骨壷は,まだ微かに温かかった. 東京湾を見下ろす火葬場の休憩室.松島沙耶香は,娘の小さな骨が収められた白い箱を,胸に抱きしめていた.指先が白くなるほど力を込めても,その重みはあまりに軽く,心に空いた穴を埋めるにはほど遠い. "ママ..." 消え入りそうな最期の声が,耳の奥で何度も再生される. ふと顔を上げると,壁掛けテレビが目に入った.音声は消されているが,帝国ホテルで開かれている世紀の結婚式の生中継が,無神経に映し出されている.画面を埋め尽くす純白の百合の花が,沙耶香の目を刺した. 新郎は,川辺潤雄.沙耶香の元夫であり,娘・果穂の父親. そして,彼の手を取り,聖母のように慈悲深い微笑みを浮かべているのが,三国凛々紗. その笑顔を見るたび,果穂が苦しんだ最後の夜の,甲高い悲鳴が頭蓋骨の中で反響する. ブブッ,とポケットのスマートフォンが震えた.川辺家の法務部から届いた,冷たい事務的な文面だった. "川辺果穂様の生命保険金に関しまして,同封の"相続権放棄同意書"に三日以内にご署名いただけない場合,我々は果穂様の生前の保護責任について,松島様に対し厳格な法的措置を検討せざるを得ません" "今後の葬儀等へのご出席は,固くお断り申し上げます" 指が震え,画面を滑る.潤雄の連絡先を探し出し,ためらいなく削除ボタンを押した.ガラスの表面をなぞる指先が,まるで刃の上を滑っているかのように痛んだ. 沙耶香は,ふらりと立ち上がった.骨壷を抱きしめ直すと,音もなく休憩室を出る. 外は,冷たい雨が降っていた. 東京湾から吹き付ける風が,薄い喪服を通して体温を奪っていく.傘をさす気力もなかった. その時,一台の黒い加長リンカーンが,猛スピードで隣を走り抜けた.跳ね上げられた泥水が,喪服の裾を汚す. 一瞬,後部座席の窓に,見慣れた男の横顔が映った気がした.潤雄. 遠ざかっていくテールランプの赤い光が,雨の中で滲んでいく.それを見つめる沙耶香の瞳から,最後の光が消えた.残ったのは,底なしの暗い憎しみだけ. 気づけば,沙耶香は湾岸道路のガードレールに足をかけていた.体を裂かんばかりの強風が吹き荒れ,足元では黒く渦巻く波が牙を剥いている. 脳裏に,これまでの人生の記憶が走馬灯のように駆け巡る. 凛々紗の"身代わり"として,潤雄のそばに置かれた屈辱の日々. 川辺家の援助金にすがり,沙耶香に媚びへつらうことを強要した養母の姿. そして,病室のベッドで,たった一人で死の恐怖と戦い続けた,最愛の娘,果穂の絶望的な瞳. "あはは..." 乾いた笑い声が,唇から漏れた. "もし,来世があるのなら..." 沙耶香は,虚空に向かって毒を吐くように誓った. "川辺も,三国も...必ず,この手で血の代償を払わせてやる" 力が,抜けた. ガードレールを握っていた指が,一本,また一本と離れていく. 体が,暗い虚空へと投げ出される.冷たい海水が,一瞬で全身を包み込んだ.息ができない.肺に流れ込んでくる水が,内側から体を焼き尽くすような激痛を走らせる. 意識が,ゆっくりと剥離していく. 果てしない,暗闇へ――. "...っ,はぁっ!" 突然,空気を求めるように,沙耶香は激しく息を吸い込んだ. 全身が冷たい汗で濡れている.心臓が,肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく鼓動していた. カツン,カツン. 耳に届いたのは,粉筆が黒板を叩く,乾いた音. 窓の外では,陰鬱な雨ではなく,満開の桜が風に舞っていた. 黒板の右上には,チョークで"平成XX年"と書かれている. 沙耶香の瞳孔が,急速に収縮した. ここは.... "...なんか臭くない?この人,昨日お風呂入ってないんじゃないの" 隣の席の女子生徒が,鼻をつまみながら,あからさまに距離を取った. その時,教壇に立つ担任の山田が,黒縁メガネを押し上げながら口を開いた. "――以上,先日学院内で起きた暴力事件についての,処分を発表する" 教室のドアが開き,校長に付き添われて,一人の女子生徒が入ってくる.川辺理子.潤雄の妹だ.彼女は,勝ち誇ったように胸を張り,講壇の横に立った. "関係した生徒たちだが,各家庭からの多大なる貢献を鑑み,退学処分は見送る.口頭での厳重注意とする" 山田の言葉に,教室の後方でくすくすという笑い声が漏れる. "しかし"と,山田は声のトーンを変えた."この騒動を誘発した松島沙耶香については,特進クラスにふさわしくないと判断し,本日付で普通クラスへの降級処分とする" その瞬間,教室は露骨な嘲笑の渦に包まれた.それはまるで,無数の鋭いナイフとなって,沙耶香の全身に突き刺さるかのようだった. だが,沙耶香は俯かなかった. そっと,自分の両手を見つめる. ペンだこも,切り傷もない,若々しく,滑らかな手. ――本当に,戻ってきたんだ. 冷たい光が,沙耶香の瞳の奥で揺らめいた. "松島,聞こえているのか.今すぐ荷物をまとめて,特進クラスから出て行け" 山田が,苛立たしげに言った. 沙耶香は,泣きもせず,騒ぎもせず,ただ静かに教科書を閉じた.その動作は,驚くほど冷静で,無駄がなかった. 教科書を鞄に詰め,席を立つ. そして,理子の隣を通り過ぎる瞬間,ぴたりと足を止めた. 理子は"命乞いでもする気?"とでも言いたげに,冷たく鼻を鳴らした. 沙耶香は,ゆっくりと顔を上げた.その目は,理子を,まるで感情のない物体,あるいは死体でも見るかのように,冷ややかに見つめていた. "...っ" その底知れない瞳に射抜かれ,理子は思わず一歩後ずさった. 沙耶香は,もはや理子に何の関心もないというように,再び前を向いて歩き出す. がらり,と教室のドアを開ける. 廊下に差し込む太陽の光が,目に痛い. 沙耶香は,心の中で,復讐の誓いを新たにした. まずは,この屈辱的な階級から抜け出すこと. それが,復讐の第一歩だ.
