離婚から始まる逆襲:冷酷な夫はもう要らない
第1章

「ママ、あつい」 娘の美晴がぐずり、静の喪服の裾を引いた。静は身を屈め、小さな額にそっと手のひらを当てる。熱い。じっとりとした汗が、指先に伝わってきた。 重たい黒の喪服が背中に張り付く。息が詰まるような暑さだった。 今日は、高志家の長男であり、静香の夫の兄である高志智明の葬儀の日です。ヘリコプターの事故による、あまりに突然の死。公式の調査報告書は機械的な故障を原因としていたが、静はかつて智明が、暴力団と繋がりのある競合他社について冗談めかして話していたことを思い出していた。あの時は軽く聞き流していたが、今となってはその記憶が、肌の下に刺さった棘のように疼いた。 静は娘を抱き上げ、弔問客でごった返す人波を縫って進んだ。遠縁の親族たちが投げる、品定めするような視線が肌に突き刺さる。静は俯き、足早にその場を離れた。 「鷹司夫人、心よりお悔やみ申し上げます」 会社のパートナーである佐藤健一氏が差し伸べた手を、完璧なバランスと抑制をもって静かに受け止めた。指先が触れるか触れないかのうちに、すぐに引き戻す。黒のトム・フォードのドレスが肩に張り付き、シルクの重みと高級感だけが肌に残った。 「ありがとうございます、佐藤様。智明は本当に素晴らしい方でした」 佐藤の視線は静の顔にわずかに長く留まり、次にバーの方へ滑り、また彼女の元へと戻ってきた。 「実に、素晴らしい方でした」 静の微笑みは揺るがない。「失礼します。ケータリングの最終確認がございますので」 彼が何か言う前に、静は身を翻した。ヒールが軽井沢の別荘の大理石の床にカツカツと乾いた音を響かせる。鷹司智明の葬儀には、東京の名だたる名士たち三百人が参列していた。その全員が、喪の黒に身を包み、それぞれの思惑を抱えてやってきていた。 静は群衆の中を、刃が水を裂くように進んでいく。ある参議院議員の夫人からの哀悼の言葉を受け止め、財団の新プロジェクトに関する質問を巧みにかわし、智明の学生時代の思い出話には、優しく目を細めてみせた。すべてのやりとりは計算され、精緻で――そして、疲れ果てるものだった。 空気が欲しかった。庭の空気ではない。煙草の煙と、囁かれる憶測とで濁った、あの空気ではない。本当の空気。そして、孤独。 静は大階段へと滑り込み、手すりに指を添えながら上がっていく。軽井沢別荘の二階は、こうした行事の際には立ち入り禁止区域だった。家族だけが許される場所。彼女はゆっくりと階段を上った。一階での演技に、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。 東の棟は静かだった。高い窓から差し込む午後の光の中を、埃がゆっくりと舞っている。彼女は閉じられた扉の前を、いくつも通り過ぎた。客室。智明の子供時代の部屋。彼の娘がかつて眠っていた部屋。そして、廊下の突き当たりにある、重厚な樫の扉の前にたどり着いた。 智明の書斎。彼はそこを「聖域」と呼んでいた。革と古書の匂い、そして本物の思考だけが宿る部屋特有の静けさ。静はここで、何時間も彼と過ごしたものだった。階下で夫の鷹司暁がビジネスを仕切っている間、二人は詩について語り合った。 彼女は携帯電話を取り出し、井上文子に新しい出発予定時刻を知らせようとした。その時だった。 書斎の中から、声が聞こえた。 「こんなふうに会い続けるわけにはいかないわ」 西園寺絢子の声。智明の未亡人。静の義理の姉になって、もう四年になる。 静の手が凍りついた。立ち去るべきだ。絢子がどんな個人的な悲しみに直面しているにせよ、静が立ち入っていい場所ではない。 すると、暁の声が聞こえた。 「他に選択肢はない。少なくとも」 「暁さん、私、怖いの」絢子の声は低く、親密で、震えていた。「もし千代様に知られたらどうするの? 私、鷹司家から追い出されるわ。お義母様がスキャンダルをどう思っていらっしゃるか、あなたもご存知でしょう」 「大丈夫だ」暁の声は確固としており、自信に満ちていた。取締役会での議論を終わらせたい時に使う、あの声だった。「智明が死んだばかりだ。誰も君に手を出せない。