婚約破棄された天才女医、冷徹な軍人総帥に溺愛される
第1章

「どっちか一人だ」 低い、錆びついたような声が、小林星の鼓膜を直接揺さぶった。 「どっちか一人だけ、連れて帰っていいぜ」 コンクリートの床から這い上がってくる冷たさが、背骨を突き刺す。 鼻腔に満ちる鉄錆と湿ったカビの匂い。 心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく脈打っていた。 星はゆっくりと目を開けた。 視界に映ったのは、薄暗い、埃っぽい廃工場の天井。剥き出しの鉄骨が、まるで巨大な獣の肋骨のように見えた。 (ここは……?) 次の瞬間、脳を鈍器で殴られたような激痛が走った。 前世の記憶。 炎に包まれた部屋。焼け付くような熱。そして、腹部を貫いた、鋭い、氷のような痛み。 「うっ……!」 思わず呻き声が漏れる。瞳孔が恐怖に震え、星は喘ぎながら周囲を見渡した。 間違いない。 ここは、鳥取県の廃墟工場。 三年前、婚約者である高橋翔太、そして彼の浮気相手である藤井美咲と共に、反社会的勢力に誘拐された、あの場所だ。 目の前では、鬼塚剛と名乗る男が、鈍く黒光りする拳銃を翔太の額に突きつけていた。 「さあ、選べよ。お前のフィアンセか?それとも、そっちのかわい子ちゃんか?」 鬼塚の唇が、残酷な笑みに歪む。 死の脅威が、凝固した空気となって三人を圧し潰していた。 翔太は、高級スーツを土埃で汚し、全身を小刻みに震わせていた。その瞳が、怯えたように星と美咲の間を行き来する。 星は、その瞳の奥に揺らめくものを見た。 恐怖。自己保身。そして、醜いほどの利己主義。 そうだ。思い出した。 前世のこの時、翔太は一瞬の逡巡の後、迷いなく美咲を選んだのだ。 「星なら、きっと分かってくれるよな?」 そう言って、彼は泣きじゃくる美咲の手を取り、星をこの地獄に置き去りにした。 強烈な裏切りの感覚が、三年の時を超えて星の胸を抉る。 あまりの悔しさに、星はぐっと下唇を噛み締めた。口の中に、じわりと血の味が広がる。 「翔太さん……っ」 絶妙なタイミングで、美咲が弱々しいすすり泣きを漏らした。潤んだ瞳で翔太を見上げ、その保護欲を掻き立てようとしているのが手に取るように分かる。 生理的な嫌悪感が、胃の底からせり上がってきた。 前世の自分は、この期に及んで翔太に泣きつき、懇願した。 「どうして?翔太くん、私を見捨てないで!」 なんと愚かだったのだろう。 星は、もう泣かなかった。 ただ、氷のように冷たい視線で、真っ直ぐに翔太を見つめた。 その瞳には、懇願も、絶望も、悲しみもなかった。あるのは、底なしの軽蔑と、絶対的な決別だけだ。 翔太が、その視線に気づいて息を呑む。 なぜだか分からないが、背筋に冷たいものが走った。いつものように従順で、自分がいなければ何もできないはずの星が、まるで別人のように見えた。 「おい、まだかよ!」 鬼塚が苛立ったように、銃のスライドを引いた。 ガシャン、という無機質な金属音が、翔太の決断をこれ以上ないほどに急き立てる。 翔太の唇が、何か言い訳を紡ごうと震えながら開く。 だが、それよりも早く。 「翔太さん」 星の声が、静かに、しかし工場全体に響き渡るほど明瞭に、その場を支配した。 「美咲さんを、連れて行ってあげて」 「……は?」 翔太が、間の抜けた声を出す。 鬼塚も、美咲も、一瞬、何が起こったのか理解できないという顔で星を見た。 「私は、大丈夫だから」 星は、まるで天気の話でもするかのように、淡々と言った。 自ら、死を選んだのだ。 翔太は、目を大きく見開いたまま硬直した。星が自分を庇って死を選ぶ?そんなこと、あり得るのか? 愛しているから? そうだ、きっとそうだ。