「ご臨終です、午後三時十四分」 静まり返った病室に、医師の低い声が響いた。まるで遠い世界の出来事のように、西園寺靜の耳にはその言葉がうまく届かない。彼女の視線は、心電図モニターに映し出された、無慈悲な一直線に釘付けになっていた。ついさっきまで、か細くも確かに存在した命の波形が、今はただの水平な光の線と化している。 ピー、という耳障りな電子音が、娘の不在を告げ続けていた。 医師がチーちゃんの瞼をそっと持ち上げ、ペンライトで瞳孔を確認する。そして、静かに聴診器を首から外すと、深く、深く靜に向かって頭を下げた。その唇が動いているのは見えるのに、何を言っているのか全く頭に入ってこない。世界から音が消え、ただ目の前の光景だけがスローモーションで流れていく。 脳裏に、この三年間の記憶が洪水のように押し寄せる。初めて病名を告げられた日。抗がん剤の副作用で髪が抜け落ち、小さな頭を撫でながら一緒に泣いた夜。痛みに耐えきれず、「ママ、痛いよ」と泣き叫ぶ娘を、ただ抱きしめることしかできなかった無力な自分。 そして、最後に交わした言葉。 「ママ、パパは……会いに来てくれる?」 消え入りそうな声で、それでも期待を込めて尋ねた娘の顔。靜は答えられなかった。その答えられない問いが、今、麻痺した彼女の心臓を内側から抉る。 医師や看護師たちが、そっと病室から出ていく気配がした。母娘だけの最後の時間。靜は震える手を伸ばし、まだ微かに温もりが残るチーちゃんの頬に触れた。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。頬を伝い、シーツに染みを作っていく。 どれくらいそうしていただろうか。彼女は虚ろな目で、傍らに置かれたスマートフォンを手に取った。連絡先のトップに固定された「主人」という二文字が、これ以上ないほど皮肉に満ちて見えた。 指が震え、何度も画面をタップし損ねながら、ようやく鷹司暁の番号を呼び出す。コール音が、やけに長く感じられた。もう切れてしまうのではないかと思った、その時。 「『もしもし、鷹司ですが』」 電話口から聞こえてきたのは、夫のものではない、鈴を転がすような、しかしどこか計算された優しさを含む女の声だった。 新田凛。 その声を聞いた瞬間、靜の心臓がどす黒い氷の塊になった。胃の奥が痙攣し、吐き気さえ覚える。 「……鷹司暁は?」 喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。 「『申し訳ありません、暁さんなら、今シャワーを浴びていますが……ご用件は?』」 申し訳ない、という言葉とは裏腹に、その声には微かな優越感が滲んでいる。完璧な妻の座を狙う女の、完璧な声。 シャワーを。浴びている。 娘が、死んだというのに。 靜は、笑った。涙が、その歪んだ笑みと共に頬を滑り落ちた。 チーちゃんの誕生日、暁はいつも「仕事だ」と言って帰ってこなかった。そのたびに、週刊誌が新田凛とディナーを共にする彼の姿を捉えていた。チーちゃんの高額な治療費を工面するため、頭を下げて金の無心をした時、彼は「凛を煩わせるな」と冷たく言い放った。 結婚して五年。将来を嘱望された宇宙航空学のエンジニアだった自分は、いつしか「鷹司夫人」という名の鳥籠に囚われ、翼をもがれたカナリアになっていた。 全ての我慢が、全ての犠牲が、この瞬間に滑稽な茶番劇と化した。 靜は、電話の向こうの女に、一言一句、はっきりと告げた。 「『新田さん、彼に伝えて、チーちゃんは死んだわ』」 相手の反応を待たず、一方的に通話を切る。 彼女はベッドに眠る娘の顔を見下ろした。