郊外の廃倉庫。 「きゃあああっ!」佐藤怜子は恐怖に顔を歪め、悲痛な絶叫を上げた。瞬く間に涙が溢れ出し、その体は風前の灯火のように震えている。「お兄ちゃん!修!助けて!」 「怜子!」 「怜子を解放しろ。佐藤結衣なら好きにしていい!」 長男の佐藤智也は青筋を立てて拳を握りしめ、殺意すら孕んだ鋭い視線を向けていた。 「怜子の髪の毛1本でも傷つけてみろ、ただじゃおかないぞ!」 次男の佐藤智樹は眼鏡の奥で冷たい怒りの炎を燃やし、普段の冷静さを完全に失っていた。 「条件はなんでも呑む!怜子さえ解放してくれれば、あの厄介者の佐藤結衣はどうなろうと構わない」 三男の佐藤智仁に至っては目を血走らせ、今にも飛びかからんばかりの勢いだった。 柱に縛り付けられた佐藤結衣はそっと目を閉じ、声を殺して涙を流した。 自分が佐藤家でどれほど取るに足らない存在かは、とうに思い知っていた。それでも、3人の兄からこうもあっさりと見捨てられる言葉を直接聞かされると、息が止まりそうなほど胸が痛んだ。 その口調は、まるでゴミでも処分するかのように冷酷だった。 ――だけど、本当の妹は私なのに! やっとの思いで巡り会えた、本当の家族なのに! 結衣と怜子が同時に誘拐され、身代金引き渡しの際、犯人から「どちらか1人しか助けられない」と突きつけられた結果。彼らは一切の躊躇なく、養女である怜子を選んだのだ。 「哀れだな。お前のお兄さんたち、お前のことなんてこれっぽっちも気にかけてないみたいだぜ」 犯人は怜子を解放すると、不意に結衣の顎を掴んで嘲笑った。 「お姉ちゃんを放して!」怜子は弱々しく叫んだが、その目に一瞬、勝ち誇ったような光がよぎったのを結衣は見逃さなかった。 最後に、結衣は婚約者である加藤修へと唯一の望みを託した。 少し離れた場所に立つ彼は、相変わらず非の打ち所がないほど整った顔立ちで、身なりも完璧に整えられていた。 「修……」結衣は涙を浮かべ、喉の奥から絞り出すようにその名を呼んだ。 すがるような視線を向け、彼だけは助けてくれるはずだと祈った。 だが直後、残酷なまでに冷ややかな声が響き渡った。「佐藤家がそう決断したのなら、俺も彼らの意志を尊重する。俺も怜子を選ぶ」 その言葉は刃となって、結衣の心臓を容赦なく抉った。 (痛い) (これが、3年間も想い続けた男の正体?) 血も涙もない、冷酷な男。 唇が震え、声すらまともに発せられない。 かつては底なしに優しかったあの顔を、今はただ赤の他人のように冷え切った表情の彼を、結衣はただ見つめ返すことしかできなかった。 (彼を助けるため、私はかつて命すら落としかけたというのに) (それなのに、今は……) (ああ、笑える) 修は結衣に目もくれず、すべての意識を怜子に向け、彼女を縛っていた縄を丁寧に解いていた。 裏切られたことよりも、自分がずっと騙されていた事実が何より苦しかった。 (滑稽だ) (あまりにもバカバカしい!) 縄を解かれた怜子の周りには、3人の兄と修がぴったりと寄り添い、こぞって気遣いの言葉をかけている。
誰1人として結衣を振り返る者はいない。まるで忘れ去られたゴミのようだった。 結衣はただ、怜子が佐藤家の面々に宝物のように扱われながら連れ出されていくのを黙って見送るしかなかった。 目を閉じると、一筋の涙が頬を伝って落ちた。 再び目を開けたとき、待ち受けていたのは下劣な笑みを浮かべ、じりじりと距離を詰めてくる男たちの醜悪な姿だった。 「可哀想になァ。あいつらに捨てられた分、俺たちがたっぷり可愛がってやるよ。それにしても、あの佐藤家が偽物の令嬢を守るために、本物の長女を見捨てるとは誰も思わねえよな?」 「教えてやろう。今回の誘拐はな、お前を消すためにあの女が金を出して仕組んだ計画なんだよ、お嬢ちゃん」 「おいお前ら、慌てるな。1人ずつ順番だ……全員で楽しもうぜ」 結衣の瞳孔が急激に収縮し、抑えきれない怒りが津波のように全身を駆け巡った。 「触るな!」必死に抵抗したものの、強烈な平手打ちを食らい、視界がぐらりと揺れた。 「威勢がいいじゃねえか」リーダー格の顔に傷のある男が、下品な笑い声を上げながら彼女の胸元を引き裂いた。「そういう強気な女、嫌いじゃねえぜ――」 結衣の背中は冷たい壁に張り付き、もはや逃げ場はなかった。喉はとうに枯れ果てている。じわじわと迫り来る男たちを前に、拘束されて身動き一つ取れない彼女は、深い絶望の淵に突き落とされた。 