メッセージを受け取ったその瞬間、西園寺静は洗面台の鏡の前に立っていた。 「静、論文の進み具合はどうかな?」 静の心に小さく温かな灯がともった。 婚約者の佐藤健斗から時折届くこうした気遣いの言葉は、孤独な留学生活を送る彼女にとって、唯一の心の拠り所だった。 ちょうど、返信を打とうとしたときだった。 そのすぐ下に、新たなメッセージが通知された。一枚の写真だった。 それを開いた瞬間、静の血の気がすっと引いた。 呼吸が止まり、心臓が凍りついた。 写真の中で、ホテルの白いシーツに溺れるようにして、裸で抱き合う健斗と玲奈の姿があった。高精細なレンズが捉えたのは、肌に滲む生々しい汗の粒と、勝利を確信した玲奈の挑発的な微笑。 胃の底から、どろりとした熱い吐き気が込み上げてきた。 父の死後、莫大な借金を抱えた静を「援助」するという名目で、継母と義妹の玲奈は成り上がりの佐藤家と結託した。彼らにとって静は、佐藤家の体裁を飾るための「没落貴族の血統」という便利な道具に過ぎなかった。 継母たちに厄介払いのように異国へ追いやられ、施しを受けて生きる「寄生虫」として、彼女はずっと彼らの前で頭を下げ、息を潜めて生きてきた。 あの優しい婚約者だけは自分の味方だと、愚かにも信じていたのに。結局、彼らにとって静は、用済みになればいつでも捨てられるゴミだったのだ。 静は震える指で、ゆっくりとスマホの電源を切った。 その瞬間、彼女は反射的に、鏡に映る自分の姿を見上げた。 地味なワンピースに、きっちりと結い上げられた黒髪。 それは、継母と玲奈が静を「都合の良い背景」にするために強いた、色を消された姿だった。彼らの嫉妬を鎮めるために、彼女はあえて自分の美しさを殺し、惨めな人形として生きることを選んできた。 ふっと、可笑しくなった。 これほどまでに醜悪な人間たちの機嫌を取るために、自分は価値を捨てて生きてきたのか。 鏡の中の自分と視線がぶつかった瞬間、静の口元に、これまで一度も見せたことのない残酷な笑みが浮かぶ。 「……いいわ。あなたたちが望むのは、そんなに惨めな私だったかしら」 静の呟きは、もはや震えてはいなかった。 「だったら、期待に応えてあげる。あなたたちが積み上げた偽りの幸せを、すべて地獄の底まで引きずり落としてあげるわ」 彼女はためらうことなく、来月の帰国と結婚式のために予約していたフライト情報を開き、キャンセルボタンを叩きつけた。佐藤家が敷いたレール、誰かに決められた人生。そんなものは、今この瞬間にすべて焼き捨ててやる。 代わりに、東京行きの最も早い便を予約した。迷わず選択したのは、法外な値段のファーストクラスだ。もう、誰の顔色を伺って節約する必要などない。 クローゼットからスーツケースを引きずり出し、普段着を無造作に詰め込む。そして、隅に大切に保管されていた、純白のウェディングドレスを――まるで汚物を捨てるかのように、乱暴に中に放り込んだ。 —— 土砂降りの深夜、タクシーがシャルル・ド・ゴール空港へと疾走する。 十数時間のフライトを経て、成田空港の滑走路に降り立った瞬間、東京特有の湿った空気が肺に流れ込んだ。それは過去の屈辱と、逃げ出したくなるような現実の匂いだった。 静は大きなサングラスで顔を隠し、カートを押して出迎えの人混みを突き進む。そして、視界の端に、場違いなほど俗っぽい蛍光ピンクの画用紙を見つけた。 「おかえり! 西園寺静さん!」 稚拙な字を掲げて、全力で手を振っている少女。静の人生で唯一、裏切ることなく隣にいてくれた親友、本郷彩音だ。 「静——!!」 耳をつんざくような叫び声と共に、彩音が猛然と飛びつき、静を押し潰さんばかりに抱きしめた。 