高石安紀は最後の荷物をスーツケースに詰め終え、満足げに息をついた。 パスポート。ニューヨーク支社との契約書類。 すべて準備万端だ。 それから彼女は化粧台の方へ視線を向けた。そこには母の遺した記念品――一箱の宝石が置かれている。 安紀は蓋を開け、お守りのように大切にしてきたサファイアのイヤリングを取り出そうとした。 しかし、安紀が指で匣を開けてみると、中のイヤリングは一つだけしか残っておらず、もう片方はどこへともなく消え去っていた。 心臓が不吉な鼓動を立てて激しく躍り、胃が鈍く疼いた。このイヤリングは彼女にとって単なる装身具ではない。これは母そのものだった。 安紀は気が狂ったように部屋中を探し回った。 カーペットの下、ベッドの裏、クローゼットの隅。どこを探しても見つからない。 安紀は関連する詳細を思い出そうと努めた。彼女は今日、婚約者の鷹司雅彦に会った後、自ら車を運転して家に帰った。もしかすると——ある可能性が頭をよぎった。車の中でうっかり落としてしまったのかもしれない。 静まり返った空間で、安紀は車に設置されたドライブレコーダーのことを思い出した。スマホで録画映像を確認すれば、いつ、どこで落としたか分かるかもしれない。 微かな希望にすがり、彼女は専用アプリを起動し、本日の映像を再生した。 画面には、先ほど雅彦の会社へ向かう見慣れた道のりが映し出された。特に異変はない。安紀は少しずつ映像を巻き戻して確認していく。 突如、画面が切り替わり、車が雅彦の会社の駐車場に停車した場面が映し出された。 運転席のドアが開き、二つの人影が車内に侵入してきた。 鷹司雅彦。そして彼女の妹、高石美咲だ。 安紀の呼吸が完全に止まった。 なぜ美咲が、雅彦と一緒に私の車にいるのか。 録画された映像と音声が、スマホの画面とスピーカーから流れ出す。 「雅彦さん、お姉様の車、いい匂いがする。お姉様の匂いだね」 美咲の甘ったるい声が安紀の鼓膜を揺らした。 「美咲は、姉さんの匂いと俺の匂い、どっちが好きだ?」 雅彦の低い笑い声が響いた。 「もちろん雅彦さんの匂いよ。お姉様なんて、いつも仕事ばっかりで女らしさもなく、堅苦しくてつまらない、大嫌い」 美咲は嘲るように言い放った。 「その通り。安紀は融通が利かなくて、一緒にいても全然楽しくない。それに、ベッドの上でも冷めきっている。可愛らしい美咲とは全然違う」 雅彦は吐き捨てるように続けた。 「あんな女、婚約破棄されて当然よ。雅彦さんに似合うのは私なの」 美咲の声には抑えきれない得意さが滲んでいた。 その直後、狭い車内には、耳を塞ぎたくなるような喘ぎ声と生々しいキスの音が響き渡った。 安紀の顔から急速に血の気が引いた。 指先は氷のように冷たくなり、胃が激しく痙攣した。 映像の中の美咲は、泣き出しそうな声で囁いた。 「雅彦さん、お姉様がもうすぐ戻ってくるわ。こんなことしてたら……殺されちゃう」 「何を怖がることがある。どうせすぐ婚約を破棄するんだ。安紀みたいな勝気な女より、君のほうがずっと可愛い」 雅彦の言葉は、まるで刃のように安紀の心臓を突き刺した。 彼女は無意識にスマホの縁を強く握りしめ、指関節が白くなるほど力を込めた。画面には、血色を失った自分の顔が映り込んでいた。 安紀は震える手で動画ファイルをスマートフォンに保存した。一滴の涙も流さない。瞳には、すべてを凍らせるような冷たい光だけが宿っていた。 彼女はスマホを持ち、110番をダイヤルした。 「もしもし、警察ですか。通報します。他人が私の車に無断で侵入し、車内でわいせつ行為を行っています。至急、車両の移動と捜査をお願いします。場所は——」 安紀は冷静に雅彦の会社の住所を告げた。 通話を終えると、彼女はスーツケースを引き、無表情でタクシーを拾って成田空港へ向かった。 空港のVIPラウンジで、乱れた心を落ち着けようとコーヒーを汲みに行った。 その時、考え事に気を取られ、曲がり角で一人の男性とぶつかってしまった。 コーヒーが相手の高級スーツに飛び散った。 「大変申し訳ございません!」 安紀は慌てて頭を下げ、顔を上げた瞬間、言葉を失った。 目の前の男は身長が高く、圧倒的な存在感を放っていた。 隣に立つアシスタントらしき青年、天野潤貴が大げさに叫んだ。 「暁!お前、公共の場でこんなものを見てるのかよ!」 安紀の視線は男が落としたタブレットに落ちた。画面には、男女が大胆に絡み合う芸術映画のワンシーンが映し出されていた。 暁と呼ばれた男、鷹司暁はただ静かに彼女を一瞥した。 その瞳はあらゆるものを見透かすように深く、瞬く間に安紀の心の奥底を射抜いた。
