私を殺した元夫を足蹴にし、彼の宿敵と極上の蜜月を。
第1章 生まれ変わり、結婚相手の選定日に戻る

瀬戸綾乃は、誘拐犯に一発で頭を撃ち抜かれて命を落とした。 再び目を開けたとき、母の声が聞こえた。 「綾乃、知意、二人ともこちらへいらっしゃい」 彼女の全身がこわばった。 その言葉を、彼女は痛いほどよく覚えていた。 綾乃ははっと顔を上げ、リビングの光景をはっきりと捉えた。 母がソファに座っており、その前のローテーブルには二通の個人資料が置かれている。 異母妹の瀬戸知意が隣に立っていた。白いワンピースをまとい、やせ細った体つきをしている。綾乃の記憶にある、後に優雅でふっくらとした貴婦人の姿とはまったく違っていた。 彼女は、自分が生まれ変わったのだと悟った。 ちょうど一年前の、あの日に戻ってきたのだ。 今日こそ、父が姉妹二人に結婚相手を選ばせる日だった。 今の知意は、まだ西園寺夫人にはなっていない。 そして、自分もまだ九条湊と結婚していない! 「綾乃?」 母が眉をひそめ、促した。「何をぼんやりしているの? 早くこちらへいらっしゃい」 綾乃は努めて平静を装い、母の前に歩み寄った。 ローテーブルの上に、二通の資料が広げられているのが見えた。 左側は西園寺慎。 彼は西園寺家の当主であり、合法・非合法の世界の両方で絶大な影響力を持つ。表も裏も牛耳り、傲慢不遜、その手口は冷酷非情。 写真の男は冷たい表情を浮かべ、唇を固く結び、その眼差しには背筋が凍るような冷酷さが宿っていた。 右側は九条湊。 彼は九条家の次男で、穏やかで上品な雰囲気を持つ。しかし、幼い頃から病弱で、長年車椅子での生活を余儀なくされていた。 写真の男は微笑みを浮かべ、その眼差しは弥生の春の水のように優しかった。 「綾乃、あなたが先に選びなさい」 目の前の二通の資料を見つめる。 綾乃の心には、ただ皮肉な感情だけが込み上げてきた。 前世でも、状況はまったく同じだった。母は先に、自分に選ばせたのだ。 知意は、父と愛人の間に生まれた娘だ。 長年、彼女はこの家でシンデレラのような扱いを受けてきた。 父は母に負い目を感じていることもあり、また知意自身が我慢強い態度を崩さなかったため、何かにつけて良い話は、甘やかされて育った綾乃のほうに優先的に回ってきたのだ。 結婚相手を選ぶという重大なことでさえ、自分が先に決めることになっていた。 母は、自分が慎と結婚し、この街で最も権力のある男の妻になることを望んでいた。 しかし前世の自分は、生まれつき体が不自由な湊を頑なに選んだのだ。 前世の彼女は長きにわたり、彼のリハビリに寄り添い、名医を求めて奔走した。 瀬戸家から与えられた持参金のほとんどを使い果たし、真冬の雪のなか、薬を求めて土下座までした。 瀬戸家の愛娘である自分が、湊のために、自らの尊厳を完全に捨て去ったのだ。 その後、湊の足は奇跡的に完治した。 当時、江ノ島市中の人々が二人を羨み、理想の夫婦だと称賛した。 綾乃自身も、それを深く信じて疑わなかった。 湊は当時、彼女の手を握り、約束した。「綾乃、君を絶対に裏切らない」 そして、彼女は信じた。 その後、九条家は経営危機に陥り、資金繰りが破綻し、破産寸前となった。 湊は車椅子に座り、青ざめた顔で彼女に言った。「綾乃、今、九条家を救えるのは西園寺慎だけ」 湊のために、彼女はすべての自尊心を捨て、いつも見下していた知意の前にひざまずき、慎に口添えしてくれるよう懇願した。 しかしその後、彼女と知意は一緒に慎の敵に誘拐された。 誘拐犯は彼女の頭に銃を突きつけ、二人のうちどちらが慎の妻なのかと問い詰めた。 命が惜しかった知意は、一歩先に口を開き、綾乃が慎の妻だと嘘をついた。 足が完治した湊が現場に駆けつけたとき、綾乃は安堵のため息をついた。 彼は必ず自分の身分を明らかにしてくれると信じていた。 胸を躍らせ、期待に瞳を輝かせて、彼女は湊の名を叫んだ。 しかし、彼女が聞いたのは、湊が誘拐犯に言った言葉だった。「彼女は慎の妻じゃない。隣の女だ」 湊が指差した「隣の女」とは知意のことだった。 湊が知意を助けに駆け寄る際、彼は罪悪感に満ちた口調で綾乃に囁いた。「綾乃、ごめんね。あなたはすべてを持っている。でも、知意には……僕しかいないんだ」 たった一言の「ごめんね」が、 彼女のすべての献身を、その一言で葬り去った。 