「げほっ……彩音、声が大きい……」 静の抗議は、親友の熱量に飲み込まれて消える。彩音は腕を離すと、静の瞳の奥にある、以前とは決定的に違う「鋭い光」を敏感に察知し、表情を変えた。 「……あのクズ野郎が、何かしたわね」 「ここで話さないで」 静は彩音の手を引き、急いでタクシーへと乗り込んだ。今、西園寺の本家に戻れば、継母がすべてを察知し、先手を打たれるだろう。反撃を開始するには、まず完璧な隠れ家と、絶対的な味方が必要だった。 タクシーは夜の街を切り裂き、港区へと向かう。 「浮気現場に乗り込む気? 私、カメラの準備できてるわよ」 彩音が興奮気味に言うと、静は静かに首を振った。 「乗り込む前に、確認しておくことがあるわ」 静はバッグから薄型ノートパソコンを取り出し、キーボードを叩き始めた。画面に意味不明な文字列が滝のように流れる。 「パリで一人でいる時間、防衛のために少しネットワークセキュリティを学んだの」 数秒後、画面は高級マンションの監視カメラ映像に切り替わった。正確には、健斗のリビングルームの映像だった。 「そうね」と、彩音は画面に釘付けになりながら呟いた。 健斗と玲奈はリビングのソファに寄り添い、激しい運動のせいで頬をほんのり赤らめていた。しかし、静が本当に驚いたのは、近くのソファでゆったりとワインを飲んでいる人物だった。 佐藤家の女帝であり、健斗の母、佐藤恵子。 パソコンのスピーカーから、恵子の冷酷な笑い声が車内に響き渡る。 『よくやったわ、玲奈。あの西園寺の娘が結婚書にサインさえすれば、西園寺家の最後の土地の権利はこちらのもの。サインした翌日にでも、あの女には浮気の濡れ衣を着せて、一文無しで追い出してやりなさい』 『お義母様、任せてください。あんな世間知らず、私がいくらでもいたぶってあげますわ』と玲奈が甘ったるい声で応じる。 彩音は顔面蒼白になり、口を覆った。「浮気どころじゃない……あいつら、最初から西園寺家を完全に潰す気で……!」 静はパソコンの画面を静かに閉じた。 裏切りなどという生ぬるい言葉では済まない。これは、一族の血肉を啜る陰謀だった。 「……静?」彩音が震える声で親友の顔を覗き込む。 静はサングラスをゆっくりと外し、窓の外の東京タワーを見つめた。その瞳には、もはや一滴の涙も、絶望もなかった。あるのは、すべてを焼き尽くす絶対零度の地獄の業火だけだった。 「彩音、行き先を変更して」 静の唇から、美しくも残酷な笑みがこぼれ落ちる。 「単なる婚約破棄なんて、あいつらには優しすぎる。佐藤家を、根絶やしにするわ」
彩音のマンションのリビング。ソファに深く腰掛けた静は、先ほど録画した監視カメラの映像をリプレイしながら、冷たく告げた。 「佐藤家は私がまだパリにいて、何も知らない愚かな女だと思い込んでいる。その優越感を、逆手に取るの」 「でも、リビングの防犯カメラの映像と音声だけじゃ言い逃れされるわよ。あいつら、財界に顔が利くし、『冗談だった』で済まされるかもしれない」 「ええ。健斗は寝室に監視カメラを設置していないから、遠隔ハッキングだけで二人の不貞そのものを録画することは不可能なの」 彩音は心配そうに言いながら、静の前に温かいコーヒーを置いた。 静はコーヒーには手もつけず、スマートフォンの地図アプリをテレビ画面にキャストした。指先が、麻布十番にそびえ立つ要塞のようなタワーマンションを正確に指し示す。 「だから、言い逃れ不可能な『公開処刑』のための弾丸が必要なのよ」 静は彩音から借りたノートパソコンを開き、あらかじめ用意していた灰色の作業着を取り出した。清掃員の制服だ。 「明日の夜、佐藤家が主催する財界のチャリティーパーティーがあるわよね? そこが、奴らの処刑場よ。 