「今すぐ腎臓摘出手術を始めろ!」 男の声は冷酷そのもので、手術台の上にいるのが人間であることなど微塵も気にかけていないようだった。 藤原結衣は冷たい手術台に横たわり、 氷のように冷たいメスが彼女の体を切り裂いていく。 氷のように冷たい手術台の上で、彼女は極度のパニックに陥った。 麻酔はあっという間に切れ、激痛が全身を駆け巡る。 痛い…… 気が狂うほど痛い。 だが、体の痛みなど比にならないほど、彼女の心は痛めつけられていた。 高橋悠真に嫁いでからの3年、彼女は彼にすべてを捧げてきた。 なのに、彼が最後にくれたのは。 彼女の腎臓を差し出し、代わりに初恋の女を救うことだった! 青白くなった結衣の頬を、一滴の涙が伝い落ちる。 「悠……」 結衣が彼の名前を呼び終える前に、医師と看護師が慌てた様子で、見下ろすように立つ冷酷な男に懇願した。「た、高橋社長!藤原さんの容態が急変しています。このまま続ければ、本当に危険な状態です!」 医師としても、自分の病院で医療事故など起こしたくはなかったのだ。 だが悠真は、結衣を蔑むように一瞥しただけで、薄い唇を動かした。「こんな女の命など、どうでもいい」 「俺はこの腎臓が必要なだけだ。美月を救えるなら、それで十分だ」 結衣は無機質な天井を見つめ、その顔からは急速に血の気が引いていった。 (高橋悠真……) (あなたはそこまで星野美月を愛しているの?) (星野美月はあなたの手の中で大切にされる宝物で、私は路傍の石にすぎないのね。) 「あっ……」 結衣は低く呻いた。 襲いかかる激痛に、意識が遠のく中で、悲鳴すら上げられない。 手術が進む中、結衣はベッドのシーツをきつく握りしめた。 その時、圧倒的なオーラを放つ、人間離れした美貌の男が、顔面を蒼白にして手術室に飛び込んできた。 彼は絶望に震える声で叫んだ。「結衣!」 次の瞬間、男は怒りに任せて悠真に掴みかかった。「悠真!よくも彼女を……その罪、必ず償わせる!」 結衣は最後の力を振り絞り、誰が自分の仇を討ってくれたのかを見極めようと目を開けた。 (なぜ……なぜ神崎蒼真が。) (悠真の宿敵である彼が!) (なぜ、彼が私を助けようとするの?) 蒼真の熱い涙が彼女の手のひらに落ちた。「結衣、頼む、頼むから死なないでくれ……」 結衣は胸が締め付けられ、彼を慰めたいと思ったが、まぶたはどんどん重くなっていった。 結衣の一生が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。 どのようにして悠真を追いかけ、彼が高橋家の後継者の座を確固たるものにできるよう支え、彼の叔父の刃から彼をかばい、一生消えない傷跡を残したのか。 だが今となっては、すべてがただの笑い話だった。 結衣の胸には激しい憎しみが満ちていた。もしもう一度人生をやり直せるなら、悠真のような恩を仇で返す男とは絶対に結婚などしない! 突然、眩しい光が視界を覆った。 目を開けるより先に、焦ったような女の声が響いた。 「奥様!高橋社長が……社長が星野さんを連れてきました!彼女を奥様のブライズメイドにするって!」 再び目を開けると、なんとそこは、自分と悠真の結婚式場だった! ーー生まれ変わったの!? 結婚式は本来、彼女と悠真の幸せの象徴だった。だが当日、悠真は美月を伴って現れた。美月はオートクチュールのドレスに身を包み、まるで天女のように参列者の視線を独占した。一方の彼女は、客の応対に追われてボロボロになり、悪ガキにウェディングドレスへジュースをぶちまけられる始末だった。 その晩、海城市中で笑いものにされた。「藤原結衣は品がない」「結婚式で小汚い格好をして」「悠真が囲っている愛人の星野美月のほうが、よっぽど高橋家の妻にふさわしい」と。 星野美月はそうやって、少しずつ彼女のすべてを奪っていったのだ。夫を奪い、世間体を奪い、そして尊厳を奪い、最後には彼女の腎臓までも! 今度こそ、同じ轍は絶対に踏まない! 結衣はハッと目を見開いた。心臓が刃物で抉られるようにひどく痛む。 立っているのもやっとだった。 