「結衣、今日あんたは妹の代わりに婚約しなきゃいけないのよ。 今すぐ田舎から戻ってきなさい。 夏川家の恥を晒すんじゃないわよ!」 夏結衣は、母親からの電話を無造作に切った。 三歳の時に誘拐され、先月ようやく実の両親と再会できたというのに、彼らの末娘の身代わりとして嫁ぐことを要求されたのだ。 その時、「パンッ」という音が響いた。 結衣は、それが銃声だとすぐに分かった。 薬学の専門書を鞄にしまい、路地を離れようと背を向けた。 その瞬間、正面から男がぶつかってきた。 男は銀色の仮面をつけ、その隙間から鋭くシャープな顎のラインが覗いていた。 さらに下には高価なスーツの上着が見えたが、そこには大きな血の染みが広がっており、明らかに負傷している様子だった。 「動くな……」 長谷川京介の声は、掠れていて危険な響きを帯びていた。 彼はそう言うと手を上げようとしたが、結衣の顔を見た途端、その動きを止めて呆然とした。 視線が交錯する。 女は琥珀色の瞳を持ち、唇は鮮やかな赤に染まっていた。 顔には広範囲にわたる火傷の痕があったが、彼の目には、それが驚くほど生き生きと映った。 何しろ、彼の世界は十年以上も白黒で、一切の色が見えなかったのだ。 それが今、まるで虹を見たかのような感覚に襲われた。 同じ頃、黒服の男たちが迫ってきていた。 「追え!あいつは怪我をしている。 遠くへは行けないはずだ!」 路地は一瞬にして静まり返り、二人の呼吸音だけが響いた。 結衣は目を細めた。 男たちの首筋には燕の刺青がある。 悪名高い殺し屋たちだ。 「私は何も見ていない」 彼女がそう言い終えるか終えないかのうちに、男は強引に身を乗り出し、彼女を自分の体と壁の間に閉じ込めた。 「助けてくれ。 報酬は好きなだけ提示していい」 京介は彼女と視線を合わせた。 世界は相変わらず白黒なのに、この女を見つめる時だけ、その色は虹よりも鮮やかに輝く。 一体、彼女は何者なのだろうか。 同じ頃、路地の外から足音が近づいてくる。 結衣は目を細めた。 「ちっ、面倒なことになった」 彼女はそう言うと、男の襟首を掴み、もう片方の手のひらを彼の胸に当てた。 そして、声を甘くして囁く。 「ねえ、ダーリン。 こんなところを人に見られたらまずいんじゃない?」 頭上から吊るされた白い布が二人の姿を隠し、まるで恋人同士が耳元で囁き合っているかのように見えた。 黒服の男たちの足音が明らかに一瞬止まったが、すぐに再びこちらへ迫ってきた。 次の瞬間、彼女の腰が男の腕に抱き寄せられた。 その力は強く、二人の距離は一気に縮まる。 「何を怖がることがある? 俺たちはわざわざこんな田舎まで来てライブ配信してるんだ。 誰かに見られたって、 むしろ話題になるだけだろ……」 京介の呼吸が、わずかに荒くなった。 距離が近すぎて、結衣から漂う青草の香りが鼻をくすぐる。 そして、彼女の瞳の色さえもはっきりと見えた。 身をかがめる男と、顔を上げる女。 白い布に隠された二人は、まるで熱烈な恋人同士のように見えた。 黒服の男たちは一瞬で不快感を覚え、ライブ配信などされたくないと悪態をつきながら、別の方向へ追跡を続けた。 危機が去り、結衣は安堵の息をついた。 「報酬は4000万円」 薄い布越しに、男の掌が荒々しく、そして熱を帯びて広いことをはっきりと感じた。 彼の体格は、確かに素晴らしい。 結衣の視線からは、シャツのボタンがいくつか外れ、筋肉の隆起した胸板が見えた。 仮面をつけていても、その広い肩幅と引き締まった腰つきからは、男の色気が溢れ出ている。 「いいだろう。 連絡先を交換しよう」 京介は彼女から目を離さなかった。 「今すぐ振り込む」 彼は、彼女の身に宿る色を貪るように見つめていた。 