結衣はガバッと顔を上げ、すべてを終わらせようと、そのまま勢いよく壁に向かって頭を打ち付けようとした。 その瞬間、突如として――。 「パンッ!」 耳を劈くような銃声が、倉庫の静寂を切り裂いた。 男たちは顔面蒼白になり、パニックに陥りながら銃声の方向へと一斉に視線を向けた。 見れば、10数人の黒服の男たちが倉庫になだれ込んできている。一糸乱れぬ動きで2列に整列する彼らが放つ圧倒的な殺気が、瞬く間に空間全体を支配した。 その中心を割って、長身で引き締まった体躯の男がゆっくりと歩みを進めてくる。 差し込む光が、男のシャープな顎のラインと底知れない深淵のような瞳を浮き彫りにした。その身から立ち上る凄まじい威圧感と冷徹なオーラは、ただそこにいるだけで背筋を凍らせる。 男の手に握られた洗練されたデザインの拳銃からは、まだ薄く硝煙が立ち昇っていた。 男は低く響く魅力的な声で言い放った。「死にたくなければ、今すぐ手を止めろ」その声には、一切の反論を許さない絶対的な冷酷さが宿っていた。 久我蓮司は裏切り者を追跡してこの場所までやってきたのだが、まさかこんな三文芝居のような場面に遭遇するとは思ってもみなかった。 本来なら他人の厄介事などに関わるつもりは毛頭なかった。裏社会の抗争や身代金目的の誘拐など、このスラムのような廃墟街では日常茶飯事にすぎない。 しかし、興味を失って背を向けようとしたその刹那、視界の端に映った女の横顔――青白く、それでいて強い無念を滲ませたその表情に、なぜか胸を刺すような強い既視感を覚えたのだ。 だから彼は、引き金を引いた。
誘拐犯たちは久我蓮司を見るなり、恐怖でガタガタ震え出し、慌てて土下座して命乞いをした。「久我様、俺たちの目が節穴でした!どうか見逃してください!」 目の前にいる男は、あの泣く子も黙る「生ける閻魔」こと久我蓮司なのだ! 巨大な裏社会の勢力を牛耳り、表と裏の両方の世界に顔が利く。その手口は冷酷無比で、彼らのような底辺のクズが絶対に手を出してはいけない存在だった。 ーーなんて運が悪いんだ。よりによってこんな場所で、この”死神”に出くわすなんて! 蓮司は彼らに一瞥すらくれなかった。まっすぐ佐藤結衣のもとへ歩み寄り、彼女を縛っていたロープを解く。しかし次の瞬間、女は鬼のような速さで動いた。落ちていたナイフを瞬時に拾い上げたのだ。 冷たい刃の光が煌めく。 「ブスッ!」 ナイフは、先ほど彼女を襲おうとしていた誘拐犯の喉元に、寸分の狂いもなく突き刺さった。 鮮血が吹き出す。 残りの誘拐犯たちは全員、恐怖で腰を抜かした。 「お、お前……一体何者なんだ!?」 結衣は口角を上げ、残酷で妖艶な冷笑を浮かべて言い放った。「あんたたちを地獄へ送る者よ」 狭い倉庫の中に、悲鳴、命乞い、そして骨の折れる音が絶え間なく響き渡る。 結衣はリーダー格の顔に傷のある男の前に歩み寄った。 男はまだ息があり、最も恐ろしい悪魔を見るような目で彼女を怯えながら見つめていた。 「言え。 佐藤怜子にいくらもらったの?企みは何だ? 彼女の声は、氷のように冷え切っていた。 顔に傷のある男は恐怖で失禁しながら、途切れ途切れにすべてを白状した。 「怜子お嬢様だ……俺たちに1億円払って……あんたたちを誘拐しろって…… 佐藤家は絶対に自分を選ぶと踏んで……その後であんたを…… なぶり殺しにしてから処分しろって……」 結衣の瞳に宿る冷ややかな光がさらに増した。 (よくもやってくれたわね、佐藤怜子!) (これが、ずっと渇望していた「家族」の正体!) (これが、3年間愛し続けた婚約者の正体!) (見てなさい。この佐藤結衣は、元々好き好んでやられっぱなしの人間じゃない) 家族の愛情に飢えていたからこそ、何度も何度も我慢し、佐藤家の人間から要求されることは、できる限りすべて応えてきた。 ――けれど、結局彼らの心を温めることはできず、奴らは私の限界を何度も踏みにじった。 でも、今回はもう情けはかけない。 佐藤家の連中は馬鹿の集まりだ。本当の血縁者を捨てて、偽令嬢である怜子をもてはやしている。 だから、もう見限った! 結衣が一喝した。「失せな!2度と私の前に顔を見せないで!」 数人の誘拐犯は慌てふためいて逃げ出し、あっという間に姿を消した。 (面白い女だ。) 蓮司はこれまで、こんな女に出会ったことがなかった。ただの可哀想な小娘だと思っていたのに、まさかこれほど強いとは。