苦しみから解放されたその寝顔は、まるで天使のように安らかだった。 「ごめんね、チーちゃん、ママ、もう間違えないから」 静かな約束を口にする。 靜はゆっくりと立ち上がった。最後に娘の掛け布団をそっと直し、その瞳から悲しみは消え、氷のような決意だけが宿っていた。 病室を出ると、待機していた看護師長に顔を向けた。 「火葬の手続きをお願いします」 「えっ……ですが、通常は旦那様のサインが……」 看護師長が驚きと戸惑いの表情を浮かべる。 「彼なら来ません」 靜は感情の欠片も見せずに言い切った。 「私が全責任を負います」 ふと、結婚時にサインさせられた夥しい量の書類の中に、緊急時の医療行為及び、死後の手続きに関する全権委任状があったことを思い出す。あの時は、これが何を意味するのか深く考えもしなかった。 スマートフォンからクラウドストレージにアクセスし、書類の控えを探し出す。あった。皮肉なことに、彼の不在を法的に証明する完璧な武器が、そこにあった。 靜は自嘲の笑みを浮かべ、そこから先の行動は驚くほど冷静だった。火葬場に連絡を取り、小さな、白い花の模様が入った骨壷を選んだ。まるで、たった今、世界の全てを失った母親とは思えないほど、淀みなく、淡々と。 彼女の心の中では、別の計算が始まっていた。この五年間の結婚生活。この男のために諦めた夢。失われた時間。その全てを清算する。 離婚。それが第一歩だ。
鷹司グループの最上階、总裁室。磨き上げられたマホガニーのデスクで、鷹司暁は分厚い書類の山に目を通していた。その傍らで、新田凛が音もなく、しかし完璧なタイミングで淹れたてのコーヒーを差し出す。その所作は、まるで長年連れ添った妻のように自然だった。 「昨夜の靜さん、少し感情的になっているようでしたわ、大丈夫かしら」 凛は、心配そうな表情を装いながら、何気ない口調で切り出した。暁は書類から目を離さず、「ああ」とだけ短く応じる。彼の関心は、そこにない。まるで、遠い国の出来事を聞いているかのようだ。 コン、コン、と控えめなノックの音。秘書が緊張した面持ちで入室した。 「社長、奥様が……一階の受付に、社長にお会いしたいと」 暁は、露骨に眉を顰めた。その表情には、明らかな不快感が浮かんでいる。 「凛、悪いが休憩室で待っていてくれ」 彼は、これから始まるであろう妻の「ヒステリー」を、凛に見せたくなかった。凛は心得たとばかりに、「ええ、わかったわ」と優雅に微笑み、静かに部屋を出ていく。その去り際に向けられた「あなたの気持ち、わかるわ」と言いたげな眼差しが、暁の苛立ちを僅かに和らげた。 入れ替わるように、靜がオフィスに入ってくる。彼女の視線が、凛が先ほどまで座っていたソファに掛けられたカシミアのショールを一瞬捉え、僅かに翳った。だが、すぐにその瞳は氷のような無表情に戻る。 彼女は一言も発さず、暁のデスクに二枚の書類を置いた。 一枚は、離婚届。 もう一枚は、火葬許可申請書。 暁は書類にちらりと目をやり、鼻で笑った。 「またその芝居か?何が望みだ、金か?」 彼の言葉は、刃物のように冷たい。靜は、自嘲の笑みを浮かべずにはいられなかった。かつてJAXAからのオファーを蹴り、彼の事業を陰で支えるために全てを捧げた。その結果が、これだ。金目当ての浅ましい女。それが、夫から見た自分の姿。 「サインを、それだけ」 靜の声は、凪いだ湖面のように平坦だった。 その感情の欠落した態度が、逆に暁の神経を逆撫でした。これもまた、自分の気を引くための新たな手口なのだろう。彼は苛立ちを隠しもせず、ペンを手に取った。 中身を確かめることさえせず、二枚の書類の署名欄に、流れるような筆跡で「鷹司暁」と書き殴る。 