それに――我々の計画こそが重要なんだ」 静の呼吸が止まった。計画? 「一度、胎児の親子鑑定でこの子が鷹司家の後継者だと確認されれば」絢子は続けた。その声はいつしか落ち着きを取り戻し、ほとんど打算的にすら聞こえた。「すべてが変わるわ。智明の信託、取締役の議席、議決権付き株式。すべてがこの子を通じて流れ込む。私たちの未来は、これで確保されるの」 赤ちゃん。その言葉は、静の胸を物理的な打撃のように打った。彼女は額縁を握りしめた。指の関節が、暗い木の表面で白くなった。 「そうだ」暁が言った。「一人の後継者。それが我々に必要な切り札だ。智明の信託は、直系の子孫がいなければ世代を飛ばすように組まれている。絢子、この子さえいれば、我々がすべてを掌握できる」 静の胃が、ひっくり返った。彼女は空いている手を口に当て、喉の奥から込み上げる吐き気をこらえた。 扉の隙間から、動きが見えた。影が揺れる。布地の擦れる音。そして、音。キス。柔らかく、長く、紛れもないもの。 再び暁の声。今度は低く、親密で――静の肌が総毛立つような響きだった。 「愛していない夫の葬儀で、悲しみに暮れる未亡人の役を演じさせてしまって、本当に申し訳ありません。さぞかし辛かったことでしょう。」「私たちの未来のためなら、何だってするわ」絢子の笑い声は軽く、ほとんど遊び心すら滲んでいた。「でも静さん……あの人は鋭いわ。何か気づいたらどうするの?」 暁は鼻を鳴らすような音を立てた。取るに足らないものと切り捨てるように。「静博士は、自分のラボと特許にしか関心がない。家族の政治や、感情の機微。彼女はデータには天才的だが、人には鈍感だ」彼は一拍置いた。「完璧な妻だよ。美しく、教養があり――そして、まったく無害だ」 無害。その言葉は、刃のように正確で冷たく、静の体に突き刺さった。データの異常を処理するために訓練された彼女の脳は、瞬時に新たな入力の分析を始めていた。入力――七年間の結婚生活、一人の娘、共有されたはずの未来。出力――計算されたビジネスの取り決め。変数「愛」――該当なし。結論――彼女の人生というモデルは、その根底から破損したデータの上に築かれていた。壊し、作り直す必要があった。 彼女はまだそこに立ち、まだ息をしていた。その時、ドアノブが回った。 静は考える間もなく身を動かし、扉の横の壁龕に身を投げ込んだ。分厚いベルベットのカーテンが、彼女を飲み込む。布地は埃と、古い金持ちの匂いで重かった。携帯電話を握る親指がキーパッドの上で宙に浮いたまま、無意識にサイドボタンを押していた。かすかな電子音とともに画面がロックされる。音声を録音していたのか、それともホーム画面のスクリーンショットを撮っただけなのか、自分でもわからなかった。彼女は壁に背中を押し付け、心臓が激しく打つのを感じていた。彼らに聞こえてしまうのではないかと、確信するほどに。 足音。二組。 彼らは彼女の隠れ場所から数センチのところを通り過ぎた。静はカーテンの隙間から、暁の手が絢子の腰のくびれに置かれ、彼女を階段へと導くのを見た。二人の顔は、すでに変貌していた。暁は喪に服す厳しい表情に。絢子は完璧に計算された悲しみで、青ざめ、やつれた表情に。 彼らは、嘆き悲しむ義姉を慰める、献身的な義弟のように見えた。二人の間には、何の関係もないように見えた。 静はその足音が消えた後も、長い間、暗闇の中に立ち尽くしていた。足が震える。手は氷のように冷たかった。彼女は呼吸を数え、それが落ち着くまで数え、そしてもう一度数えた。 ようやくカーテンの後ろから姿を現した時、彼女の顔は無表情だった。急ぐことなく、振り返ることもなく、彼女は二階のテラスへと歩いていった。十月の風がドレスを捕らえ、シルクを旗のように脚に打ち付ける。 彼女は携帯電話を取り出した。 画面に写真が映る。昨夏のワイナリー旅行での、暁と静と美晴。三人がカメラに向かって笑い、美晴が二人の腕に抱えられて宙に浮いている。完璧な家族。完璧な嘘。 静の親指が、画像の上で止まった。そして、削除を押した。写真は消えた。画面は暗くなった。 彼女は連絡先から井上文子の番号を見つけた。家政婦は、二コール目で出た。 「奥様?」 「文子」静の声は落ち着いており、ほとんど快活ですらあった。「車を勝手口に回して。すぐに出発する必要があるの」 返事を待たず、彼女は通話を切った。そして手すりに肘をつき、手入れの行き届いた庭園を見渡した。そこでは三百人の弔問客が、なおもシャンパンを飲み、株価について語らい、死に何か意味があるかのように振る舞い続けていた。 風が冷たく、彼女の顔を打った。 静は、それを感じなかった。

