雲崎市、第一総合病院。 三階の泌尿器科診察室。 篠崎杏奈がデスクの前に腰を下ろした途端、ドアが押し開けられた。 逆光の中、高くそびえるような人影が室内へ踏み込んできた。 男は濃いグレーのスーツを纏っていた。広い肩幅に引き締まった腰、すらりと伸びた脚。その一歩一歩が、見る者を圧倒するようなオーラを放っている。 男が明かりの下まで歩み寄り、その顔が露わになると、多くの男を見てきた杏奈でさえ、思わず息を呑んだ。 (なんて、いい男なの……) 彼女の視線は男の顔に二秒ほど留まったあと、ゆっくりと下方へ移る。スーツのズボンに包まれた長い脚をなぞり、やがてある重要な部位で止まった。 (残念ね。) 顔はいいのに、あちらの方はダメなのかもしれない。 杏奈は視線を戻すと、軽く咳払いをして隣の診察台を指差した。平坦な口調で告げる。「そこに横になって、ズボンを脱いでください」 あまりにも淡々とした要求に、藤堂卓海は言葉を失い、ただ沈黙で応じた。 一瞬にして、診察室の空気が凍りついた。 彼の瞳は刹那のうちに氷のように冷たくなり、目の前のあまりに若い女を、値踏みし、疑うような眼差しで射抜いた。 白衣を纏い、有能そうに髪を高い位置でポニーテールにまとめ、化粧気のない素顔を覗かせていた。 その顔は、せいぜい二十代前半、卒業したての研修医にしか見えない。 「柳沢先生はどこだ?」卓海の低い声は冷たく、明らかな不快感を滲ませていた。 「柳沢先生は、急患の手術で席を外しています」 杏奈は臆することなく彼の視線を受け止め、胸元の名札を彼に見えるように掲げた。 そこには、太字のゴシック体ではっきりと書かれている――主治医:篠崎杏奈。 杏奈は顎で診察台を指し示し、言葉を継ぐ。「私は篠崎杏奈。本日、柳沢先生の代理で診察を担当します。 藤堂さん、私の時間は限られています。早く横になって、検査を始めさせてください」 卓海は眉間に深く皺を寄せた。 今日、彼がここに姿を現したのは、ひとえに祖父に死を盾に迫られ、承諾せざるを得なかったからだ。 三十歳近くになっても女性に興味を示さない孫を不審に思った祖父が、何か隠れた病があるのではないかと疑い、強引に精密検査を受けさせようとしたのだ。 さらには、担当医の柳沢茂雄は親友だから絶対に秘密は守る、安心しろ、と何度も念を押されていた。 だというのに、その親友がよりによって若い女に代わっているとは。 卓海の忍耐は完全に尽きた。彼は無言のまま踵を返し、ドアへ向かう。 (こんな馬鹿げた検査、誰が受けるものか!) 「藤堂社長!」 ドアのそばで待機していた秘書の桐原淳矢が、素早く卓海の前に立ちはだかった。「大旦那様が…… 大旦那様から、またお電話です。今日中に……検査報告書を受け取ってからでないと帰るなと。さもなければ……」 淳矢は苦しげに唾を飲み込むと、死を覚悟した様子で言葉を継いだ。「さもなければ…… ご自身でこちらにいらして、検査が終わるまで見張っていると……」 (自ら……見張る?) 卓海の端正な顔が、瞬時に歪んだ。 彼はその場に凍りつき、こめかみが激しく脈打つのを感じた。 祖父が大勢のボディガードを引き連れて彼を取り囲み、小さな椅子に腰掛け、慈愛に満ちた顔で検査を見守る――そんな地獄絵図が、ありありと脳裏に浮かんだ。 「……」 卓海は二十八年間生きてきて、ビジネスの場では常に冷徹かつ果断な決断を下してきた。だが、これほど進退窮まる状況に陥ったのは、これが初めてだった。 彼は深く息を吸い込んだ。その息は石のように胸に詰まり、吐き出すことも、飲み込むこともできない。 最終的に、理性がプライドという名の感情に打ち勝った。 卓海はぎこちない足取りで、一歩、また一歩と診察台へ向かう。 その一歩一歩が、砕け散った自尊心を踏みつけるかのようだった。 「横になってください」 杏奈の声が再び響く。そこには一切の感情が含まれていない。 卓海は沈黙したまま、ゆっくりと診察台に横たわった。 スーツの下の筋肉は、極限まで耐え忍んでいるせいで硬く強張っている。 杏奈は手袋をはめると診察台のそばに歩み寄り、まるで無機質な医学模型を見るかのような冷ややかな視線で彼を見下ろした。 「ズボン、もう一度言わせる?」 卓海の顎のラインが固く引き結ばれる。彼は目を閉じ、深く息を吸い込むと、半ば自棄になったような手つきでベルトを解いた。 