大統領の妻をやめたら、マフィアのドンがパパでした。
第1章 長谷川彰、離婚しましょう

葬儀の参列者を見送ったのは、すでに夜の十時を回っていた。 藤堂柚は重い足取りで家に戻り、玄関に置かれた一足の靴に目を留めた。 七日間も連絡が取れなかった夫が、帰ってきたのだ。 母はあまりにも突然、逝ってしまった。わずか三日の間に、柚は長谷川彰に百回以上も電話をかけた。しかし、一切の返事はなかった。 病院から葬儀場、そして葬儀のすべてを、親族や友人の支えがなければ、きっと一人では立ち尽くすことさえできなかっただろう。 今もなお、柚の身体には葬儀場の線香の匂いが染みついていた。それは、室内に満ちる冷たいモミの木の香りと、どうしようもなく調和しなかった。 疲れ果てた表情でバッグを靴箱の上に置き、スリッパに履き替えて奥へと進んだ。 リビングでは、男が窓辺に寄りかかって電話をしていた。 彰は廊下から、じっと彼女を見つめていた。低く響く声の端々に、淡い笑みが浮かんでいる。 柚の口元に苦い笑みが浮かんだ。携帯電話は繋がったのだ。てっきり失くしたのかと思っていた。 疲労は限界を超えていた。言葉を紡ぐ気力も、連絡が途絶えた理由を問う気力も、もうどこにもなかった。 もう、どうでもいい。 彼と結婚したのは、たまたま彰の祖父を助けたことがきっかけだった。それに、当時危篤だった母のために、大統領である彼の医療資源にすがるより他に道がなかった。 今はもう、母はいない。彼の持つあらゆるものが、自分にとっては意味を失っていた。 この、形ばかりの結婚生活も、三年で幕を下ろす。 今はただ、二階に上がってシャワーを浴び、ぐっすりと眠りたい。 階段を上り始め、三段目に足をかけた時、背後から声が聞こえた。 「どこへ行ってたんだ。こんなに遅くなって」 その口調には、非難の色が滲んでいた。 柚はもともとおとなしい性格で、友人づき合いも好まず、仕事が終わればまっすぐ家に帰り、夫と台所のために尽くす毎日だった。 母が入院していた時でさえ、彰が大統領官邸から戻る前に、すべての家事を完璧にこなしていた。 玄関にはきちんと揃えられたスリッパ。クローゼットにはアイロンの効いたシャツ。そして毎晩九時前には、書斎に香が焚かれ、淹れたての紅茶が用意されていた。 そのすべては、母の命を繋ぎ止めるためだった。だが、結果はどうだ? 適合するはずだった心臓は、急遽、柏木詩織に移植された。 母はその心臓を八ヶ月もの間、待ち続けていた。病状は常に刻一刻と悪化していた。それなのに彰は、自分に一言の相談もなく、詩織を選んだのだ。 柚は足を止め、何も言わなかった。 背後から足音が近づき、長身の影が彼女を追い越して、階段の前に立ち塞がった。 「詩織の手術は順調だった。しばらくは、あらゆる手を使ってお前の母親に合う心臓を見つけてやる」 柚は両手の指先をわずかに握りしめた。眉間の悲痛な表情は影に隠れ、声には何の感情も感じられなかった。「もう、いいわ」 彰は眉をひそめた。彼女が電話のことで拗ねているだけだと思ったのだ。 彼は、いかにも根気よく説明した。「あの時、詩織が心臓発作で危篤状態になった。緊急の移植が必要で、あの心臓が最も適合していた……」 彼が「詩織」と呼ぶ女──それは彰の初恋の相手であり、十年もの間、彼の心の奥底に秘められた「かつての恋人」だった。 その理由は、実に──都合が良すぎる。 もし自分がいなければ、詩織はとっくに彼の隣に立ち、公の「ファーストレディ」になっていたはずだ。自分のようには──三年もの間、隠された結婚生活を強いられ、結婚式も指輪もなく、世間にすら存在を知られていない、そんな影のような存在ではなかっただろう。 「……わかった」 柚は力なく答え、彼を避けて階段を上ろうとした。 