星は俺を愛しているから、自ら犠牲になろうとしているんだ。 そう思うと、喉の奥に詰まっていた虚偽の言葉は霧散し、代わりに安堵と、ほんの少しの優越感が込み上げてきた。 「ケッ、つまんねえ男だな」 鬼塚が、そんな翔太の内心を見透かしたように、嘲りの笑みを浮かべた。 そして、翔太と美咲の背中を、無造作に蹴り飛ばした。 「とっとと失せろ!」 翔太は、まるで恩赦を受けた罪人のように、慌てて美咲の手を引いた。 一度も、振り返らなかった。 星を、この絶望的な暗闇の中に、たった一人で置き去りにして。 ゴウッ、という地響きのような音を立てて、重い鉄の扉が閉ざされた。 最後の光が遮断され、工場は完全な闇に包まれる。 静寂の中で、星自身の心臓の音だけが、やけに大きく響いていた。 鬼塚が、ゆっくりとこちらに轉身する気配がした。暗闇に慣れた瞳が、残忍な光を宿して星を捉える。 物理的な力の差が、絶望的なほどに空気を重くする。 呼吸が、浅くなる。 (落ち着いて、小林星) 星は、自分に言い聞かせた。 前世とは違う。今度こそ、誰にも頼らない。自分の手で、この運命を変えるんだ。 星は、必死に周囲を見回した。何か、武器になるものは。何か、この状況を打開できるものは。 鬼塚の大きな手が伸びてきて、星の顎を乱暴に掴んだ。 「さて、と。お嬢ちゃん、二人きりになっちまったな」 心理的に追い詰めようとする、下卑た笑み。 星は、わざと怯えた表情を作り、彼の警戒心を解くことに集中した。 その時、星の視界の端が、床に落ちている何かを捉えた。 月明かりが、閉ざされた扉の隙間から細く差し込み、その物体を鈍く光らせている。 割れた、窓ガラスの破片だ。 星は、内心でほくそ笑んだ。 鬼塚の力が、顎から首筋へと移っていく。 星は、反撃の瞬間を計りながら、静かに、全身の筋肉に力を込めていった。

第2章

「や、やめて……ください……」 星は、か細く、震える声で懇願した。 わざとらしく体を縮こまらせ、抵抗する意思がないことを示す。 鬼塚は、その怯えた様子を見て、満足そうに喉を鳴らした。 「ハッ、やっぱり女はこうでなくっちゃな」 彼は、星のあまりの無抵抗さに油断しきっていた。 手にした拳銃を無造作に床に置き、星の服に手をかけようと身をかがめる。 その一瞬の隙を、星は見逃さなかった。 (今だ!) 鬼塚が、星の着ていたジャケットの襟を掴み、引き裂こうとした、その瞬間。 星は、袖口に隠し持っていたガラスの破片を、逆手で固く握りしめた。 そして、蓄えていた全ての力を解放し、身を捩りながら体を起こす。 狙うは、鬼塚の剥き出しの太腿。 「しまっ……!」 鬼塚が気づいた時には、もう遅かった。 鋭利なガラスの先端が、分厚いズボンを貫き、その下の大腿動脈に深く突き刺さる。 「ぐあああああっ!」 獣のような絶叫が、廃工場に響き渡った。 動脈から噴き出した鮮血が、星の顔に温かく飛び散る。 鬼塚が、信じられないという顔で自分の足を見下ろし、苦痛に身をよじらせて後ずさった。 星は、その隙に弾かれたように立ち上がった。 振り返らない。 背後で、鬼塚と彼の仲間たちが怒号を上げるのが聞こえたが、構っている暇はなかった。 星は、工場の裏口へと、一心不乱に走った。 腐りかけた木製の扉に、全体重を乗せて体当たりする。 バキッ、という音と共に扉が破れ、星は外の冷たい夜気の中に転がり出た。 そこは、鳥取砂丘の端に広がる防風林だった。 松の木々が、月明かりを遮り、足元は暗く不安定だ。 肺が、燃えるように痛い。 極度の疲労感が、鉛のように体にまとわりつき、星の足を止めようとする。 だが、止まるわけにはいかない。 背後から、パン、パン、と乾いた銃声が連続して響いた。 