"牧野さん、ご家族の方のサインが、必要です" 無機質な声が、遠くで聞こえる。 牧野理歌子は、ストレッチャーの上で身を縮めた。下腹部を内側から抉るような激痛が、意識を白く塗りつぶしていく。 額から流れ落ちた冷たい汗が、目に入って滲みた。 "ご主人に、連絡は?" 看護師の問いかけに、理歌子はか細く頷く。震える指先で、スマートフォンの画面をタップした。鷹司健。夫のプライベート用の番号だ。 コール音が、三度繰り返される。 もう切れる。そう思った瞬間、電話は繋がった。 『……なんだ』 不機嫌を隠そうともしない、低い声。 その声の向こうから、偶然を装った、無邪気な女の笑い声が聞こえた。武井萌歌穂の声だ。 "健さん、私……" 声が、うまく出ない。 "病院に、いるの。だから……" 『またその手か』 健の声は、嘲笑の色を帯びていた。 『萌歌穂の気を引くために、今度は仮病か。見苦しい真似はやめろ』 "違う、本当に……っ!" 腹の底から、熱いものがせり上がってくる。激痛の波が再び押し寄せ、理歌子の呼吸が止まった。 電話の向こうで、萌歌穂がわざとらしく尋ねる。 "健様、どなたから?" 『気にするな。くだらない間違い電話だ』 健の声音が、一瞬で甘く、優しくなる。その温度差が、理歌子の心臓を氷の針で突き刺した。 『いい加減にしろ。お前のくだらない芝居に付き合うほど、俺は暇じゃない』 一方的に吐き捨てられ、通話は切れた。 耳元で響く、無慈悲な電子音。それが、理歌子の最後の希望を打ち砕いた。 腹の内部で、何かが引き裂かれるような、絶叫したくなるほどの痛みが走る。 ああ、もう、どうでもいい。 薄れていく意識の片隅で、誰かが叫んでいるのが聞こえた。 "先生! 患者の血圧が低下しています!" "緊急手術の準備だ! 急げ!" 手術室の無影灯が、網膜を焼く。 麻酔で沈んでいく体とは裏腹に、この三年間、氷の上を歩くような結婚生活が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。 次に理歌子が目を覚ましたのは、殺風景な一般病棟のベッドの上だった。 窓の外は、すでに暗くなっている。 枕元のスマートフォンを手に取った。着信履歴も、メッセージもない。空っぽの画面が、健の答えだった。 回診に来た看護師が、同情的な視線を理歌子に向けながら、一枚の夕刊を差し出した。 "旦那様、いらっしゃるといいですね" 理歌子は力なく微笑み、新聞を受け取った。 その一面に、見慣れた男の顔が写っている。 『鷹司グループ総帥、鷹司健氏。恋人のため、オークションで希少なピンクダイヤモンドを数億円で落札』 写真の中の健は、萌歌穂の肩を抱き、見たこともないほど優しい顔で微笑んでいた。 その姿が、理歌子の瞳を焼いた。 指先が、氷のように冷えていく。胃が痙攣し、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。 三年間、彼の愛情を信じて耐え続けた。その全てが、今、この瞬間に、灰になった。 理歌子は、点滴の針を乱暴に引き抜いた。 "牧野さん!?" 看護師の制止を振り切り、ベッドから転がり落ちるように立ち上がる。 ふらつく足で、病院を出た。タクシーを拾い、代官山の鷹司本邸へと向かう。 重厚な玄関の扉を開けると、中はしんと静まり返っていた。 理歌子は壁に手をつきながら、ゆっくりと二階の寝室へ向かう。 "あら、奥様。お帰りなさいませ" コーヒーを運んでいた家政婦の斎藤春恵が、理歌子の姿を認め、わざとらしく眉をひそめた。 彼女は、理歌子の行く手を塞ぐように、モップを置く。 "萌歌穂様のお帰りが近いので、床を汚さないでいただきたいですわね。あなたのような方が歩くと、せっかくの床が傷んでしまいますから" 嘲るような声だった。 "……どきなさい" 理歌子は、冷たく言い放った。 その声に含まれた絶対零度の響きに、春恵は一瞬怯む。 しかし、すぐに苛立ちが勝ったのか、彼女は理歌子の肩を強く突き飛ばした。 "なんですの、その態度は!" 虚弱な体は、簡単にバランスを失う。 理歌子は、玄関の飾り棚に強く体を打ち付け、床に崩れ落ちた。 腹部に、熱い痛みが走る。 まだ塞がっていない傷口が、裂けたのだ。白いワンピースの裾が、じわりと赤く染まっていく。 その時、玄関の扉が乱暴に開けられた。 冷たい夜気をまとった鷹司健が、大股で入ってくる。 彼は、床に倒れる理歌子を見下ろし、眉を深く寄せた。 "何をしている。床が汚れるだろう" 理歌子は、ゆっくりと顔を上げた。 蒼白な顔。しかし、その瞳には、もはや以前のような彼への思慕や媚びるような光は一切なかった。 ただ、冷たい虚無が広がっているだけだ。 その無感情な視線に、健はなぜか苛立ちを覚えた。 彼は屈み込むと、理歌子の顎を乱暴に掴み、無理やり上を向かせる。 "俺に逆らう気か。誰のおかげで――" その時、健のスマートフォンが、萌歌穂専用の着信音を奏でた。 彼は舌打ちをすると、理歌子の手を振り払い、電話に出る。 "萌歌穂か。どうした?" 電話の向こうから、萌歌穂の泣き声が聞こえる。 『健様、雷が……怖くて眠れないの』 "わかった。すぐに行く" 健は、すぐに踵を返した。 理歌子のことなど、もう頭にない。 "待って" 理歌子が、最後の力を振り絞って声を上げた。 彼女は、ハンドバッグから一枚の書類を取り出し、健の足元に投げつける。 ひらりと舞い落ちた紙には、『離婚届』という文字が書かれていた。 健は、一瞥もくれなかった。 その紙を無造作に踏みつけ、萌歌穂の元へと去っていく。 玄関の扉が閉まる音を聞きながら、理歌子の視界は、ゆっくりと暗転した。
"奥様! 奥様が血を!" 家政婦の悲鳴が、遠くに聞こえる。 救急車のけたたましいサイレンの音。揺れる視界の中で、理歌子は自分の命がゆっくりと流れ出ていくのを感じていた。 次に意識が戻った時、理歌子はVIP病棟の個室にいた。 医師が、厳しい口調で告げる。 "傷口が開いて、感染症を起こしかけていました。もう少し遅ければ、命に関わるところでしたよ。ご自分の体を、もっと大切にしてください" 理歌子は、黙ってその言葉を受け止めた。 窓の外は、冷たい雨が降っている。 十年前、両親が事故で死んだ日も、こんな雨の日だった。 胸が、ナイフで抉られるように痛む。 その時、病室のドアが勢いよく開かれた。 "理歌子!" 親友の有馬雪が、目を真っ赤にして飛び込んでくる。 彼女はベッドのそばに駆け寄ると、理歌子の蒼白な顔を見て、ぽろぽろと涙をこぼした。 "なんてこと……。どうして、こんなになるまで……" 雪は、怒りに震える手でスマートフォンを取り出した。 "鷹司健……あいつ、絶対に許さない!" "やめて、雪" 理歌子は、力なくその手を制した。 "もう、終わったことだから" "終わってない! あいつは、あなたが死にかけてる時も、あの女と一緒にいたのよ! なんで、まだあんな男を庇うの!" 雪の叫びが、病室に響く。 理歌子は、静かに首を振った。 "庇ってるんじゃない。……ただ、もう、どうでもいいの" 彼女は、窓の外に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。 "十年前、私が川に落ちて死にかけた時、助けてくれたのは、健さんだった" 雪が、息を呑む。 "そんな……初耳よ" "ずっと、言えなかった。その恩があったから、私は三年間、どんな扱いを受けても耐えてきた。でも、もういいの。今回のことで、私の命は半分、彼に返した。だから、もう、貸し借りはない" 理歌子の声は、不思議なほど穏やかだった。 "これからは、鷹司健とは、何の関係もない" 数日後、理歌子は退院の手続きを済ませた。 雪に支えられながら、病院のロビーを歩く。 その時だった。 正面から、見たくもない二人の姿が現れた。 鷹司健が、武井萌歌穂を甲斐甲斐しく抱きかかえるようにして、こちらへ歩いてくる。 萌歌穂は、理歌子の姿を認めると、挑発するように健の腕に体をすり寄せた。 雪の体から、怒りのオーラが立ち上る。 "あの女……!" 今にも飛びかかりそうな雪の腕を、理歌子は強く掴んで引き留めた。 "健様、なんだか、めまいが……" 萌歌穂が、わざとらしく大きな声で甘える。 健は、すぐに心配そうな顔で彼女を抱きしめた。 "大丈夫か、萌歌穂。すぐに診てもらおう" その冷たい瞳が、一瞬だけ、理歌子の顔を捉えた。 しかし、そこには何の感情も浮かんでいない。まるで、道端の石ころでも見るかのように、彼の視線はすぐに通り過ぎていった。 完全な、無視だった。 "人でなし!" 雪が、堪えきれずに叫ぶ。 しかし、理歌子は驚くほど冷静だった。 心臓の奥が、ちくりと痛んだ気はする。だが、それだけだ。 かつて彼に向けられていた愛情は、もう、ひとかけらも残っていなかった。 "理歌子……" 雪が、心配そうに理歌子を抱きしめる。 "大丈夫よ。私が、絶対にあなたを助け出すから" "ありがとう、雪" 理歌子は微笑んだ。その瞳には、今まで見たこともないような、強く、澄んだ光が宿っていた。 病院の玄関を出ると、厚い雲の隙間から、一筋の光が差し込んできた。 "よし! 新生を祝して、美味しいものでも食べに行きましょ!" 雪が、明るく提案する。 理歌子は頷き、スマートフォンの銀行アプリを開いた。 残高、数万円。 鷹司家の嫁として、自由になる金はほとんど与えられていなかった。 経済的自立。それが、今の彼女にとって最大の課題だった。 "大丈夫よ、理歌子! 今日は私のおごりだから!" 理歌子の表情を察した雪が、胸を張る。 だが、理歌子は静かに首を振った。 "ううん。これからは、私一人で、ちゃんと向き合わなきゃいけないから" 交差点で、二人は別れた。 理歌子は、地下鉄の駅へと向かう。 その背中は、頼りなく見えるほど細い。しかし、その足取りは、驚くほどしっかりとしていた。 風が、理歌子の長い髪を揺らす。 彼女は、ハンドバッグの奥から、一枚の古い名刺を取り出した。 指先に力を込めて、その紙片を強く握りしめる。 これが、新しい人生への、第一歩だった。
雪が手配してくれた、サービスアパートメントの一室。 理歌子は、実家から運び込まれたままになっていた段ボール箱を開けていた。 埃をかぶった古い書類の山。その底から、鍵のかかった小さな鉄の箱が出てきた。 鍵はない。理歌子は、躊躇なく箱を床に叩きつけた。 何度か繰り返すと、歪んだ蓋が、音を立てて開く。 中に入っていたのは、一枚の黒いカード。そして、数枚の書類だった。 スイス銀行のプライベートバンクカード。 そして、特許権使用料の支払明細書。 彼女が十五歳で飛び級入学した大学で、研究に没頭していた頃に取得した、医療技術の特許だ。 結婚と同時に、その存在すら忘れていた。 明細書に記載された残高の数字を見て、理歌子は息を呑んだ。 