男は彼女の行く手を阻み、その両肩を抱き寄せた。「ほら、仕事を片付けてすぐに駆けつけてきたんだ」 駆けつけてきた、と。 柚は、からかうように言った。「じゃあ、お礼を言えばいいの?」 (すべての政務を投げ出して詩織に七日間も付き添った男が、今さら「駆けつけた」と? それに感謝しろだって?) 彼女の様子に、彰は苛立ちをあらわにした。「今日はどうした。嫌味ばかり言って。もう説明しただろう。何に拗ねているんだ?」 (拗ねている……だと?) 柚は、ふと笑いたくなった。 母が亡くなって三日、葬儀を終え、参列者を見送った。これほどの大事だというのに、彼は何も知らなかった。 しかも、母が入院していたのは皇室病院だ。 隠された結婚とはいえ、彼が知らなくても、毎日彼の仕事を処理している秘書はどうなんだ? おそらく、秘書でさえ、自分のことは彰に知らせる必要はないと考えていたのだろう。 柚は顔を上げ、目の前の男の顔を見つめた。突然、すべてが無意味に思えた。 彼女の唇がわずかに動き、風のようにかすかな声がこぼれた。「彰、離婚しましょう」 この、夫のいないも同然の結婚には、もううんざりだった。毎日、ただ男のために尽くす日々に、心がすり減っていた。 彼に気に入られようと取り繕う、そんな自分が嫌悪の対象だった。 彰は一瞬呆然とし、その言葉の意味を処理しているようだった。氷のように冷たい瞳が、彼女を値踏みするように見つめた。「俺が電話に出なかったからか?」 柚は目を伏せ、瞳に残っていた最後の光を隠した。「ええ、あなたが電話に出なかったからよ」 これ以上話しても無駄だ。言い争う気力もなかった。 彼女は男を押し退け、一人で階段を上り始めた。 「柚、俺と別れてどうやって生きていくつもりだ。母親の高額な医療費、払えるのか?」 階段の踊り場で、女は足を止めた。 彰は両手をポケットに突っ込み、目を細め、重い口調で言った。「今日の言葉は聞かなかったことにする、早く休め」 階段は暗かったが、柚は彼の瞳に宿るある感情を、容易に見て取ることができた。 軽蔑。 上に立つ者の──軽蔑。 彰の携帯が再び鳴った。彼は画面を一瞥し、すぐに通話を切ると、そのまま踵を返して階下へ降りていった。 柚は、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめた。男の去っていく背中を見つめながら、喉の奥から込み上げるものを必死に飲み込んだ。 「離婚協議書は、できるだけ早く作成するわ、完成したら、宅配便で大統領官邸に送る」 その言葉に、男の背中が一瞬だけ止まった。だが、すぐに再び歩き出し、数秒後、玄関のドアが閉まる音が響いた。 リビングに静寂が戻った。エンジンの始動音も、次第に遠ざかっていった。 柚は、その場に崩れ落ちた。大理石の床の冷たさが身体に染みる。しかし、それよりも心の冷たさのほうが、はるかに深かった。 彼女は、この広大な屋敷を見渡した。三年間、ここにあるすべての調度品を、何度も何度も磨いてきた。 彰は静けさを好むため、彼女はすべての使用人を解雇した。清掃員が定期的に掃除に来る以外は、すべて彼女が一人でこなしてきたのだ。 かつては、ここを自分の家だと信じて疑わなかった。けれど今は、どこまでもよそよそしい場所にしか思えない。 結局、自業自得なのだろう。自分から身を低くしておいて、男が見直すはずもない。

第2章 奥様の母は、もう逝った