そして、ファスナーを……。 その間ずっと、彼は顔を横に向け、壁に貼られた男性の生理構造図を凝視していた。まるで、その図を視線で焼き尽くそうとするかのように。 杏奈の視線が彼の上に落ちた瞬間、卓海の体は石のように硬直した。 「リラックスしてください」 杏奈の口調は相変わらず平坦だ。「そんなに力が入っていると、検査結果に影響します」 (リラックス?) 卓海は、危うく息が詰まるところだった。 (今すぐ、この女を殺してやりたいのに、この女はリラックスしろと言うのか?) 杏奈は卓海の内なる怒涛など意にも介さず、診察を始めた。 その手つきはプロのそれで、キレがあり、一切の迷いも感じられない。 指先は的確に彼の体を押さえ、異常がないかを確認していく。 杏奈にとって、これはごく日常的な仕事に過ぎない。 だが、卓海にとって、この一秒一秒は耐え難い拷問だった。 さらに彼を打ちのめす出来事が、この後に待っていた。 杏奈は診察を続けながら、定型的な問診を始める。「普段の生活は規則正しいですか?」 「……ああ」卓海は奥歯を噛み締めながら、その一言を絞り出した。 「朝立ちは?」 卓海のこめかみが激しく脈打つ。 その質問に、卓海の端正な横顔は瞬時に赤く染まったが、それでも歯を食いしばって応じた。「……ある」 杏奈は小さく頷くと、淡々と質問を重ねた。「最後に性交渉があったのはいつですか?」
診察室は、一瞬にして水を打ったような静けさに包まれた。 卓海は猛然と振り返り、燃え盛る怒りを込めた視線で彼女を射抜いた。 杏奈は平静にその視線を受け止め、その瞳にはプロとしての自負が満ちており、まるでなぜ答えないのかと問いかけているかのようだった。 沈黙が流れた後、卓海は絞り出すように二文字を吐き出した。「……ない」 「ふうん?」 杏奈は語尾をわずかに上げ、探るような色を滲ませる。 彼女はカルテへの記録を続けながら、淡々と言葉を継いだ。「長期にわたる性生活の欠如、あるいは過度な精神的ストレスが、時に機能障害を引き起こすこともあります。 ですが、先ほどの検査を見る限り、藤堂さんの身体的な機能は極めて優秀です。過度に心配する必要はないでしょう」 卓海は絶句した。 (身体的な機能が……極めて優秀だと?) (この女、自分が何を言っているのか分かっているのか!?) 杏奈はようやく手を引き、手袋を外して医療廃棄物用のゴミ箱に投げ入れた。 「はい、藤堂さん。検査は終わりです。ズボンを穿いてください」 彼女はそう言いながらデスクに戻り、ペンを手に取ってカルテに素早く書き込み始めた。 その事務的な態度は、どんな嘲りよりも卓海を屈辱的な気分にさせた。 彼は検査台から身を起こし、人生で最も速い勢いで身なりを整えた。 服装を整えると、卓海はいつもの傲岸な姿勢を取り戻す。だが、その陰鬱な表情と固く引き結ばれた顎のラインが、彼の最悪の気分を完全に物語っていた。 彼は、この馬鹿げた悪夢がようやく終わったのだと思った。 (あの忌まわしい報告書さえ受け取れば、あとは祖父に釈明を済ませるだけだ。今日起きたことすべてを、この篠崎杏奈という女医もろとも、記憶から完全に消し去ればいい。) だが、杏奈の次の言葉が、彼をさらなる地獄へと突き落とした。 「藤堂さん、基本的なバイタルチェックは終わりました」 彼女は一拍置いてから、言葉を継いだ。「ですが、先ほどの触診と微細な生理反応から判断して、血清テストステロン値と神経伝導機能の検査も受けることを個人的にお勧めします」 卓海は眉間に深く皺を寄せ、苛立たしげに言った。「どういう意味だ?」 「つまり……」杏奈の口調は相変わらず平静だった。「器質的な問題ではなく、機能の面で軽度の偏りが見られる可能性があります」 「ありえない」 卓海は、反射的にそう言い放った。 彼は自分に対して、常に絶対的な自信を持っていた。ビジネスの場でも、そして……身体に関しても。 (ただ女に興味がないだけで、不能なわけではない!) 杏奈は彼の反応を予測していたのか、あえて反論はしなかった。 彼女はただ、デスクの上のもう一枚の空白の検査依頼書を彼の方へ滑らせた。「事実かどうかは、データが証明します。 藤堂さんは、ご自身の主観的な感覚を信じますか?それとも科学を信じますか?」 