しかし、視線が交錯した瞬間、結衣は本能的に危険を感じた。 特に、男の目は獣のようで、まるで彼女を食い尽くそうとしているかのようだ。 ドクン、ドクン、ドクン。 心臓が異常な速さで鼓動している。 「こっちに連絡して……」結衣は彼を押し返し、予備のアカウントを素早く取り出した。 今の感覚は、きっと気のせいだ。 この顔はひどく醜く偽装してあり、親友でさえ火傷で顔が崩れたのと変わらないと言っていた。 彼がそこまで奇抜な趣味をしているはずがない。 すぐに、訓練された大勢のボディガードが駆けつけてきた。 「ボス、申し訳ありません。 遅れました。 殺し屋たちは全員始末しました……」 先頭の男はそう言い終えると、京介の隣に女がいるのを見て呆然とし、すぐに警戒態勢に入った。 「ボス、この女は仲間ですか?どう処理しますか?」 彼らは、か弱い女を装った殺し屋を数多く見てきたが、これほど醜い女は初めてだった。 結衣は「……」と絶句した。 (口封じに殺すつもりか?) (なるほど、だからあの男は4000万円を何の躊躇もなく振り込んだのか) 彼女は舌打ちし、叱りつけるふりをした。 「私は長谷川京介の婚約者よ。 長谷川家は絶大な権力を持っている。 私に手を出そうというなら、その結果をよく考えなさい!」 婚約者? 黒服の男たちは顔を見合わせ、やがて爆笑した。 ボスがこんな醜い女と結婚するはずがない。 「笑わせるな。 あんた、俺たちのボスが誰だか知ってて……」
第2章 身代わりの花嫁結果、彼らが言い終わる前に遮られた。 「黙れ」 長谷川京介は無表情に一瞥した。 「夏川さんは俺の命の恩人だ。 彼女に謝れ」 この言葉が出た瞬間、全員が冷や汗をかいた。 「ドン」という音と共に、 全員が半跪きになった。 「夏川さん、申し訳ありませんでした。 俺たちの目が節穴でした!」 彼らはボスがなぜ身分を隠しているのか知らなかったが、この女性がボスを救ったのなら、恩人であることに変わりはない! 結衣は珍しくしばらく沈黙した。 「いいわ。 どうせ、もらうべき報酬はもうもらったし。 用が済んだなら、これで失礼する」 しかし、彼女は背が高くすらりとした男に阻まれた。 京介が肩幅広く、長い脚で彼女の前に立ちはだかる。 「ありがとう。 さっきは勇敢だった」 京介の今日の婚約相手は、陸田家から行方不明になっていた長女、夏川結衣だった。 彼女は顔に火傷を負っており、先月、実家に戻ったばかりだという。 しかし、家ではいじめられ、今も養父母の姓を名乗っているらしい。 しかも、噂では臆病で小心者、ただの役立たずだとされていた。 だが、目の前の彼女に、役立たずの影は微塵もなかった。 「夏川さん、すぐにまた会うことになる」 彼の声は磁気を帯び、どこか含みがあった。 結衣は驚かなかった。 自分が京介の婚約者だと明かしたのだから、目の前の男が察しても当然だ。 「察しがいいわね。 でも、二度と会わない方がいい」 彼女はそう言うと腕を組んだ。 「忠告しておくわ。 腕時計を調べた方がいい」 結衣はそれだけ言うと、さっさと立ち去った。 これ以上時間を潰すわけにはいかない。 婚約式に急いで戻らなければならないのだ。 他の者たちは、荒唐無稽な話だと思った。 「ボス、その腕時計はご隠居様からの贈り物です。 それに、以前調べた時も問題ありませんでした」 京介は眉をひそめた。 結衣が冗談を言っているようには思えなかった。 彼は思い切って、ナイフで腕時計をこじ開けた。 「カチッ」という音がした。 ケースの中に、白い粉末が忍ばせてあったのだ! 京介の表情が冷え込む。 「誰か、病院に持って行って鑑定させろ」 黒服の男たちは皆、呆然とした。 この腕時計は以前、彼らが念入りに調べたはずだ。 