車の衝突音。 ガラスが砕け散る甲高い悲鳴。 全身を襲う骨が軋むような衝撃。 「いやっ!」 北野凛は自分の叫び声で目を覚ました。 病室の殺風景な白い天井が視界に飛び込んでくる。全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れ薄い病衣が肌に張り付いていた。心臓が肋骨の内側で暴れ呼吸が浅く速くなる。 凛は恐怖に駆られ震える手で自身の腹部を庇うように押さえた。高く丸く膨らんだそこから微かな胎動が伝わってくる。その小さな命の感触だけが凛を悪夢の淵から引き戻す唯一の錨だった。ようやく詰めていた息を吐き出す。 だが、ほっと息をついたその瞬間、凛は無意識のうちに右の太腿に手をやっていた。薄い病衣の下、皮膚の奥に埋め込まれたプレートの鈍い異物感がまだそこにある。あの雨の夜、舗装路に全身を打ちつけられた記憶の残骸だ。凛は眉をひそめ、手をそっと離した。 静寂を破り病室の引き戸が静かに開いた。 盆を持った看護師の鈴木葵が足音を殺して入ってくる。 「北野さん、また怖い夢?」 葵は凛の額に滲む汗を見て心配そうに眉を寄せた。そしてサイドテーブルに盆を置くと温かいタオルをそっと手渡した。 「大丈夫、なんでもないの」 凛はタオルを受け取り額を拭いながら力なく笑った。内心の恐怖を悟られまいと必死だった。 葵は手際よく点滴の袋を交換しながら世間話のように口を開いた。 「そういえば高橋さん、もうすぐ海外から戻られるそうですよ」 蓮──高橋蓮。凛の婚約者、深く信頼する相手、運命を共にするはずの男。凛はそう信じて疑わなかった。 その名を聞いた瞬間凛の虚ろだった瞳に確かな光が宿った。シーツを強く握りしめ身を起こそうとする。 「だめですよ北野さん、切迫流産の兆候があるんですから、絶対安静です」 葵に肩を押さえられ凛は素直にベッドへ体を沈めた。 抵抗する力は残っていなかった。 葵が医療ワゴンを押して病室を出ていく。ドアが閉まる間際、彼女がわずかに振り返り、何か言いたげに唇を開きかけたが、結局なにも言わずに去っていった。 凛は再び一人になり、天井のシミをぼんやりと見つめながら蓮が帰ってきた後のことだけを考える。彼ならきっと数ヶ月前に自分を陥れた罠の真相を暴いてくれる。そう信じることだけが今の凛を支える全てだった。 その時だった。 廊下から硬質な床を叩くハイヒールの音が聞こえてきた。 傲慢で有無を言わせぬ圧力を伴った足音。 バンッ! 病室のドアが乱暴に開け放たれる。 そこに立っていたのはシャネルの最新作であるツイードのワンピースに身を包んだ北野雅だった。 雅は消毒液の匂いが気に入らないとでも言うように鼻をつまんで手をひらひらと振った。そしてベッドに横たわる凛を汚物でも見るかのような軽蔑の眼差しで見下ろす。 「雅……どうしてここに」 凛の体は瞬時に硬直した。声には隠しきれない警戒心が滲む。 雅はカツカツと音を立ててベッドに歩み寄る。その顔にはいつも浮かべている天使のような微笑みはなかった。 「まるで負け犬ね。今のあなた」 居丈高な嘲笑。 「蓮さんが戻れば全てわかるわ、私が嵌められたってことも」 凛が怒りを込めて言い返す。 すると雅は突然口元を押さえて甲高く笑い出した。誰もいない病室にその声が不気味に響き渡る。 「本当にそう思う?」 雅は身を屈め凛の耳元に顔を寄せた。 そしてわざとらしく声を潜めて驚くべき秘密を囁いた。 「あなたを薬漬けにしてあの部屋に放り込んだのはこの私よ」 雷に打たれたような衝撃。 凛の瞳孔が激しく収縮する。目の前にある清純な仮面を被った妹の顔が信じられなかった。 「あの夜あなたを抱いたのはどこかの権力者なんかじゃないわ、ただのホームレスよ」 雅は追い打ちをかけるように残酷な言葉を吐き捨てた。 凛の中で何かが音を立てて砕け散った。 感情が沸点を超え凛は咄嗟に腕を振り上げた。サイドテーブルに置いてあったガラスのコップが床に叩きつけられけたたましい音と共に破片が飛び散る。 雅は素早く一歩下がり水浸しの床を避けた。そして凛が絶望に打ちひしがれる様を冷たい笑みを浮かべて見物している。 「あなただけは……許さない!」 凛は雅に掴みかかろうと身を起こすが腹部に走った鋭い痛みでベッドに逆戻りした。 その時雅はスマートフォンを取り出しある音声を再生した。 スピーカーから流れてきたのは凛の婚約者である高橋蓮の声だった。 『愛しているよ雅。僕が本当に守りたいのは君だけだ』 甘く情熱的な告白。 それは自分に向けられるはずだった言葉。 凛の顔から血の気が引いていく。両手で胸元の服を心臓が張り裂けそうなほど強く握りしめた。 