第2章

ベントレーは表参道のマンションの地下駐車場へと静かに滑り込み、タイヤがコンクリートに擦れる音だけが響いた。静は窓に映る自分の姿を見つめながら、地下へと降りるにつれてにじむ街の灯りを見ていた。 「ありがとう、田中さん」 運転手がドアを開けるのを待たず、彼女は車から降りた。裸足が冷たい床に沈黙のうちに触れた。彼女は首都高速道路のどこかでヒールを脱ぎ捨てていた。もう一秒もあの締め付けに耐えられなかったのだ。 プライベートエレベーターは滑らかに上昇し、鏡張りの壁が彼女の姿を無限に増殖させた。静はガラスの中の女をじっと見つめた。青白い肌、きつく結い上げられた黒髪、誰か別の人のもののように見える目。 ドアがペントハウスの玄関ホールに開いた。 「奥様」 井上文子が立って待っていた。両手を腰の前で組み、顔は注意深く無表情に保たれている。 「お早いお帰りですね。何かお持ちしましょうか? お茶? もう少しくつろげるものは?」 静は首を振った。家政婦の横を通り過ぎ、ストッキングを履いた足が大理石にかすかな跡を残す。床は凍るように冷たかった。彼女はその感覚を歓迎した。 「休みます。美晴は?」 「お休みになっております。斎藤さんがついております」 静はうなずき、マスタースイートへと向かった。アパートメントは彼女の周りに広がり、広大で沈黙しており、すべての表面が鏡のように磨かれていた。マンハッタンのスカイラインが床から天井までの窓を通してきらめいていた。かつては彼女を安全だと感じさせた富と野心の星座が、今はそれが檻のように見えた。 彼女はウォークインクローゼットに入った。千二百平方フィートの組織化された贅沢。彼女の指がトム・フォードのドレスのジッパーを見つけ、引いた。シルクが死んだ何かのように彼女の足元に溜まった。彼女はそれを洗濯籠に向かって蹴った。そしてその籠自体を蹴り飛ばし、床の上を滑らせた。 バスルームは白い大理石とクロムで、四人が入れるほどのシャワーがあった。静は湯を沸騰するまで熱くし、服を着たままその中に足を踏み入れた。スリップと下着が肌に張り付く。彼女は顔をシャワーの中に上げ、水流をまぶた、頬骨、口に打たせた。 激しい水音の向こうで、書斎の扉の隙間から聞こえた声が、嫌というほど鮮明によみがえった。 「奥寺博士は自分のラボと特許にしか興味がない。まったく無害だ」 暁は鼻で笑うようにそう言っていた。その声音には露骨な軽蔑が混じっていた。まるで彼女など取るに足らない存在だと言わんばかりに。そして彼は西園寺綾子を抱きしめた。その瞬間、彼女にとって彼はただ、自分が騙されていたことに気づいていない、完璧な妻に過ぎなかった。 彼女は肌が赤くなるまで擦り、石鹸と蒸気以外何も嗅げなくなるまで。そして再び立ち止まり、水が排水溝へと渦巻くのを見つめた。 ようやくバスルームから出た時、彼女はガウンを羽織り、鏡と向き合った。見返してくる女は、濡れた髪を頭蓋骨に張り付かせ、恐怖をやめた目をしていた。何かが恐怖に取って代わっていた。もっと硬い何か。 彼女は寝室に戻り、立ち止まった。暁がベッドの端に座り、ネクタイを緩めていた。彼女が入ってくると顔を上げ、その顔は十二年前に彼女が恋に落ちた笑顔に綻んだ。目の端に皺を作り、彼女が彼だと信じていた男に一瞬だけ見えるようにする笑顔。 「静」 彼は立ち上がり、彼女に手を伸ばした。 「早く帰ってきたね。どこを探してもいなかった」 静の心臓は胸の中で奇妙な段差を踏んだ。彼女は彼の両手が自分に向かって伸びるのを見つめ、彼の体が彼らの結婚生活の慣れた振り付けに傾くのを見た。彼女は横に避けた。