を共にしようと決意したその瞬間に、彼女は彼を選ばなかった。 プロポーズの場に現れず、追ってきたメッセージにはこうあった。 『英志、フランスに行くチャンスを諦められたくないの。二年だけ、待っててくれないか?』 待つ。それが何より嫌いな男だと、彼女は知っていたはずなのに。翌日、英志は祖父の言葉に従い、結衣と婚姻届を出した。それ以来、紗也との関係は完全に途絶えていた。 …… 英志が家を出てから、夜が更けても彼は戻らなかった。 結衣が何度電話をしても、繋がらない。嫌な予感がして、秘書の森山章賢に連絡を入れた。 「もしもし、森山さん?英志、まだ会社で残業してますか?」 「奥様?いえ、本日は特に残業の予定はございません。社長は午後早くに会社を出られましたが」 「……そう、ありがとう」 電話を切った後、一つの考えが静かに、しかし確かに形を結び始める。 だが、その輪郭を掴むより先に、胃の腑が激しく痙攣し、結衣はその場にうずくまった。 持病の胃痛が、ぶり返したのだ。 薬を飲み、ベッドに倒れ込むようにして横になる。 眠りは浅く、何度も悪夢を見た。そして目を覚ます朝、英志の姿はなく、スマホに着信もない。 痛みはますます激しくなる。 波のように襲い来る痙攣に、這うようにして車のキーを手に取った。 タクシーを呼ぼうにも、この邸宅街では気が遠くなるほど待たされるだろう。自分で運転するしかなかった。 ところが、病院まであと少しという交差点で、最悪のタイミングで胃痙攣が頂点に達した。ハンドルを握る手が小刻みに震え、思うように操作できない。 (もう少し……もう少しだから……!)歯を食いしばり、アクセルを踏み込む。その瞬間、左側の影から黒い車が飛び出してきた。 「ドン――!!」 耳をつんざく衝撃音。 視界が歪み、何か温かいものが額を伝う感覚。 (赤ちゃん……!) 意識が闇に沈む寸前、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。 そして、途切れ途切れの会話が混ざり合う。 「急げ!救急だ!」 「妊婦さんだ!流産の危険がある!すぐに緊急連絡先に!」 「もうかけました!でも、出ません!」 「……」 意識が霞んで、全身が重い。結衣はまるで果てしなく暗く、冷たい海の底に沈んでいたようだった。時折、遠くで足音が響く。けれど、瞼は鉛のように重く、開かない。 再び意識が浮上した時、窓の外はすっかり闇に包まれていた。 「あっ、目が覚めました?」 付き添いの看護師が、ほっとしたように笑った。 「ここは……?」口を開くと、声はひどく掠れていて、自分でも驚くほどだった。体中の力が抜け落ちたようにだるく、額には白いガーゼが巻かれているのがわかった。 「病院よ。今朝、あなた、病院の前で事故に遭ったの。幸い、脳震盪は軽いし、命に別状はないわ。 でも、元々の胃炎が悪化してて、それに妊娠してるでしょ。 それで長いこと眠ってたのよ」 看護師は手早く説明すると、充電の切れかけたスマホを差し出した。 「ご家族に連絡してあげて。 こっちから何度も緊急連絡先にかけたんだけど、繋がらなかったから」 「……ありがとう」 看護師が去った後、結衣は暗い画面を見つめた。通話履歴を開く。 病院から、大塚英志の番号へ何度も発信されていた。全て、『不在』の表示。 (仕事中......だよね) 電源を切ろうと指を滑らせた時、目に飛び込んできたニュースの見出しがあった。 「著名舞踏家・坂本紗也が帰国 大塚グループ社長・大塚英志が自ら空港まで送迎 二人で一夜を共に」 パチン。 スマホが、結衣の指から滑り落ちた。 その瞬間、これまで抱えていた全ての疑いと憶測が、頭上から冷たい水を浴びせられたように冷え込み、凍てつくような冷たさが背筋を走った。 (そうか……会いに行ったんだ、坂本紗也に……) だから昨日、あんなに急いで…… 一晩中、帰ってこなかったのは、そういうことだ。二年ぶりに会ったのだから、彼らは……。 (……やめよう)考えるのをやめた。結衣は天井を見上げ、ただ、瞬きもせずにぼんやりとそこを見つめ続けた。 どれだけの時間が経っただろう。無意識に、両手が下腹部に添えられていた。(もう、終わりにしよう。ここが、潮時なんだ) 「……赤ちゃん」掠れた声が、暗い病室に落ちる。「パパのことは、教えてあげられないけど。でも、ママは絶対にあなたを守るから。パパの分まで、大切に育てるからね」