「私たちもうすぐ婚約するの、だから諦めて」 雅はスマートフォンを仕舞い傲慢に言い放った。 唇を強く噛み締め口の中に鉄の味が広がる。凛は涙が溢れそうになるのを必死で堪え絞り出すような声で命じた。 「出ていけ……今すぐここから出ていけ!」 「ふん」 雅は鼻を鳴らし踵を返す。 ドアに向かう途中わざとらしくガラスの破片を一つハイヒールのつま先で蹴り飛ばした。 そしてドアノブに手をかけたところで立ち止まり最後の呪いを吐きかけるように振り返った。 「せいぜい父親のわからない子供でも産むことね」 バタン。 ドアが閉まる音と共に凛の堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。 裏切りと屈辱の嵐の中で凛はただ自分のお腹を固く抱きしめることしかできなかった。
雅は病室を出たがすぐには立ち去らなかった。 廊下の壁に寄りかかり静かにその時を待つ。やがて遠くから聞こえてくる革靴の足音。焦燥感を含んだ速いリズム。高橋蓮のものだと雅はすぐにわかった。 彼女は素早くハンドバッグから目薬を取り出し両目に数滴垂らす。瞬きの間にその瞳は潤み表情は悲痛に満ちたものへと完璧に切り替わった。 蓮が廊下の角を曲がったその瞬間。 雅はわざと病室のドアを再び押し開けまるで凛に責め立てられているかのように泣きじゃくる声で叫んだ。 「凛さんお願いだから怒らないで! 私ただ心配で……」 そう言いながら雅は計算された動きで後ずさる。 点滴スタンドを支えになんとか立ち上がっていた凛は雅の突然の豹変に困惑と怒りを覚えた。 「雅あなた……何を」 凛が何かを言う前に蓮が病室の入り口に駆け込んできた。 雅はそのタイミングを逃さない。 「きゃっ!」 短い悲鳴と共に雅は自らバランスを崩し床へと派手に倒れ込んだ。 その手はまるで運命に導かれたかのように先ほど凛が叩き割ったガラスの破片の上に置かれた。白い手のひらに鮮血が滲む。 「雅!」 蓮の目に信じられないものを見るような衝撃が走った。彼は一瞬のためらいもなく雅の元へ駆け寄りその体を抱きしめる。 そしてゆっくりと顔を上げた。 その瞳には凛に対する燃えるような嫌悪と深い失望が宿っていた。 「蓮さん違うの、彼女が自分で……」 蓮の視線に射抜かれ凛は震える声で弁解しようとした。だが体は衰弱しきっていてまともな声が出ない。 「蓮様凛さんを責めないであげてください、妊娠中で気持ちが不安定になっているだけなんです」 蓮の腕の中で雅はか細い声で凛を庇うふりをした。 「妊娠」という言葉に蓮の眉が屈辱に歪む。 彼は凛を睨みつけ吐き捨てるように言った。 「恥を知れ、なんて悪辣な女なんだ」 「私の話も聞いてくれないの?」 凛の心は冷たい深海へと沈んでいく。 「僕は自分の目で見たものしか信じない」 蓮は冷酷に言い放った。 「北野凛。君との婚約は今日この時をもって破棄する」 そして蓮は凛が見ている前で雅の額に優しく口づけをした。 「僕が本当に愛しているのは雅だ」 目の前で繰り広げられる光景に凛は吐き気を覚えた。腹部の痛みが再び激しくなる。 蓮は傷ついた雅を抱き上げると一度も振り返ることなく病室を去っていった。まるでそこに転がるゴミでも見るかのように凛を置き去りにして。 凛は衝動的に手背に刺さったままの点滴針を引き抜いた。 血が白い肌を伝って滴り落ちる。 よろめきながら病室を飛び出し廊下を走る。一階のロビーまで追いかけると周囲の人々が奇異の目で彼女を見た。 外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。 視界が叩きつける雨で白く霞む。 凛は雨の中に飛び出した。 蓮が雅を高級車の後部座席に宝物のようにそっと乗せているのが見えた。 「蓮さん!」 雨音に負けないよう最後の力を振り絞って叫ぶ。 涙なのか雨なのかもうわからなかった。 車の窓は無情にも閉められエンジンが唸りを上げる。 黒いセダンは水飛沫を上げて走り去り跳ね上げられた泥水が凛の薄い病衣を汚した。 凛は道路の真ん中で立ち尽くした。 体がふらりと揺れる。 周囲からけたたましいクラクションの音が鳴り響いた。 その時だった。 雨でスリップした大型トラックが耳をつんざくようなブレーキ音と共に凛に向かって突っ込んでくる。 振り返った凛の目に眩いヘッドライトの光が突き刺さった。 視界が真っ白になる。 凛は本能的に両手で自分のお腹を固く固く守った。 激しい衝撃音。 凛の体は糸の切れた凧のように宙を舞い水たまりに叩きつけられた。 アスファルトの上に雨水に混じって赤い色が急速に広がっていく。 意識が遠のく中凛は体の下から生暖かい液体が流れ出ていくのを感じた。 心の奥底で絶望の悲鳴が上がった。 遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。 凛は深い闇の中へと完全に意識を沈めた。 そして五年の時が動き出す。
