壁の時計が五時を指した。 園田理穂は深く息を吸い込み高鳴る胸を抑える。 彼女はスマートフォンを取り出し夫の伊藤潤雄にメッセージを送った。 「潤雄さん今夜の予約七時に『L'Écrin』で待ってるね」 スマートフォンの画面に映るレストランの写真を眺め理穂の口元が自然と綻ぶ。 結婚七周年の記念日だ。 すぐにスマートフォンが震えた。 潤雄からの返信は簡潔で氷のようだった。 「今夜は急な会食が入った。行けない」 理穂の口元の笑みが瞬時に凍りつく。 心臓を無形の手で握り潰されたような感覚。 呼吸が浅くなる。 彼女は素早く指を動かした。 「少しでもいいから顔を出せない?」 しかし一文字ずつその言葉を消していく。 彼の決定が覆せないことを彼女は知っていた。 「園田さんお疲れ様。旦那さんとディナー?」 同僚が笑顔で通り過ぎる。 理穂は硬い笑みを無理やり作った。 「ええまあ…」 彼女は失意のまま荷物をまとめる。 椅子に置かれた美しい包装のプレゼントを手に取った。 潤雄のために三ヶ月かけて準備したオーダーメイドのカフスボタンだ。 興和銀行のビルを出ると夜風が肌寒い。 理穂は一人銀座の華やかな通りを歩く。 ショーウィンドウに映る自分の姿に孤独が押し寄せる。 予約したレストランの前を通り過ぎる。 ドアマンが彼女に微笑み一礼した。 理穂は慌てて視線を逸らした。 彼女は行き先を変え三越百貨店に向かう。 息子の瑛太が好きな「à la campagne」のフルーツタルトを買おう。 少なくとも家にはまだ自分を必要としている人がいる。 人でごった返す地下の食品売り場。 その中で理穂は見慣れた小さな姿をすぐに見つけた。 瑛太だ。 心が温かくなる。 呼びかけようとした瞬間だった。 優しく美しい女性が屈み込み親しげに瑛太の襟を直している。 夏川詩織だった。 隣の専門店のほうから背の高い影が歩み寄る。 その手はごく自然に瑛太の頭に置かれた。 その仕草は寵愛に満ちている。 彼女の夫伊藤潤雄だった。 理穂の血液が瞬時に凝固するのを感じた。 指先が急速に冷えていく。 手に持っていたプレゼントの袋が「ぱさっ」と音を立てて地面に落ちた。 彼女は怯えた動物のように巨大な柱の陰に素早く隠れる。 心臓が狂ったように跳ねていた。 胃が痙攣する。 瑛太の甲高い笑い声が聞こえてくる。 「詩織お姉ちゃんありがとう!ママより優しい!」 その言葉が理穂の鼓膜を突き刺す。 彼女の瞳孔が急速に収縮した。 詩織は優しく微笑む。 その声は大きくないがはっきりと聞こえた。 「そんなことないわよ理穂さんはお仕事で忙しいのよ」 続いて潤雄の声が響く。 平坦だが有無を言わせぬ響きがあった。 「そうだぞ瑛太母さんには母さんのやり方がある」 それは庇っているように聞こえるがその実突き放したような距離感があった。 瑛太は口を尖らせて不満を言う。 「でもいつも勉強しろってうるさいんだ!ゲームもさせてくれないし!」 詩織はバッグから小さなゲーム機を取り出し瑛太に手渡した。 「じゃあこれは内緒ね」 瑛太はすぐに歓声を上げ詩織の胸に飛び込んだ。 潤雄はその光景を見つめている。 その眼差しには理穂が一度も見たことのない柔らかさと寛容があった。 彼ら三人はまるで完璧で調和のとれた家族の絵画のようだ。 自分こそが余計な侵入者だった。 理穂の目の前が滲む。 涙が制御できずに頬を伝った。 彼女は音を立てないように唇を固く噛み締める。 百貨店の喧騒が遠のいていく。 世界には自分の心臓が引き裂かれる音だけが響いていた。 彼女は屈んで地面に落ちたプレゼントの袋を拾い上げる。 指の関節が力を入れすぎたせいで白くなっていた。 三人が去っていく後ろ姿を見つめる。 理穂の瞳から悲しみが消え氷のように冷たく硬い何かに取って代わられた。 彼女は背筋を伸ばし踵を返す。 一歩一歩が砕けた心の上を踏みしめるようだった。 この息の詰まる場所から彼女は決然と立ち去った。