悠真と美月が腕を組んで、彼女の結婚式場に入ってきたのだ! 次の瞬間、結衣の瞳に、すべてを焼き尽くすほどの激しい憎しみがよぎった。 彼女は低い声で言い放った。「高橋悠真。私たちの結婚式に、別の女を連れてきてどういうつもり?」 結衣は痛ましげに目を閉じ、瞳に渦巻く凄まじい憎悪を隠した。 その時、美月が怯えたような声で悠真に尋ねた。「悠真さん、結衣お姉様は私のことが嫌いみたい。本当に私をブライズメイドにしてくれるのかな?」 悠真は美月をなだめるように軽く叩き、優しい声で言った。「美月、心配しなくていい。あいつは俺の言うことなら何でも聞くからな」 彼は結衣に視線を移し、冷たく言い放った。「藤原結衣。お前の態度は不問にしてやる。俺がお前の気持ちをないがしろにしていたのは事実だからな。だが、美月をブライズメイドにしろ。彼女の最大の夢は俺の結婚式に出ることなんだ。もっと大人になって、美月の気持ちを汲んでやれ」 悠真が彼女を見る目にはいつも何の感情もなく、あるとすればただの嫌悪だけだった。 なのに美月を見つめる時は、言葉にならないほど甘く、優しさに満ちていた。 結衣の胸の中で、憎しみと苦痛が激しく入り交じる。 彼女はこらえきれずに冷笑した。「気持ちを汲む?」 「結婚式当日に私の夫を誘惑する泥棒猫の気持ちを汲んで、私を不快にさせるブライズメイドを務めてくれることに感謝しろって言うの?」 「藤原結衣!」 悠真が怒鳴り声を上げた。「黙れ!」 いつも自分に素直に従っていたこの女が、今日に限ってどう狂ったのか、彼には理解できなかった。 結衣はウェディングベールを引きむしり、床に投げ捨てた。 「あら、図星を突かれて痛かった?」 悠真が信じられないという目で見つめる中、結衣はステージの装飾用の石を拾い上げ、正面に飾られた大きな結婚写真に向かって思い切り叩きつけた。 ガシャンッという激しい音とともにガラスが砕け散り、床一面に破片が飛び散った。 次の瞬間、結衣の声が結婚式場全体に響き渡った。 「この結婚、私、藤原結衣から願い下げよ!」
ゲストたちは皆、信じられないという表情を浮かべた。 東都の社交界で、藤原結衣が高橋悠真をどれほど愛しているかを知らない者などいなかった。 犬のように悠真の後ろをついて回り、彼の会社を手伝い、家政婦のように彼の生活を世話してきたのだ。 海城市の多くの御曹司たちが、結衣ほどの絶世の美女を都合のいい女として従え、身も心も捧げられている悠真に密かに嫉妬していた。 なのに、今日…… 結衣は悠真と結婚しないと言い出したのだ。 悠真は顔色を悪くして、怒鳴り声を上げた。「結衣、頭でもおかしくなったのか!」 結衣は悠真を無視して壇上のマイクの前に歩み寄り、声を張り上げた。「でも、せっかく綺麗に飾られた結婚式場なんだし、使わないのはもったいないわね」 彼女は星野美月に視線を向けた。「いっそ星野さん、あなたがここで結婚式を挙げたらどう? ちょうど私が捨てた男を拾うのが好きみたいだし、私が要らなくなった式場もきっと気に入るわよね。星野さんと私の元婚約者に、ビッチとクソ男の――」 「末永くお幸せにね!」 「あなた!」 美月の可憐な花のようにか弱い顔が、一瞬にして醜く歪んだ。 彼女の涙声が響いた。「結衣さん……どうしてそんな酷いことを言うの?私と悠真さんはやましいことなんて何もないのに!」 悠真はすぐに美月を腕の中に庇い、声を荒らげた。「結衣!美月は鬱病なんだぞ!言葉に気をつけろ!」 以前から悠真は、美月のいわゆる鬱病を理由に何度も、自分と一緒に美月を甘やかすよう彼女に強要してきた。 そうして甘やかし続けた結果、美月はなんと命に関わるものを要求してきたのだ。 結衣は前世で味わった裏切りの苦しみを思い出した。簡単に許すつもりはない。いつか必ず、彼らにその報いを受けさせてやる。 だが、すぐに死なせてやるのではこのクソみたいな二人には生ぬるい。いつか必ず、彼らに本当の苦しみを味わわせてやる。 結衣は振り返ることなく、結婚式場を後にした。 背後で悠真が「結衣、ここを出て行ったら、俺たちは一生終わりだぞ!」