卓海は、杏奈のあまりに冷静な顔をじっと見つめ、そこからわずかな動揺や不確実性を見出そうとした。 だが、何もなかった。 彼女の眼差しは、どこまでもプロフェッショナルで、揺るぎない。 卓海は、時折感じていた腰の重さや気力の減退をふと思い出した。それまでは単なる仕事の疲れだと思い込んでいたのだが……。 (まさか……本当に自分に問題があるというのか?) 一瞬の躊躇の後、彼はその検査依頼書をひったくるように掴むと、一言も発さずに診察室を後にした。 ドアの外で待っていた秘書の淳也は、閻魔大王さながらの上司の顔を見て、思わず身を震わせたが、それでも意を決して歩み寄った。「藤堂社長、いかがでしたか?検査は……順調でしたか?」 卓海は冷ややかに彼を一瞥しただけで何も答えず、まっすぐ検査室へと向かった。 淳也は、その決然とした後ろ姿を見送りながら、内心で激しく動揺していた。 (あの様子……どう見ても何事もなかったようには見えない……) その後の一時間は、卓海にとって、人生で最も長く、耐え難い苦痛の時間となった。 採血、待ち時間、そして検査結果の受け取り。 検査結果報告書を握りしめ、再び杏奈の診察室に戻った時、彼のまとう空気はすでに極限まで冷え切っていた。 待合室に他の患者はいなかった。 杏奈はずっと彼を待っていたかのように、デスクの上はきれいに片付けられ、彼のカルテだけが置かれていた。 卓海は、抑えきれない怒りをぶつけるように、報告書をデスクに叩きつけた。 杏奈はそれを手に取ると、視線を落とし、細かく目を通した。 一分、また一分と時間が過ぎていく。 卓海は彼女をじっと見つめ、わずかな表情の変化も見逃すまいとした。 やがて、杏奈は報告書を置き、顔を上げた。 「私の見立て通りです。藤堂さんは神経系の軽度な機能失調により、勃起機能に支障が生じているようです」 (神経系……機能失調?) 心の準備はしていたものの、いざ診断を下されると、卓海の頭の中は真っ白になり、激しい耳鳴りに襲われた。 「原因は複雑ですが、長期にわたる精神的ストレスや過労によって、勃起を司る神経系に乱れが生じたものと考えられます」 「ただ、幸い早期発見ですし、深刻ではありません。薬物治療とリハビリを組み合わせれば、完治は十分見込めます」 卓海は瞳を暗く沈ませ、掠れた声で尋ねた。「……治療法は?」 「詳細な診断書と治療計画書をお作りします」 杏奈はそう言いながらキーボードを叩き始めた。すぐにプリンターの作動音が室内に響き渡る。「今後の治療は、この分野の権威である柳沢茂雄先生が直接担当されますので、ご安心ください」
(柳沢茂雄?) 卓海の眉間が、瞬時に険しく寄った。 もちろん、柳沢先生が権威であることは知っている。 だが問題は、この件を、目の前のこの女以外の誰にも知られたくないということだ。 藤堂家は巨大な一族であり、内部の関係は複雑を極めている。 跡継ぎである彼の一挙一動は、常に無数の監視の目に晒されていた。 男性としての尊厳に関わるこの隠密な疾患が、万一、わずかでも外部に漏れれば、敵対勢力が彼を叩く格好の武器になりかねない。ひいては、グループ内での地位を揺るがす事態にもなり得るのだ。 藤堂家の専属医療チーム? 論外だ。 あの医師たちは藤堂家全体に仕えており、口が軽い。誰が誰の息がかかっているのかも分からない。彼らの前では、秘密など、そもそも秘密ですらないのだ。 だからこそ、おじいさまは、彼の親友である柳沢先生を頼るよう勧めたのだ。 しかし今、誰にも知られたくない、最も屈辱的で、口にするのも憚られる秘密を、篠崎杏奈という女に知られてしまった。 そこに柳沢先生まで加われば、それだけリスクが増すことになる。 何より重要なのは、検査から宣告に至るまで、診断の全過程を担当したのは彼女なのだ。 (今さら、状況をまったく知らない医師のところへ行き、あの屈辱を、また最初から繰り返せというのか……?) 卓海は、想像しただけで、怒りが頭の先まで突き抜けるのを感じた。 「できました」 杏奈は数枚のA4用紙を揃え、カルテと検査結果の用紙とともに茶封筒へ収め、それを彼に差し出した。「藤堂さん、これが全ての資料です。これを持って、明日、柳沢先生を訪ねてください」 そう告げると、彼女は腕時計に目をやり、立ち上がって白衣を脱いだ。 