タクシーの後部座席に理穂は座っていた。 窓の外では東京の夜景が光の川のように流れていく。 しかし彼女の目にはただのぼやけた光の斑点にしか見えなかった。 彼女は無表情で前を見つめている。 涙だけが音もなく滑り落ちていた。 一滴また一滴と手の中のプレゼントの袋に染みを作っていく。 運転手がバックミラーで彼女を一瞥する。 彼は気遣って何も言わずただ車内の音楽の音量を少し下げた。 理穂の脳裏に瑛太の言葉が繰り返し再生される。 「ママより優しい!」 そして潤雄のあの寛容な眼差し。 彼女はスマートフォンを取り出し写真フォルダを開いた。 そこには瑛太の幼い頃からの写真が詰まっている。 一枚一枚がかつての彼女の誇りだった。 写真をスライドさせていく。 公園で自分が瑛太を抱きしめて大笑いしている写真があった。 胸に激しい痛みが走る。 彼女はスマートフォンを閉じ目を固く瞑った。 呼吸を整えようと深く息を吸う。 しかし体は微かに震えていた。 タクシーがマンションの前に停まる。 彼女は機械的に料金を払い「ありがとう」とだけ言った。 誰もいない家に足を踏み入れる。 玄関には今朝彼女がわざわざ飾った七本の赤い薔薇があった。 七年間の結婚生活の象徴。 暖色の照明の下でそれはことさらに彼女を嘲笑っているように見えた。 リビングのテーブルの上には彼女が手作りした夕食が置かれている。 潤雄が帰ってくることはない。 料理はとっくに冷え切っていた。 彼女はテーブルに歩み寄りその薔薇の花束を手に取った。 花びらは瑞々しくまるで彼女の愚かさを笑っているかのようだ。 七年間の結婚生活が映画の断片のように脳裏を駆け巡る。 彼の冷淡さ。 彼の疎外感。 この家に対する彼の無関心。 彼女は思い出す。 この家のために東大の博士課程を諦めたこと。 トップデザイナーになる夢を捨てたこと。 銀行で安定した仕事を見つけたこと。 彼女は思い出す。 数え切れないほど一人で彼の帰りを待った夜々。 そして一度も返信のなかったメッセージ。 すべての屈辱と未練と苦痛がこの瞬間に頂点に達した。 彼女は花束を振り上げる。 全身の力を込めてそれを冷たい壁に叩きつけた。 花瓶が割れる音が甲高く響き渡る。 薔薇の花びらとガラスの破片が床一面に散らかった。 赤い花びらが血のように白い壁に付着している。 彼女は大きく息を吐き出す。 胸の内の鬱積したものをすべて吐き出そうとするかのように。 散乱した床を見つめる。 涙は出なかった。 代わりに極めて軽い自嘲の笑みが漏れた。 もう十分だ。 本当に十分。 彼女はソファの傍らに歩み寄り傍らに投げ出されていたプレゼントの袋を手に取る。 そして何の躊躇もなくそれをゴミ箱に投げ捨てた。 それからスマートフォンを取り出す。 連絡先リストを下にスクロールし一つの名前に指を止めた。 「関口明日香」 彼女の親友であり東京で最も優秀な離婚弁護士の一人だ。 彼女は電話をかけた。 呼び出し音の第一声で相手が出た。 「理穂?どうしたの?こんな時間に」 明日香は鋭く異変を察知している。 理穂の声は異常なほど平静で何の波もなかった。 「明日香」 「私離婚したい」 電話の向こうで三秒間の沈黙があった。 そして明日香の決然とした落ち着いた声が聞こえてきた。 「わかった今どこ?すぐ行く」 理穂は窓の外を見つめる。 遠くの東京タワーが相変わらず輝いていた。 「ううん大丈夫。明日事務所で会える?」 彼女の心はこれまでにないほど澄み切っていた。