その動きは小さく、ほとんど何気ないものだった。彼女は化粧台の保湿クリームに手を伸ばし、背を向けて、入念に塗り始めた。 「体調が良くなくて」と静は言った。 暁の手は一瞬宙に浮いた後、下ろされた。 彼女は目を鏡に留め、その端で彼を観察した。彼は彼女を研究していた。期待と合わないデータを読み解こうとする時の彼特有の首をかしげる仕草で。 「絢子さんが取り乱していて」 彼はようやく口を開いた。 「彼女が客をもてなすのを手伝うために残ったんだ。大変だった」 静は保湿クリームのキャップを閉めた。指は震えなかった。 「彼女は耐え難い喪失を経験した。あなたが彼女を慰めるのは正しかった」 その言葉は銅のような味がした。彼女は暁の顔が和らぐのを見た。彼が彼女の返答を、彼が求めていた許しとして受け入れるのを。彼は近づき、今や彼女の後ろに立っていた。彼の手が彼女の肩に置かれ、親指が首の付け根の筋肉を押す。かつて彼女を蕩けさせたその接触は、今や彼女を後退させたい衝動に駆った。彼女は動かなかった。 「冷えてるね」 彼はささやき、その息が彼女の耳に温かかった。 「ベッドに入ろう。温めてあげる」 彼の手は彼女の腕を滑り落ち、ガウンの帯を集め、彼女を自分の胸に引き寄せた。彼女は彼のシャツ越しに彼を感じることができた。彼の体の見慣れた平面、三年前のクリスマスに彼女が選んだコロン。 彼女は前に進み、彼の腕から抜け出した。 「ドレッシングルームで寝ます。眠れない時にあなたを邪魔したくないので」 暁の鏡の中の表情は、戸惑いが別の何かに変わっていくのを示していた。心配、あるいは苛立ちの最初の兆候かもしれない。 「静。僕たちは別々に寝たことがない。七年間、一度も」 彼女は彼に直接向き合った。彼の目を見るのに努力が必要だった。彼女の表情を軽い体調不良の仮面に保つのに。 「言ったでしょう。体調が良くないの」 彼女は間を置き、苛立ちの兆候を声に込めた。 「少し一人にしてほしいの、暁。それはあまりに無理なお願い?」 彼は彼女を見つめた。彼女は彼が計算するのを見た。これ以上迫るコスト、傷ついた妻の面倒、彼の携帯電話で彼を待っているものからの気晴らし。 「わかった」 その言葉は素っ気なかった。 「それが君の望みなら」 彼は背を向け、鋭く怒った動きでシャツを脱ぎ捨てた。静はドレッシングルームに歩み入り、後ろでそっとドアを閉めた。 ソファベッドは狭く、定期的な睡眠ではなく時折の使用のために設計されていた。彼女は収納ベンチからカシミヤのスローを引き出し、服を着たまま横たわり、天井を見つめた。そこでは埋め込み照明が遠い銀河のような模様を作り出していた。 寝室で、暁の呼吸が眠りに落ちるのを彼女は聞いた。静は目を覚ましたまま、朝までの時間を数えていた。

第3章

静は夜明け前に目を覚ました。ソファベッドで首が凝り、口の中は乾いていた。彼女はしばらく動かずに横たわり、ドレッシングルームの見慣れない暗闇の中で自分を定位した。そして思い出した。 彼女は静かに起き上がり、ドアに歩み寄って耳を押し当てた。暁の呼吸は続いていた。深く、均等に。彼女はバスルームに滑り込み、歯を磨き、鏡を見ずに顔を水で濡らした。姿を現した時、彼女は美晴の部屋へ行った。 娘はプリンセスベッドに大の字になって寝ていた。片腕を頭の上に投げ出し、暗い髪が枕の上で絡まっている。六歳。父親が約束を守るべきだと理解できる年齢。まだそれを信じるには若すぎる年齢。 静はベッドの端に座り、娘の呼吸を見守った。彼女は絢子が宿している子のことを考えた。後継者。切り札。彼女の手は自分の腹部に動いた。シルクのキャミソールの下で平らで空っぽだ。二人目の子供について話し合ったことがあった。来年、と暁はいつも言っていた。会社が安定したら。もっと時間ができたら。 嘘つき。 美晴が動き、まぶたが震えた。「ママ?」 「しーっ。もう寝なさい、赤ちゃん」 しかし美晴はもう起きていた。体を起こし、目をこすっている。「どうしてここにいるの? パパは?」 「パパは寝てるよ。」 美晴は彼女の膝の上に這い上がり、眠たげで温かかった。