「時間ですので、これで失礼します」彼女は自分のバッグを手に取った。すでに帰る準備は整っているようだった。 卓海は封筒を受け取ろうとはせず、ただ顔を上げ、彼女を鋭く射抜くように見つめた。 「待て」 杏奈の足が止まった。 彼女は振り返り、不可解そうに彼を見た。「藤堂さん、私の勤務時間はもう終了しています」 「待て、と言っている」卓海はゆっくりと立ち上がった。長身から放たれる強烈な圧迫感を伴い、一歩、また一歩と彼女に詰め寄る。 診察室のドアが、彼の手によって乱暴に閉められ、さらには鍵までかけられた。 狭い室内が一瞬で一触即発の空気に満ちる。 杏奈は眉をひそめた。理不尽な患者はこれまで幾度となく相手にしてきたが、卓海のように、強烈なオーラを放ちながら不可解な行動を取る人間は初めてだった。 彼女は腕を組み、落ち着き払った様子で彼を見つめる。その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。「藤堂さん、どういうおつもりですか? 医師を不法に監禁するなど……その結果がどうなるか、分かっていますか?」 「結果?」卓海は冷笑を浮かべ、彼女の前へと歩み寄り、見下ろした。「俺の病気を見つけたのは、お前だ」 「だから何です?」 杏奈は臆することなく、彼と視線を合わせる。 「だからだ」 卓海の声は極めて低く、一言一言に力が込められていた。まるで、最後通告を下すかのように。「始めた者が、最後まで責任を持て。俺の治療は――お前が担当しろ」 杏奈は、あまりの身勝手さに、呆れ果てて、逆に笑い出しそうになった。 医師になって長いが、これほどまでに傲慢で身勝手な要求を耳にしたのは初めてだ。 「藤堂さん、改めて申し上げますが、ここは病院です。あなたの会社ではありませんし、まして私はあなたの部下でもありません」 彼女は容赦なく言葉を返した。「私は診察を行い、報告書を作成しました。私の職務はすでに完了しています。 その後の治療は、より専門的な柳沢先生が引き継ぐ。それが最善の策です。 ……さあ、ドアを開けてください。私は帰ります」 「言ったはずだ。お前が責任を持て」卓海は頑なに繰り返し、彼女の言葉にはまったく耳を貸さない。 自分の運命を他人に決められることも、自分の弱みや欠点を、二人目、三人目の人間に握られることも、彼には到底受け入れられなかったのだ。 目の前のこの女は癪に障るが、少なくとも秘密を知っているのは、今のところ彼女一人だけだ。 「篠崎先生」 卓海の口調が冷え込み、脅しめいた響きを帯びる。「考え直すことを勧める。藤堂グループが第一総合病院の筆頭株主であることは知っているだろう? お前に治療を任せるも、明日からここに来なくさせるも、俺にとっては電話一本の話だ」 露骨なまでの脅迫だった。 並の若い医師であれば、この職を失う恐怖に、膝を震わせていたに違いない。 しかし杏奈は、ただ静かに彼を数秒見つめると、バッグをデスクに置き、再びデスクの縁にもたれかかった。 彼女は腕を組み、すべてを支配できると信じ込んでいるこの男を、見上げる。 「藤堂卓海さん」 彼女は彼の名をフルネームで呼び、落ち着いた口調で言った。「一つ、権力で人をねじ伏せようとするのは幼稚だ。 二つ、私は医師にしてこの病院の客員教授だ。 私を失うことこそ、病院にとっての損失でしょう……」 彼女は言葉を切り、わずかにこわばった彼の端正な顔に視線を走らせる。 そして、淡々と事実を告げた。「それに、今はあなたが私を必要としているのであって、私があなたを必要としているわけではありません。 人にものを頼むなら、それ相応の態度というものがあるでしょう」 卓海は呆然とした。 (教授……?) 彼は目の前の、あまりにも若すぎる顔を見つめた。一瞬、その肩書と彼女を結びつけることができなかったのだ。 そして、彼女の放った「人にものを頼むなら、それ相応の態度があるはずだ」という言葉。まるで鋭いビンタのように、彼の頬を叩きつけた。 この藤堂卓海が、これまでの人生で、誰かに頭を下げたことなどあっただろうか。 だが、反論はできなかった。 彼女の言うことは事実だからだ。 今、病を患い、絶対的な守秘義務を果たせる有能な医師を必要としているのは、他でもない彼自身なのだ。 目の前のこの女は、今の彼にとって、唯一にして、最善の選択肢だった。