そのうちの一発が、星のすぐ横の木の幹を抉り、木屑を飛び散らせる。 そして、次の瞬間。 右の脹脛に、焼けた鉄の棒を押し付けられたような、灼熱の衝撃が走った。 「……っ!」 声にならない悲鳴と共に、星の体は前のめりに地面に叩きつけられた。 激痛で、視界が白く点滅する。 足が、言うことを聞かない。 背後から、複数の足音が近づいてくる。 鬼塚が、血を流す足を引きずりながら、鬼の形相で銃口をこちらに向けていた。 「この、クソアマが……!」 死の影が、今度こそ完全に星を覆い尽くした。 もう、逃げられない。 星は、唇を強く噛み締め、決して悲鳴は上げまいと心に誓った。 目を閉じて、最後の瞬間を待つ。 その時だった。 バタバタバタバタッ! 空気を引き裂くような、けたたましいローター音が、夜の静寂を破壊した。 何事かと目を開けると、信じられない光景が広がっていた。 一機の、漆黒のヘリコプター。 陸上自衛隊所属の、ブラックホーク。 それが、まるで天から降臨した神のように、彼らの頭上に滞空していた。 機体に搭載されたミニガンが火を噴き、鬼塚たちの足元に正確な威嚇射撃を叩き込む。 ドドドドドッ! 砂塵が舞い上がり、男たちの視界を奪った。 その隙に、ヘリコプターから黒い戦闘服に身を包んだ隊員たちが、次々とロープで降下してくる。 まるで、黒い稲妻の群れだった。 彼らが放つ、訓練された者だけが持つ強烈なプレッシャーが、一瞬で場を制圧した。 星は、あまりの衝撃に、足の痛みさえ忘れてその光景を見つめていた。 隊長らしき男が、無言でハンドサインを送る。 すると、隊員たちはまるで統率された狼の群れのように散開し、わずか十数秒で、呆然と立ち尽くす犯人たちを全員、地面に組み伏せてしまった。 その手際の良さは、もはや芸術の域に達していた。 隊長の男が、こちらに轉身する。 逆光で表情は見えないが、その高身長でがっしりとしたシルエットが、強烈な圧迫感と、それ以上の安心感を星にもたらした。 失血のせいで、視界が霞み始める。 男は、星の前に片膝をつくと、その大きく、節くれだった、しかし驚くほど沉稳な手で、星の足の出血点を強く圧迫した。 「メディック!」 短く、低い、よく通る声で、彼は部下に指示を出す。 すぐに軍医が駆けつけ、星は手早く担架に乗せられた。 死の匂いが充満していた砂丘から、引き離されていく。 星は、軍用の医療車両の中に運び込まれた。 バタン、とドアが閉まり、外の喧騒が嘘のように遠ざかる。 「バイタル安定。意識レベル、クリアです」 軍医の木村と名乗る男が、冷静に報告する。 彼らの会話から、この部隊が陸上自衛隊の中でも最強と謳われる、特殊作戦群であることを星は確信した。 心の底にあった大きな石が、ようやく取り除かれた気がした。 星は、車両の隅で、手についた血を無言で拭っている隊長の男を見つめた。 (……助かった) 今度こそ、本当に。 私は選んだ。翔太にすがらず、自分の意志で美咲を逃がした。そして、ガラスの破片で鬼塚を傷つけ、ここまで這いずってきた。たとえこのまま終わっても――私は、あの時の無力な私ではない。 もう、運命に「助けて」と嘆願するだけの哀れな私は、ここにはいない。 私は、死の運命を変えることができたんだ。 安堵感から、星はゆっくりと目を閉じた。

第3章