何の問題もなかったのに。 「ボス、本当にどういうことか分かりません!」 彼らは皆、専門的な訓練を受けている。 それなのに、粉末の存在に気づかなかった。 あの女は一体どうやってやったというのか? 京介は無表情に言った。 「自ら罰を受けろ」 全員が跪いた。 「はっ!」 京介が我に返った時、結衣の姿はすでになく、まるで最初から存在しなかったかのようだった。 …… 一時間後、結衣は婚約式のホテルに到着した。 ロビーで、母の陸田恵子が珍しく彼女の手を引いた。 「知夏、この前急に田舎に戻ったから、ママはあなたが拗ねているんだと思って。 だから電話では、ちょっときつい口調になっちゃったの」 陸田家と長谷川家は、京介が幼い頃に婚約を交わしていた。 上流社会において、長谷川家は人脈、財力、地位のどれをとっても、まさにトップクラスの名家である! しかし、噂の京介は、醜い顔をした放蕩息子で、彼の手に落ちて消えていった女性は数知れず、その姿を見た者もごくわずかだという! 彼女が、可愛がっている末娘・知夏奈緒をそんな男に嫁がせられるはずがない。 だからこそ、行方不明になっていた長女を呼び戻したのだ。 「そうよ、お姉ちゃん。 ママはやっぱりお姉ちゃんのことを気にかけているの」 奈緒が怯えたように前に出て、目を赤くして言った。 「だから、元々の婚約をお姉ちゃんに返してくれたんだから」 結衣は冷笑し、自分の手を引き抜いた。 奈緒の将来の幸福と陸田家の発展に関わっていなければ、彼らは一生、自分の存在など思い出しもしなかっただろう! 彼女はもう、この偽善者たちと表面的な付き合いをする気はなかった。 ホテルの従業員に向かって、声を張り上げた。 「誰か、そちらの周大社長に、少し早めに顔を出せないか聞いてきて。 体調が悪いから」 養父母が亡くなる前、彼女は長谷川家からバイオチップを見つけ出すよう言いつけられていた。 まさか先月、実家に戻ったその日に、陸田家が自分を京介との婚約に差し出すとは! いずれにせよ、これでチャンスが巡ってきたではないか。 恵子は驚愕した。 この娘は本当に躾がなっていない!しかし、彼女が反応するより早く、すでに使用人が長谷川荘園へと急いでいた。 「若様、結衣さんが少し早めに顔を出してほしいと……」 男は端正な顔立ちで、鴉の羽のように長いまつ毛を持ち、混血のような鋭い造作をしていた。 「すぐに行くと伝えろ」 使用人は頭を下げた。 「はっ!」 すぐに書斎は再び静寂に包まれた。 隣にいた赤毛の男があくびをした。 「おい、京介。 どうやらお前の醜い嫁は、随分と生意気な口を利くようだな!」 立花葵生は言いながら、どこか腑に落ちない様子だった。 「午前中、 お前は追われていたんだろ。 まさか命の恩人を間違えたんじゃないか? 結衣は臆病でいじめられやすいって噂だぜ」 京介の表情は変わらなかった。 「分からない。 だが、あの女は俺に色を見せてくれた唯一の存在だ。 地の果てまで掘り起こしてでも見つけ出す」 葵生は舌打ちを二度した。 「午前中、出血多量で幻覚でも見たんだろ。 医者も、お前の目は相変わらずだって言ってたぜ」 京介も、夢でも見たのではないかと疑った。 今、彼に見えている世界は、依然として白黒だった。 しかし、病院の報告書に偽りはない。 あの粉末は慢性毒薬だ。 つまり、あの女は彼を二度も救ってくれたのだ! 彼はまぶたを上げ、薄い唇を開いた。 「彼女かどうか、すぐに分かる!」