鷹司暁は身を屈め、床に落ちたタブレットを拾い上げた。画面を消すと、彼は安紀の蒼白な顔に一瞬だけ視線を留める。 「気にするな」 その声は低く、感情が読み取れなかった。隣で天野潤貴が口笛を吹き、面白そうに安紀を眺めている。暁がそれを鋭い視线で制した。 安紀は居たたまれなくなり、もう一度頭を下げると、逃げるように自分の席へ戻った。心臓が激しく鼓動している。 あの男の視線が背中に突き刺さっているような気がしてならなかった。 その時、スマートフォンのバイブが激しく震えた。 父、高石茂雄からの着信だ。 安紀は躊躇なく通話を拒否した。 続けて継母の由美子、妹の美咲からもかかってくる。全て無視した。 すぐに茂雄からメッセージが届く。 『高石安紀!気でも狂ったか!今すぐ会社に来い!』 怒りに満ちた文面だった。 安紀は冷笑を浮かべると、メッセージを削除し、スマートフォンを機内モードに切り替えた。 ニューヨークにはもう行けない。 経由地のソウルに降り立った彼女はカウンターへ向かい、一番早い東京行きの便に予約を変更した。 搭乗口で安紀は再びあの二人組を見かけた。 暁と潤貴。 まさか同じ便だとは。 「やあ、奇遇だね、お姉さん」 潤貴が気さくに声をかけてきたが、安紀は冷たく会釈を返すだけだった。 機内では安紀の席は暁の斜め前だった。 窓に映る彼の横顔は静かで、何を考えているのか全く分からない。 彼はフライト中、一度も安紀の方を見なかった。 ただ分厚いドイツ語の書類をめくっている。 その姿は近寄りがたいほどに知的で孤高に見えた。 安紀は目を閉じ、脳内で再生されるドライブレコーダーの映像と父の怒声から逃れようともがいた。 胃が締め付けられるように痛む。 羽田空港に到着すると、安紀は二人を振り切るように早足で出口へ向かった。 黒塗りの高級車が既に待ち構えていた。 高石家の車だ。 運転手が硬い表情でドアを開ける。 安紀は深く息を吸い込み、嵐が待つ家へと向かう車に乗り込んだ。 世田谷区にある豪邸のリビングは煌々と明かりが灯っていた。 茂雄、由美子、そして雅彦の腕の中で泣きじゃくる美咲。四人が安紀を待ち構えていた。 安紀が足を踏み入れた瞬間、乾いた音が響いた。茂雄の平手が彼女の頬を打ったのだ。 「この恥知らずが!誰がお前に警察を呼べと言った!」 頬が燃えるように熱い。 だが安紀は背筋を伸ばしたまま、冷ややかに父を見つめた。 由美子が甲高い声で罵る。 「少しは令嬢らしく振る舞えないの?家の恥を警察にまで晒して、高石家の顔に泥を塗る気!?」 美咲が雅彦の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。 「お姉様、ごめんなさい。全部私が悪いの……雅彦さんのことは責めないで……」 雅彦は心底失望したという表情で安紀を見た。 「安紀。僕たちの間に問題があったのなら、二人で解決すべきだった。どうしてこんな酷いことをするんだ?」 目の前に並ぶ四つの伪善的な顔。 安紀は吐き気を覚えた。彼女は何も言わず、ただスマートフォンを取り出す。そしてあの動画を再生し、音量を最大にした。 車内で繰り広げられた卑猥な声が豪華なリビングに響き渡る。 美咲と雅彦の顔が見る見るうちに白くなった。茂雄と由美子も気まずさと怒りで表情を凍らせる。 最初に我に返ったのは由美子だった。 「なんて恥知らずな子!こんなもの録画して!」 金切り声を上げ、スマートフォンを奪おうと飛びかかってくる。 茂雄は青筋を立てた顔で冷酷な宣告を下した。 「この話はこれで終わりだ。雅彦君とお前の婚約は破棄する。そして美咲と婚約してもらう」 安紀は信じられない思いで父を見た。これが彼の出した「解決策」だった。 「雅彦君は鷹司家の方だ。我々が敵に回せる相手ではない」 茂雄は続けた。 「こんな醜聞を起こしたお前はもはや彼の婚約者に相応しくない。美咲がお前の代わりを務めるのが最善の策だ」 安紀はようやく理解した。この家で自分はいつでも犠牲にされる駒でしかなかったのだ。体の芯から凍りつくような絶対的な寒気が彼女を襲った。