長谷川彰は一晩中帰らなかった。 午前九時、藤堂柚は昨夜、作成を依頼していた離婚協議書を受け取った。 柚はパソコンでメールを開き、離婚協議書を最初から最後までじっくりと目を通した。 紙がプリンターからゆっくりと吐き出される。整え、綴じ、署名する――すべてが淀みなく、指先に一瞬の迷いもなかった。 ペンのキャップを閉めた瞬間、柚は心の奥底で何かが閉ざされる音を聞いたような気がした。 携帯電話を取り出して配送を予約した。正午十二時、協議書は時間通りに大統領官邸の彰の手元に届くはずだった。 シャワーを浴び、服を着替え、荷物をまとめた。 彼女の持ち物は信じられないほど少なく、スーツケース一つにすべてが収まった。 三年。来る時もこのスーツケース、去る時もこのスーツケース。 始まりがあれば、終わりもある。 鏡に映る自分の目の下には青い隈ができていた。しかし、いつも眉間にあった憂いの影は消え、睡眠不足にもかかわらず、その表情にはどこか晴れやかさが漂っていた。 すべてが終わる。手遅れになる前に、ここで引くのだ。 午前十時半、柚はスーツケースを引いて別荘を出た。 宮田さんがホースで花に水をやっていた。柚が出てくるのを見て、声をかけた。「奥様、ご出張でいらっしゃいますか」 柚は微笑み、多くは語らず、ただ礼儀正しく頷いた。 彼女が去っていく後ろ姿を見送りながら、宮田さんは首をかしげた。「いつもなら、奥様は私を見かけるたびに、このお香は合わないとか、あの置物の置き場所が違うとか、あれこれおっしゃるのに、今日は一言もなかったわね」 書類の入った封筒を配送員に手渡すと、柚は車を運転して別荘を後にした。最後まで、一度も振り返ることはなかった。 大統領官邸。 彰はちょうど国際会議を終えたばかりで、疲労困憊の表情で椅子に寄りかかり、仮眠をとっていた。 海外数カ国との外交関係に危機が生じ、彼は夜を徹して帰国し、対応に追われていた。今はただ、頭が重く、思考が霞んでいた。 十時間何も食べておらず、腹部がかすかに痛んだ。 この胃は、本当に柚に甘やかされてしまった。 彰はもともと、自分の身を構わない仕事人間だった。長年の出張と不規則な食事がたたり、胃を壊していた。 彼が胃を患っていることを知ってから、柚はレシピを工夫して胃に優しい食事を作り、薬膳と合わせて、この三年間、一度も欠かさず彼の健康を気遣ってきた。 彼が深夜まで働いていても、保温容器のスープは、いつも温かかった。 最近は海外の問題が相次ぎ、政務も多忙を極めていた。ここしばらく、まともに食事をとっていなかった。 秘書の三浦誠がドアをノックして入ってきた。手に茶封筒を持って。 「閣下、奥様からのお届け物のようです」 彰はまぶたを上げもせず、指先でこめかみを押さえながら、気だるげに言った。「そこに置いておけ」 誠は頷き、封筒を机の端に置くと、立ち去ろうとした。しかし、男に呼び止められた。 「……待て」 彰は気だるげにまぶたを上げた。夜更かしのせいで、その声は少し掠れていた。 「柚に電話しろ。あっさりした食事を作らせて持ってこさせるんだ」 彼は一瞬言葉を切り、何かを思い出したように、何気なく付け加えた。「病院には、義母の手術をできるだけ早く手配するよう伝えておけ」 口にした瞬間、昨夜の柚の冷たい「もういいわ」という言葉がよみがえり、彼は眉をひそめた。 このところ、多忙を極め、確かに彼女をないがしろにしていた。 少し考え、再び口を開いた。「それから、ちゃんとした贈り物を一つ選んでおけ。今夜、私が持って帰る」 最近は問題が山積みだ。彼女には、これ以上騒がず、素直に収まっていてほしい。 誠は、彼の言葉に呆然とし、彰を疑わしげな目で見た。 (手術の手配……?) 藤堂柚の母は、すでに亡くなっているはずでは? 「しかし、奥様のお母様は、すでに……」 言い終わらないうちに、机の上の携帯電話が鳴った。海外からの電話だった。 彰は険しい表情で電話に出ると、その場に立ち尽くす誠に手で合図し、窓際に歩み寄り、流暢な英語で話し始めた。 