あれから五年。 街に流れる曲も、人々が画面越しに追うドラマも、すっかり入れ替わっていた。それでも——あの豪雨の夜のことは、まだ昨日のように凛の骨の奥に残っている。 東京六本木。 けばけばしいネオンが夜の闇を切り裂く街。 北野凛は安物のサングラスをかけくたびれた私服に身を包み一台のロケバスから降り立った。 マネージャーの加藤リナが苛立った様子で彼女を急かす。 「ぐずぐずしないで! 有名な監督に会わせてあげるって言ってるでしょ」 リナに連れられ凛は重低音が腹に響く地下のクラブへと足を踏み入れた。 リナは慣れた様子で人混みをかき分け店の奥にある薄暗い廊下へと凛を導く。 廊下の突き当たりには錆びついた鉄の扉があった。 リナは「ここで待ってて」とだけ言い凛に入るよう促した。 凛が黴臭い部屋に一歩足を踏み入れたその瞬間。 背後から強い力で突き飛ばされた。 よろめきながら暗闇の中に倒れ込む。 直後ゴンッという重い音と共に鉄の扉が外から施錠された。 「リナさん! どういうこと!」 凛はすぐに立ち上がり冷たい鉄の扉を力強く叩いた。だが返事はない。 凛は自分を落ち着かせようと深く息を吸った。耳を扉に押し当てるとリナが誰かと電話で話している声が微かに聞こえてきた。 「はい雅様、おっしゃる通り倉庫に閉じ込めました、これで今夜のオーディションには出られません」 北野雅。 その名を聞いた瞬間凛のサングラスの奥の瞳に氷のように冷たい殺意が宿った。 この五年間心の奥底に押し殺してきた憎悪が静かに鎌首をもたげる。 やがて廊下の足音は遠ざかっていった。 助けは来ない。凛はサングラスを外し自力での脱出を決意した。 ポケットからスマートフォンを取り出すが地下の倉庫では電波が届かない。 「圏外」の非情な文字が浮かび上がるだけだった。 スマートフォンのライトを点け周囲を照らす。 そこは打ち捨てられた酒の木箱やガラクタが山積みにされた行き止まりの空間だった。 足元の空き瓶を蹴飛ばしながら凛は他の出口や通気口がないかを探す。その動きにはもはや五年前の無力な令嬢の面影はなかった。 不意にライトの光が隅に積まれた古い帆布を捉えた。 その下からごそごそと何か微かな物音がする。 凛は瞬時に身構え近くに転がっていた折れた木の棒を手に取った。 足音を忍ばせ帆布に近づく。 一気に帆布をめくり上げた。 だがそこにいたのはネズミではなかった。 埃まみれの高級そうなスーツを着た小さな男の子が体を丸めて震えていた。 男の子――リクは木の棒を構えた凛を見て怯えた子鹿のような瞳で体を強張らせる。必死に壁際へとにじり寄るが声は一切発しない。 凛は一瞬動きを止めすぐに手にしていた木の棒を放り投げた。 そして彼を驚かせないようにゆっくりとしゃがみ込む。 「坊やどうしてこんなところに?」 できる限り優しい声色で問いかけた。 リクは固く唇を結んだままただ首を横に振るだけだった。その瞳には大人に対する強い警戒心が浮かんでいる。 凛はリクの顔色が異常に赤いことに気がついた。 彼の額に触れようと手を伸ばすがリクはびくりと体を引いてそれを避ける。 凛は無理強いせず安全な距離を保ったままふと優しい日本の童謡を口ずさみ始めた。 聞き覚えのある穏やかなメロディーにリクの体の震えが奇跡のように少しだけ和らいだ。彼は恐る恐る顔を上げ凛のことを見つめる。 その隙に凛はゆっくりと近づきそっとリクの額に手を当てた。 指先に伝わってきた燃えるような熱さ。 凛は息を呑んだ。この子はひどい高熱を出している。 「大丈夫よ」 凛は自分の着ていた安物のジャケットを脱ぐとわずかに抵抗するリクを構わずその中に包み込み強く抱きしめた。 凛の腕の温かさとふわりと香る優しい匂いにリクは次第に体の力を抜いていった。そして小さな手で凛の服の裾をぎゅっと握りしめる。 凛はリクを抱き上げたまま立ち上がった。 その瞳には鋼のような決意が宿っていた。 この子をこんな場所で死なせるわけにはいかない。 スマートフォンのライトで再び倉庫の中をくまなく照らす。 やがて地上から三メートルほどの高さに埃を被った小さな通気窓があるのを見つけた。 腕の中で苦しそうに息をするリクを見下ろし凛は固く奥歯を噛み締めた。 極めて危険な賭けになる。 だがやるしかなかった。