その前に、最高画質の『証拠』を仕込んでくる」 深夜十一時。念には念を入れ、静はスマートフォンから健斗にLINEの音声通話をかけた。 数回のコールの後、背後からジャズの生演奏と女性の嬌声が漏れ聞こえる中、健斗が電話に出た。 『……静? どうしたんだ、こんな時間に』 「ごめんなさい、健斗さん。論文が少し行き詰まってしまって……」 静は、いつもの従順で甘えるような声色を、虫唾が走るのを堪えながら完璧に演じきった。 「今、パリの図書館なの。少しだけ、あなたの声が聞きたくなって」 『そうか。無理はするなよ。俺は今、銀座で取引先と会食中だ。愛してるよ、おやすみ』 健斗は心底安心したようにありきたりな嘘を吐き、一方的に通話を切った。 静の唇に、氷のような冷笑が浮かぶ。 これで、麻布十番のマンションが空室であることは確定した。 彼女は長い髪を帽子の中にしまい込み、大きなマスクで顔を覆うと、清掃用具入れの底に超小型の4Kカメラを忍ばせ、夜の街へと溶け込んだ。 —— 清掃員の制服は、完璧な「透明人間」の盾だった。 他の住人に紛れてオートロックを抜け、事前にハッキングで入手した暗証番号を入力し、重厚なドアを静かに開ける。 リビングを抜け、まっすぐ主寝室へ向かう。 椅子を足場にして、キングサイズのベッドを真正面から見下ろすエアコンの吹き出し口に、カメラを慎重に固定する。指紋一つ残さないよう、持参した特殊なクロスで触れた場所を執拗に拭き上げた。 完璧だ。あとは録画アプリを起動して立ち去るだけ。 静がそう思い、椅子から降りようとした、まさにその瞬間だった。 ピピッ。ガチャリ。 玄関の電子錠が解除される無機質な音が、静かな室内に雷鳴のように響き渡った。 静の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がった。血液が逆流し、手足の先が急激に氷のように冷たくなる。 「銀座にいる」というアリバイは嘘だったのか。それとも、予定を早めて帰ってきたのか。 「あー、酔ったわぁ。健斗様ぁ、早くシャワー浴びましょうよぉ」 玲奈の甘ったるい声と、健斗の靴音が、リビングを通って真っ直ぐに寝室へと向かってくる。 逃げる時間はない。 静は音を立てずに素早くベッドの横を滑り抜け、壁一面に備え付けられた巨大なウォークインクローゼットの中に身を滑り込ませた。 ルーバー状の扉の隙間から、寝室の様子が微かに見える。 静は自らの口を両手で強く塞ぎ、呼吸すらも止めた。背中を冷たい汗が滝のように流れ落ちていく。 「おい玲奈、引っ張るなよ。まずは明日のパーティーの準備の確認だ」 ベッドに倒れ込んだ健斗が、玲奈の頭を撫でながら言う。 「準備って……ああ、あの『深海の涙』のこと?」 その名前を聞いた瞬間、クローゼットの中の静の瞳孔が限界まで収縮した。 『深海の涙』——それは、没落時に佐藤家が「一時的に預かる」という名目で強奪していった、静の亡き母の形見のブルーサファイアのネックレスだ。 「そうだ」健斗が極めて下劣な笑い声を上げる。 「明日、あれをチャリティーオークションの目玉として出品する。西園寺のババアの遺品がいくらで売れるか見ものだな。その金で、俺たちモルディブにハネムーンに行こうぜ」 「最高! でも、静お姉様がうるさくない?」玲奈が健斗の胸を指でなぞる。 「あの退屈で不感症な木偶人形か? 土地の権利書にサインさえさせたら、適当に睡眠薬でも飲ませて、ホームレスのベッドに放り込んで写真を撮るさ。『名門・西園寺家の令嬢、薬物と乱交スキャンダル』……これで慰謝料一円も払わずに、ゴミ箱へポイだ」 「ふふっ、ひどぉい! でも私、お姉様が路頭に迷って泣き叫ぶ顔、特等席で見たいわ!」 