そして、まるで汚物でも払うかのように、書類を靜に向かって放り投げた。 「これで満足か?チーちゃんのことは残念だが、お前の嫉妬の道具にするな」 靜は、投げ返された書類を強く握りしめた。指の爪が掌に食い込み、鋭い痛みが走る。込み上げる衝動を、奥歯を噛み締めて殺した。平手打ちの一つでもくれてやりたかった。 彼は、娘の名前が書かれているはずの書類に、一瞥すらくれなかった。 「……」 靜は何も言わず、背を向けた。これ以上、この男と同じ空気を吸っていたくなかった。 彼女の無言の退場を、暁は勝利と解釈した。どうせ三日もすれば、泣きながら戻ってくるに決まっている。いつものことだ。 休憩室から凛が戻ってきた。 「話し合いは終わりました?」 「ああ、いつもの癇癪だ」 暁は吐き捨てるように言った。凛はそれ以上深くは突っ込まず、巧みに話題を変える。次の四半期に開催されるチャリティー晩餐会の話。まるで、先ほどの出来事など何もなかったかのように、オフィスは日常を取り戻した。 一方、靜はサイン済みの書類を握りしめ、そのまま車を駆って火葬場へと向かった。手続きは滞りなく進む。彼女は、職員に引き渡されるチーちゃんの小さな体を、ただじっと見つめていた。 告別室で、最後の対面をする。冷たくなった額に唇を寄せ、囁いた。 「さようなら、私の宝物」 轟音と共に、火葬炉の扉が閉ざされる。その瞬間、靜の体は激しく震えたが、声は出なかった。彼女はガラスの小窓越しに、燃え盛る炎をただ見つめていた。 心の中で、新たな誓いを立てる。 鷹司暁。あなたは今日、この紙切れにサインしたことを、血の涙を流して後悔することになる。 数時間後。 总裁室のドアが、ノックもなしに乱暴に開かれた。秘書が、血の気の引いた顔で飛び込んでくる。 「社長!大変です!奥様が……!」 「また何かあったのか」 暁はうんざりしたように遮った。 秘書は震える声で、信じられない言葉を告げた。 「奥様が……チーちゃんを……火葬しました、たった今……完了した、と」 ペンを走らせていた暁の手が、ぴたりと止まった。彼の絶対的な自信に、初めて微かな亀裂が入った。
「誰がそんな許可を?」 鷹司暁の鋭い声が、静寂を切り裂いた。火葬完了、という言葉の意味を、彼の脳が理解することを拒絶している。 「社長……あなた様ご自身のサインが……」 秘書の震える声が、無慈悲な現実を突きつける。暁の記憶が、数時間前の光景にフラッシュバックした。靜の氷のように冷たい顔。デスクに置かれた二枚の書類。自分が何を承認したのかを、彼はその瞬間、全身の血が凍るような感覚と共に理解した。 「ぐっ……!」 獣のような呻き声が漏れる。彼はデスクの上の書類を全て腕で薙ぎ払った。高価な万年筆やクリスタルのペーパーウェイトが床に散乱する音も耳に入らない。狂ったようにオフィスを飛び出し、エレベーターホールへと走る。 ポケットからスマートフォンを取り出し、何度も靜の番号をタップするが、聞こえてくるのは冷たい機械音声だけだった。 『おかけになった電話は、電源が入っていないか……』 地下駐車場で愛車のエンジンを咆哮させ、彼は火葬場へと向かった。アクセルを床まで踏み込む。脳裏に、チーちゃんが掠れた声で「パパ」と呼んだ記憶が蘇る。父親としての感情が、永遠に失われるという恐怖の直前になって、堰を切ったように噴き出してくる。 火葬場に滑り込むように車を停め、彼は建物の中に駆け込んだ。 そして、見てしまった。 職員が、小さな白木の箱を、靜に手渡しているところを。 その箱が何であるか、理解した瞬間、暁の世界は音を立てて崩壊した。 