普通クラスの教室は,特進クラスの静寂とは対照的に,ざわめきと無遠慮な好奇心で満ちていた. 松島沙耶香は,そんな視線を気にも留めず,一番後ろの空いていた席に静かに腰を下ろした.教科書を開き,ページをめくる.だが,その目は文字を追ってはいなかった. 前世の今頃.自分は,潤雄に気に入られようと,必死で貴族のマナーや教養を詰め込んでいた.今思えば,滑稽な道化でしかない. 放課のベルが鳴ると,教室は一気に騒がしくなった.アルバイトに急ぐ者,部活に向かう者.特進クラスの生徒たちが,迎えの高級車に乗り込んでいく光景とは,まるで別世界だ. 沙耶香は鞄を肩にかけ,校門へと向かった. 案の定,見慣れた黒塗りの高級車が,これみよがしに停まっている. 運転手の鈴木が,恭しく後部座席のドアを開け,沙耶香に乗り込むよう促した. "あれ,特進クラスから落ちたのに,まだお迎え付き?" "さすが,運転手の娘は違うわね" 周囲から,ひそひそと嘲る声が聞こえる. 沙耶香は,車を一瞥もせず,鈴木に言った. "結構です.電車で帰りますので" "しかし,沙耶香お嬢様.これは潤雄若様のご命令で..." 鈴木が困惑した表情を浮かべる. 沙耶香は,彼の言葉を無視し,駅へと続く道に足を向けた.背後で鈴木が呼び止める声がしたが,振り返らなかった. 車は,しばらくゆっくりと後を追ってきたが,沙耶香が駅前の雑踏に紛れ込むと,諦めたように走り去っていった. 川辺家の広大な屋敷に戻ると,沙耶香は玄関で靴を脱いだ. "...こちらを" 無表情なメイドが差し出したのは,使い古されて少し薄汚れた来客用のスリッパだった.この家に住む家族が使う,揃いのふかふかしたものではない. 沙耶香は,黙ってそのスリッパに履き替えた. 自分の部屋がある離れに向かう途中,豪華なリビングから媚びたような笑い声が聞こえてきた. 養母の文江が,畳に膝をつき,ソファに座る潤雄にお茶を運んでいる.その姿は,あまりにも卑屈だった. "...触るな" 潤雄が,冷たい声で茶碗を押しやった.その瞳には,あからさまな嫌悪が浮かんでいる. "申し訳ございません,若様!大切な書類に触れるつもりは..." 慌てて後ずさる文江.その時,潤雄の視線が,リビングの入り口に立つ沙耶香を捉えた. 彼の目が,すっと細められる.温度が,一気に数度下がった. "沙耶香!あんた,どうして若様のお迎えを断ったの!?川辺家の顔に泥を塗る気!?" 文江が,沙耶香の存在に気づき,甲高い声で責め立てた. "私には,分不相応な特権ですから" 沙耶香は,淡々と答えた. その声は,潤雄にも届いていた.彼は,鼻で笑った. "...また新しい手のつもりか.安っぽい駆け引きはよせ" 沙耶香は,潤雄の嘲笑を完全に無視し,くるりと背を向けて自分の部屋へと歩き出した. "...っ" 完全に無視されたことに,潤雄は眉をひそめた.胸の内に,今まで感じたことのない種類の苛立ちが,じりじりと広がっていく.彼は,手元にあった茶碗を,無意識のうちに強く握りしめていた. 狭く,安物の家具が並ぶ離れの部屋. ここが,前世の沙耶香が,屈辱に耐えながら過ごした"鳥かご"だ. 沙耶香は,ドアに鍵をかけると,机に向かった. ノートの最初のページに,二つの単語を書き出す. "復讐" "脱離" そして,前世で彼女を縛り付けた"媚びる"という言葉を,ペン先で力強く塗りつぶし,その横に"拒絶"と書き加えた. スマートフォンを取り出し,潤雄の電話番号,メッセージアプリ,すべての連絡先をためらいなくブロックしていく. 画面に映る自分の顔は,決意に満ちていた. あの卑屈で,愚かだった松島沙耶香は,東京湾の冷たい水底で,もう死んだのだ. ドアの外から,文江のヒステリックな罵声が聞こえてくる."あの子のせいで私の立場がなくなる"と. 沙耶香は,イヤホンを耳に突っ込み,外の世界を遮断した. そして,新しいノートを開き,この支配から完全に逃れるための,最初の計画を書き始めた. ――東大に合格する. それが,この家と,川辺という財閥から自由になるための,唯一の道だった.