静の胃がせり上がるような激しい吐き気を覚えた。ただの浮気ではない。彼らは静の尊厳を泥で汚し、母の思い出を自分たちの快楽の資金に変えようとしているのだ。 「あ、やだ。ピアス落としちゃった」 突然、玲奈がベッドから立ち上がった。 その足先が、真っ直ぐに……静が潜むクローゼットの方へと向かってくる。 コツ、コツ、コツ。 ハイヒールの音が、死神のカウントダウンのように響く。 静は両手で自らの口と鼻を死ぬ気で塞ぎ、壁の奥へと身体を押し付けた。肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。心臓の音がうるすぎ、外に聞こえてしまうのではないかと錯覚した。 玲奈の赤いマニキュアを塗った指先が、クローゼットの扉のすぐ下の床に伸びる。 ルーバーの隙間越しに、玲奈の顔がわずか数センチの距離に迫った。彼女のアイラインの跳ね上げまでが、はっきりと見える。 もし今、玲奈が顔を少し上げれば、隙間から静と確実に目が合う——! 「玲奈、ピアスなんて後で買えばいいだろう。早くこっち来いよ」 背後から健斗の欲情した声が響いた。 「もぉ、健斗様ったら、せっかちね」 玲奈は床を探るのをやめ、立ち上がって健斗の腕の中へと戻っていった。 二人が衣服を乱暴に脱ぎ捨てながら、バスルームへと消えていく。シャワーの水音が鳴り響き始めた。 助かった。 静はクローゼットから音もなく這い出し、二人が落とした衣服を一瞥もせず、玄関へと向かった。 震える手でドアを開け、外の廊下に飛び出す。非常階段を駆け下りる間、彼女の心臓は怒りで爆発しそうだった。 —— 彩音のマンションに戻った静は、汗で張り付いたマスクを乱暴にむしり取った。 「静!? 大丈夫だった!? 顔が真っ青よ!」 駆け寄る彩音のスマートフォンには、たった今静が仕掛けてきたカメラから送られてくる、二人の生々しい「行為」の映像が映し出されていた。 「証拠はバッチリ録画できてるわ。これで婚約破棄して、慰謝料ふんだくってやりましょう!」 彩音が息巻くが、静の瞳には、もはや人間らしい感情は欠片も残っていなかった。漆黒の瞳の奥で、青白い地獄の炎が燃え盛っている。 「慰謝料なんて生ぬるいもので終わらせるもんですか」 静はシャワーの冷水で顔を洗いながら、鏡に映る自分を真っ直ぐに見据えた。 「明日の夜、佐藤家が主催するチャリティーパーティー……。数百人のVIPが集まるあの豪奢な会場の巨大スクリーンに、今録画しているこの極上の『交尾映像』をノーカットで流してやるわ」 静の唇から、美しくも残酷な笑みがこぼれ落ちた。 「佐藤健斗、藤川玲奈。明日の夜、あなたたちの栄光の絶頂を、最も無惨な公開処刑の舞台に変えてあげる」
「弾薬の装填は終わったわ」 静はノートパソコンをバタンと閉じ、冷え切った指先を白くなるまで強く握り込んだ。 エンターキーを叩く乾いた音が、彩音のマンションのリビングに響き渡った。 画面の中央でプログレスバーが100%に達し、「転送完了」のポップアップが点灯する。あの醜悪で生々しい「交尾映像」が、三つの暗号化クラウドに完全にロックされた瞬間だった。 「なら、こっちも最高の『通行証』を用意したわよ」 彩音が目を輝かせながら、一枚の招待状をテーブルに滑らせた。金の箔押しが施された、ロイヤルクレストホテルのVIPインビテーション。マスコミ枠の中でも、ごく一部の特権階級にしか配られないものだ。 「今夜のチャリティーパーティー。佐藤健斗のクズ野郎は、自分が主役だと思ってふんぞり返ってるはずよ。最高の処刑場じゃない?」 