早朝理穂は目を開けた。 隣のベッドは空っぽだ。 潤雄は昨夜も帰ってこなかった。 彼女は少しも驚かなかった。 静かに起き上がりウォークインクローゼットに入る。 大きなスーツケースを開け彼女は自分の服を詰め始めた。 彼女が持っていくのは本当に自分のものだけだ。 潤雄が買った高級品には一つも触れなかった。 クローゼットの奥に質素な白いシャツを見つける。 大学時代に一番好きだった服だ。 彼女は一瞬躊躇したがやはりそれをスーツケースに入れた。 書斎机を片付けていると薄い埃をかぶった『情報理論基礎』という本が目に入った。 指が表紙を優しく撫でる。 それは彼女がかつて愛した世界だった。 引き出しを開ける。 中には彼女の博士課程の申請書類が入っていた。 もう黄ばんでいる。 彼女はそれらも一緒にしまい込んだ。 家政婦の清水和子がドアをノックして入ってきた。 スーツケースを見て驚いて尋ねる。 「奥様これは…?」 理穂は静かに答えた。 「清水さんしばらく家を空けます瑛太のことお願いします」 清水和子はさらに何かを尋ねたそうだったが理穂の氷のような眼差しを見て言葉を飲み込んだ。 理穂はスーツケースを閉じる。 七年間暮らしたこの「家」を見渡した。 どの隅にも冷たい思い出が満ちている。 彼女は潤雄の潔癖症と極度の支配欲を思い出した。 家の中のすべての物の配置は彼のルールに従わなければならなかった。 リビングに観葉植物を置こうとしたことがある。 翌日には「全体の統一感を損なう」という理由で潤雄に捨てられていた。 この家は決して彼女の家ではなかった。 ただの伊藤潤雄のショーケースだった。 彼女はスーツケースを引いて寝室を出る。 一片の未練もなかった。 瑛太の部屋の前を通り過ぎる。 ドアが少し開いていた。 彼女は足を止め隙間から息子がまだ熟睡しているのを見た。 胸に鋭い痛みが走る。 しかしすぐに固い決意に取って代わられた。 母親を尊重しない子供は自分で成長する必要がある。 彼女は踵を返し一度も振り返らずに玄関に向かった。 靴を履き替えドアを開ける。 朝の陽光が彼女の顔に降り注いだ。 少し眩しいがそれは新生の光でもあった。 呼んでおいた引越し業者の車がすでに階下で待っている。 彼女はスーツケースをスタッフに渡した。 タクシーに乗り込み明日香にメッセージを送る。 「家を出た」 明日香からすぐに返信があった。 「了解新しいマンションの鍵はコンシェルジュに預けてある頑張って」 タクシーは港区の高級マンションに向かう。 そこは明日香が事前に彼女のために借りてくれた場所だった。 広々とした明るい新しい家に入る。 がらんとしているが自由な空気に満ちていた。 彼女は巨大な窓の前に立ち東京の景色を見下ろす。 初めて自分がこの街の主人だと感じた。 彼女はスマートフォンを取り出し銀行の業務用アプリを開く。 人事部の連絡先を見つけ何の躊躇もなく辞職届を提出した。 これらすべてを終えると彼女はこれまでにないほどの解放感を感じた。 彼女は封印していたデザインの夢を思い出す。 そしてそのために仲違いした大叔母である著名なデザイナー園田珠美のことも。 そろそろ彼女に会いに行くべきかもしれない。 彼女は珠美の電話番号を見つけた。 しかし指は発信ボタンの上で止まったままなかなか押せない。 いやまだその時ではない。 彼女はまず自分自身で再び立ち上がる必要があった。 彼女はスマートフォンを置きバスルームに入る。 シャワーをひねると温かい水が体を洗い流していく。 それはまるで過去七年間の埃を洗い流しているかのようだった。