翌朝,けたたましいアラームの音で,沙耶香は目を覚ました. 手早く身支度を整え,クローゼットからコンビニの制服を取り出す.今日から,早朝シフトのアルバイトだ. 部屋のドアを開けた瞬間,待ち構えていた文江に,強く髪を掴まれた. "痛っ...!" "これに着替えなさい!" 文江が,高価なシルクのドレスを,沙耶香の顔に叩きつける.それは,海外の有名デザイナーが手がけた,一点物のオートクチュールドレスだった. "今夜,潤雄若様が海外の財閥との晩餐会に出席される.あんたも,お供しなさい" "お断りします" 沙耶香は,顔に押し付けられたドレスを払い除け,冷たく言い放った.ドレスは,音もなく床に滑り落ちる. "なっ...!あんた,これがどういう意味かわかってるの!?行かないなら,もう養子縁組は解消よ!あんたなんか,うちの子じゃない!" "ええ,それで結構です" 沙耶香は,ためらいなく答えた. そのあまりにあっけない返事に,文江は一瞬,言葉を失った.そして,次の瞬間,わっと泣き崩れ,沙耶香の足にすがりついた. "お願い,沙耶香!行っておくれ!あんたが若様に気に入られなきゃ,私たちの生活はどうなるの!援助金が打ち切られたら,私たちは路頭に迷うのよ!" みっともなく泣きじゃくる養母.その時,階段を降りてくる革靴の音がした. "...朝から騒がしい" 完璧に仕立てられたスーツを着こなした潤雄が,冷ややかな視線で二人を見下ろしていた. 文江の泣き声を聞いても,彼の表情は変わらない.ただ,沙耶香の姿を値踏みするように,じろりと見た. "川辺の晩餐会に,部外者を連れて行く必要はない" "部外者". その二文字が,鋭い刃のように沙耶香の心に突き刺さった.だが,痛みと同時に,ある種の解放感が全身を駆け巡った. そう,私は部外者.それでいい. 沙耶香は,ゆっくりと顔を上げた. "おっしゃる通りです.私は,部外者ですから" 潤雄の言葉を,素直に肯定する. その意外な反応に,潤雄は一瞬,言葉に詰まった.もっと取り乱すか,反発してくると思っていた.彼の胸に,またあの奇妙な苛立ちが湧き上がる. "...後悔するなよ" 吐き捨てるように言うと,潤雄は特助の林を伴って,足早に玄関へと向かった. 文江は,その場にへたり込み,"この恩知らずが"と沙耶香を呪うように呟いた. 沙耶香は,その声に背を向け,履き古したスニーカーに足を通した. コンビニの冷たい白熱灯の下,沙耶香は黙々と商品の補充をしていた. "松島さん,特進クラスから落ちたって聞いたけど,バイト続けて大丈夫なのか?" 店長が,心配そうに声をかけてくる. "生活費が必要なので" 沙耶香は,静かに微笑んだ. その時,店のドアが開き,見慣れた制服の男子生徒が入ってきた.コーヒーを買いに来た,同級生の結城文也だった. 彼は,レジカウンターに立つ沙耶香の姿を見て,驚いたように目を見開いた. 沙耶香は,動揺も,羞恥も見せず,淡々と会計をこなす. "...頑張れよ" 文也は,去り際に,ぽつりとそう呟いた. 深夜,アルバイトを終えた沙耶香は,一人,暗い夜道を歩いていた. 豪華なホテルの前を通りかかると,見覚えのある潤雄の車列が吸い込まれていくのが見えた.だが,沙耶香の心は,何の波も立たなかった. 川辺家に戻ると,リビングには薄暗い明かりだけが灯っていた. 玄関で靴を脱いだ瞬間,かかとに鋭い痛みが走った. "...っ" スニーカーを脱ぐと,新しい靴に擦れたかかとが,赤く皮がむけ,血が滲んでいた. 沙耶香は,歯を食いしばって痛みに耐えた. 薄暗い明かりの下,一人で傷の手当てをする.その瞳は,暗闇の中で獲物を狙う,狼のように鋭く光っていた.