静は彼女を抱きしめ、イチゴのシャンプーと子供の汗の匂いを吸い込み、小さな心臓が自分の心臓に当たって鼓動するのを感じた。 「馬の夢を見たの」美晴は彼女の肩に顔を埋めてぼんやり言った。「みんなで一緒に乗ってたの。ママと、私と、パパ」 静香は美晴をぎゅっと抱きしめた。「素敵な夢ね」 「今週末、乗りに行く? 約束したでしょ」 「そうね、赤ちゃん」 彼女は美晴を枕に戻し、自分の母が歌っていた子守唄を歌った。美晴の呼吸が深くなると、彼女は娘の額にキスをして立ち去った。 暁は彼女が入ってきた時、キッチンにいて、タブレットで何かを読んでいた。「早起きだね」 「眠れなくて」彼女はコーヒーを注ぎ、動作を節約的に保った。「美晴が起きてるわ。すぐに朝ごはんが欲しがる」 暁はタブレットを置いた。彼は慎重に彼女に近づいた。警戒している動物に近づくように。そして彼の手を彼女の腰に置いた。親指が彼女のガウンの上で円を描く。その仕草はあまりに慣れ親しんでいて、彼女は叫びたくなった。「昨夜のことだが」彼は言った。「心配した。君がこんなふうに距離を置くのは初めてだ」 静は横に避け、マグカップに手を伸ばした。「言ったでしょう。体調が良くなかったの」 「今は良くなった?」 彼女は彼に向き直り、コーヒーを盾のように両手の間に挟んだ。「ええ、ずいぶん。ありがとう」 暁は彼女の顔を研究した。彼女は彼が彼女の平静のひび割れを探すのを見た。何も見つからずに。彼女は常にこれが得意だった。自分の表情を制御し、感情を管理すること。かつて彼はそれを「科学的距離感」と賞賛して呼んだ。今、彼女はそれを彼に対して使っている。 彼は何かを決断したようだった。背筋を伸ばし、彼女を完全に解放した。「今夜は帰らない」と彼は言った。「智明は軽井沢に広範な投資をしていた。不動産や美術コレクションだ。書類を整理するために別荘に行く必要がある。何時間もかかるだろう」 静はコーヒーを一口すすると、舌を焼いた。彼女はその痛みを歓迎した。「もちろん」と彼女は言った。「そういった事柄は対応が必要ですね」 暁の肩の力が抜けた。彼は抵抗を予想していたのだ、彼女は気づいた。彼は言い訳を用意し、正当化を準備していた。彼女の簡単な同意が彼の武装を解除した。「一晩滞在するかもしれない」彼は付け加え、注意深く彼女を観察した。「絢子さんは……彼女はうまく対処できていない。あの家に一人で、智明のものに囲まれて。彼女を支えるために残るべきだと思う」 静はマグカップを置いた。彼女は彼を見上げ、理解を示すことを願った表情を整えた。「あなたは良い義弟ね、暁。彼女はあなたがいて幸運だわ」 その言葉が彼らの間に浮かんだ。彼女は彼がそれを処理するのを見た。彼の不確かさが自己満足に溶けるのを。彼は彼女を信じた。彼は彼女がそんなに愚かで、そんなに盲目で、そんなに無害だと信じた。「ありがとう」と彼は言い、実際に感謝しているように聞こえた。「理解してくれて」 彼は立ち去る前に彼女の頬にキスをした。その唇は乾いて短かった。彼女はエレベーターのドアが閉まる音が聞こえるまでカウンターに立っていた。それから彼女は書斎へ行った。 鷹司ダイナミクスの研究センターは、十二ブロック南のビルの最上三階を占めていた。静のプライベートラボはガラスと鋼鉄の要塞であり、生体認証スキャナーとプライベートエレベーターを通じてのみアクセス可能だった。 彼女は一日を意図的な動作で過ごした。すでに記憶しているデータセットのレビュー。実行する必要のない診断の実行。アシスタントの小林美咲が周辺にうろつき、何かがおかしいと感じながらも、尋ねるべきではないと知っていた。 午後、静は特許データベースにアクセスした。彼女は西園寺絢子の名前が「コンサルタント」または「アドバイザー」として記載されているすべてのプロジェクトを検索した。リストは彼女の予想より長かった。十四件の特許。三件の進行中の研究イニシアチブ。年間二百万ドルのコンサルティング料。すべてが静の仕事の上に構築されていた。彼女のアルゴリズム。彼女の深夜の作業。彼女のブレークスルー。 彼女はすべてをダウンロードした。日付別、プロジェクトコード別、貢献度別に整理した。