誠はオフィスを出て、ドアを閉めながら首をかしげた。「閣下は最近、本当に忙しすぎる。こんなに大事なことまで忘れてしまうなんて」 先ほどの指示を思い出し、柚に電話をかけた。数回コールしたが、切られた。そこで別荘に電話をすると、出たのは宮田さんだった。奥様は出張中だという。誠は困惑して頭をかいた。奥様は専業主婦ではなかったか。 いつ仕事を見つけたのだろう。 閣下がまだ食事をしていないことを思い出し、怒りを買うことを恐れて、急いで海鮮粥と数品の小皿料理を注文した。 彰が家に着いたのは、すでに午後十時だった。家全体が真っ暗で、光一つなかった。 彼は歩きながらネクタイを緩め、腕にかけていたスーツを玄関の棚に置いた。 電気はついておらず、家の中は足音だけが虚ろに響いていた。 彰は眉をひそめ、壁のスイッチを押した。この冷たい静けさが、彼にはひどく不快だった。 以前は、たとえ彼が長期間海外に行っていたとしても、彼女は部屋に明かり一つ残しておいてくれた。 彼が暗闇を嫌うことを、彼女は知っていた。 周囲を見渡すと、アイランドキッチンは空っぽで、洗われた果物もなく、冷蔵庫にも食べ物は何もなかった。 彼は携帯を取り出し、柚のアイコンを探した。表示名は彼女のハンドルネームで、その隣には「通知オフ」のマークがついていた。 チャットの履歴は三日前のままだった。 「どうして電話に出ないの」「帰ってきてくれないの」「どうして心臓を他の人に渡したの」──無数のメッセージと、着信履歴が並んでいた。 あの時、詩織の容態は危篤で、彼は柚のわがままに構っている暇はなかった。 柚の母の容態は安定しており、一刻を争う状況ではないと、彼は確認していた。 さらに上にスクロールすると、ほとんどが一方的なメッセージだった。 自分の取材の成果を共有し、庭のバラの写真を送り、好きな果物を尋ね、外での寒さを気遣う――そんなメッセージが、延々と続いていた。 彼は「うん」と返信するだけか、既読スルーだった。 どうせいつでも会える。意味のない質問にいちいち答える必要はないと、彼は常に思っていた。 彼は手に持っていたギフトボックスをテーブルに置き、水を一杯注ぐと、指先でメッセージを打ち込んだ。 「出張は順調か いつ終わる。帰ってきたら、お前の好きなあの店に連れて行ってやる」 少し考え、自分らしくない口調だと思い、削除して打ち直した。 「どうだ 出張は何日くらいだ。いつ帰ってくる」 これも削除した。 「どうしてまだ帰ってこない」 送信。 カップの中の水がすっかり冷たくなっても、あちらからの返信はなかった。 彼はかすかに異変を感じ、電話をかけた。三回目のコール音で切られ、その後も何度かかけたが、同じことの繰り返しだった。 彼は立ち上がって二階へ上がった。クローゼットの中、彼女の服やバッグ、アクセサリーは依然として整然と並べられていた。化粧台のスキンケア用品もそのまま置かれている。目立たないいくつかのものを除けば、他には何の異常も見当たらなかった。 これを見て、彼はようやく安堵のため息をついた。 「柚がどこに行ったか調べろ」 電話にも出ず、メッセージにも返信がなかった。 いつから、こんなことになってしまったのだろう。 電話の向こうで、誠は一瞬呆然とした。「奥様は出張に行かれたのでは」 「場所だ」彰の声は冷たく、明らかに苛立ちを帯びていた。 向こうはすぐに返した。「奥様がいつ仕事を見つけられたかは存じ上げませんが、ただいまスケジュールを確認したところ、航空券の購入記録はございませんでした」 誠は一瞬言葉を切り、続けた。「おそらく、奥様はお母様のことで少し気分を害されているのでしょう。それで……友人の家に数日滞在されているのかもしれません」 奥様は決して細かいことを気にする方ではないが、今回の件は閣下のやり方も確かに問題があった。