死の瞬間まで、綾乃はついに理解した。 知意こそが、湊が心の底から深く愛していた人だったのだ。 「絶対に裏切らない」という誓い? 綾乃の人生は、最初から最後まで、とんでもない茶番だったのだ。 「綾乃?」 母の声が、彼女を苦痛な記憶から引き戻した。 「どちらにするか、決めたの?」 綾乃は顔を上げた。 知意が彼女を見つめ、怯えた口調で言った。 「お姉ちゃんが先に選んで。 私は急がないから」 前世でも、知意はそう言った。 そこで綾乃は湊を選び、知意は当然のように慎を選んだ。 後に綾乃は、知意が最初から慎を狙っていたことを知った。 彼女は事前に綾乃の前で慎の悪口を散々言い、 それから綾乃に先に選ばせるふりをして、 正々堂々と自分の望む男を手に入れたのだ。 綾乃は知意の哀れっぽい顔を見つめ、心の中で冷笑した。 前世の記憶がなければ、知意が純粋で無害な少女だと本当に信じてしまったかもしれない。 彼女は手を伸ばし、左側の慎の資料に手を置いた。 「彼を選ぶわ」 リビングは一瞬にして静まり返った。 知意の笑顔も凍りついた。 母も呆然とし、尋ねた。「綾乃?本気なの?」 昨夜、母娘で語り合ったとき、綾乃は泣きわめいて湊と結婚すると言い張っていたはずだ。 どうして今日になって突然、慎を選んだのだろうか? 「本気よ」 綾乃は落ち着いた口調で再び確認した。「慎を選ぶわ」 知意の顔は驚きに引きつり、無理やり笑顔を作って尋ねた。「お姉ちゃん、どうして急に気が変わったの? この前は九条家の次男はとても良い人だって言ってたじゃない……」 「前は前よ」 綾乃は冷たく知意の言葉を遮った。「湊はあんなに体が弱い。病人のお世話をするために嫁ぐなんて、まっぴらごめんよ」 「でもお姉ちゃん、これは一生の幸せに関わる結婚の大事よ。衝動的に決めないで」 「衝動的じゃないわ」 綾乃は立ち上がり、知意を見下ろして言った。「知意は人のお世話をするのが好きだったでしょう? 湊は体が弱くて、お世話が必要だわ。あなたにぴったりよ」 知意の顔色は瞬時に青ざめた。「お姉ちゃん、あなた……」 「どうしたの?」 綾乃は眉を上げた。「嫌なの? それとも、本当は彼のお世話なんてしたくなくて、私に彼を選ばせて、自分は当然のように別の選択肢を手に入れたかっただけ?」 あまりにも直接的な言葉に、知意の顔から血の気が引いた。 「そんなこと……」 知意の目はすぐに赤くなり、ひどく傷ついたように見えた。 「お姉ちゃん、どうしてそんな風に私を思うの?私はただ、お姉ちゃんのことを心配して……」 「もういいわ」 母が苛立たしげに彼女の言葉を遮った。「綾乃が決めたのなら、それで決まりよ。知意、あなたの相手は湊よ」 「でも……」 綾乃は眉を上げ、問い返した。 「でも何?湊はとても良い人じゃない。知意は喜ぶべきよ」 知意の体はこわばった。 湊が良い人? 江ノ島市中で、彼が体の不自由な人間だと知らない者がいるだろうか? 彼は九条家で顧みられず、体も弱く、いつ倒れてもおかしくない。 彼と結婚すれば、そう遠くない未来に未亡人になるかもしれない。 それに比べて、慎は江ノ島市で最も権力のある人物であり、その影響力は絶大で、ほとんど何でも思いのままだ。 綾乃は以前、あんなに湊が好きだったのに、どうして突然気が変わって慎を選んだのだろうか? しかし、こうなってしまっては、もう変えられない。 知意は唇を噛みしめた。 (大丈夫。 最も権力のある慎と結婚できなかったとしても、少なくとも湊は私のことが好きなんだから) (一歩譲って、湊と結婚しさえすれば、私は九条家の次男の夫人だ。将来の生活は、慎と結婚した綾乃よりもきっと良いものになる!) (結局のところ、慎は江ノ島市で最も権力のある人物だが、 慎は江ノ島市で最も権力のある人物だが、その性格も最悪だ) (業界では、あの男は血に塗れた手を持つ、笑顔で人を絶望の淵に追いやる危険人物だという噂だ) (もし彼が誰かを始末しようとすれば、その人物は自分がどうやって死んだのかさえ分からないだろう) 綾乃は知意の表情を見て、彼女が何を企んでいるのかをはっきりと理解した。 彼女は心の中で冷笑した。 知意は湊と結婚すれば良い生活が送れるとでも思っているのだろうか? 本当に甘い。 湊と結婚することは、彼女の人生をより深い絶望に陥れるだけだ!