フォルダの中にフォルダを作り、あらゆる監査に耐えうる包括的な窃盗の分類学を構築した。 夜が更けても、彼女はまだ働いていた。美晴は彼女がようやくアパートに戻った時にはもう寝ていた。文子が夕食、入浴、就寝を担当していた。静は娘の部屋の入り口に立ち、彼女の呼吸を見守り。 彼女はワインをグラスに注ぎ、暗いリビングに座った。街は彼女の下できらめき、彼女の痛みには無関心だった。彼女は暁が軽井沢にいることを考えた。彼の兄が眠っていたベッドで、彼の子を宿す女と共に。彼が使った言葉を考えた。 彼女の携帯電話がコーヒーテーブルの上にあった。彼女はそれを長い間見つめていた。彼女は何を証明しようとしているのかわからなかった。おそらく、自分が正しいということだけだ。最後の疑念の欠片が根拠のないものだということ。彼女が期待するのをやめられるということ。 彼女は電話を取り、ダイヤルした。四回鳴った。五回。彼女は切ろうとしていた、その時。繋がった。しかし、応答した声は暁のものではなかった。 「もしもし?」 西園寺絢子。眠そうで、戸惑い、親密な声。 静の手が電話を握りしめ、ケースにひびが入るのを感じた。 「もしもし?」絢子が繰り返した。そしておそらく発信者IDを読んで、彼女の声が変わった。慌てたように、しかし計算された方法で。「まあ、静さん! まあ、暁お兄様が携帯電話をリビングに置き忘れたんでしょうね。彼は書斎で緊急の遺産書類を調べています。私、もし誰かから電話があったら出るように言われていたんです。何かあったんですか? 会社のことですか?」 彼女は間を置き、沈黙を引き伸ばした。その演技は完璧だった。自分を親切で無実のアシスタントとして描きながら、同時に家庭的な親密さの絵を描いている。絢子は続けた。その声は作られた心配で柔らかかった。「彼を呼びに行きましょうか?」 ナイトスタンド。シャワー。リビング。書斎。その言葉は静が見たくない絵を描いた。 彼女は声を見つけた。それは誰か別の人のもののように聞こえた。落ち着いていて、プロフェッショナルで、完全に動じていない誰か。「いいえ、結構です。明日の朝に電話をくれるように伝えてください。彼の署名が必要な書類がありますので」 「もちろん」絢子の声には聞こえる微笑みが含まれていた。「伝えておきます。それから、静さん? 本当にごめんなさい……あらゆることについて。 その演技は完璧だった。悲しむ未亡人、心配する友人、無実の傍観者。静は何も言わずに通話を切った。 彼女は長い間暗闇の中に座り込み、切断された電話の余韻だけが耳の奥に残っていた。 やがて静かに立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。冷え切ったガラスに額を預けると、眼下ではいつもと変わらない東京の夜景が広がっていた。信号は規則正しく色を変え、車のライトは途切れることなく流れ、人々はきっと明日も同じ朝を迎えるのだろう。 その当たり前の景色だけが、ひどく遠かった。 七年間。 彼女はこの家を守ることが、自分の選んだ人生だと信じてきた。研究より家庭を優先した日もあった。暁の帰りを待ち、美晴の笑顔を守り、夫婦として少しずつ未来を積み重ねてきたつもりだった。 けれど、その「積み重ね」は、自分だけが大切に抱えていたものだったのかもしれない。 胸の奥は怒りだけではなかった。悔しさも、喪失感も、まだ消え切らない未練も入り混じり、どれが本当の気持ちなのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ一つだけ確かなのは、電話の向こうから聞こえた絢子の声が、その曖昧さに静かに終止符を打ったということだった。 もう、「何かの勘違いかもしれない」と自分をごまかすことはできない。 静はゆっくりと目を閉じ、そして静かに開いた。涙はもう出なかった。失ったものを数えるのは、ここまででいい。これから考えるべきなのは、残されたものをどう守るかだった。

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