「やめろ……!」 彼は叫びながら駆け寄ろうとするが、異様な雰囲気を察した職員に両腕を掴まれ、制止される。 靜が、ゆっくりと振り返った。彼女は骨壷を、まるで壊れ物を扱うように、大切に胸に抱いている。その顔には、何の感情も浮かんでいない。美しいだけの、魂の抜け落ちた人形のようだった。 「靜!なぜだ!なぜこんなことを!」 暁は、捕らえられた獣のように吼えた。 靜は、ただ彼を一瞥した。その瞳は、道端の石ころを見るように冷え切っていた。そこには、かつて夫に向けられた愛情も、憎しみさえも、何もなかった。完全な無。 その視線が、暁の心を完全に打ち砕いた。 「あ…ああああああああああッ!」 膝から崩れ落ち、彼は生まれて初めて、人前で慟哭した。後悔と絶望が、彼のプライドを粉々に砕き、ただの無力な男へと引きずり下ろす。 その時だった。 靜の体が、ぐらりと揺れた。目の前で泣き崩れる男の姿が歪み、耳元で響いていたはずの悲鳴が急速に遠のいていく。激しい眩暈。 次の瞬間、彼女を包んでいたのは、火葬場の厳粛な空気ではなく、喧騒と、香水の甘い香り、そして人々の楽しげな笑い声だった。 「……え?」 彼女は自分が、鷹司家の豪奢なパーティーホールの真ん中に立っていることに気づいた。体には、窮屈なオートクチュールのドレス。手には、飲みかけのシャンパングラス。 自分の手を見つめる。緊張で握りしめ、爪の跡がついていたはずの掌は、今は優雅にグラスを支えている。 「ママ、僕のプレゼントはまだ?」 不機見な声と共に、小さなタキシードを着た男の子が彼女のドレスの裾を引っ張った。 ナナ。 今日は、ナナの5歳の誕生日パーティー。 一年前の、今日。 「っ……!」 巨大な衝撃に、靜の体が震えた。彼女は周囲を見回す。あの小さな、愛しい姿を探して。 いた。 パーティーホールの隅。きらびやかな輪から外れた場所で、サイズの合わない、少し色褪せたワンピースを着たチーちゃんが、不安そうにこちらを見ていた。その小さな手には、不格好なラッピングのプレゼントが固く握られている。 生きてる。 チーちゃんが、生きている。 涙が視界を滲ませる。靜は、周囲の目も、マナーも、何もかもを忘れて、娘の元へ駆け寄った。 「チーちゃん!」 小さな体を、壊さないように、しかし力いっぱい抱きしめる。温かい。柔らかい。確かに、ここにいる。 「ママ、どうしたの?ナナ兄ちゃんの誕生日だよ」 突然のことに驚いたチーちゃんが、腕の中で戸惑ったように呟いた。 「……うん、そうね……」 喜びと、前世の記憶からくる恐怖で、声が震えて言葉にならない。 わかった。私は、戻ってきたんだ。全ての悲劇が始まる、一年前のこの日に。 「凛ママ、ママがチーちゃんばっかり!」 不満そうなナナの声がした。彼はいつの間にかそばに来て、新田凛の手を引いて告げ口をしている。 凛は優しくナナを宥めながら、靜に向かって言った。その声は、完璧に計算された優しさに満ちている。 「靜さん、主役はナナくんなのよ」 そこへ、鷹司暁も眉を顰めながら近づいてきた。 「みっともない、客が見ている」 前世で、幾度となく聞かされた言葉。彼女の全てを否定する、冷たい声。 前世の絶望と、今生の希望が、靜の頭の中で交錯する。 彼女は、ゆっくりと立ち上がった。チーちゃんを腕に抱いたまま、目の前に立つ、「幸せそうな家族」を見つめる。鷹司暁。彼に庇われるように立つ新田凛。そして、その凛に甘えるナナ。 靜は、微笑んだ。 そして、パーティーホールにいる全員に聞こえる、凛とした声で言った。 「ええ、そうね、だから、主役のナナくんと、彼の本当の母親であるあなたを、鷹司暁さんにお返しするわ」