父の冷酷な決定が下され、高石安紀の唇は激しく震えた。 だが驚愕も悲しみも声にならず、ただ無音の絶望だけが胸に澱んだ。胃の腑は分厚い氷で塞がれたかのように冷たく、重苦しい痛みが全身を覆い尽くす。 そんな打ちひしがれた安紀に、継母の由美子はまるで慈悲を与えるような偽善的な口調で近づいてくる。 「安紀、私たちを恨まないでちょうだい。美咲は幼い頃からずっと体が弱かったの。昔、あなたを探しに街に出て迷子になったせいで、すっかり病弱な体になってしまったわ。だから私たちが美咲を多く可愛がり、守ってあげるのは当然のことなのよ」 この言葉は、安紀が物心ついた瞬間から繰り返し聞かされてきた呪いだ。家族はいつもこの言葉で彼女の罪悪感を煽り、何もかも諦めさせ、都合よく犠牲にするための言い訳にしてきた。 今もなお、古くからのこの呪いは鈍いナイフのように、安紀の心をじわじわと抉り、傷つけていく。 安紀の唇から乾いた冷めた笑いが零れ落ちた。 「つまり、私の存在はあの子の幸せのための踏み台に過ぎないというの?」 「もういいだろう」茂雄は苛立たしげに手を振り、彼女の問いを一蹴した。「しばらく会社には来なくていい。それから、お前には新たな縁談を用意した。相手は……」 安紀は弾かれたように顔を上げた。婚約者を奪い、立場を奪うだけでは飽き足らず、今度は自分自身を取引の道具として売り渡そうとしている。この家族は、彼女の最後の価値まで徹底的に搾り取ろうとしているのだ。 視線を移すと、得意げな笑みを浮かべる美咲の姿が目に入る。その清楚な瞳の奥に、一瞬だけ鋭く挑発的な光が宿っていたのを、安紀は見逃さなかった。 この瞬間、彼女は完全に悟った。美咲が欲しがっているのは雅彦という婚約者だけではない。自分が持つアンザイ・コーポレーション企画部長の地位、高石家の将来的な相続権、今の自分のすべてを奪い尽くそうと企んでいるのだ。 心の奥底から、抑えきれない激しい怒りと原始的な生存本能が湧き上がってくる。このまま何もかも奪われ、家族の餌食になってたまるものか。 安紀はもう一切の言葉を捨て、冷ややかに背を向けた。無言で階段を上り、自室へと戻る。部屋のドアを閉めた瞬間、張り詰めていた全身の力が一気に抜け、彼女はずるずると床に座り込んだ。 呼吸は浅く乱れ、指先はしびれて知覚が鈍る。絶望が一時的に体を支配するが、数分の静寂の後、安紀はゆっくりと立ち上がった。 机の前に立つ彼女の瞳には、先ほどまでの絶望の色は一片も残っていない。そこに宿るのは、硬く鋭く、危うい決意の光だけだ。 彼女はスマートフォンを取り出し、この世で唯一信頼できる親友、沢口綾花に電話をかけた。数回のコール音の後、懐かしい柔らかい声が听筒から響いてくる。 「もしもし、安紀?」 「綾花、助けてほしいの」 声は微かに震えていたが、その響きは驚くほど明瞭で、揺るぎない意志が宿っていた。安紀は経緯を簡潔に話し、自身が受けた仕打ちをすべて伝えた。 電話の向こうで綾花は美咲と雅彦の身勝手さに怒りを募らせ、激しく罵倒した。安紀は冷静にその声を遮る。 「罵っても何も変わらない。私は反撃する。今日の屈辱を、あいつら全員に後悔させてやる」 綾花は怒りを鎮め、冷静な声で問いかけた。 「……私に何ができる?」 「以前、あなたの叔母が鷹司家の遠縁だと話してくれたわよね。鷹司家、特に鷹司暁のことをどれくらい知ってる?」 「安紀、まさか雅彦のことでまだ……」 「違う。鷹司雅彦じゃない」安紀はきっぱりと否定し、一字一句はっきり告げた。「彼の叔父、鷹司暁のことよ」 電話の向こうは長い沈黙に包まれた。空港で出会った男の姿が安紀の脳裏に鮮明に浮かぶ。冷静で神秘的で、底が知れない深みを持つ鷹司暁。その冷たく澄んだ瞳が脳裏に焼きつく。 「彼に関する情報をすべて教えて。経歴、弱点、最近帰国した目的、何でもいい」 安紀の胸中で、大胆で狂気じみた復讐計画が徐々に形を成し始めていた。美咲が雅彦と婚約するのなら、自分が雅彦の叔母になればいい。鷹司家の長輩として二人の上に立ち、すべての立場を逆転させればいい。 そうなれば、高石家の誰もが自分に敬意を払わざるを得なくなる。今日受けた屈辱を何倍にもして返し、完全に覆すことができる。これ以上完璧な復讐は存在しない。 長い沈黙の末、綾花が重く沈んだ声を漏らした。 「安紀、本気なの?鷹司暁の噂は決して良くないわ。彼は……」 「構わない」安紀の瞳は決意の炎で燃えていた。「目的を達成できるなら、どんな困難も受け入れる」 電話を切り、安紀は窓辺に立つ。階下のリビングからは、偽りの家族団欒を装う笑い声が微かに響いてくる。彼女は窓ガラスに映る自分の姿を見つめ、静かに何度も言葉を練り上げた。 「叔父様、私と結婚してください」 各々の利害を満たすための契約結婚。大胆不敵な復讐の計画が、この瞬間、静かに幕を開けた。