第2章 たった一枚の合成写真

クラブ・ルミエールの個室。 室内には煙が立ち込めていた。 松浪健斗はソファにもたれて、足を組みながら、テーブルの上にある菓子を無造作に口に運んでいた。 「なあ慎、本気か?あの瀬戸綾乃を嫁にするなんて」 慎は革張りのソファに深く身を沈め、指の間に煙草を挟んでいた。 健斗は言葉を続けた。「俺が調べたところじゃ、瀬戸家のそのお嬢様は、甘やかされて育ったわがまま娘で、一筋縄じゃいかない相手だぜ。少し前も、あの病弱でひ弱な九条湊のために人と揉めて、街中が大騒ぎになったばかりだ」 「それに比べりゃ、妹の方がまだマシだろ」 健斗は菓子を頬張りながら、面白そうに続けた。「私生児だけど、素直で大人しいし、顔だって悪くない。嫁に迎えりゃ、手もかからず楽だろうよ」 「手がかからない?」 慎は無表情のまま、冷淡に言い放った。「手のかからない女など、退屈なだけだ」 「おっと、なるほど。お前はそういう手強いタイプがお好みってわけか!」 慎はテーブルの灰皿で煙草を押し消した。「この女だ。瀬戸綾乃を妻にする」 「でも、江ノ島市じゃ誰もが知ってるぜ。彼女が惚れてるのは九条湊だって。人の女を嫁にするなんて、お前の面子に関わるんじゃないか」 「結婚はする。だが、どんな形で迎えるかは俺が決める」 その言葉に、健斗は瞬時に身構えた。「……何をするつもりだ?」 「無茶はやめろよ!瀬戸家は由緒ある名家だ。あのお嬢様は箱入り娘なんだぞ!そんな相手に乱暴な真似をするなんて、外道のすることだぞ!」 慎は立ち上がると、まっすぐ出口へと向かった。 健斗はその後ろから叫び続けた。「悪巧みする時は俺を呼べよ!聞いてんのか? 慎!」 瀬戸家の二人の娘が婚約したという知らせは、瞬く間に江ノ島市中に知れ渡った。 三日後、婚姻届の受理通知と、一枚の写真を受け取った。 そこに貼られた写真には、彼女と慎が並んで座っていた。彼女の笑みはどこか引き攣り、彼は無表情だった。 だが問題は、慎がその場に一度も姿を見せていないことだった。 西園寺家が寄越した人間が彼女の単独写真を撮り、それを持ち帰って合成写真を作り上げた。そして、役所に圧力をかけて代理人の押印だけで受理させ、強引に手続きを済ませてしまったのだ。 全過程、わずか二時間足らずの出来事だった。 綾乃はその薄い紙片と写真を握りしめ、あからさまに合成の痕跡が残る写真を見つめた。 前世で知意が西園寺慎と結婚した時は、西園寺家は三日間にわたって祝宴を開き、江ノ島市の有力者の半分が駆けつけたはずだ。 知意は高級オートクチュールのウェディングドレスを身に纏い、慎に手を引かれてバージンロードを歩いた。その姿は、この上なく華やかだった。 それが自分となると、たった一枚の合成写真と一枚の紙切れ 。 しかし、綾乃はその理由を理解していた。 今や江ノ島市中の誰もが、彼女が湊に心酔していることを知っている。それが西園寺家の面子を潰していたのだ。 慎が彼女をこのような扱いをするのは、まずは強く出て、牽制しておく必要があったのだ。 では、知意に対しては? 知意は身分の低い私生児だった。慎が彼女のために盛大な結婚式を挙げたのは、彼女の社会的地位を引き上げるためだ。 この界隈の人間が、二度と西園寺夫人の過去について口を挟めないように釘を刺したのである。 結局のところ、それもすべては西園寺家の体裁のためだった。 つまり、そこには愛など微塵もなく、すべては利益に基づいた計算に過ぎない。 綾乃もまた、慎が自分をどう扱おうと全く気にしていなかった。 彼女が慎を選んだ理由。 それは、西園寺家の権力を利用するためだ。 一方、知意の方も、状況はさほど良くなかった。 