家族の命に関わることを、彼がこれほど性急に決定したのだ。拗ねるどころか、離婚を切り出しても無理はない。 ただ、この言葉を彰に直接言う勇気は、誠にはなかった。自分の首を絞めるようなものだ。 男がなかなか返事をしないのを見て、誠は再び口を開いた。「閣下、奥様を数日冷静にさせて、気分が落ち着いてから謝罪されてはいかがでしょう」 彰は鼻で笑い、胸にこみ上げる怒りを必死に抑え込んだ。「お前はアフリカに一ヶ月、交流員として派遣する」 誠は絶句した。 彰は力任せに電話を切り、顔を真っ青にした。 (謝罪しろ……だと?) (拗ねることが癖になったのか?) (甘やかしすぎたせいで、身の程を知らぬ女になってしまったものだ) 返信のないチャット画面を見て、さらに怒りがこみ上げてきた。 (サイレントモラハラ?) (……いいだろう) 男は片手を腰に当て、もう一方の手で携帯電話を強く握りしめた。 「自分がどこで間違えたか、わかってから来い」 文字を打つ指先は、煙が出そうなほど速かった。送信後、画面を消して携帯電話をベッドに投げ捨てると、そのままバスルームへ向かった。

第3章 実の兄

深夜十一時。長谷川彰はバスローブを羽織り、浴室から出てきた。 ベッドのそばに立ち、携帯に目を落とした。トーク画面は空っぽで、自分が送った文面には、何の返信もなかった。 彰は、ゆっくりと眉間にしわを寄せた。 こんな風に放置されたことなど、一度もなかった。 メッセージを送るのも、電話をかけるのも、折れて謝るのも、いつも藤堂柚の方からだった。 だが今回は、丸三時間も待ったというのに、携帯は沈黙を保ったままだった。 電話をかけると、呼び出し音が四回鳴ったところで切られた。かけ直すと、留守番電話に繋がった。 彰は携帯をベッドに叩きつけ、バスローブの襟元を乱暴に緩めた。胸の内に、得体の知れない怒りが渦巻いていた。 着替えようとクローゼットの扉を開けたが、その場で足が止まった。 隅にきちんと畳んで置かれていたはずの、数枚のシンプルな白Tシャツとジーンズがなくなっていた。 柚が普段家で着ていた服だ。地味で、デザインも古い。 引き出しを開けると、ネックレス、イヤリング、指輪、そのどれもが値札も付いたままで残されていた。 消えたのは、彼女の私物だけだった。 彰はふと悟った。柚は、本気で出ていくつもりなのだと。 その認識は、彼の胸に渦巻いていた怒りをすっと冷めさせた。 彼は三浦誠の予備の番号に電話をかけ、歯ぎしりしながら言った。「柚の居場所を調べろ。今すぐだ」 誠は一瞬言葉を詰まらせ、ためらいがちに答えた。「長谷川様……奥様は午後、どこにも宿泊登録をしておらず、身分証明書の使用履歴もありません。彼女名義の口座もすべて確認しましたが、消費履歴も宿泊予約もありませんでした」 彰の声が冷たくなった。「食事もするだろうし、寝床もいるはずだ。普段から親しくしている友人たちに当たってみろ」 「はい」、とだけ答えて、誠は電話を切った。 …… その頃、藤堂柚は下町にある一軒の平屋にいた。母親が遺した古い家だ。 部屋は十二畳ほどで広くはなく、家具も古い。外には小さな庭があった。 携帯はマナーモードのままテーブルに伏せてあり、画面が点いては消え、消えては点くのを繰り返していた。 彼女はちらりとそれに目をやった。 彰からの着信が四件、メッセージが三件。その文面は、詰問から命令へ、そして最後には怒りに満ちたものへと変わっていた。 柚は無表情に携帯を裏返し、食事を始めた。 彼が自分を探すことは分かっていた。彰という人間を、彼女は知りすぎていた。 彰はただ、彼女の存在に慣れてしまっただけ。自分に卑屈なまでに従う彼女に。 