軍用車両が、鳥取基地の臨時駐屯地に静かに停車した。 後部のドアが開け放たれ、夜間用の眩しい投光器の光が、星の目を射抜く。 数名の衛生兵が、手際よく星の乗った担架を運び出し、防風性の高い、巨大な医療用テントへと急いだ。 鷹司慧は、ヘルメットとゴーグルを外し、その冷たく整った顔を露わにした。そして、担架の後を追うように、静かにテントの中へと足を踏み入れた。 無影灯の真下に運ばれた星は、その強烈な光の中で、初めて慧の顔をはっきりと見た。 深く彫られた目鼻立ち。 厳しく引き結ばれた唇。 全てを射抜くような、鋭い黒曜石の瞳。 その顔を見た瞬間、星の心臓が大きく跳ねた。 (この人は……!) 前世の記憶が、鮮烈に蘇る。 東南アジアの、蒸し暑いジャングル。人身売買組織のアジト。 絶望の淵で、死を覚悟した自分を救い出してくれた、一人の指揮官。 顔は覚えていなかった。 だが、この圧倒的な存在感と、瞳の奥に宿る静かな光は、決して忘れられるものではない。 「……っ!」 感情の昂りのままに、星は身を起こそうとした。 しかし、その動きが足の銃創に響き、鋭い痛みが走る。 「う、ぐ……」 思わず漏れた苦悶の声に、慧の眉がわずかに寄せられた。 彼は大股で星のそばに歩み寄ると、その大きな手で星の肩をぐっと押さえつけた。 「動くな。治療の邪魔だ」 低く、有無を言わせぬ、威厳に満ちた声。 その掌から伝わる、硬質な熱。 星は、内心の激しい動揺を無理やり押し殺し、彼の命令に従って、大人しく手術台に横たわった。 軍医が、傷口の洗浄と局所麻酔の注射を始める。 麻酔の針が刺さる痛みと、消毒液の冷たさに、星の額にじっとりと汗が滲んだ。 慧は、少し離れた場所で、腕を組んでその様子を冷徹な目で見つめていた。 だが、星が痛みに耐えるために下唇を血が滲むほど噛み締めた時、彼は黙って星のそばに寄り、清潔なガーゼを彼女の口元に差し出した。 「……」 星は、一瞬、驚いて目を見開いた。 そして、彼の意図を察し、素直に口を開けてガーゼを咥える。 慧を見上げる瞳に、感謝と、そして深い探究の色が浮かんだ。 やがて、軍医がピンセットで弾丸を摘出し、傷口を縫合し終えた。 「これで危険はないでしょう」 その言葉に、テント内の張り詰めた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。 慧は軍医に短く頷くと、傍にあった戦術用の折り畳み椅子を引き寄せ、星のベッドの横に腰を下ろした。 彼は、記録用の手帳を取り出すと、完全に事務的な口調で、星の名前と住所を尋ねてきた。その声には、感情の起伏が一切感じられない。 星は、彼の質問に淡々と答えた。 しかし、高橋翔太の名前を口にする時、その瞳に隠しきれない嫌悪の色がよぎった。 慧は、その微細な感情の変化を見逃さなかった。 記録する手を止め、その深い瞳で、星の蒼白な顔をじっと見つめる。 「あの……」 沈黙に耐えかねたように、星が先に口を開いた。 「助けていただいて、ありがとうございました。鷹司、隊長」 掠れた声だったが、感謝の気持ちははっきりと伝わったはずだ。 慧は、星が自分の名前を知っていることに、わずかに驚いた表情を見せたが、特に深くは追及しなかった。 「職務だ」 ただ、それだけを冷たく言い放った。 その時、一人の通信兵が慌ただしくテントに駆け込んできた。 「隊長!外周の警戒線に、不審な複数の人影を確認しました!」 慧は、その報告を聞くと同時に、椅子から立ち上がった。 再び、冷徹な指揮官の顔に戻っている。 彼は、手早く装備を身につけながら、星に「ゆっくり休め」とだけ言い残し、嵐のようにテントから去っていった。 星は、夜の闇に消えていく、彼の逞しい後ろ姿を、ただじっと見つめていた。 そして、誰にも見えないように、シーツの下で固く拳を握りしめる。 今度こそ、この人の隣に、堂々と立てる自分になる。 もう二度と、誰かに運命を委ねたりはしない。 星は、固く、そう誓った。

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