湊は体調が優れず、役所へ出向くことすらままならなかった。そのため、同様に形ばかりのものとして済まされていた。 そして、新婚初夜。 綾乃はスーツケースを手に、西園寺邸の門前に立っていた。 外では、小雨がしとしとと降り続いている。 だが、西園寺家の重厚な門扉は固く閉ざされたままだった。 祝いの飾りもなければ、祝賀の気配も一切ない。 賓客をもてなす宴席さえもなかった。 波風を立てぬよう内々に済ませるという名目で、西園寺家からはただ「こちらへ移るように」との通達があっただけだった。 門前に立った執事が、無表情に問いかけてきた。「瀬戸様でいらっしゃいますか?」 「慎に会いに来たわ」 「旦那様は、お会いにならないとおっしゃっております」 綾乃は眉を上げた。「会わない? じゃあ、私はどこに泊まればいいの?」 執事は傘を差し出した。「旦那様のご意向としては、まず瀬戸家にお戻りくださいとのことです。旦那様がお会いになりたいとお考えになった時、改めてお迎えに上がらせます」 綾乃は傘を受け取ったが、その場を動こうとはしなかった。 彼女は執事を見つめ、不意に笑みを浮かべた。「西園寺家の方々は、私を呼んでおきながら今度は帰れと言うの?私を馬鹿にしているのかしら」 執事は依然として見下したような口調で言った。高圧的な態度で答えた。「瀬戸様、西園寺社長にそのような意図はございません」 綾乃は傘を彼の手に押し戻した。「行って、私の言葉をそのまま彼に伝えなさい。この瀬戸綾乃、今日は何が何でもこの門をくぐらせてもらうわよ、ってね」 「旦那様は、瀬戸様がお帰りにならないのであれば、門の前でお待ちいただいても構わないが、決して会うことはないとおっしゃっております」 執事の言葉を聞き、綾乃は静かに頷いた。 (いいわ、やってやろうじゃない!) どのみち、西園寺慎が一筋縄ではいかない男だということは百も承知だ。 (門をくぐらせない?) 彼女にはいくらでも方法がある。 綾乃はまっすぐ西園寺家の門へ歩み寄ると、おもむろにハイヒールを脱ぎ捨て、巨大な鉄の門を登り始めた。 その光景を目の当たりにした執事は、驚きのあまり顎が外れんばかりだった。 けたたましく鳴り響く警報機。 だが、綾乃は全く気にも留めなかった。 駆けつけた警備員たちも、綾乃の姿を見た途端、一様に言葉を失った。 制止すべきか、否か。 彼らは判断に迷い、立ち尽くすしかなかった。 瀬戸家の令嬢といえば、蝶よ花よと育てられた深窓の淑女ではなかったのか。 それがいったいどうして、門をよじ登るなどという真似をしているのか。 「瀬戸様!」 「私は西園寺家の夫人よ。これが私と西園寺社長の婚姻届受理証明書。自分の家に入るのを、誰が止められるっていうの?」 綾乃は周囲を鋭く見渡した。 警備員たちは誰一人として動くことができない。 それを見た綾乃は、ハイヒールをぶら下げたまま、悠々と邸内へと歩を進めた。 西園寺邸は非常に広大だった。 リビングには明かりが灯っていたが、人影はない。 彼女はリビングの中央に立ち、周囲を見回すと、迷わず二階へと向かった。 階段に足をかけたその時、頭上から声が降ってきた。 「止まれ」 その声は、骨の髄まで凍てつかせるほど冷淡だった。 綾乃は顔を上げた。 そこには、二階の手すりに寄りかかる慎の姿があった。 彼は黒いシルクのガウンを羽織り、襟元ははだけ、髪はまだ濡れていた。 慎は傲然と彼女を見下ろしている。眉をひそめ、瞳にはどこか不可解な色が宿っていた。 「誰が上がっていいと言った?」 「私が、私自身に許可を出したのよ」 綾乃はスーツケースを脇に置くと、彼を真っ向から見上げた。「ねえ、私たちは籍を入れたのよ。新婚初夜だってのに、私をどこで寝かせるつもり?」 