食事を終え、柚は出かける準備をした。自分の力で生きていくために、仕事を探さなければならない。 玄関の扉を開けた途端、外から一糸乱れぬ足音が聞こえてきた。 集団だった。 柚が目を向けると―― 玄関の前に、黒服の男たちが二列にずらりと並んでいた。 黒いスーツに黒いサングラス。背筋を伸ばしたその立ち姿は、威圧的な空気を放っていた。 そして、その二列の男たちの中心に、一人の若い男が立っていた。 仕立ての良い黒いトレンチコートを身に纏い、すらりとした長身に、彫りの深い顔立ち。その眉目には鋭い冷たさが宿り、鷲のように鋭い双眸は、見る者を射竦めるような凄みがあった。 彼の視線が柚に注がれると、その表情にたちまち痛ましさと憐れみの色が浮かんだ。 「見つけたよ、柚」 男は優しく彼女を見つめ、唇をわずかに動かした。 柚は呆然として尋ねた。「あなたは……」 この男に見覚えはなかった。 それなのに、なぜだろう。彼に見つめられた瞬間、心臓がとくんと跳ねた。 奇妙な感覚だった。 恐怖でも、緊張でもない。 それは……言葉では言い表せない、懐かしいような感覚。 男は説明した。「俺は君の兄だ。五十嵐貴臣――迎えに来たよ、柚」 (お兄さん……?) 夢でも見ているのだろうか。 実の家族が、自分を訪ねてきたのだ。 貴臣は、彼女が呆然としているのを見て、一歩近づいた。 彼はトレンチコートのポケットから何かを取り出し、掲げてみせた。 それは、一枚の翡翠の佩玉だった。まるで古い家宝のような、深い緑がかった玉だった。 柚が首から下げているものと、瓜二つだった。 一点の曇りもない白い玉には、精緻な彫刻が施され、裏には小さく「五十嵐」の文字が刻まれていた。 柚の手が、かすかに震えた。 何かを言おうと口を開いたが、喉が詰まって声が出なかった。 「君が五歳で何者かに連れ去られてから、今日まで、実に二十年」 彼の声は少し掠れていた。「父さんと母さんは、二十年間ずっと君を探していた」 柚の目頭が、不意に熱くなった。 次の瞬間、貴臣は自ら腕を伸ばし、彼女をその温かい胸に抱き寄せた。 柚が抱えていたすべての悔しさも、虚勢も、この瞬間に解き放たれた。 自分には、家族がいたのだ。 貴臣は彼女を抱きしめたまま、その背を優しく叩いた。「大丈夫。これからは家族がいる。もう誰にも君をいじめさせない」 その言葉は、柚が必死に閉ざしていた心の扉を開ける、鍵のようだった。 彼女は「わっ」と声を上げて泣き出した。 柚の涙は堰を切ったように溢れ出し、彼女は嗚咽混じりに言った。「私には、お父さんとお母さんがいて、お兄さんも……これからは、もう一人じゃないんだ」 「もちろんだ。みんな君の帰りを待っている。これからは家族一緒にいられる。……長谷川家への借りは、一つ一つ、ゆっくりと返していくさ」 言葉を重ねるごとに、彼の眼差しは冷たさを増していった。 そして最後には、その瞳の温度は氷点下まで下がっていた。 柚は、この突然現れた兄を見つめ、胸に複雑な感情が込み上げてくるのを感じていた。 母が死の間際に遺した言葉を思い出す――本当の家族を見つけなさい、と。 その日が、こんなにも早く訪れるとは思ってもみなかった。 「お兄ちゃん」と、彼女はそっと呼んだ。 貴臣の肩が、気づかれないほどかすかに震えた。 「ああ」 「私たちの家って、何をしてるの?」柚は二列に並ぶ黒服の男たちにちらりと目をやり、ついに心の中の疑問を口にした。 貴臣の口角が微かに上がった。その笑みには、どこか危険な響きが宿っていた。 「君はどう思う?」 柚が答えるより先に、突如、背後から怒号が響き渡った。「お前たち、何をしている!」

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