宴会場で、夏川結衣は午前中に会った仮面の男のことを考えていた。 どうにも胸騒ぎがして、落ち着かない。 その時、入り口の方でざわめきが起こり、誰かが低い声で叫んだ。 「見て、長谷川社長が本当に来たわ!」 それまで騒がしかった宴会場は一瞬で静まり返り、人々は自然と道を開けた。 結衣も顔を上げてそちらを見た。 長谷川京介がゆっくりと歩いてくる。 黒いシャツは体にぴったりと沿い、袖はたくし上げられて、しなやかな筋肉のラインが浮かぶ腕が露わになっていた。 その姿は、どこか気だるげで、それでいて圧倒的な存在感を放っていた。 噂では醜い男だと聞いていたが、その顔立ちは硬質で整っていた。 深く彫られた目元の下には、高く通った鼻筋が伸び、顎のラインも鋭く美しい。 「信じられない、長谷川社長ってこんなに若くてハンサムだったの?」 「メディアの取材は一切受けないし、公の場にもほとんど姿を見せないから、まさかこんなスターみたいな顔だったなんて!」 「すごくかっこいいけど、性格が悪いって噂よね……」 「シーッ、静かにして、この長谷川社長が、どれだけ冷酷非情な手口で人を痛めつけるか、忘れたの?」 誰もが思わず身震いした。 結衣もまた、呆然と立ち尽くしていた。 彼のその瞳は、どうしてこんなに見覚えがあるのだろう? ほんの一瞬、彼女と京介の視線が交錯した。 奇妙だ。 目が合った瞬間、結衣は男の体が微かにこわばり、驚きと戸惑いの表情を浮かべたことに気づいた。 まさか、自分のこの顔に衝撃を受けたのだろうか? やはり、この醜いメイクの効果は絶大だ! しかし、京介の心の中では、すでに嵐が吹き荒れていた。 「葵生、彼女だ」 彼は結衣をじっと見つめ、改めて確認した。 午前中に自分を助けてくれた女性は、幻ではなかったのだ! 交通事故以来、京介の世界は白黒に染まっていた。 医者は心的外傷だと言ったが、彼はどうしても回復できず、この死んだような灰色の世界に慣れきっていた。 だが、結衣は、不可能だった奇跡を何度も起こしてくれたのだ! 立花葵生は呆然とした。 「本当か?」 「本当だ、彼女の体の色が見える」 京介の心に、まるでひびが入ったように、言葉が漏れた。 「たくさんだ」 結衣を中心として、鮮やかで明るい色彩が噴水のように湧き上がっているのが見えた。 彼女が手にしているワイングラスは美しい金色で、結衣が身につけている黒いドレスでさえ、彼の目には繊細な光沢を放っているように映った…… 世界全体は依然として灰色だが、彼女だけが、その全身からまばゆいばかりの色彩を放っていた! 「本当か?」 葵生はすぐに真剣な表情になった。 「待ってろ、すぐに調べさせる」 これは数えきれないほどの名医が治療できなかった難題だ。 まさか奇跡が起こるとは! 葵生はそこまで考えて、眉をひそめた。 「それで、婚約はするつもりか?」 京介の視線は、依然として結衣に釘付けだった。 その声は落ち着いていて、力強かった。 「当然だ」 「それに、この結婚は、必ずする!」 葵生は幻聴かと思った。 たとえこの醜い女が彼に色を見せることができたとしても、結婚までする必要はないだろう? 京介はどうかしてしまったのか?その時、陸田恵子が前に出てきて、愛想よく言った。 「長谷川さん、うちの息子と主人が、あなたがこんなに早くお見えになるとは思っていなくて、すぐに参りますから!」 恵子はそう言うと、すぐに結衣を前に押し出した。 「まずは知夏を見てやってください、 あなたたちが小さい頃に会ったことがあるでしょう、 本来、 縁談の相手はこの子だったのですが、 この子が迷子になってしまって、 今、 無事に見つかったのですから、 この縁談は当然、 この子が引き継ぐべきで……」 恵子は、たった数言で身代わり結婚をごまかそうとした。 しかし、そばにいた陸田奈緒は顔を赤らめていた。 (なんてこと!) (京介が、こんなにハンサムだったなんて!) (今となっては、結衣というあの醜い女に彼を譲ったことを、少し後悔している!)