慎は目を細めた。 その時、執事と数人の警備員が駆け込んできた。 執事は慌てて報告した。「大変申し訳ございません、旦那様!奥様が……奥様が門を登って入られ、我々では……止めることができませんでした」 (門を登った?) 慎の視線が、生足も露わな綾乃の足元に注がれた。 白いワンピースを着てはいるが、裾は短く、ハイヒールは泥だらけだ。 その脚も、泥だらけだ。 その姿は、名家の令嬢とは程遠いものだった。 慎は彼女の前まで来ると、足を止めた。彼が軽く手を振ると、一階にいた執事と警備員たちは一斉にその場から離れて行った。 慎は彼女との距離を、ほとんど感じさせないほどに縮めていた。 彼から漂う微かな酒の香りと、煙草の匂いが鼻をくすぐるほどに。 彼は彼女を見下ろし、不意に笑みを浮かべた。 その笑みは、背筋が凍りつくほどに冷ややかだった。 「綾乃」 低い声が響いた。「婚姻届を出したからといって、西園寺家の女主人になったとでも思っているのか?」 綾乃は一歩も引かない。 真っ向から彼の視線を受け止め、一言ずつ言い切った。「ええ、籍を入れた以上、私は西園寺夫人よ」 慎は眉を上げた。 「いいだろう」 彼は手にしていたグラスを脇に置いた。「では教えてくれ。西園寺夫人が迎える最初の夜は、どこで眠るべきだと思う?」 綾乃は彼を見つめ返し、ふっと微笑んだ。 彼女は踵を返し、リビングのソファまで歩み寄ると、そこに腰を下ろした。 「ここよ」 慎は一瞬、呆気にとられた。 綾乃はソファに身を預け、汚れたハイヒールをそのままゴミ箱へと放り込んだ。「あなたが二階に上がらせないと言うのなら、ここで寝るわ。どのみち私は西園寺夫人なんだから。どこで寝ようと、その事実に変わらないもの」

第3章 西園寺夫人と認められるまで

リビングに、数秒の静寂が流れた。 慎は彼女を見つめていた。その瞳には、真意の読み取れない感情がわずかに浮かんでいる。 彼女は名家の令嬢として蝶よ花よと育てられてきた。これまで、不当な扱いを受けたことなど一度もなかっただろう。その上、彼は結婚式も挙げず、ウェディングフォトの撮影にすら現れなかった。新婚初日に、彼女を門前払いしたのである。 だが、綾乃は泣き喚くことも、取り乱して暴れることも、瀬戸家に泣きつくこともしなかった。 ただソファに腰を下ろし、ここから絶対に動くもんかという居直りを見せていた。 (この女、少し面白い) 綾乃は彼を見上げた。「西園寺さん、あなたが私を好きじゃないのは分かってる。でも、籍を入れた以上、私たちは運命を共にするしかないの。認めないと言うなら、ここで待たせてもらうわ。――いつまででも」 「何を認めろと?」 「私が西園寺夫人であることを、よ」 慎は彼女を見つめ、ふっと不敵に笑った。 「いいだろう」 「では、好きなだけ待てばいい」 彼は言い放つと、踵を返し、二階へと上がっていった。 リビングに一人残された綾乃は、ゆっくりと口元に笑みを浮かべた。 彼女はただ待っているわけではない。 これは、これは賭けだった 前世でこの男を知り尽くした彼女には分かっていた。 強硬な手段も、穏やかな懇願も、彼には通用しない。興味を持つのは、ただ「面白い」だけが彼を動かす。 少しでも面白いと思わせることさえできれば、慎は必ず目を向ける。 目を向けてさえくれれば、必ずチャンスは巡ってくる。 二階。慎は寝室のドアを開けた。 ベッドに寝そべってスマホをいじっていた健斗は、慎が入ってくるのを見ると、すぐに飛び起きた。 「どうだった?あの厄介な女、大騒ぎしなかったか?」 慎は答えず、ベッド脇のソファに腰を下ろすと、黙ってウィスキーをグラスに注いだ。 健斗が身を乗り出す。「泣いたか?