静は不敵に微笑むと、再びキーボードを叩き、ホテルの宴会管理システムに侵入。招待客リストの末尾に、何食わぬ顔で『西園寺静』の名前を暗号化して忍ばせた。 数時間後。 寝室から現れた静の姿に、彩音は息を呑んで言葉を失った。 常に地味で、目立たないようにと佐藤家から強要されていた「パステルカラーの従順なワンピース」はもうない。 静が身に纏っていたのは、血のように深く、攻撃的な真紅のイブニングドレスだった。 背中が大胆に開き、雪のように白い肌と黒髪のコントラストが、見る者の目を焼き尽くすほどの妖艶さを放っている。大和撫子の仮面を完全に叩き割った、復讐の女神の姿がそこにあった。 「……静、あんた、最高に綺麗よ。あいつら、絶対腰を抜かすわ」 「ええ。最高の悪夢を見せてあげる」 一人タクシーに乗り込み、ロイヤルクレストホテルへと向かう。 窓の外を流れるネオンの光が、静の瞳に刃のような鋭い光を反射させていた。 —— タクシーが、金色の装飾が施されたホテルのエントランスに停まる。 静がドレスの裾を捌きながら車を降りると、冷たい夜風が彼女の黒髪を大きく揺らした。 回転ドアに向かおうとした、その時だった。 周囲の喧騒が、まるで真空パックにされたように一瞬で消え去った。 一台の漆黒のマイバッハが、特殊な連番のナンバープレートを誇示するように、静のすぐ背後に滑り込んできたのだ。 ドアが開き、屈強な黒服のSPたちが十数人、素早く降りて黒い傘を広げ、周囲の人間を弾き飛ばすように鉄壁の人垣を作る。 静は、その異常な空気に思わず足を止めた。 雨に煙るその向こう。後部座席から、一人の長身の男が降りてきた。 一切の無駄を削ぎ落とした漆黒のオーダーメイドスーツ。手には、先端に希少なブラックダイヤモンドが嵌め込まれた杖。 男が一歩踏み出しただけで、エントランスの温度が数度下がったかのような、暴力的なまでの威圧感が空気を支配した。 静の心臓が、警告音を鳴らすように不規則に跳ねた。 頂点に君臨する捕食者に、喉元を睨まれたような抗いがたい圧迫感。 男——鷹司暁は、SPが掲げる巨大な傘の下で、ゆっくりと顔を上げた。 その深く、底知れない氷のような瞳が、雨のヴェールを突き抜け、真っ赤なドレスを着た静の姿を、正確に射抜いた。 視線が絡み合ったのは、コンマ数秒。 しかし、静にはそれが永遠のように感じられた。男の視線は、服を通り越し、彼女の魂の奥底まで値踏みするような、極めて危険な熱を帯びていたからだ。 その瞬間、夜風が静の髪を揺らし、暁の鼻腔を微かに掠めた。 ——六年前の雪の夜に嗅いだ、あの梔子の花の香り。 暁の杖を握る骨張った長い指に、ギリッと力が籠もる。 氷の奥底で、狂気じみた狩人の炎が燃え上がった。六年。地球の裏側まで探し続けた獲物が、今、自分から牙を剥き出しにして目の前に立っている。 静は、男の放つ異常な引力に呑まれそうになるのを必死に振り払い、パッと視線を逸らした。 「今夜のターゲットは健斗よ。余計な大物にペースを乱されてはいけない」 心の中でそう呟き、彼女は背筋を伸ばして、ホテルの回転ドアへと堂々と足を踏み入れた。 彼女は気づいていなかった。 背後で、鷹司暁が歩みを止め、その血のように赤いドレスの背中が完全に視界から消えるまで、一瞬たりとも目を離さなかったことに。 「……小方」 暁は、低く、腹の底に這うような声で傍らの秘書を呼んだ。 「はっ、総帥」 「あの赤いドレスの女。今夜の宴会場で、彼女の半径五メートル以内に近づくオスをすべてリストアップしろ」 暁の唇の端に、極めて危険で、絶対的な独占欲に満ちた笑みが浮かんだ。 「彼女は、俺の獲物だ。誰にも指一本触れさせるな」