と叫んでも。 結衣は依然として振り返りもしなかった。 *** 結衣は結婚式場を出ると、すぐにローズホテルへと急いだ。 前世で、神崎蒼真はローズホテルで催淫剤を盛られ、必死にホテルから逃げ出したものの、ホテルの玄関先で力尽き倒れ、病院へ運ばれたのだ。 「#神崎グループの跡取りが路上で気絶、薬物使用の疑い」 このニュースは3日3晩もトレンド入りし続け、そのせいで神崎グループの株価は暴落した。 今回は、もう蒼真を陥れさせはしない。 結衣はローズホテルへと駆け込んだ。 記憶を頼りに609号室へと向かう。 果たして、609号室のドアが突然開き、切れ長の目に高い鼻梁、鋭いフェイスラインを持った姿が現れた。 息を呑むほど美しく、魅力的な男だ。 だが今の彼は極度に弱り切っており、顔には不自然な赤みが浮かんでいた。 結衣はしゃがみ込み、妖艶な視線を向けて彼に手を差し伸べた。「神崎社長、手伝いましょうか?」 蒼真は顔を上げて相手の正体を確かめると、その目には色欲が濃く滲んでいた。「ふ、藤原結衣?」 結衣は妖艶な笑みを浮かべた。 (彼は私のことが分かったのだ。神崎蒼真は、こんなにも前から私のことが好きだったのだろうか?) 一方、蒼真の目には欲情と渇望が溢れ出していた。 彼女が反応する間もなく、力強い手が彼女を部屋の中へ引き込んだ。 男の体から漂うウイスキーの香りに松脂の匂いが混ざり、彼女の鼻をくすぐった。 彼は結衣の上にのしかかり、その両目は色欲に霞んでいた。 彼は彼女の肩に顔を埋め、荒い息を吐いた。 「藤原結衣、自分から誘いに来たんだからな」 結衣は身を翻して彼の上に乗り、赤い唇で彼のシャツのボタンを噛み外した。「神崎社長、自分から来た女を抱く度胸はあるの?」 言い終わるか終わらないかのうちに、男の冷たく美しい薄い唇が結衣の唇を塞いだ。何度も重ね、擦り合わせ、やがて舌を割って侵入すると、彼女の舌と激しく絡み合った。 蒼真の手も、いやらしく彼女の腰を撫で回している。 「んっ……」 結衣は思わず甘い声を漏らし、その瞳も情欲に濡れ始めていた。 蒼真の熱く濡れた口づけは首筋に沿って下り、起伏のある胸元へと至る。彼は結衣の太ももを引き寄せて自分の腰に絡ませると、そのまま彼女を抱き上げてベッドへと向かった。 結衣がふかふかの大きなベッドに沈み込むと、男の薄くタコのある手が彼女の胸のふくらみを執拗に撫で回した。 蒼真の膝が結衣の足の間に割り込み、彼は顔を下げて結衣の耳先をくわえ込んだ。そして、腰を強く押し出し、二人の体は一つに溶け合った。 男の荒い息遣いと、女の甘いあえぎ声がホテルの部屋の中で交錯し、空気には淫らな匂いが立ち込めていた。 激情が高まる中、彼は彼女の耳元で何度も名前を呼び続けた。まるで、彼女が自分から離れていかないことを確かめるかのように。 *** 翌朝。 結衣が目を覚ますと、まるで全身の骨が抜けたように、体中がだるく重かった。 目を開けると、隣の男はまだ眠っていた。彼女はそっと手を伸ばし、彼の顔の輪郭をなぞった。 (本当にイケメンね……) (どうして以前は、悠真みたいなクソ男に目がくらんでいたのかしら。) 服を着終えた結衣は、一瞬だけ蒼真を見つめ、その後未練も見せずに部屋を出て行った。 その直後、ベッドの上にいた魔性のように美しい男がふと目を開け、薄い唇をほころばせた。 「藤原結衣!自分から俺に手を出したんだからな!」
藤原結衣はホテルを後にすると、瞳に浮かべていた笑みを一瞬にして鋭い眼差しへと変えた。 神崎蒼真の件は片付いた。次は高橋家へ戻り、自分のものを取り戻す番だ。 高橋家。 結衣が高橋家に足を踏み入れると、ソファに座る中年の女が目に飛び込んできた。豪奢な服に身を包み、身なりは整えられていたが、その顔にはあからさまな怒りが浮かんでいる。 相手は高橋悠真の母親である高橋玲子だ。 結衣が戻ってきたのを見ると、彼女は眉を深くひそめた。 結婚式では来客が多くて結衣を叱りつけることができなかったが、こうして家に戻ってきたからには、きっちりと躾けてやらねば気が済まなかった。 