実家に泣きついたりしなかったか?」 「どちらもしていない」 「じゃあ、今何をしてるんだ?」 慎は酒を一口飲み、答えた。「ソファに座っている」 「座ってる?」 「ああ」 「座って、何をしてるんだ?」 慎の口元がわずかに吊り上がった。「俺が、彼女を西園寺夫人だと認めるのを待っているそうだ」 翌朝早く。 綾乃はソファで一晩を明かした。 西園寺家のリビングは広々としており、ソファも柔らかかったが、それでもベッドの快適さには及ばない。 目を覚ました時、首筋に少しこりを感じた 綾乃は身を起こし、首を揉みながら、ふとテーブルに目をやると、ホットミルクとサンドイッチが置かれていることに気づいた。 彼女は一瞬、呆然とした。 執事は少し離れた場所に立っていたが、彼女が目を覚ましたのに気づくと歩み寄ってきた。その態度は、昨夜とは打って変わって恭しかった。「奥様、こちらは旦那様のご指示でご用意した朝食でございます」 綾乃は意外そうに眉を上げた。「彼が?」 「はい」 綾乃はミルクを手に取り、一口含んだ。ちょうどいい温かさだった。 彼女は微笑み、それ以上は何も言わなかった。 二階。慎は書斎の窓辺に立ち、階下の庭で掃除をする使用人たちの姿を眺めていた。 健斗がドアを開けて入ってくると、彼の隣に並んで階下を覗き込んだ。「おや、本当にまだいるのか? てっきり、あの気の強いお嬢様が見せた態度は、昨晩限りのポーズだと思ってたんだけどな」 慎は何も答えない。 健斗は構わず続けた。「しかし、彼女もよく我慢できるな。他の令嬢なら、新婚初夜にソファなんかで寝かされたら、とっくに泣きながら実家に帰ってるだろうよ」 慎は振り返り、デスクの前に座って言った。「彼女は我慢しているわけじゃない」 「じゃあ、何だ?」 「賢いのさ」 「どこが賢いんだ!」 慎はそれ以上答えず、手元のファイルを開いた。 そこに綴られていたのは、綾乃の個人資料だった。 慎の言う通り、綾乃は確かに賢かった。 泣き喚いたり、家族に泣きついたりしても無駄だと分かっているからこそ、別の道を選んだのだ。 朝食を終えた綾乃は、スーツケースを手に二階へと上がった。 執事は止めようとしたが、その勇気もなく、ただ彼女の後ろについて歩きながら声をかけた。「奥様、旦那様の書斎は二階の東側にございます。どうぞ、お間違えのないよう……」 「私の部屋はどこ?」 執事は少し躊躇し、廊下の突き当たりにある扉を指差した。「こちらが旦那様の寝室でございます。その隣の部屋は客間となっております」 それを聞くと、綾乃は迷わず客間のドアを開けた。 部屋には必要なものが揃っていたが、明らかに長い間使われていないようだった。 彼女はスーツケースを横に倒して広げると、まるで自分の家であるかのように、迷いのない手つきでクローゼットに服を掛け始めた。 執事は入り口に立ち、何か言いたげな様子で彼女を見つめていた。 綾乃は振り返りもせず声をかけた。「言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいわ」 「奥様、旦那様は……少々気性の激しいお方でございます。何かお困りのことがあれば、まず私にご相談いただけますと」 綾乃は向き直り、執事を真っ直ぐに見据えた。「じゃあ聞くけど、彼は私を西園寺夫人だと認めてくれるのかしら?」 執事は途端に言葉を失った。 「あなたには答えられない。だから、あなたに聞いても意味がないのよ」 執事は言葉を詰まらせ、黙り込むしかなかった。 綾乃は再び服の整理に戻り、淡々と言葉を継いだ。「心配しないで。彼を怒らせるつもりはないわ。私はここに住んで、普通に食事をして、普通に眠るだけ。