数億円。 それが、彼女自身の力で稼いだ金だった。 眠っていた天才科学者としての記憶が、一瞬にして蘇る。 その時、スマートフォンが静かに振動した。 暗号化されたメール。差出人は、父が生前、最も信頼していた運転手の山田吾郎からだった。 添付ファイルを開く。 そこには、十年前の両親の事故車両の、不鮮明な整備記録のコピーがあった。 ブレーキ部分に、人為的な細工が施された痕跡。 そして、その整備記録にサインをした人物の名前。 ――武井健一。 萌歌穂の父親。理歌子の叔父の名前だった。 全身の血が、逆流するような感覚。 理歌子は、その場に崩れ落ちた。 事故ではなかった。殺されたのだ。 復讐の炎が、胸の奥で静かに燃え上がった。 数日後。 研究所の面接に着ていくための服を買いに、理歌子は銀座の高級百貨店を訪れていた。 あるブティックで、仕立ての良いシンプルなスーツを見つける。 店員に声をかけようとした、その時だった。 "あら、これいただくわ" 赤いマニキュアが塗られた手が、横から伸びてきて、そのスーツをひったくった。 武井萌歌穂だった。 彼女は、限定品のバッグをこれ見よがしに揺らしながら、理歌子を嘲るように見下ろす。 "あなたのような人に、この店の服が買えるのかしら?" "私が先です。それを、こちらに" 理歌子は、冷たく言い放った。 萌歌穂は、顔を歪める。 "何よ、その口の利き方! 店長! この女を追い出して!" 彼女は、鷹司健のブラックカードをカウンターに叩きつけた。 店員が、困惑した表情で理歌子を見る。 理歌子は、動じなかった。 彼女は、自分のバッグから、あのスイス銀行のブラックカードを、静かに取り出した。 店員がカードを受け取ろうとした、その瞬間。 "待て" 低く、冷たい声が、背後から響いた。 鷹司健だった。 彼は大股で歩いてくると、萌歌穂を庇うように自分の後ろに立たせる。 そして、ゴミでも見るかのような目で、理歌子を睨みつけた。 "俺の金を盗んで、こんな所で何をしている。恥を知れ。今すぐ萌歌穂に謝れ" あまりに馬鹿げた言い分に、理歌子は笑いそうになった。 彼女の瞳に、嘲りの色が浮かぶ。 理歌子は、健と萌歌穂が見ている前で、店員に告げた。 "この店で、一番高いドレスをいただくわ。もちろん、このカードで" 決済は、一瞬で終わった。 支払い完了の電子音を聞いて、健の目に、わずかな驚きと疑いの色が浮かぶ。 萌歌穂は、嫉妬に顔を歪ませると、わざとらしくよろけて健の胸に倒れ込んだ。 "健様、足が……" 健は、すぐに萌歌穂を抱きかかえる。 去り際に、彼は理歌子に吐き捨てた。 "くだらない真似は、よせ" 二人の姿が見えなくなるまで見送った後、理歌子の心からは、最後の波紋も消え去っていた。 百貨店を出た理歌子は、すぐさま不動産仲介業者に電話をかけた。 仲介業者の車に乗せられ、理歌子は港区のタワーマンションの最上階に立っていた。 眼下には、東京の夜景が宝石のように広がっている。 "セキュリティは万全で、プライバシーも完璧に守られます" 理歌子は、その場で契約を決めた。 高額な値段を提示されても、彼女は眉一つ動かさない。 ブラックカードで、全額を一括で支払った。 新しい部屋の鍵を受け取った瞬間、理歌子は、この冷たい都会で、初めて自分の居場所を手に入れた気がした。 がらんとしたリビングの中央に立ち、理歌子は固く誓う。 両親の死の真相を、必ず突き止めてみせる。 彼女はスマートフォンを取り出すと、鷹司健の名前を連絡先から削除し、全ての着信を拒否する設定にした。 もう、二度と、彼に人生を掻き乱されたりはしない。