彼女は結衣の前に歩み寄り、詰問するような口調で言った。「藤原結衣、あんた頭でもおかしくなったの! うちの息子が美月をブライズメイドにしたくらいで、あんな騒ぎを起こすなんて!高橋家の顔に泥を塗る気!」 結衣は冷笑を浮かべて言い返した。「ただのブライズメイド、ですって? もし自分の新郎が、花嫁である自分よりも着飾った初恋の女を連れてきて、ブライズメイドにすると言い出したら、あなたは我慢できるんですか?」 そう口にした途端、結衣は胸が張り裂けそうな痛みに襲われ、息もできないほどだった。 彼女は目を赤くし、血の滲むような思いを込めて言い放った。「高橋家の顔に泥を塗ったと言いますが、悠真は一瞬でも私を尊重してくれたことがありましたか? 彼に資金がない時は、私が一晩中酒をがぶ飲みして出資を取り付けました。彼に人脈がない時は、私の繋がりをすべて彼に提供しました。彼が刺されそうになった時は、私が前に立ちはだかり、この身であの刃を受け止めたんです! それなのに彼は結婚式で、初恋の女を連れてきてブライズメイドにすると言ったんです。玲子さん、私が高橋家の顔を潰したんじゃありません。高橋家が私を裏切ったんです!」 彼女は怨みを込めて玲子を睨みつけた。その眼差しは、悪鬼のように鋭かった。 結衣の気迫に、玲子は思わず背筋を凍らせた。 だが、すぐに虚勢を張って手を振り上げた。「藤原結衣、このクズ女!うちの息子の名誉を傷つけるんじゃないわよ!今日は姑として、きっちり躾け直してやる!」 玲子の平手が結衣の頬を打とうとしたその瞬間、結衣は鋭い目つきでその手首を掴み、逆に玲子の頬を力いっぱい張り飛ばした。 「パァン!」 玲子の顔は瞬く間に赤く腫れ上がった。 彼女が悲鳴を上げるよりも早く、冷たく苛立ちを含んだ男の声が響いた。「結衣、もういい加減にしろ!」 大股で部屋に入ってきた悠真は、うんざりした目を向けていた。「結衣、俺が美月をブライズメイドにしたのが不満なのは分かってる。なら、次の結婚式では美月をブライズメイドにしなければいいだけの話だろ? 母さんに謝りさえすれば、お前をこれからも妻でいさせてやってもいい!」 その時、星野美月の弱々しい声が響いた。「そうですよ結衣さん、玲子おばさんは一応目上の方なんですから」 結衣は美月の前に歩み寄り、その蒼白でか弱そうな顔を鋭く睨みつけた。「星野美月、よくもまあそんな厚かましいことが言えるわね!」 美月は胸を押さえ、ひどくショックを受けたような素振りを見せた。「ゆ、結衣さん、どうしてそんなひどいことを言うの。私、悲しい……悠真さん……私って、この世に生きているだけで人に嫌われちゃうのかな。もう生きてる意味なんてないみたい」 悠真は心配そうに美月の腰を抱き寄せ、整った顔に怒りを露わにした。「藤原結衣!美月がやっと死ぬのを諦めてくれたのに、なんでそんな風に追い詰めるんだ!もし彼女に何かあったら……!」 彼がさらに何かを言いかけようとした時、結衣はキッチンへと歩いていき、しばらくして包丁を手に戻ってきた。 結衣が包丁を手に自分の方へ向かってくるのを見て、美月は恐怖で腰を抜かしそうになった。「悠真さん……!」 悠真は美月の前に立ちはだかり、彼女を庇った。「結衣、言っておくが、美月を傷つけることだけは絶対に許さないぞ」 結衣は瞳の奥の憎しみを隠し、無理やり笑みを作ってみせた。「怖がらないで、星野さん」 「あなたに何かするつもりなんてないわ。これは、私からあなたたちへの結婚祝いよ。星野さん、死ぬのがお好きなんでしょう? だったら、これをあげる。これから死にたくなったら睡眠薬なんて飲まなくていいわよ。一振りすれば、もっと手っ取り早く死ねるから!」 結衣は包丁をドンッとテーブルに叩きつけた。 美月は完全に腰を抜かし、そのまま床にへたり込んだ。 結衣は背を向けて自分の寝室へと入り、自分の荷物と祖母の形見をまとめると部屋を出た。そのまま立ち去ろうとした時、玲子が彼女を呼び止めた。 「待ちなさい!何を持って行く気!高橋家のものを盗む気じゃないでしょうね!」