彼が私の存在がないものとするなら、私も彼が存在しないものとする」 昼時になり、綾乃は食事のために階下へ降りた。 広々としたダイニングルームには彼女一人しかいなかったが、テーブルには豪華な料理が所狭しと並べられていた。 食事を終えると、彼女は部屋に戻って昼寝をした。 午後は庭を散策し、庭師と少し言葉を交わし、どのエリアにどんなバラが植えられてるかを教えてもらった。 夕食の時間になっても、慎が姿を見せることはなかった。 綾乃もあえて彼の行方を問うことはせず、食事を済ませると、自室へ戻った。 翌日も、同じだった。 三日目も、やはり変わらない。 そして四日目、先に痺れを切らしたのは健斗の方だった。 「くそっ!もう限界だ!お前の家に四日もいるのに、面白いことなんて何一つ起きないじゃないか!毎日、あのお嬢様が庭で悠々と鳥に餌をやってるのを見てるだけだ!」 慎は眉間を揉んだ。 彼もまた、綾乃がこれほど我慢強いとは予想していなかった。 この数日間、彼女は一度として自分を訪ねてこなかったのだ。 「執事に、彼女をここへ呼ぶよう伝えろ」 これ以上、無意味な時間を費やすわけにはいかない。 さもなければ、健斗が本当にここに半月も居座ることになりかねない。 その頃、綾乃は庭師から鳥の扱いを教わっていた。そこへ執事が慌ててやって来て、彼女に言った。「奥様、旦那様が書斎へお越しになるようお呼びでございます」 綾乃は顔を上げて尋ねた。「今?」 「はい」 「分かったわ」 綾乃は鳥かごを置き、スカートの埃を払うと、執事に従って屋敷の中へと歩き出した。 二階の書斎のドアの前まで来ると、執事が軽くノックした。 「入れ」 執事が扉を開け、脇に寄って綾乃を中へと促した。 書斎は広く、床まで届く大きな窓の前にデスクが置かれていた。 慎はデスクに向かい、万年筆を走らせて淡々と書類を処理していた。 綾乃は入り口に立ったまま、動こうとはしなかった。 慎は顔を上げることなく命じた。「こちらへ」 綾乃は歩み寄り、慎の正面に立った。 彼はペンを置くと、ようやく顔を上げて彼女を見た。 今日の彼女は淡いブルーのワンピースを纏い、髪は飾らずに下ろしていた。顔には化粧がなく、驚くほど清らかだった。 数日見ないうちに、少し痩せたように見えた。 「住み心地はどうだ?」 綾乃は頷いた。「悪くないわ」 「泣かないのか?」 「ええ」 「騒がないのか?」 「ええ」 慎は椅子の背にもたれかかり、彼女を見つめて尋ねた。「今、世間で君がどう言われているか知っているか?」 綾乃は静かに首を横に振った。「知らないわ」 「瀬戸家の令嬢が新婚初夜に西園寺家から追い出され、門をくぐらせてもらえず、リビングのソファで夜を明かした挙句、翌日になっても恥を晒して居座り続けている――とな」 それを聞いても、綾乃はただふっと笑っただけだった。「そう」 「『そう』?それだけか?」 「ほかに、何と言えばいいのかしら?」 綾乃は彼を真っ直ぐに見つめた。「もし私がそんなに他人の目を気にする人間だったら、最初からあなたと結婚なんて選ばなかったわ」 慎は数秒間、射抜くような視線を彼女に注いでいたが、やがてふっと笑みを漏らした。 彼は立ち上がり、デスクを回り込んで彼女の目の前まで歩み寄った。 自分より遥かに背の高い彼に見下ろされ、綾乃は言いようのない圧迫感に包まれる。 (さすがは、この街で最も権力を持つ男。表裏両社会を支配する「生きる閻魔」と呼ばれる男ね) 「瀬戸綾乃、君は一体何をしたいんだ?」 綾乃は顔を上げ、その視線を真っ向から受け止めた。「私は、西園寺夫人になりたいだけよ」

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